松本馨著作集目次


 

七十年の沈黙を破って

「多磨」1979年12月号
松本馨 (本園患者自治会代表)

一、倶会一処

 一九七九年九月一日、患者の手で綴った多磨全生園史「倶会一処」を出版した。編纂委員光岡良二、盾木弘、大竹章、氷上恵介、佐川修の五人の友人が心血を注いで編纂したものである。そのためであろうか、予期しなかった大きな反響が、東村山市の地域住民を点にして、全国的に広がって行った。朝日新聞の「天声人語」(十月一日)で取り上げられたこともあって、全国的な反響となったのである。

 多磨支部患者自治会には、読者の感想が多く寄せられているか、共通していることは、七十年の全生園の歴史に驚きとその抑圧にくっせず、一貫して患者の人間性を守ろうとしたその姿勢である。「倶会一処」は作ろうとして出来るものではなく、七十年の患者の闘いの歴史であり、それ故に限界状況におかれた人間の生命の記録として、その生命の重さ、その尊厳を記録したものといえよう。

 しかし、読者が本書を手にして驚いたのは、ただこれだけの理由ではない。重要なことは、全生園あるいは、らい療養所と言ってもよいが、過去の療養所に対する予備知識、自己のうちに作り上げていた観念が、ことごとく破られたことにあるのではないだろうか。なに人も考えてもみなかったこと、想像も出来なかったことが、収容所で起っていたことである。  

 何故であろうか。どうして七十年の間、収容所の実態が隠されて来たのか、明らかにされなかったのか、本書を読む者は疑問を持つであろう。北条民雄の「いのちの初夜」その他の著作品を読んで、賢明な読者は、政治を批判したり、隔離収容所の制度や運営について全然ふれていないことに気か付くであろう。北条民雄に限らず、明石海人その他ハンセン氏病療養所か生んだ、文芸家の作品に共通していることは、政治や隔離収容所の制度に関して、全く触れていない。それは、患者に許されていなかったからである。隔離収容所の患者は、刑務所の罪人と同じで、総てが検閲のもとにおかれて自由かなかった。制限つきで許されていたのが、文学と宗教であった。制度とは、政治と収容所の運営について批判したり、改革を要求したりすることか禁じられていたことである。

 戦後、個人の基本的人権が憲法によって保障され、わたし達にも 、選挙権か与えられ、言論、結社の自由か基本的に認められた。基本的と言うのは、らい予防法によって多くの制約を受け、新憲法による自由は基本的に認められても、それを行使することは出来なかった。わたし達を酷使している、らい予防法の改正を迫って全国の患者が団結して立ち上がったのは、一九五三年のらい予防法闘争であり、この闘争を契機に隔離収容所が解放医療へと段階的に進むのである。この段階は闘争の結果、一つ一つ勝ち取って行った権利で、闘いの段階を意味する。

 隔離収容所から解放され、自由の空気が吸えるようになったのは、十数年前からであろう。患者は、ここに至って初めて自由に政治に参加し、あるいは、療養所の運営に対して批判できるようになったし、過去の隔離制度に対しても、誰にも憚ることなく、批判できるようになった。「倶会一処」は、その集大成とも言うべきもので、全生園の患者が七十年の沈黙を破って収容所で経験したことを語ったのである。

 「倶会一処」は五人の編纂委員によって綴られたものであるが、創立以来、全生園に収容された者は八千人を越えた。そのうち三千三百余人は既に世になく、残りの多くもまた逃亡し、転園し、そこで亡くなっている。現在、全生園には千人の患者が療養しているが、これら八千余名の患者の一人々々の歴史が「倶会一処」である。本書か出版された時、誰よリも喜んだのは、患者であった。収容所時代の辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、それを訴えたくとも訴えることが出来ず、沈黙を余儀なくされて来た。そして、七十年目に訴える機会が与えられたのである。それが「倶会一処」の内容であった。

二、患者不在の見学

 収容所の実態が今日まで隠されて来たのは、患者が沈黙を余儀なくされたこともあるが、それ以上に一般の人との接触を完全に断たれていたことにある。一般の人と患者の間には施設に働く職員が壁のように立ちはだかっていた。

 ハンセン氏病療養所の見学者は、年間にすれば何千人、あるいは万という年もあったであろう。

 これら見学者は係りの者に引率されて所内に入る時は、頭のてっぺんから足の先まで消毒衣で身をつつみ、目以外は全部隠れるマスクをし、そして、長靴に穿きかえた。患者地区は空気も地も汚染していると考えられていたのである。見学者は感染しないかという恐れと緊張と好奇心、それに何よりも患者に対する同情を持って中に入った。

 係りの者は、見学者に建物や患者の生活の実態を説明し、ある所では部屋の障子を開けさせて患者を見せた。そして一巡すると最後に所長が、らいについて講義をし、見学が終わるのであるが、消毒衣を着替えて収容所を出て行くその時は、ハンセン氏病患者に対する深い理解者になっていた。

 見学しなくとも、ハンセン氏病患者に対する理解者は多い。この人達は所長の講演を聴いたり、医師の書かれたものを読むことによって、専門的な知識を身につけるのである。小川正子の「小島の春」と光田健輔の「回春病室」は、その代表的なものであろう。これら施設関係者を通して一般の人は、ハンセン氏病を理解していたのであるが、こうした理解は不自然と言えないだろうか。なぜならそこには、患者の声が全然聞かれないし、患者そのものは、もんだいになっていないからである。

 全生園の周囲には、身障者の施設が多い。東洋一と言われる施設がある。そこには、満足に話すことのできない言語障害の寝たきりの人、下半身の全く利かない人など、さまざまである。東洋一と言われるだけあって、寝室、浴室、トイレは総て障害者むきに造られている。もし、係りの者か見学者に向ってその設備についてのみ説明し、そこに住んでいる障害者を忘れているとすれば、おかしなことであろう。また、見学者が設備だけの説明を聞いてそこに住む障害者を理解したと錯覚するならば、これもおかしなことであろう。

 ハンセン氏病療養所は、七十年の間、この、おかしなことか続いて来たのではなかったろうか。そのおかしさに、説明する者も、それを聞く見学者も今日までそれに気付いていなかったのではないだろうか。「倶会一処」は、その不自然さを改めるための一石を投じたと言えないだろうか。ハンセン氏病療養所を語る時、その主人公は患者であり、患者不在の解説は、真の意味のハンセン氏病療養所を理解したことにはならない。

 東村山市民は、全生園を理解しようと、一九七八年より市民大学に私を招き「ハンセン氏病と偏見との闘い」と言うテーマで講演させた。七十年の全生園史の中で、患者が初めて市民の前に立ったのである.それは、全生園が隔離収容所から解放療養へと発足した記念すべき出来ごとであった。その講演を通して受講生の言ったことは「私たちは全生園について全く知らなかった」ということであった。東村山市の一角に、七十年の歴史をもつ全生園はある。そしてそこには、千余名の患者か療養しているのであるが、全生園に関して市民は全く知らなかった。私たちもまた、市民を知っていない。隔離という障害のために起ったことなのであるが、それは何と永い断絶であったことであろう。しかし、その障害は破れ、市民の前に患者が立ったのである。市民に与えた驚きは、私が考えていたよりも、はるかに大きかったようである。この驚きは「倶会一処」を読んだ人の驚きと共通のものであろう。それは、一般の人と接触するのに最早、第三者を必要としない、直接ふれ合う時代の来たことを意味する。七十年の間、隠されて来たべ-ルを脱ぎ捨て総ての人の前に素顔で立つ時か到来したのである。

  「倶会一処」がいたずらに、過去を告発するために書かれたものであるとすれば、それは何と寂しい計画であろう。私たちは告発より、歪められた七十年の全生園の歴史を改めると共に正しい理解の上に立って社会的地位の回復を望むものである。憲法による基本的人権と人間性の回復を要望するものである。それと共に、いかに悪性の疾病であっても、私たちの経験したように、終身隔離撲滅が二度と繰り返されることのないよう、心から願うものである。

三、私たちの願い

 「倶会一処」の出版記念会が、九月七日、園内の公会堂で施設側と地域住民の代表を交え、入園者を中心とし開催された。十月十三日には池袋の「八峰閣」で外来の関係者を招き、記念祝賀会をもった。「八峰閣」の祝賀会は「倶会一処」の啓蒙宣伝が目的であった。この二つの祝賀会で「倶会一処」を出版した意義について私は次のような内容の話をした。

 ハンセン氏病療養所は、終息に向っていること。一九七八年沖縄県を除く本土における新発患者は十九名で、近い将来、零になろうとしている。国立の十三施設と私立の三施設で療養している者は、約八千五百人で平均年齢は五十九歳である。

 「倶会一処」出版の目的の一つは、こうした現実をふまえて、後の世の人のために全生園史を残しておかなければならない。偏見と差別は、いつの時代にもある。後の世の人か偏見と差別の問題を研究し、歴史的にそのルーツを尋ねて行けば、ハンセン氏病につきあたるであろう。ハンセン氏病は、その原点なのである。  仏教では、因果応報の立場から、ハンセン氏病を仏罰として定義づけている。その是非は別として、ハンセン氏病は仏教の中に根元的に位置づけられている。

 キリスト教では、より根元的にハンセン氏病の問題を扱っている。その代表的なものが、ヨブ記であろう。聖書では人間の存在そのものに関わるものとして、ハンセン氏病の問題かとらえられている。即ちそれは罪の問題であり、神の義の問題である。聖書が世にある限りハンセン氏病は、忘れられることはない。この意味で「倶会一処」は綴られた。

 もう一つの理由は、化学治療薬によって、ハンセン氏病は不治の病気から治癒する病気になったが、昔のハンセン氏病を知る者は、その化学を信じない。ハンセン氏病は依然として天刑病、遺伝病、不治の伝染病として恐れられている。この人達は四十代後半から五十代以上の年齢層に限られているが、これらの人達に理解を求めることは非常に困難であり、全生園の七十年史を知っていただく外に道はない。この人達の知っているハンセン氏病の時代に遡り、今日までいかなる道を辿って来たか、ハンセン氏病の歴史を示すことによって、意識変革を求めるものである。

 戦後の若い層は、ハンセン氏病を知らず、それ故にわれわれは偏見も差別も持っていないと言う。しかし、私たちは、無知は偏見と差別につながるものとして、「倶会一処」を通してハンセン氏病の歴史を理解し、正しい認識の上に立たれることを希望したい。以上が「倶会一処」出版の目的と意義である。

 「倶会一処」は一つの輪となって次第に広がりつつある。この輪の広がりに私たちは大きな期待を寄せている。七十年の私たちの収容生活が語られているからである。「倶会一処」 が読まれることによって、私たちは、その聞く相手を見いだし、友人を得ることになるであろう。それによって、私たちは隔離した世界から解放されて、社会に強力な理解者と友人を得ることになるであろう。東村山市民大学に招かれて語ったことが「倶会一処」を通して日本中に広がり、いつの日にか偏見と差別のない、自由な時か来ることを心から希望したい。この機会に「多磨」誌の読者が「倶会一処」の読者となると共に、紹介者になることを心から望んでやまない。

 患者自治会には、「倶会一処」の読後感が寄せられつつあるが、その中で私の心を強く打ったものは、「倶会一処」は最初にして最後の書物である。二度と出ることはないであろう。それ故に国立図書館をはじめとし、各都市の図書館、大学、高校の図書館に備えておく必要がある。最初にして最後とは、私たちの時代でハンセン氏病が人類から姿を消すことを意味する。それ故に多くの人に読んで欲しい、と願うのである。