「小さき声」 目次


 小さき声 No.1 1962917日発行

松本馨

<あいさつ>

「小さき声」は私の私信です。主にある兄姉に療養所の声をお届けし、主にある交わりを深めたいと望んでいます。神は御自身の義の為、また信ずる者を義とし給わん為、御子イエス・キリストを十字架にかけて、私たちの罪の代価とし、私たちを買い取り、御自分の物として私たちの国籍を天に移して下さいました。十字架にあるこの恵みを共に頂き、共に喜び、「ひとつの旗」をかかげて、終りの日を望んで共同の戦いを進めたいと思います。

またひとつには、未熟な私を鞭撻し、導いて頂きたくお願いするものです。 

<この病いは死に至らず 一

ニつの死 (

一九四九年十二月二○日は、私の記憶から生涯消えることはないでしょう。腹膜炎で病棟の個室に入室した義子が、主治医から死の宣告を受けた日です。それまで義子の死を考えたことはありません。義子は半年近く病床にあって、一進一退をつづけておりましたが、十二月になって容体は、にわかに悪化しました。それにもかかわらず私はなお、死を考えることを拒否したのです。愛する者との死別が、おかしなことですが、信じられなかったのです。義子は死ぬでしょう。私もまた死にます。しかし私の考えられる死は詩人のことばの如く、自然死でなければなりません。吾等の齢は七十年に過ぎません。或いは健やかであっても八十年でしょう。義子は二十九才でした。二十九才の若さで死ぬことは異常な出来事です。この様な異常死を考えることは、義子を愛していないことを自ら告白するに過ぎません。私には愛の冒涜とすら思われるのです。

一九四五年の秋、私は義子と結婚しました。私が二十七才の時です。日本が戦いに敗れた年で、不安、恐怖、混乱のさなかでした。しかし私たちは嵐の外におるかのように幸福でした。私は義子を愛し、義子は私を愛していたからです。このようなことを口にすることは軽薄なそしりをまぬがれません。でもこの言葉には意味があります。私は二十七年の間、人に愛された経験がありません。また、人を愛した経験もありません。私の病気は世に恐れられ、いみきらわれていました。その結果、世を恐れ、人間を恐怖しました。人間が人間を恐怖するほど不幸なことがあるでしょうか。それは人間から転落した感情であり、人間失格です。神を離れ、神を忘れた人間の姿を、もっとも深刻な形をとって現したものです。それが罪の結果によることはあきらかですが、当時名のみの信者であった私には、そこまで深く探ることは出来ませんでした。

ここで私は、私を知って頂くために十一才の時見たニつの死について記しておく必要があります。ひとつは三男の死であり、ひとつは父の死です。

古里の家はいくつになってもなつかしいものです。家はゆりかごのように父母、兄弟、少年の頃の思い出が秘められています。しかし私は家を想うとき、私の心は暗くなります。家にまつわる想い出が暗いからです。私の家は農家で、父母に兄弟八人でありました。父は五十四年の生涯を閉じるまでに、三度家を建てました。初めの家は母を家に迎えるときで、かまぼこ型の家とは名のみの乞食小屋でした。二度目は藁ぶきの平屋で、はじめて家の仲間入りができる程度のものでした。私はこの家に五男として生まれ幼年時代を過ごしました。三度目は瓦ぶきの二階家で、没落した旧家を買い取ったものです。家の柱は子供の私には抱えきれないような原木が使ってありました。二階の天井の梁は、するどい刃物で皮をそいだのでしょう。蛇のうろこのような刃形がついていました。私は家を恐れました。家の中は昼でも薄暗く、薄暮の中に居るようでした。その薄暮の中に蛇のうろこのような柱は、子供の私には大蛇のように見えました。

この家で少年時代を過ごしたのですが、十一才の春、三男の死に出会いました。四男と私と弟の三人が、山の遊びから昼時に家に帰った時のことです。三人が庭に立った時、玄関の大戸は下りていました。大戸が下りているときは留守で、兄弟は外で家族が帰って来るのを待つのが常でした。

「洋ちゃんがいる筈だ。馨ちゃん呼んでみ」と、四男が言います。

当時三男は病弱で家から外に出たことはなく、一室で読書しているか、二階の窓から外の景色を眺めていました。三男は兄弟中で私と一番仲が良く、そのために私を呼ばせたのです。だが、呼んでも三男の返事はありません。すると四男はまた言いました。

「二階だよ、見てこいよ」

私は一瞬、躊躇しましたが四男の次の言葉、臆病と言われるのを恐れて何でもないかの如く中へ入っていきました。玄関を入ると広い土間になっています。土間の左手は座敷で、その片隅に二階に上がる梯子があります。二階は蚕を飼うためにつくられたもので、部屋の仕切りはなく広間になっていました。

私は今でも昨日の如くに、 二階に上る自分の姿を想い出すことができます。二階に上がってななめ左うしろを向くと、広間全体を見渡すことができます。が、その時は雨戸が立ててあるために暗く何も見えませんが、ただ一ヶ処、雨戸の隙間から射し込む光が、広間のほぼ中央に集まっていました。その光の束の中に三男が梁からぶら下がっていたのです。三男が十六才の時でした。三男のグロテスクな姿を見た刹那、私の目と体はそれに吸いつけられて、一瞬 、化石したようにそのまま動けなくなってしまいました。時間にすればおそらく何秒と言う短い時間でしたでしょうが、私は三男の髪の毛の一本一本を調べることが出来る程、恐ろしく長い時間に思われました。

次の瞬間、私ははじかれたように何かわめきながら階段をかけ下りました。そして四男、弟、私の順で泣きながら叔父の家へと走ったのです。その夜、私は発熱し幾日もうなされました。この時より私は三男の死を負って歩くようになりました。忘れていた頃に何の前ぶれもなく三男の死が眼前に現われ、私を恐怖のとりこにしてしまうのです。

 三男の死後まもなく私の家について、村には無気味な噂がたち始めました。この家の前の主人が首をくくった同じ梁で、三男は自殺したと言うのです。その噂は次のようなものでした。この家の主人は事業に失敗し自殺したのですが、そのために家の買い手がつかず、長年空き家になっていましたが、それに目をつけた父は只同様に安い値で買いました。主人の亡霊はこれをうらんで家から離れず三男の命を奪ったというのです。このような噂が私の病気を重くし、三男の死を一層恐怖せしめ、テンカンのように私をおそったのです。

私の少年時代は三男の死によって終ったと言ってもよいでしょう。十一才にして早くも「死とは何か」の問題を提示され、解決を迫られました。私が好むと好まざるとにかかわらず、この問題を解決しない限り、三男の死は私を恐怖にたたきこみ、苦しめつづけます。この問題の解決はただひとつです。それは人間の罪を負って十字架にかけられた、イエス・キリストを仰ぐことです。もっとはっきり言えば、十字架に自己の罪を認め、悔い改めて、イエス・キリストを信じることです。私はこの言葉を喜びと確信をもって進めるまでにに何と遠いまわり道をし、多くの道草を喰った事でしょう  (未完

<平信徒の伝道>

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伝道は長年の私の念願であるが、なかなか決断出来ない。理由は勉強の不足である。私は聖書の原文はおろか、日本語訳の聖書も満足に読めない。日本人である限り、せめて日本語訳の聖書だけでも一生かかっても、ものにしたいと希っているが思うようにならない。辞典を引いたり、註解書をしらべたりする肝心の目がない。点字を読む目も指もない。テープで聖書の一部と、先生の講義を聞いているほかに「予言と福音」「聖書の言」「聖書知識」を購読している。以上が私の学んでいる全てで、私の聖書知識はここから一歩も出ない。

 私の聖書の勉強は、貝殻で海の水を汲んでいるようなものである。私には一杯の貝殻の水は、海の水全部と同じである。貝殻の一杯の水より受くる恵みは、私の一生がどうであれおつりがくる。しかし伝道となると、なぜか力の不足を感じる。伝道が自分の側のみの問題になっているためであろう。ところでこうした私に、決断をうながしたのはパウロの次の言である。「・・・・わたくしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなた方の間では何も知るまいと、決心したからである」。コリント書の一であるが、伝道がイエス・キリストと、その十字架のほかは何をも知る必要がないとすれば、これほど単純な伝道方法は他にない。私たちが罪のために死のとりことなっていたとき、獄屋から引き出し自由の身にして下さったのはイエス・キリストと、その十字架にある。キリストは人類の生命の恩人であり、主人である。何も知らなくとも、イエス・キリストとその十字架と、復活の出来ごとは知っている。

 パウロはまた、伝道にあたって、わたくしの言も、宣教も知恵の言葉によらないで、霊と力の証明によったと記している。このことはどういう意味であろうか。パウロのみに特別働いた霊力であろうか。私にはそうとは思えない。誰でも聖霊をうけなければ、イエスを主と呼ぶことはできない。また 、キリストの聖霊を受けなければ、イエスと共に十字架に死に、彼の生にあずかることはできない。聖霊は万人にのぞむものであり、彼はすべての人の言葉によってよろしく伝えられるお方である。嬰児、乳呑み子の口にも讃美できるお方である。

十字架の言は教養でなく、神の力である。歎きを踊りにかえ、苦しみを希望に、死人を復活せしむる神の力である。無教会の信仰はこの一点にかかっていたような気がする。私が十年間、無教会の先生から学んだことは一つである。それは十字架と、復活のイエス・キリストを信ずる信仰である。救いに律法を必要としない。教会も、サクラメントも必要としない。十字架にある神の義を、信仰によって受けとらされたことである。 

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「渡独に際して」(予言と福音一三九号・関根正雄)に無教会者は一人一人が伝道の責任を持つ意味のことが述べられている。伝道が私自身の大きな問題になっていたときだけに、共感をおぼえた。私もまた、各自が責任を負わねばならぬと考える。その意味で、下から平信徒伝道が起こってもよい気がする。ここでは平信徒伝道は広義に解釈する。片手間伝道といってよい。地方には雑誌のほかに先生はいない。一人一人が聖言をもち運ばない限り、福音の進展はありえないのである。 

全生園の入所者は千二百名である。はじめて園を訪問する信徒は、会堂の立派なのに驚く人が多い。新教・旧教・聖公会の会堂が、天に向ってその盛大さを誇っている。千二百名の入所中・無教会者は私一人である。その存在は微々たるものである。一人になって感じたことは、私がのべ伝えなければのべ伝える者がいないことで、恵みを受けているものの責任が如何に重いかと言うことである。これは独り私のみではなくすべての人に言えることで、み前に立つときはみな一人である。恵みが大きければ大きいほど、彼のためにより多くの苦しみを受けなければならない。 

 地上に私の生命はあとどれだけあるかわからないが、のこりの生命を福音のためにささげたいと思う。そして、その時が来たようである。

私は伝道に自信はない。人間的に考えるならば、伝道者としての条件は何一つなく、かえって否定的な条件のみがそろっている。それにもかかわらず、伝道しようとするのは何故か。私にもわからない。おそらく一生かかっても、私は一人の魂を導くことが出来ないだろう。現実は私に背を向け、はじめから絶望的な のである。私が熱心になればなるほど、真剣になればなるほど、世は私に背き、信仰の道を共にしていた兄弟すら、私を離れていったのである。しかし結果は私の問うところではなく、又現実が如何ようであれ私の意とするところではない。ただ十字架の主にすべてを委ね、地上の馳場を走るだけである。 

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水先案内人 

あなたは、私の生れる前から私を知り

私が帆に季節の風をいっぱい

はらんで航海していたとき

嵐の牙に舵を折られ、漂流していたとき

或いは水に閉ざされていた時も

あなたは私の舳先に立って

私にあなたをさし示している

あなたは私の水先案内人であってそうではない

或る時は嵐となり、風雪となって私を打ち

或る時は燈台霧笛、港となって私を守る

あなたは誰か

それとも飢えと寒さと孤独の海に私の見た幻覚だろうか。

黒ずんだ海底に難破した一隻の船が沈んでいる。

赤錆びた船体は臓物のように海草が茂り

魚貝の住家となっている。 

たとえ私の肉親、愛する人達が

太陽の光の下にさらしてみても

私をたしかめることはできない。私もまた、私を理解することはできない。

私の体の細胞を海草が喰い荒し

私の脳味噌を魚貝が喰いつくしたからである

それなのにあなたは今も私の舳先に立って私にあなたを指し示している

あなたは誰か、

あなたは私よりも確かに私の中に存在し

私に代って生きておられる。 

あなたは誰か、

あなたは焼きつくす火です。

真理です。 

私の生命の生命です。