「小さき声」 目次


 小さき声 No.126 1973215日発行

松本馨 

嘆き

1月は風邪で1週間ほど休み、その後は午前は起き、午後は休むといった生活を半月続けました。昨年の疲労(事務本館火災に始まる一連の事件)に6日より始まった全患協復活行動の疲労が重なったものと思われます。初めの数日は昼と夜の別なく、 獣のように眠り続けましたが、その眠りから醒め、意識を回復したとき、私は愕然としました。この期間中、私は神を忘れ、朝と夕の祈りを忘れて、獣のようになっていたからです。 

1950年の回心を境に古き私は死に、今日までキリストの生命によって生かされてきたといってよいでしょう。暗誦していた約10年は神の言を食って生きていたといえます。私の霊肉は神の言を食わなければ生きられない程に質的に変えられていました。 

しかし、少しの疲労と風邪で私は神の前に獣のようになってしまったのです。このことは何を意味するのでしょうか。自己の神の無さ、その不信性、その弱さ、本質的に罪であることを証明するのでしょうか。だとすると、キリストによって新たにつくり変えられるというパウロの発言は如何に理解すべきでしょうか。蛙の子はどこまでいっても蛙であり、如何に熱心に求め努力しても異邦人はどこまでいっても異邦人なのでしょうか。 

人は一度は最後のこころみの座に立たされるでしょう。或る意味ではその時のために、日夜労苦し、信仰の道を歩いていると云えましょう。それにも拘わらず神の言が私の血となり肉をなって私の助けとならないとすれば、あの最後のこころみのとき、激しい肉体の苦痛、不安、恐怖、宇宙的孤独に襲われたとき、神の前に 獣のように無感覚となり、暗黒に呑まれていくのだとすれば、私達の救いはどこにあるのだろうか。悪魔だけが勝利し喜ぶだけに過ぎないのではないだろうか。

詩篇3篇の詩人は告白して云います。

 わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。( 詩編3:5)

病苦にさいなまれ,眠れない夜が続いた後で小康を保ち、眠ることができ、目をさましたとき、この詩人と同じように、ふして眠り、目をさますことに驚きをおぼえます。けれども後段の「主がわたしをささえられるからだ」は異邦人にはできないのです。詩篇の詩人も同じようなことを祈っています。

 主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。 (詩編4:8)

神の民である詩人にとって、この祈りは自然に口をついて出るものと思われます。けれども異邦人は意識し、努力しなければ祈れません。そこに獣のようになる要素もあります。神の言が血肉となって全存在を支配していないからです。私の経験したことは、こうした自己の罪性でありました。私の側からの救いのための働きかけが全く無駄であり、何ら救いに参与できないということです。全くの絶望的状況にあるということです。

それではどういうことになるのだろう。救いの望みは断念しなければならないのだろうか。私自身についていえば断念するほかありません。ただ唯一の希望は次の事実であります。即ちロマ書3章22節のイエスキリストの信仰によって義とされるという事実です。パウロの義人の信仰は私達の信仰によって義とされるということよりも、十字架に在るイエスキリストの信仰と義によって義とされるということです。私達の状態が信仰に燃えていようが、 獣のようであろうが、或いは蛙の子であろうが関係がないということです。十字架の下に身を投げ出す、それが私達の最後の救いの可能性でありましょう。イエスキリストとその十字架に私達の義と聖と信仰がそなわっているからです。

これが私の最後に示された結論ですが、神を忘れ、祈りを忘れたことは、私には余りにも大きなショックでした。最近の日常活動が信仰とは直接関係のない自治活動のためもあって、そのことも全然無縁とは思われません。世俗の仕事に関わるという事は信仰をふるわれる危険が絶えず伴っているようです。最近の私の霊肉は神の言よりも、この世の事に侵蝕されている方が多いものと思われます。新年を迎えて十字架の一点に終末を示され、深い慰めと喜びを見出したのも、全然今度の事と無縁とは思われません。これ以上、この世の事に奉仕することは自分自身を地獄に投げこむだけの冒険と決意が必要のようです。

私は現在、結論を出すに至っていませんんが、終末的信仰に立たされ、次に獣とされたことが、自治活動に対する神の警告に思われてなりません。現在、自治会は私を必要としています。治療棟、病棟の近代化、大部屋の解消と、あと1,2年はこの世界から身を引くことはできませんが、なるべく早い機会に身を引き、福音のみの生活に入りたいと 望んでいます。それは既に私は晩年を迎えており、この世界における私の使命は終ると判断しているからです。しかし、無理にこの世界から身を引く考えはありません。身を引くのも引かないのも、すべて信仰によるものであ り、信仰によらぬことは罪だからです。

私の願いは、なるべく早い機会に自治会から身を引くことですが、反対に動けなくなるまでとどまる事が神の意志であるとすれば、その道を歩むことになるでしょう。いかなる生き方も、すべては神に任せ、その示されたところを従順に歩みたいと 望んでいます。

今年はこの世的にも、信仰的にも、戦いの年をなるでしょう。またそうありたいと望んでいます。しばらく 休んでいた聖書の暗誦を今年より始めました。信仰は最後のところ、神の言で武装するほかないのです。それ以外に、この世のサタンから身を守る手段がありません。神の言だけが自己防衛の武器であると同時に、敵を粉砕する武器でありましょう。この世に対してキリスト者が無気力なのは、この世に対する武器(神の言)を身につけていないからです。

孤 独

今年は「この病いは死に至らず」を出版したこともあって、多くの読者から新年のお言葉を頂きました。その整理をしながら私というものの存在を改めて考えさせられました。外部からの年賀状は恐らく個人的には私が一番多いでしょう。しかし園内に於て私と個人的に交わっている者は極めて少数です。 

無教会者として信仰の道を歩いているのは私一人であり、信仰の話をする機会は一年を通し、全くないといってもよいでしょう。私の相手は日曜日の聖日を守っている兄姉と文通による教友のみです。

自治活動をしていると、その面の友達が出来そうなものであるが全く居ません。役員は事務所内の同僚にとどまっています。そこに働いている者は大部分は無神論者であり、教会に席を置くだけの信者で、信仰の話をする機会がほとんどありません。園内における私は孤独といってよいでしょう。しかし孤独というものを余り感じません。

福音書のイエスは悲哀の人、孤独の人といってよいでしょう。もし孤独を弱き無力に置き替えるならばイエス程に弱く、無力にされた人はありません。マタイ4章の、悪魔にこころみられるイエスは、無力な人、弱き人でした。神の言に固着しサタンのこころみから、こころみにかろうじて耐えた孤独の人です。

その極限的な孤独は十字架において起りました。愛する弟子の一人に裏切られ、また、11弟子には逃げられ、イエスと弟子の間は裂かれました。更に十字架において、イエスは神との間を裂かれます。その極限が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」でありましょう。これは孤独者の極限的叫びであり、宇宙的孤独であります。

キリスト者には、イエスが経験した孤独を孤独とすることができますが、世の人が考えているような孤独は孤独としては感じられないのではないだろうか。キリストの霊に満されているからです。キリストの命を命とし、生命に溢れているからです。表面的には全生における私は孤独な生き方をしているといえましょう。けれども私自身は孤独や寂寞におちいったことはありません。真の孤独寂寞は回心の年の1950年に経験しました。愛する者の死と失明によって神がわからなくなったとき、神が怒りの神として私に臨んだとき、私は孤独を経験しました。ヨブが経験した孤独もまた神との間を裂かれたことからくる孤独であったでしょう。

人は死の前に立たされたとき、この孤独を経験しましょう。それは死そのものが孤独なのではなく、死が神と人との断絶によって起るからです。それ故に信不信の別なく、人は死の前に立たされるとき孤独を経験するのです。孤独は恐ろしいものですが、それを知らない者に信仰はわからないでしょう。神との間をたたれた十字架上のイエスのあの叫びが理解できないからです。孤独は恐ろしいけれども十字架の叫びがある限り、私達には希望があり、慰めがあります。

療養通信

1973年の予算の内示が、1月8日になったために、新年早々慌しい日々を過しました。

年中行事となった全患協の復活陳情があったからです。1月6日に基地支部である多磨全生園に各代表が集合し、7日に戦術会議、8日に陳情行動を起しました。多磨支部患者自治会は、各支部代表を受入れるための準備と支部行動を組まねばならなかったからです。

全国ハンセン氏病協議会は、13のらい国立療養所の患者によって構成されています。労働組合のように法的根拠はありませんが、厚生省は交渉相手として認めています。時によっては組織強化を要求してくることもあります。一園ずつ単独で陳情を受けるよりも組織を相手にした方が能率的な交渉ができるためでしょう。

「この病いは死に至らず」を読んで、患者自治会の機構や活動に就て興味を持たれた読者もおられるようなので、患者自治会の目的について少し説明しておきましょう。患者自治会の目的は、患者の療養権を確立することと生活権を確立することにあります。この二つの権利要求をするのには次のような歴史的背景があります。

終戦前のらい療養所は、療養所の名を借りた刑務所で、隔離撲滅政策がとられました。そこにどんなひどい非人間的政策がとられたか説明するまでもありません。私達はこうした刑務所的療養所は徹底的に否定し、近代的療養所を 望んでいます。私達の進めている医療センター運動はこうした療養所の変革を求めているものです。その意とする処は、らいのみでなく、合併症に対しても高度な科学治療を受けたいと 望んでいるからです。

生活権の確立は、囚人の地位から脱却して結核の国立療養所に入所している生保患者と同列の処遇が受けたいと希望しているからです。第二次大戦以前の私達の日用品費はゼロ支給で働かなければ生活できませんでした。そして1日働いて5銭から10銭になりました。こうして患者の労働力によって収容所は運営されましたが、働かなければ療養できないシステムの中での労働はたとえ本人が希望したにしても、それは強制労働でありましょう。

戦後、日用品費が支給されましたが、1969年の調査では、日用品費は生保患者の半額にも達せず「何びとも健康で明るい最低の文化生活を営む権利がある」と規定した憲法25条に違反するものとして問題になりました。現在は私達の給与は生保基準に達しています。

この二つの要求を人権運動または人間復活運動と呼んでいます。

1973年の復活行動は終り、多磨全生園は静かに新年を迎えています。そして病棟工事が現在進行しています。その工事の騒音は療養所を象徴していると云えましょう。暗く絶望的な時代を過ぎ、いま夜明けを迎えている暁の音なのです。