「小さき声」 目次


 小さき声 No.129 1973515日発行

松本馨 

取税人 ルカ18:9〜14

ルカ18章にパリサイ人と取税人の例え話がある。前者は律法を忠実に守り、後者は罪人と同じ位置に立つ取税人である。両者は宮の前に立ち祈った。前者は自己の行為を誇り、後者は神の前に誇るべき何の功績もなく、胸打ちながら「神さま、罪人なる私をおゆるし下さい」と祈った。そして義とされたのはパリサイ人でなく、この罪人であった。

信仰はこの取税人の位置に立つことでなかろうか。ではその立つべき場所はどこなのか。プロテスタントには目に見える教会がある。カトリックには祭壇のほかに罪を告白する場所として神父の耳がある。無教会者には、そのように立つべき場所がない。十字架の前に立って祈ることはできるが、イエスの十字架は2千年前の出来事であり、目に見えるものとして現実には無い。それ故に無教会者の信仰は主観的であると、カトリックから批判を受ける。

私もまた非難されたことが数回ある。信仰するうえに具体的な場所、型式が必要であると云うことである。しかし、その面から攻撃されれば弁明の余地はないが、信仰するのに告白の場所としての宮が必要なのだろうか。イエスキリストとその十字架は宮でなければ会うことができないものだろうか。

ルカ10章に隣人とは誰かというイエスの譬えが記録されている。強盗に襲われ、傷つき倒れている旅人に、イエスは祭司とレビ人とサマリヤ人の3人を登場させている。そして祭司とレビ人に傷ついている旅人の傍らを通りすぎさせ、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人に傷ついた旅人を介助させている。

祭司とレビ人は、現代でいえばキリスト者であり、サマリヤ人は異邦人ではないだろうか。過去においてキリスト者は、世の事に全く目をつむり、ひたすら自己の救いを願い、宗教的儀式に熱心であった。現代に於ても自己の救いを中心にキリスト者は生活しているのではないだろうか。それは神の前に立つ場所を与えられているためである。無教会にはその場所は無いが、心の中には或る意味で目に見える教会よりも強固な城を持っているのではないか。教会側から見るとき、それがパリサイ的に見えるのではないだろうか。

では、如何にしたならば傷ついた旅人に愛の手を差しのべることができるだろうか。私には殆ど不可能にさえ思われる。不可能だからといって城の中に閉じこもることは益々パリサイ的宗教家になってしまうであろう。

自己の城を破り、それから抜け出し、傷ついた旅人の前に立たなければならない。それはこの世の病める者、傷ついている者、苦しんでいる者、貧しい者達である。世俗の只中に立つということである。あの傷ついた旅人の前に立つということである。その前に立つとき、自己の不信性、神のなさ、愛のなさに気づき絶望するだろう。そして、そこに、つまり傷つき倒れている病人に、十字架のイエスを見るのである。そしてあの取税人のように「神さま、罪人なる私をおゆるし下さい」と胸打つことができる。つまり私達の罪を告白する場所は、傷ついた旅人である。そこに十字架を見、自己の不信と罪を告白し、そのゆるしを請うことである。そのことがなされて初めて傷ついた旅人の介抱が可能になる。それはイエスキリストによるゆるしなのである。

そのとき、ペテロがイエスのもとにきて云った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」(マタイ18:21)幾度、罪をゆるすかについてのペテロの問いに対するイエスの答えは、七たびを70倍するまでであった。この事はゆるしに限界の無いことを意味するが、私達は兄弟の犯した罪を一度でもゆるすことは困難であり不可能に近い。それは自己自身が罪人だからである。ではその兄弟の罪を如何にすればゆるすことが可能になるのだろうか。罪を犯した兄弟のうちに十字架を見ることである。その十字架を仰ぐとき、兄弟をゆるすことのできない自己の不信性、神のなさ、愛のなさを知らされ、取税人の位置に立たされるのである。そして初めて兄弟の罪をゆるすことができる。と云うより、自己の罪がゆるされるのである。

私は世と関わりを持つとき、そこに十字架を見ないことには動きがとれない。昨年、多磨全生園は事務本館火災に始まる相次ぐ事件で大きく揺れた。そして私はこの世界に絶望し、十字架のイエスに終末の到来を示され、深い慰めと新たな決意の下に世と関わりを持つことができた。今年は3月になって基本治療科(らい)の平子医官退職をめぐって、昨年に引続き混乱している。全生園の苦悩は当分は続きそうである。こうした中で、私にはっきり見えてくるのは、十字架である。自己の不信と神のなさと愛のなさである。しかし、私は絶望はしない。イエスのあの譬え話にあるように、この神無き世界こそ私達の立つべき場所、宮なのである。

療養通信

4月は職員の異動の月といえましょう。10数名の看護婦が辞めて、高看卒業生を中心にその後を埋めます。辞められる看護婦の中には、家庭に入る者、職場を変える者、進学など様々ですが、海外に留学する者が3人いると聞いています。全生園に勤務している看護婦が海外に留学することなど昔は考えられなかったことです。

また、愛生園の高校を卒業し全生園に転園して来た学生2人が大学に進学します。今年高校を卒業し、全生園から予備校に通う学生もいます。私は総務を担当している関係で、愛生の高校卒業生は本人が希望すれば全生園に転園させ、大学への進学社会復帰のための準備などに便宜を計っています。幸いその面に積極的な先生もおられます。全生園も年毎に変りつつあるといえましょう。つまり、全生園そのものが社会復帰の道を歩んでいるのです。それは全生園と社会をへだてている垣を取り除くことです。

4月2日付けで、荒井事務部長が辞められ、後任には東北地方医務局次長が来られます。私は自治会役員として二人の部長に親しく接した訳ですが、歴代事務部長の中で、荒井部長は最も誠実な人であったように思われます。氏は着任の挨拶の中で、自分の使命は整備にあるといわれました。らい園施設の貧困さと施設患者あげての全生園近代化運動に触発された挨拶と思われましたが、氏はその言葉通りに私達と一体となって運動を進めてくれました。氏は70年4月に着任したのですが、その年、私達患者自治会は本省の療養所課と整備課に陳情をしました。氏は私達と同行し、私達の位置に立ち陳情してくれました。過去にそのような事は無かっただけに、氏の行動に深い感銘を受けました。その後、本省陳情には必ず氏は同行し、会員からはアベック陳情だと非難される程、日常茶飯事になったのです。それ位に氏は私達の側に立たれたのです。

悪徳職員の跋扈する多磨全生園にたまたま廻されたために、事務本館火災に始まる一連の不正事件の責任をとり、自ら進んで辞める決意をされたようです。氏の誠実な人柄とその心情を汲んで留任運動はしないことにしました。3年という短い期間でしたが、氏に対する患者自治会の感謝は尽きません。

同じく4月2日付で、基本治療科(らい)の平子医官が辞められました。氏の退職をめぐって新患者約20名と自治会は平子医官の留任の署名運動をめぐって鋭く対立し紛糾を続けました。新患者は留任の署名を希望し、自治会はそれを断ったのです。氏の留任には自治会も賛成ですが、平子医官が留任の条件として機関誌「多磨」(72年12月号)に発表した論文「今日的問題」を自治会が支持する事、その誠意を示す為に対策委員会を設置し、具体的に運動を起さなければならぬというものです。

「今日的問題」の要旨は、らい療養所はらいを治す所であるにも拘わらず、福祉が優先し、現状ではらいの治療ができないというのです。氏はその論文の中で、医療と福祉を切り離さねばならない事、その具体策としては、多磨研付属病院を造り、元患者(隔離収容所時代の長期療養者8割)は社会復帰させる事、老人は老人施設に盲人は盲人施設に身障者は身障施設に移せという事なのです。理論的には、らいは治っているのだから一般施設に移す事に問題はありません。また、らい以外の病気については一般病院に入院し、治療を受ければよいことになります。

氏はまた、ただちに実行する事が困難である以上、元患者8割は医療から切り離さなければならぬとしていますが、氏の提案のどちらも出来ない処にらい療養所の矛盾と今日的問題があるといえましょう。氏は私達の福祉が一般身障者に比較して高いと強い調子で非難していますが、余りにも、らい療養所の実情に対して無知であり過ぎるようです。私達が自治会を再建したのは1969年ですが、その年の福祉手当日用品費が生活保護法の基準よりも遥かに低く、その2分の1にも達していませんでした。私達の地位は依然として刑務所の囚人と同じだったのです。このような差別的扱いは憲法違反として強く抗議した事がありました。そして初めて生保基準にまで引き上げられました。終戦後20年かかって生保の恩恵に浴したのです。終戦前の日用品費はゼロ支給で所内で働かなければ生きて行けなかったです。

私は氏の論文を読んで、氏の赴任が50年遅すぎたと思いました。療養所であるのに働かなければ生きて行けなかった時代に、氏のようにらい療養所は、らいを治す所であると患者の側に立って弁護してくれる職員が一人でもいたら、どれほど深い慰めになったかわかりません。

氏はまた、多磨研の付属病院の必要性を強調するために、50年代、60年代に社会復帰した者の子供が70年代に発病し、あたかもらいの多発時代が来るかの如く書いています。これは明らかに隔離撲滅政策をとった時代の政策なのです。それは社会に、らいに対する恐怖の宣伝をばらまき、患者に社 会生活ができないようにしてしまいます。それと同じ方法なのです。

しかし、現実は氏の考えと全く逆の方向に動いているといえましょう。新発患者は年々減少し、70年は50人を遂に割りました。多磨全生園に入院した新発患者は4人です。その新発患者の大部分は入院を必要としない人達で、働きながら治療をしているものと思われます。治療薬は錠剤で、医師の指示に従って服用すればよいわけで、働きながらの治療が可能なのです。70年代に多発期を迎えるとすればその徴候が現れなければならないでしょう。社会復帰者の子供がなぜ発病するのかということと、元患者8割の社会復帰を主張することとは矛盾しているように思われます。

氏は留任の条件として、多磨研付属病院の運動を起す事、福祉優先の政策を続ける施設幹部の姿勢を正す事、特に医務部長は更迭する事が出されました。

私達は69年より医療センター運動を進めてきました。医療センターは、らいの治療が核になりますが、各科の治療が行われる総合病院的なものになります。患者の生命を脅かしているものは成人病であり、らい以外の病気だからです。私達の医療センター構想は、本省も認め、病棟の工事が既に始まっています。73年は治療棟の予算もつくでしょう。こうした事実を全て破棄し、平子医官の要望を受入れることはできません。私達が署名運動に反対したのは、単純に居て欲しいという署名であっても、氏が「今日的問題」を前面に出し、留任の条件としている限り、署名がその信任投票の意味をもってくるからです。新患者は「今日的問題」を伏せたまま署名したいと云い、患者自治会は署名の方法は「今日的問題」の信任を問う方法以外に無いと考えました。結果的には署名は取らず、平子医官は去ることになりましたが、氏の播いた「今日的問題」は将来大きな問題になるでしょう。それは氏の主張の中に真実の一面があることも否定できないからです。