「小さき声」 目次


 小さき声 No.13 1963921日発行

松本馨

九月は虫の季節である。数年前までは、寮で虫の声が聞かれて野趣があったが、最近は聞かれない。そこで僅かに残っている雑木林に夜、一人虫の声を聞きにいった。俳句に虫時雨という季題があるが、私の聞いた感じではそんな優しいものではない。地表を嵐が吹きまくっている感じである。しかし嵐は襲来するもので、的確な表現とはいえない。虫の大群のうめきが入道雲のように、無数に地の底から湧き上がってくるといった方が正確である。 

 旧約の予言者詩人は、人間の無力を虫で現した。イザヤ4114節には、神が契約を結んだイスラエルを、虫に等しきものと呼んでいる。詩篇では22篇の6節が代表的な虫である。 

「しかし、わたしは虫であって、人ではない」 

私がこの言を知ったのは自身が虫の如き状況にいたときである。一度神を知った者にとっては、神の言の飢餓ほど恐ろしいものはない。五体がばらばらに干切られるようなものすごい空気の圧力が加わり、呼吸困難になって失神してしまうのである。聖書を読むことも、聞くことも、探ることもできずに、来る日も来る日も、壁に向かって坐していると、そのような状況に陥いる。そして、自分が石になってしまう。こうした唯中で、六節を聞いたのである。この詩の一節は、イエスが十字架上で云われた言である。 

「わたしは虫であって、人ではない」 

そのまま十字架上の言であった。 

福音書には、旧約の予言者詩人の言ったような意味の「虫」の言葉は使われていない。新約の時代では虫は最早我々ではなく、イエスその人である。十字架上のイエスは文字通り虫となり、うめきつつ我々のために神にとりなしている。そして、神は彼の上に新しい契約「神の義」をたてた。イエス・キリストを信ずる者の信仰に与えられる神の義である。我々は波を離れては救いの場所が無いのと同様に、彼を離れては虫となることもできない。 

パウロはロマ書8章で、直接虫とは言っていないが、被造物のうめきについて次のように述べている。 

「実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている」(22) 

そして又 

「それだけではなく、御霊の最初の実をもっているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(23) 

虫の声を私がうめきと受けとったのは十字架のイエスのうめきを知っていたからである。しかし、この被造物のうめきも、キリストが来たり給うとき一瞬にして讃美に代わるのである。 

この病は死に至らず  十三

十三眼科病室のある所眼科病棟は他の病棟とは別に北端に一棟だけ独立してありました。病棟の西には一般には解剖室と呼ばれた霊安所と監房があります。この二つは不治の病であった頃の療養所の縮図と云えましょう。人は看守に守られつつ死の宣告を受け、解剖室へと運ばれるのです。すでにその頃、その順番が私のところへ来ているのです。 

死刑囚は一日が終わると、暦の上からその日を消すと云われます。彼には未来がなく現在と過去しかありません。その日を消したとき「今日も生きていた」と言うことを確かめることが出来たのです。らいは死刑囚と同じような状況におかれています。このような状況の中から解放されるためには、自ら生命を断つか発狂するほかにないでしょう。 

病棟の東には、精神病棟があります。そこには、絶望的な状況から解放された人たちが住んでいます。針金が切れたように、中枢神経が切れてしまったのでしょう。或る者は終日意味もなく、ゲタゲタと笑っています。或る者は魂のない人造人間の如く、怒号し哀訴し、泣いています。又「人間は雲と雲との間にたまった湖のようなものである」と、詩作している詩人もいます。 

眼科病棟は、大部屋と個室に別れています。個室は絶対安静を必要とする病人か、療養規律を破って子を宿した女の産室に使われます。余談ではありますが、未婚の女が妊娠した場合は、男は罪の償いとして監房に入れられます。既婚者の場合は、夫は断種手術を強要されます。 

大部屋はベッドが八つずつだったでしょうか、南北に向き合っています。私は奥から二つ目の北側ベッドでした。 

入室したその日から私は病人の観察をはじめました。そこには、あらゆる階層の人間がいました。元役人、軍人、サラリーマン、商人、坊さん、学生といった人たちです。すでにその中には夜の人となった者、薄明かりの中を歩いている者、霧の中の人たちもいます。この人たちは何を考えているのか、何を目標に生きているのか、私は心にこの人たちの言動を克明に記録し、ひとつの資料を作成し、私は私の魂に、提出する心算もりでした。神を無くし、自己に絶望した私はその責任を魂に問をうとしたのです。 

軍人と学生と 

私の隣のベッドには、第二次大戦に活躍した勇士がいましたが、戦場の勇士がかならずしも病気に対して勇士とは限りません。銃火のもとで死を恐れなかった彼も失明は恐れました。彼は目の神経痛で入室したのですが、事実は角膜炎だったのでしょう。昔は眼球が痛むとすべて神経痛にしてしまったのです。彼は多くの人から神経痛が起こったときの健康状態を調べ、精密な資料を作成し、それをもとにして本病と神経痛の関係を調べていました。 

彼のベッドから三台目の学生は、熱コブ(急性結節)について研究していました。熱コブは皮膚の表面に赤い腫物が出来て高熱を発します。人によっては四十度以上の発熱をします。そのために熱コブと呼ぶようになったのでしょう。 

学生は熱コブの研究をしていましたが、時々軍人のベッドに来て、互に研究結果を話し合い真実の発見のために討論をしていました。軍人の研究は、ほぼ完成に近づいていました。彼の研究によると、神経痛は血管の栄養失調が原因でした。血管に栄養を送る供給源をらい菌が押さえているために血管は衰弱して細くなり、体内に少量の血液しか流すことができないと言います。血管は生命の川であります。川床が上がれば川岸の木は水分が取れないため枯れていきます。肉体はこのように枯れて行きます。それは寒さと日照りのために木が枯れるように、肉体は死者の肌のように冷たく、冷えて、枯渇してゆくのです。肉体が冷えれば、血管は細くなり流れが悪くなり、流れが悪くなれば肉体は冷えていくという悪循環をくりかえします。こうした悪循環をくりかえしているうちに条件の最も悪い部分、即ち外気に触れている顔や手足の神経が炎症を起こします。そして末梢神経が麻痺して、皮膚の表面が死んでしまうのです。 

神経痛を治す方法は、プロミンを三グラムから五グラムを一度に静脈に射つことなのですが、生命の保証が出来ないと、医者は彼の希望を退けていると言います。彼は一グラム射っていましたが、私はニグラムのプロミンが体質と体力に適合せず休んでいました。 

彼は消極的な治療法としては、体を温めることだと言います。そして自ら実行していました。彼は、ガーゼを綿のように厚くして腰から足の爪先まで包み、その上を包帯で巻いていました。手も同じようにしていました。肩と腕には病衣をあてその上から包帯を巻いていました。顔と首はやはりガーゼと包帯で包み、出ているのは目と鼻と口だけでした。 

私は、入室して間もないある日のことでした。昼食のときだったと思いますが、隣のベッドで彼が「ウォーツ」とけもののようにうめいたかと思うと、地ひびきをたててベッドの向こう側に落ちました。私ははっとして霧の中をすかして見ましたが凄い霧のため見ることが出来ませんでした。彼は落ちたままで、起き上がる気配もなく静かにしています。ただベッドが中気病みのようにガタガタ揺れています。不思議なことに、外のベッドの病人は、何も見なかったのか、何も聞かなかったのか、箸を動かしている者、お茶をすすっている音などがしていて別に驚いた気配がありません。私は心配になって、ベッドから下りると彼のところへ行ってみました。ベッドとベッドの間に、彼が柱のように立っていました。更に顔を近づけて見ると、象のような二本の足が天井を望んでいます。彼は頭から落ちたとき、ベッドとベッドの間にはさまって、逆立ちしていたのです。私は彼の足をかかえて、横に寝かせようとしましたが根が 張ったように動きません。すべての力が私から抜けていたのです。彼の足をかかえたとき、電気がかかったように、彼は痙れんを起こしていました。私は詰所に行き患者付添夫に事の次第を告げました。「又始まったか」当直付添夫は舌うちをして病室に入って行きました。そして、彼を床に寝かせると上半身の包帯をときはじめましたが、すぐ詰所に向かって怒鳴りました。「オーイ、誰か鋏を持ってこい」外の付添夫が持ってきた鋏を手にすると、包帯を切り皮をむくように軍人を裸にしてゆきました。「包帯だけでも一貫目はある」「これだけ巻いていたら俺だって目を回してひつくり返るぜ」「いくら言っても、病気だから仕方ない。泡を拭き取っては駄目だぞ」 

付添夫たちは軍人をベッドにあげると、詰所に引きあげて行きました。私は付添夫の言葉から軍人はてんかんを持っていることをはじめて知りました。そしてなんとはなしにドストイェスキーのてんかんを思い出しました。彼が意識を回復したのは、何時頃だったか、午後のお茶の時間二時頃には、ベッドの上でゴソゴソ動く気配がしていました。裸にされた部分を包帯で包んでいたのでしょう。その後も彼は、時々発作を起こしました。 

学生の熱こぶの研究は、破局的な方向を辿っていました。例の如く討論していたとき、学生は新しい事実を発見したのです。皮膚の表面のみ出来ると思っていた熱こぶが彼の胃に出来ていたのです。その日から、彼は絶食し、絶対安静をはじめました。胃の熱こぶを治すためには、胃を休ませる外に方法がなかったからです。数日後に学生は重体に陥り、彼の友人は彼の看護に当たりました。(次号

河床 

「鹿が乾いた河床に向かってあえぐように神よ、わが魂もあなたに向かってあえぐ」(詩篇421)(予言と福音一四三号

「河床」は興味深い。教会訳聖書では「谷川」となっている。「河底」と「谷川」とではそう大な違いではないようであるが、この僅かな違いが、4243を理解する上に決定的とも云える意味を持っていることが「予言と福音」誌に指摘されている。4243篇を精読するとき、詩人が谷川の清流を予測する状況にないことは明らかである。神と詩人との間は断絶している。「わたしはわが岩なる神にいう。何故あなたはわたしをお忘れなのか。何故、敵のしいたげによってわたしは悲しみつつ歩くのか、わが骨をもくだけるばかりにわたしの仇はわたしを嘲り、終日お前の神はどこにいると言いつづける」(詩、42910) 

詩人は神より無限に遠いところ、神なき地「ヨルダンの地から、ヘルモンから、ミツァルの山から」神を思い嘆くのである。詩人の身辺には「お前の神はどこにいるのか」と敵にそしられるほどの不幸が起こっている。そして詩人の嘆きに神は隠れているのである。河床の状況なのである。 

私の郷里には家から十キロぐらい離れたところに枯れた川がある。こちらから向こう岸に石を投げても届かないほどの川幅である。山から平地に臨んで帯のように白く石が流れているが、河床は平地より高く、その中に小屋のような岩が点々とある。古老の話によると、河床はザルのようになっていて、水は地下を流れているとのことである。私は一度も水の流れを見たことがない。 

夏は太陽の強烈な光が、河床に油のように燃えていて、目が眩むばかりである。岩石は焼けて一本の草もない。生えても枯れてしまうのである。砂漠を背景にしたパレスチナの枯れた川がいかに凄まじいかは想像外であろう。しかし、私の郷里の枯れた川から少しはうかがうことができる。 

神に捨てられ、神から切り離されて、無限の孤独と悲哀にうなだれた魂を抱いてさまよう病人の足は枯れた川辺に止まった。河原は乾き乾き、鳳仙花の実がはじけるように石ははじけ、岩は砕けている…木の実が落ちても、草の種子が落ちても焼けてたちまちに枯れる。そこに小鳥は巣を作り、雛をかえそうとしてもかえらない。けものは子を産んでも育たない。全ての生を拒否している死の地である。その河床に詩人は一頭の鹿が渇きを癒すために河床をしたいあえぎ求めてさまよっているのを見た。幻の鹿か、実在の鹿かは問うところではない。その姿に詩人は神と自己との関係を見たのである。そして四二、四三篇が生まれた。「河床」はこの時の着想である。各節の背後に河床がある。河床は神と人間との関係を示すものである。鹿は人間の悲哀性を象徴している。河床が一つの流れとなるのは、神の恵である。神との和解、それが渇きを癒すことである。詩人の場合、神の山にいくことであるが、本当の解決にはなっていない。真の解決場所は十字架だけである。 

ことば 

「予言と福音」一四九号で「小さき声」を紹介して下さった。正直のところびっくりした。そして怖れた。怖れたのはエレミヤが召命を受けたときの畏怖に似ている。私にはその力も資格もありませんということなのである。 

びっくりしたのは分析すると次のようになる。私をここまで育てて下さったのは神であるが、無教会の信仰を植えつけて水をかけて下さったのは先生である。その先生が外地におられたとき、私はことわりなしに「小さき声」を発行した。私はそのことが決して正しいとは思わない。しかしお帰りになられた先生は責めることなく、かえって励まして下さった。心うたれたことは言うまでもない。びっくりしたのは、これに似た気持ちなのだろう。 

紹介していただいたのは、率直に言って喜びである。「小さき声」もこれで子供から大人になったような気がする。 

「軍人と学生と」は、幾日もかかって原稿を作った。頭の中でそれが出来上がった夜、私は一時間おきぐらいに、悪夢のため目を覚まし、前身びっしょりと汗をかいた。いまさら眼科病棟の暗さが思われる。思いだしただけでこれだけ苦しむのである。「軍人と学生と」が暗いのではない。己を観察している私が絶望的なのである。 

神の恵みのために一度は書かねばならぬ世界であるが、二度と書きたいとは想わない。それと共に、神の子供とされていることがいかに大きな恵みであるか知らされた。当時と状況は少しも変わっていない。もしも信仰から切り離されたら、この世界はたちまち私にとって煉獄となってしまうだろう。 

一刻として、安らかに眠ることはできない。神を信ずることはそのまま私の生なのである。