「小さき声」 目次


 小さき声 No.130 1973615日発行

松本馨 

友を求めて

(1)

20支部長会議に出席するために、5月7日午後5時東京発特急で、熊本の菊池恵楓園に行きました。8日午前11時頃着く予定でしたが、九州地方が豪雨に見舞われ、予定より2時間以上遅れて熊本駅に着き、前途の険しさを思わせました。

菊池恵楓園は、熊本市より13,4キロ離れた菊池野の平野にあります。患者は1,400名、面積は全生園の約2.5倍の27万坪あります。アグラの初代所長であった宮崎博士が恵楓園の所長であった1950年に、九州はらいの多発地として、飛行場の一部を合併し、2千数百名収容できる大療養所を建設しました。然し、実際には患者がおらず、定員を満たす為に、希望する患者家族を患者として収容しました。食糧事情が悪かったために多くの家族が希望したようです。現在でも百名前後の希望患者がいます。私はこの事実を知ったとき、雷にうたれたようなショックを覚えました。希望患者がそれによって、幸せであったとしても、人の道にはずれた行為であり、医者の倫理が問われる大問題であります。

志賀園長は開会式の挨拶で、恵楓園は村であり、自分はその村長だと言われました。その言葉通り、福祉の充実した村落といった方が適切です。夫婦は風呂場付の2DK、3DKに住んでいます。独身は洗面所トイレ付の4畳半の個室に住んでいます。村の中央に公営の病院があります。村には後遺症の無い若い男女が多く、全生園から行った者には驚きでした。菊池恵楓園からの社会復帰者は殆どありませんが、園長の政策なのでしょうか、社会復帰の意欲は無いのです。福祉の充実した村という考えに立てば社会復帰の必要性を認めないのでしょう。宮崎博士の希望患者の収容と関連性があるように思われてなりません。菊池恵楓園の思想と伝統なのかも知れませんが、私はこうした政策に強く反発するだけでなく、抗議したい気持です。

会議は10日より13日の午前まで、朝昼晩と連日開かれました。私は例年になく患者運動の原点に帰り、1974年1月よ り拠出制障害年金月額2万3千円が全入所者に支給される事が決定した以上、経済闘争をやめるように強く訴えました。しかし、私の意志に反して次のような事が決議されました。

月額2万3千円のほかに、

1.強制隔離収容による損失補償を要求する事。

2.全員に基本保障として福祉年金程度の額を支給する事。

3.高令者には手当として福祉年金程度の額を要求する事。

4.盲人には年金法を改正し、重複障害の特別級を制定する事。それまでの措置として福祉年金程度を支給する事。

各階層の要求額は合計すると月額4万円弱になり、それに損失補償額を加えると働いている者より大きな額となるでしょう。このような不当な要求は患者運動を逸脱したものであり、到底ついていく事ができません。患者運動は囚人の地位から、憲法によって保障されている最低生活(生活保護法)の基準にまで引き上げる人権闘争であり、私はそれを人間復帰運動と呼んできました。

月額2万3千円は、現代の日本の最高の社会保障といえましょう。私達には医、食、住が保障されているからです。2万3千円は全患協が要求している4項目の根拠の思想を含んでいると私は理解しています。厚生省もまた、隔離政策に対する損失補償の意味も含んでいると言明しています。

療養所全体が、生保基準よりも遥かに低く貧しかった時、全患協の要求は私の目に良しと見えました。しかし、現在は不当な利己的欲望の追求としか思われません。私の発案で、この秋、全患協の組織の改革と運動の転換を図るための委員会を設置する事が提案され、決定しています。今後の私の進退は委員会の結果を見て決定されるでしょう。私の意志に反したものが決定され、医療センターと第1不自由舎センターの整備のメドがつけば、自治会を辞めることになりましょう。状況によっては全患協批判の側に立ち、ペンを取って闘うことになります。そうならないように今後の全患協が、医療看護施設整備の充実と偏見との闘い、社会の身障者が全員拠出制障害年金に移行できるように、年金法改正への運動に努力するよう希望します。

会議は13日午前10時に終了し、基地支部の案内で阿蘇山を見物しました。火口より数10メートルの所にロープウェーの駅があります。火口の周囲は舗装がしてあり、火口近く行くことができます。火口からは噴煙が吹き上げ、足下の遥か下の方からは溶岩のたぎる音でしょう東京を空襲したB29の大編隊の轟音のような音が聞こえていました。私にはそれが人間の罪を嘆く阿蘇山のうめきに聞こえました。火口の案内人が奇妙な節回しで噴火の歴史を説明し、噴火の写真一組330円を「皆様方団体に限って300円にしておきます」と売っておりました。私にはそれが神殿を汚す娼婦に思われました。

    阿蘇山よ怒れ
        口より火を吐け
       すべての罪と汚れを
        焼き尽せ
        そして昼は雲の柱
        夜は火の柱となって
        約束の地に
        神の民を導け
        阿蘇よ怒れ
        私には、お前のうめきが
        わかる
        日本の不信と罪を嘆く
        お前のうめきが
        私にはわかるのだ
        阿蘇よ怒れ
        口より火を吐け
        そしてすべてを焼き尽せ

14日、一行は菊地恵楓園を離園しましたが、鹿児島の星塚敬愛園支部長より招待をうけて、東北新生園、栗生楽泉園、多磨全生園、沖縄2園の代表14名と私の付添を加えた15名が招待に応じ、星塚敬愛園を見学することになりました。

私は招待がなくとも、星塚敬愛園を訪問するつもりでした。「小さき声」創刊号よりの読者であると共に信仰の友である比嘉ご夫妻を訪問するつもりだったからです。

一行は9時45分の熊本発の特急で西鹿児島に向い、1時少し前に着きました。駅には敬愛園のバスが待っていました。市内には桜島の灰がひどく降っていました。一行は急いでバスに乗り、フェリーで桜島に渡り噴火口を見ることになりましたが、5合目でバスはストップしました。それ以上のぼることは禁じられていたのです。桜島は阿蘇山と違って激しく怒り、噴火していました。5合目の展望台に立った時、頭上に灰の降りかかるのがわかりました。そしてその時、灰の中に座しているヨブと三友人を想起しました。桜島はお金で魂を売った日本人に悔い改めをせまる神の怒りに思われました。

(2)

バスは桜島から星塚敬愛園へと直行しましたが、桜島は阿蘇山とは違った印象をうけました。うめく阿蘇山は日本人の不信と罪を嘆く苦難の下僕だとすれば、桜島は火と硫黄と灰をもって神の審判を告げる予言者的火山です。

バスは午前4時半頃、多勢の人に迎えられて敬愛園に着きました。広場で簡単な歓迎式と自己紹介をし、宿舎に入りましたが、その夜、比嘉ご夫妻の部屋で遅くまで語りました。比嘉兄弟とは10年ぶりの対面であり、夫人とは初対面です。ご夫妻から聞いた恵生会(キリスト教会)の構成は次のようなものです。

恵生会は聖公会に属しますが、プロテスタント各派が大部分を占め、礼拝形式は説教中心のプロテスタントの礼拝を守っています。九州2園と沖縄愛楽園は聖公会が主体ですが、こ れは回春病院を創設した英国貴婦人ハンナ・リデルの影響によるものと思われます。恵生会には無教会の系列に属する者が8人います。1962年より約10年、無教会キリスト者として独立した集会を守っておりましたが、72年に恵生会と合同しました。1960年には療養所では珍しく無教会の諸先生が伝道に来られています。石原兵衛、正池仁、関根正雄、前田五郎、藤田若雄、高橋三郎、藤沢武義、故人では矢内原忠雄、黒崎幸吉、斎藤 宗次郎等が訪問しています。70年代になると無教会の先生は全く見えておりません。治らい薬の進歩による、らい療養所の世俗化が急に進んだことと関連性があるように思われます。

8人の無教会者は、恵生会の集会とは別に、廻り番の家庭集会を守っていましたが、それぞれ学んでいる雑誌と先生が違うのが特色です。

15日は、星塚支部のご好意で、一行は霧島国立公園のリクリエーションに行きましたが、私は比嘉ご夫妻のもとに留まり、兄弟の案内で8人の無教会者を訪問しました。午後はご夫妻の案内で敬愛園より40キロ離れた浜田海岸に行きました。ご夫妻は私が海に特別に関心のある事を知って案内してくれたのです。浜田海岸は海水浴場として、この地方では知られておりますが、季節が早かった事と曇っていたことが幸いして、人の気配は全くありませんでした。引き潮でどんどん引いていましたが、その後を追って波打際まで行った時は子供のように心がはずみました。砂上に新聞紙を敷き、昼食のにぎり飯を食べると3人で祈祷会を持ちましたが、私は終生この祈祷会を忘れないでしょう。2年前、青松園を訪問した時、砂浜で1人祈りたい気持を抑えることができませんでしたが、2年後、南国の海辺で奇しくも私の願いは叶えられました。なぜか騒いでいる心も、波音を聞くと静まります。阿蘇山と桜島は逆に心が騒ぎます。商売のためには自然を破壊する事に少しも痛みを感じない日本人の罪を阿蘇山と桜島で見せつけられたためでしょう。海には人間の破壊の手が及ばない自然が原型のままとどまっています。波音と松籟の音には創造の御手のわざをあらわに感じます。それが私の心を静めてくれるのでしょう。山は反対に神を忘れた日本人の罪をあらわに突きつけます。最近、公害が大きな問題になっていますが、その根本にあるものは日本人の神の無さに原因があるように思われてなりません。

自然の奏でる波の音と松籟に合わせて祈る祈りには、療養者としての私ではなく、日本の不信と罪のために、また世界のために祈る私でした。そのような祈りの場に引き出されるのが海でありましょう。

夜は8人の兄弟達と懇談しました。その懇談の中で、比嘉夫人と益山夫人の負わされている十字架を知った時、私が療養所の中に永年さがし求めていた無教会者を発見し、深く感動しました。

恵生会内部に恐るべき罪が行われています。比嘉夫人はその罪を知った時のとるべき態度を私に求めました。私はためらう事なく答えました。先ずその兄弟に注意し、罪を止めさせる事、聞かない場合は教会の代表または牧師に報告しなければなりません。代表または牧師はその兄弟に注意し、罪を止めるようにすすめるでしょう。どうしても聞かない場合は、教会から除名する事になりましょう。私はマタイによる福音書18章15節より17節と第1コリント5章1節より5節を念頭において語りました。夫人は私の考えに全く同感でしたが、夫人と教会幹部とは、この問題をめぐって決定的に信仰の相違をもたらしたのです。教会は注意する事は裁く事であり、それは傲慢である。除名する事は悔い改めの機会を永久に取り去ってしまう事であり、あくまで教会にとどめておかなければならない。教会は、それを愛をもってつつむという言葉で表現しました。そして既に1年半も恐るべき罪が集会内で行われています。パウロが云っているように、その罪が取り除かれることを願って悲しもうとしないのです。

夫人は教会の愛をもってつつむ考えに疑問をもちました。神の愛は神の義と切り離して考えることはできないからです。十字架に示されている神の愛は同時に義でありましょう。夫人は1年半前より集会を欠席し、家庭集会を守っております。集会よりその罪の除かれることを願って苦悩し、悩んでいました。二人の夫人よりこの悩みを聞かされたとき深い感動をおぼえました。集会の重荷を負っている者は、二人の夫人なのか、それとも愛をもってつつむ人達なのか、私はキリストの身体である集会の重荷を負っているのはこの二人の夫人であり、無教会的信仰なのだと思いました。前にも書いたように、比嘉夫妻を中心としたこの小集団に私の探し求めていたものを発見したのです。

その夜、私は比嘉ご夫妻のもとに一泊し、お二人が守っている朝の集会に加わらせて頂きました。夫人が使徒行伝3章を朗読し、兄弟が黒崎先生の使徒行伝3章の注解書を読み、それについて私が信仰の奨励をし、三人で祈りました。

16日は午前、盲人会で懇談、午後は、比嘉ご夫妻と別れの祈祷会を持ち、17日午前7時再会を約して離園、翌18日午後2時無事帰園しました。

20支部長会議は、私には失望的なものでしたが、比嘉ご夫妻とその小集団にお会いできたことは、全ての苦しみ、失意に勝る喜びでした。