「小さき声」 目次


 小さき声 No.133 1973915日発行

松本馨 

イエスの死と生をこの身に負う

わたくしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現われるためである。(第2コリント4:8〜10)

「この病いは死に至らず」の読者から三部の療養所を論評した論説は、別に一冊の本としてまとめた方がよかったのではないか、という感想を頂いた。私は三部を除いてしまえば、この本の価値は可成り変ったものになってしまっていると思っている。一部の回心があって初めて三部の世界が展開しているのです。マルクスに傾倒している読者より、一部の回心は理解困難であるが、三部の論説を読んで一部の回心記を改めて読み直してみた処、最初にわからなかったことも、よく理解できた、という感想を頂いた。私は一部から三部を読んで貰いたいと思うが、信仰の無い者には、三部から読んだ方が理解できるようである。

三部は信仰とは直接関係はないが、回心を経て展かれた世界であり、私にとっては信仰と無縁のものではない。私はまた、未知の人から小誌を発行する傍ら、自治活動をしていることに驚きのお手紙を頂く事もある。

私の肉体は失明に四肢の無感覚という限界状況にある。この一事だけでも生きていくのに容易な事ではない。事実、失明した時、私の人生は終ったと思った。四肢の感覚の無いことが失明者にとって決定的だったからである。当時を回想し、現在の私を見る時、私自身奇跡としか思えない程、多方面に亘って活動している。恐らく目の見える人の3人分の働きはしているだろう。小誌の発行のほかに、本園機関誌「多磨」の論説委員をしている。毎年の定期支部長会議には、代表として参加している。失明者では私が一人である。自治会では、最も困難な総務を担当し、全生園の医療センター化運動の責任者として計画を進めている。

失明当時の私を回想する時、現在の私は考えられないし、奇跡としか思えないのである。

だが、これには理由がある。それはキリストとの出会いという出来事に遭遇した事である。暗黒の中で、十字架の主イエスキリストとの出会い、彼によって新たに作り変えられた事にある。彼を知る前と、知った後の私とはどのように変ったのだろうか。

回心記の中でも書いたように、若い頃の私は懐疑家であり、絶えず虚無に脅かされていた。それは私自身の性格というよりも、私の育った環境が私を懐疑家にし、ニヒリストにしたのである。1935年、全生園の門を潜った私は、更に徹底的に虚無の世界へと追いやられた。警察権力と監房の下で一切の自由を奪われた生活は私の人間としてのほこりを奪ってしまった。隔離収容所の監督は私達を罪人として扱い、私達の心の中に土足で踏みこんできた。日本銀行発行の貨幣を持っていたために監禁された者もあるし、軽くても没収された。軍国主義の下で、厳重な検閲を通って発行されていた新聞も、管理者の検閲と許可無しに読むことはできなかった。雑誌類にしても同じである。衣食についても、ぜいたく品と見なされた物は身につけたり、食べることは禁じられた。更にまた、健康な人に近づくことも禁じられた。園内の空気と土地は汚染されたものとして、参観人は目以外は全身白衣で覆い、長靴を履いて参観した。参観を終えて、患者地区から官舎地区に入る時には長靴のまま昇汞水の池の中を通って渡る。長靴についた患者地区の汚染を消毒するためである。勿論、らいは空気伝染はしないし、感染率の極めて低いもので、現在に至るまで職員に感染した例は一件もない。

こうした環境の下で、私は人間を恐怖する動物的感情を植えつけられた。健康な人を見ると本能的に恐れるのである。しかも内にはらいに対する恐れがあった。当時の治療薬は、大楓子油が唯一の治療薬であったが、菌を殺すだけの力はなく、一時的におさえる程度のものであった。その期間は3年乃至5年で、その後に恐るべき世界が展開した。生きながら腐り、人間が崩壊していくのである。そこでもまた、私は人間から失格した。これが回心前の私であり誇張でも何でもない、その私が回心を契機に180度の転換をしたのである。

「この病いは死に至らず」を紹介してくれたカトリックの或る盲人は、著者は神を恐れる以外に、この世に対して恐れるものはない、と云われた。この言葉は真実であり、「この病いは死に至らず」の中心をとらえていると思った。では回心とはどういうことなのか。一口に云えばキリストとの出会いであるが、それは自己に死ぬこと以外ではない。私の場合、回心は漸進的に起ったが、最後に問題になったのは、信仰による義であった。そこに私の全てを賭けたのであるが、信仰のみによって、救われたいと願うことが利己的欲望であり、信仰による義が律法となって、私を苦しめたことである。最後的には救われたいと願う自己に絶望し、信仰そのものを放棄し、十字架の前に全身を投げ出した。松林のベンチに一人この問題で苦しみ、祈っていたとき、私に示されたのは信仰による義が神のめぐみであるということである。信仰そのものがめぐみだということである。

関根先生はロマ3章22節について、バルトの言葉を引用し、イエスの持っておられる信仰によって義とされるのだといわれた。私が信仰をめぐみとして受けとらされたのもそのことである。別の言葉で云えば、「私はキリストと共に十字架につけられた。もはや生きているのは私ではなく、キリストが私の内に在って生きているのである」ということである。パウロはキリストによる新生を説いているが、多くのキリスト者はパウロの言葉を誤解しているようである。キリストによって、私たちが新たに生れ変るのではなく、彼の死と生に 合わされることなのである。キリストが私の内にあって生きているということである、だから四方より悩みを受けても窮しない。責められても倒れることはない。生きているのは私ではなく、キリストだからである。

現在、私が極限状況に居ながら、3人分4人分の仕事ができるのも、キリストが私の内に在って働いているからである。この働きがなければ、私は元のもくあみに戻ってしまうのであろう。それこそ一日として生きることが大儀であり、人間的には全く絶望的である。直接、信仰と関り合いのないような仕事でも、それをなさしめているのが十字架のイエスなのであろう。それ故、イエスの死と生をこの身に負う限り、私はいかなる世界においても生きることが可能であり、失望することはない。それ故、資本主義社会においても、共産主義社会においても、私の希望と活動は止まることはないだろう。私を根底から動かしているのは十字架のイエスであり、その霊だからである。私はいかなる世界においても自由なのである。

或る友へ

七月二十九日

「小さき声」誌も11年を越えましたが、或る人より、不自由な身で11年続いた秘密は何かと聞かれました。それに対して私は次のように答えました。

失明と四肢の無感覚のために自分の眼と手で書こうとしなかったためだと思います。

また、社会復帰している教会の知人が尋ねてきて、健康なときは自治活動をせず、不自由な身になってから始めたのは何故か、と聞かれました。それに対しても同じようなことを言いました。

もし、今もなお、健康で目が見え自由に飛び歩くことができたなら、私は自治活動はしないでしょう。私の意志でないからです。

不自由な身になって、私の意志で出来たことは非常に限られた機能訓練だけです。それは歩行訓練と、自分のマヒした手と感覚の鈍くなった口を使って、テープレコーダーにテープがかけられるようになったこと、もう一つは、雨戸の開閉ができるようになったことです。

歩行については、園内をある程度一人で歩けるようになりました。園外については訓練する機会がないことと、聴覚以外に肌の感覚がないために一人歩きは絶望的です。

テープレコーダーについては、初めの頃は全て看護助手さんをわずらわしていましたが、それは大変な忍耐と努力が必要でした。30分もののテープの往復を聞くためには、看護助手さんに3度かけ替えてもらわなければなりません。2時間聞くためには6回、1日のうち5時間聞こうとすれば、15回看護助手さんをわずらわすことになります。テープレコーダーを聞いているあいだは看護助手さんは絶えず呼ばれ、ほかの仕事に手がつきません。このために看護助手さんは、いら立ち、私も早く聞きたいためにいら立ちます。こうしたいら立ちを解消するためにテープの交換が自分で出来るようにと、マヒした手と感覚の鈍い口を使って努力しました。その努力の結果、現在では看護助手さんをわずらわさせずテープをかけられるようになりました。

雨戸の開けたてについては、冬以外は雨戸は閉めませんが、気候の激変によって深夜に突風がおこり、雨戸を閉めなければならないことがあります。

非常の際は、ベルを押せば宿直の看護助手さんが来てくれますが、深夜に起すことが気の毒で、雨戸の開閉の訓練をしました。初めの頃は、そのために生爪をよく剥がしましたが、工夫した結果、爪を使わないで開けたてできるようになりましたが、爪の剥がれるくせがついたためか、親指を除いて私の爪は自然に抜けて生えてきます。指を使う率が激しいためでしょうか、いつも2,3本の指の爪はありません。現在は5本の指の爪はありませんが、これは夏で洗濯その他で指を使うことが激しいためでしょう。しかし、この程度に使っていないと萎縮した指は更に萎縮し、利かなくなってしまいます。

私の不自由度が、おわかりになったと思いますが、私に出来ることといえば、以上掲げた程度のことです。食事について云えば看護助手さんの介助なしに、一人で準備して食べることはできません。私は幼児のようなものです。このような極限的状況のなかで、自治活動は不可能です。人間的に云えば、自治活動はおろか、生きていること自体が絶望的であり、自己の存在も無意味性に悩まされましたのが回心前の私でした。

しかし、回心後と云えども私の身に変化が起ったわけではなく、客観的には、絶望的状況にあります。その私が自治活動しているのです。どうして私自身の意志によって、それが出来るでしょうか。自治活動は精神的にも肉体的にも重労働です。健康な者でも避けて通りたいのが普通です。

健康で目が見え、自由に飛び歩くことができたなら自治活動はしないと云ったのは、こうした労苦を知っていたからなのです。

では、なぜ極限的状況におかれたことが、その可能性を生んだのであろうか、それは回心と無関係ではありません。キリストとの出会いということが決定的な役割を果しているのです。それはキリストとの出会いによって、自己と世界とに死んだことを意味します。イエスの死に 合わされたこと、そしてまたイエスの生に合わされたことです。すべてがこの一事から始まっています。もし、イエスの死と生に合わされていなかったならば、自己の生の空しさに耐えきれず、自らの生命を断ったでありましょう。

私は、この世界はイエスの死によって、あがなわれた神のものだと信じています。神はこの世界に陽を昇らせ、雨を降らせるように神を信じない者も、信じている者も、神の支配の下にあります。したがって直接、信仰に関わりのないこの世的仕事であっても、神の支配の下に行われているのだと云えましょう。私は福音にたずさわる仕事が聖で、この世の仕事が俗だとは思いません。神の支配の下にあるとすれば、またこの世界がイエスによってあがなわれているとすれば、この世の仕事もまた聖でありましょう。俗もまた聖でありましょう。このことが明らかになるのは、世の終りの日でありましょう。キリストの来臨によって全てが明らかになりましょう。この世の俗にたずさわっている私の最後的希望は終末的希望であり、キリストの来臨であります。

ボンヘッパーは成人した世界のことを語っていますが、信仰と世とを分離する時代はすでに去ったのではないでしょうか。現代は政治、経済、文化のあらゆる分野で、キリスト者が自由に大胆に、しかも積極的に参加できる時代ではないでしょうか。イエスの活動の目標は取税人や罪人、また病人や障害者、寡婦など宗教の枠から、はみだした人たちに真の信仰を与え解放することにありました。その極限の行為が十字架でありましょう。イエスの死が、世界のすべての人を死と罪から解放したのです。私たちはイエスの死と生をこの世に持ち運ぶための努力をすべきではないでしょうか。彼の死と生が不可能を可能とし、絶望を希望に、暗黒を光りに、無を有に変革しましょう。無意味性の生から可能が生れましょう。

療養通信

厚生省が全生園を医療センターにする考えを明らかにしたことと「今日的問題」で波紋を起した平子医官の退任を契機に、今後の医療はいかにあるべきか、私たちは、多摩研に医療提携を求め、職組(全厚生多磨支部)と定期的に懇談を持っています。

多摩研は、らい予防法闘争によって勝ちとったもので、患者は多摩研の生みの親といってよいでしょう。

しかし、その後の多摩研は、アメリカに顔を向け、国内の患者を忘れていたように思います。基礎医学の面から医療センターへの協力が必要であり、アメリカへの顔を国内に向けるように懇談を通して働きかけています。職組は協力を希んでいますが、研究所長に問題があるようで、日本かららい患者がいなくなっても多摩研は生き残ると断言しておられるとか、こうした発言からもアメリカに顔を向けている所長の思想がわかるような気がします。京都大学の特別皮膚科研究室(らい)の滝沢先生が毎週二日全生園の基本治療科に勤務して下さることになりました。戦前は、国立大学にはらいの特別診療室がありましたが、今日では京大と阪大の2ヵ所になってしまいました。らいは終焉に近づいており、大学の研究対象からはずされてしまったのです。それだけに京大、阪大の外来診療は貴重といえましょう。

滝沢先生は外来診療の制度化を望んでおられる熱心な学者で、機関誌「多磨」に論文を載せて下さることになりました。論文をめぐって先生と懇談しましたが、この種のものとしては本格的なものといえましょう。私は開放療養の今日、外来診療の設置には批判的態度をとってきました。社会復帰者、自宅診療患者(伝染の危険の無い者)は、大学や一般病院を利用すればよいからです。この人たちが、内臓や交通事故による外傷のために、入院を必要としても元患者であることがわかれば、入院を拒否されてしまいます。結局、既存の療養所、特に全生園を利用するほかないのです。外来診療所は大学は一般病院の偏見と差別を結果的に容認することになり、社会復帰者を特殊領域に幽閉する恐れがあります。

しかし、先生の論文を読んで外来診療所が、大学や一般病院の偏見と差別で閉ざされている門を開く尖兵的機能を持っていることを知って、考えを新たにさせられました。もし、それが事実であるならば、外来診療について積極的に協力したいと思っています。


地番変更のお知らせ

市政による地番整理の実施にともない9月1日より下記の通り住所名が変更されましたのでご連絡いたします。  

      郵便番号189   東京都東村山市青葉町  4丁目1番10号