「小さき声」 目次


 小さき声 No.138 1974215日発行

松本馨 

私の歩んだ道

  仕える者

マタイに依る福音書に、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネのお母さんが、イエスに向って神の国では二人のわが子をあなたの右左に坐らせて下さいと言う記事があります。最高の地位を望んだのでしょう。外の弟子達はこれを聞いて怒りました。同じことを望んでいたからでしょう。

これに対して、イエスはあなた方のうちで偉くなりたいと思うものは召し使いとなり、一番先に立ちたいと思うものは奴隷になりなさい。人の子、私が来たのも仕えられるためでなく、仕えるためであり、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである、と言われました。

イエスの召し使いになれ、奴隷になれ、或いは仕える者になれとは、具体的にどういうことを指すのでしょうか。この問題について少しお話ししたいと存じます。

私は昭和10年多磨全生園に入園しました。皆さんは、らいという病気をご存じないと思いますが、昔は、1945年終戦前までは不治の病気として、世から大変恐れられていました。家族のうちに患者が出ると世間から村八分にされてしまいます。ですから患者が出ると、家族は土蔵や家の奥深くに隠してしまいます。そして患者は其処で死を待つのですが、多くの場合患者は家族のことを考え、夜こっそり抜け出し、旅に出てしまいます。そして、乞食をしながら国内をあてもなく歩き廻り死を待ちました。明治、大正時代には、こうした放浪者が神社やお寺の境内など人の集る処で物乞いをしていました。その悲惨な姿に同情し、最初に救済の手を差し伸べたのが外国宣教師でした。

明治は皆さんもご存じのように、日本が近代国家に生れ変る時代です。明治末期には産業革命が起こっていますが、当時の為政者にはらいを文化国家の恥とする思想を持った者が多くいました。欧州の文化国家にはらいは居なかったからです。隔離政策に依って絶滅していたのです。日本もそれにならい隔離撲滅政策をとり、そして最初に出来たのが明治42年創立の多磨全生園でした。神社やお寺など悲惨な姿で乞食している患者を強制隔離収容する目的で建てられた多磨全生園は監獄を模倣したものでした。

門衛は警察官であり、中には患者の脱走を見張る見張り所がありました。私達はその見張り員を監督と呼んでいましたが、この人達の仕事は脱走者や、療養規律を破った者をつかまえて監房に入れるのが目的でした。

また脱走を防ぐためにお金を持つことが禁じられ、病院で発行している園券が使われました。ほとんど凡てが自給自足で病人や肢体不自由者は、軽症な患者が看護に当りました。病室や自分達の住む寮も患者が建てました。道路を造ったり、副食の野菜、病人に必要な牛乳や卵など、野菜栽培から牧畜まで、みな患者の仕事です。

それはらいを嫌って私達のために働いてくれる人がいなかったからです。予算の少なかったこともありますが、私達は療養費の支給がありませんでしたので、動ける者は皆働きました。働かなければ生活できなかったのです。一日働いてバット1個分の賃金を貰いましたが、その僅かな収入で、衣類と嗜好品補食に充てました。補食を採らなければ栄養失調になってしまうからです。

私達は、肉類を購入して食べることが禁じられていました。患者のくせに贅沢だ、と言うのです。どうしても食べたい者は医師の許可が必要でしたが、許可の出る時は余命幾許もない重症患者に限られていました。

貧困とらいに対する恐怖、それに厳重な監視、手紙類や小包は検閲を受けたし、面会人には監督が立ち合いました。こうした中で、私は自分が人間であることに自信をなくしてしまいました。健康な人間を恐怖するようになったのです。私はこれを動物感情と呼びます。獣は人間を恐怖しますが、その恐怖の感情をいいます。つまり人間を失格したのです。こうした中で、僅かに人間の自覚を与えられたのは少数の医師と看護婦でした。神経痛やカゼなどで医局に診察に行くと、先生と看護婦さんがおり、優しく「どういたしました」とか「お大切に」と言葉をかけてくれます。その言葉にどんなに慰められ、そして自分が人間であることを自覚的に受けとらされたことでしょう。

唯今、河野総婦長さんのお話しをうしろで聞いておりましたが、今日総婦長さんのお話しを聞いただけでも此処に来てよかったと思いました。総婦長さんは管理者であり、私は自治会役員です。全生園では公の話以外私的な話をしたことがありません。唯今総婦長さんが療養所に勤める動機について語ってくれました。中学生の時、らいの話を聞きその一生を私達のために捧げる決意をし、それから7,8年後に家族の反対を押し切って看護婦となり、星塚敬愛園に勤務されました。私はこの話を聞き涙の出る程嬉しく思いました。療養所に勤務するお医者さん、看護婦さんは皆家族や親戚の反対を押し切って務めていて下さるのです。何故でしょうか。

この人達の多くはキリスト者で、患者のためにその一生を捧げる決意をさせたものは、信仰の力であることは説明するまでもありませんが、如何にして愛によって働く信仰が与えられるのでしょか。

私は1941年(昭和16年)求道の志を起こし、神を求めましたが、聖書に記されている真理が理解出来ませんでした。ですから家族や親戚の反対を押し切って務めて下さる医師、看護婦さんの心情が全く分りませんでした。仮にこの人達の立場に置かれたならば、恐らく逃げ出してしまうでしょう。社会的地位や、きれいな職場を求めるからです。

1945年、日本は戦争に敗れ、軍国主義の国家体制は崩壊し、民主国家として新たな道を歩み始めました。この年は、私達患者にとっても大きな変革の年と言ってよいでしょう。連合軍の進駐によって、刑務所的収容所が崩壊し、その抑圧から解放されたからです。また連合軍のもたらした治らい薬プロミンによって、不治の病いとして恐れられていたらいからも解放されました。連合軍は、私達にとってキュロス的救済者でした。

皆さんはキュロスをご存じないと思いますが、旧約聖書にイザヤという予言者が居ました。このイザヤがバビロンに捕囚となっていたユダヤ人に、キュロスによって捕囚から解放されたことを、イザヤ書40以下で予言しています。

「あなたがたの神は言われる、慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた。」(イザヤ40・1〜2)

10数年に及ぶ長い隔離と、人によっては20年以上も隔離されている人も居ましたが、その隔離からの解放と、らいからの解放される時が来たのです。収容所は喜びに湧きたち、私も社会復帰の希望に心はずみました。しかしその喜びも束の間でした。

1950年春、一夜にして私は失明してしまったからです。人は光りがなければ歩くことができません。失明によって、目の光りを失った者は心に光りを灯し、それに依って歩くことができるのです。私はその光りを見出すことができず、その年の暮まで暗黒の中をさまよっていました。神を信じようとしても信じることが出来ないのです。処がその年の暮の或る夜のことでした。一人の友人が私を尋ね、聖書(ロマ書3章21節以下)を読んでくれました。それまで聖書は私には退屈な書物でした。そのいましめに固着しようとすれば厳しい律法となって私を拒否します。その聖書が突如として、命あるものの声として聞こえて来たのです。生ける神の言として、私を震撼させました。2千年前十字架の刑死に会われたイエスキリストが,現在の主イエスとして、私を圧倒したのです。これが私の回心でした。そしてらい院に勤務しているお医者さんや、看護婦さんの心情を理解することができました。この人達は皆キリストに捕えられ、私達に仕えるものとなったのです。

私は此処でその一生をらい者のために捧げた看護婦さんのお話しをしたいと思います。この方は若い頃、キリストにとらえられ、その一生を福音宣教に捧げるつもりで、聖書学校に学んでおりましたが、或る日電車の中で片隅にうずくまっている悲惨ならい患者を見ました。そしてその日を境にこの若い伝道志望の女性は、らい者に一生を捧げる決意をしました。事実それを実行し、全生園を中心に多くの療養所の患者に仕えました。そして一生を独身で通し、年をとり看護婦を辞め郷里に帰って行かれました。それから10数年後のことです。私達の間にこの看護婦さんについて、色々噂が立ちました。精神病患者になってその病院に入院しているが、誰も面倒を見る人がなく、悲惨な日々をおくっている、というのです。その看護婦さんの後輩や教え子、それから看護婦さんにお世話になった患者が心配し、手紙で連絡をとり真偽を確かめようとしましたが、連絡がうまくとれませんでした。そこで数人の看護婦さんに、真偽の程を確かめてもらうために、元婦長をしておられたその婦長さんを見舞って頂くことになりました。

この看護婦さんは、M婦長と呼んでいましたが、小さな病室に重症の精神病患者と一緒に入院していました。体の自由をなくして何年も寝たままの生活をしていたのでしょう。腰には床ずれが出来、垢で全身が汚れていました。髪は油と垢で束ねた銅線のようにべっとりと付着し、櫛を入れることが出来ません。想像以上に悲惨な療養をしていたのです。M婦長さんの後輩や教え子や先生が中心になってM婦長さんを守る会が作られました。これには患者も参加しました。会員は毎月5百円を納め、それによってM婦長さんを世話することになったのです。患者自治会も参加し、毎月5人分2千5百円を納めました。また、守る会ではM婦長さんを、全生園の隣り町にある一般病院に入院させ、看護婦さんが勤務の合間を縫って身の回りのお世話をすることにしました。M婦長さんは、看護婦さんや患者に暖かく守られながら平安に療養していますが、清瀬の病院に移るに当って、M婦長さんが望んだことは、全生園に入院させて欲しいということでした。らい者のために一生を捧げた婦長さんを受けれる場所が社会になかったのです。私達はこの言葉を聞いた時、感激しましたが、らい者でない者を入院させることは出来ません。

M婦長さんはまた死後の骨は、全生園の納骨堂に納めるようにと、希望しています。死後の世界には偏見も差別もありません。私達は喜んで迎えるでしょう。全生園の納骨堂には、その一生をらい者に捧げたお医者さんのお骨も納めてあります。

私は皆さんに最後に、宿題を差し上げたいと思います。らい者のために一生を捧げられ、その結果精神病院に入院し、筆舌にあらわせない悲惨な経験をされたM婦長さんは、幸せだったのでしょうか。神様を信じない者の召し使いとなり、或は奴隷となって仕えた婦長さんの一生は誤っていたのでしょうか。神が義の神で居給うならば、M婦長さんの晩年はもっと幸せになっても良いのではなかろうか。

合理的な考え方をする現代の若い人は、政治が悪いのだ、社会保障が確立しておれば精神病院に入院しないでもよかった筈だ、老後を年金で平和に過すことが出来たろう、と云うでしょう。仮にそのようになったとして、果してどちらが幸せなのでしょうか。皆さんは中学生であり、結論を出すことは難しいと思いますが、高校から大学へと進学し、或いは社会に出た時、考えてほしいのです。

私はためらうことなく、現在のM婦長さんは幸せだと信じています。それは神様を信じ、らい者に仕える者となって、その一生を捧げたからです。マタイによる福音書25章31節以下に次のような言があります。

人の子が栄光の中にすべての御使いたちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、渇いたときに飲ませ、旅人であるときに宿を貸し、裸であるときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう。「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか、いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」 すると主は答えて言うであろう。「あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者が一人にしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」

私はM婦長さんが、王なるキリストによって祝福される正しい者の一人だと信じています。
(「私の歩んだ道」は昨年12月19日、横浜の関東学院の中学生クリスマス礼拝に河野総婦長さんと出席したとき話したものをまとめたものである。)

療養通信

昨年の暮れは慌しい日々を過しました。12月19日は、関東学院の中学生のクリスマス礼拝に河野総婦長さんと出席し、「私の歩んだ道」を話しました。

23日は、千代田集会に吉野、椎葉の兄姉と御一緒に参加しました。午前の聖書講義と、午後の感話会に出席し、大いなる恵みを受けました。1年に1回の出席ですが、参加の度毎に受け取らされるものは、共同体の一員としての自覚と、神の歴史の戦いの参加の自覚です。療養所で無教会者として孤独の戦いを進めている者にとって、かかすことの出来ない集会と云えましょう。

千代田集会参加の翌日には、独身軽症寮の整備問題で軽症者より対決を迫られ、連日会議に追われ、静かに千代田集会より受けた恵みを省みる暇もありませんでした。軽症者の要求は、トイレ、洗面所付きの四畳半の個室では狭いから、もっと大きくせよというのです。現代の日本における社会保障はそこまで行っていないことと、予算的に無理であると考え、拒否したのが対決の原因です。最終的には四畳半にお勝手を拡げることで、この問題は解決しましたが、私の自治活動に限界が来たことを痛感し、機関誌「多磨」に次のようなことを書きました。私の自治活動は信仰的決断であったこと、したがって私の自治活動には、信仰的制約があること、信仰的制約とは、キリスト者の良心の制約を意味します。この良心を売ってまで、自治活動は出来ない、ということです。大衆に奉仕すると云っても、大衆が不当な要求のために運動するよう強要した場合、私は自治活動を断念するでしょう。

2月は役員選挙ですが、例年になく私の心は重く積極的になれません。理由は会員の要求が、純粋でなくなってきたこと、富むに従って不純なものが入って来たからです。現代の日本人が経済大国になったために、精神的に腐敗してゆくのと同じ理由によります。

もう一つの理由は、過去5年間運動して来た医療センターの道が、開けたことにあります。センターとしての形が具体的になるに従って、センターに対する私の失望も大きくなってゆきます。結局、私の希望は、願いはセンターになかった、ということです。それは終末的なものでした。でもセンターに失望し、絶望しながらも、センター設立に努力することになるでしょう。キリスト者として、センターにかかわるとき、その可能性は、センターに対する絶望の媒介のみが可能だからです。それ以外、センターとかかわることは出来ません。