「小さき声」 目次


 小さき声 No.14 19631016日発行

松本馨

真実の友

若い頃、文学の友があった。文学を語り、人生を語り、眠れぬ夜を過ごしたことがある。しかし私が文学を捨てたとき、友は離れていった。教会にいるときは家族に勝る友人が何人かいて、困難な第二次大戦中、教会を守った。しかし私が教会を出たとき、離れていった。この外にも、何人かの友はいたが離れていった。別れたときは裏切られ捨てられたように思えたが裏切ったのは私である。

原因は神を知ったためである。十字架にある神の恵のためにすべてのものを損と思うようになった。前のものを追い求めて、友を省みる暇がなかったのである。その結果は一人になった。そのような求め方は、間違っていると言えばそれまでであるが、ある時期、たとえば罪に苦しんでいるときは、十字架から一瞬一時も目をそらすことのできないような思いつめた時期があるものである。私の場合、一切から切り離されて、十年間も壁に向かって坐していた。それが罪であるが、その時期が長かったために、多くの友を裏切る結果になった。だが私は、冬枯れの夜に立つ枯木であろうか。私は多くの友がある。第一の友はイエスである。第二、第三もイエスである。私は幾度かユダの如く、イエスを裏切り、十字架につけたが、悔い改めて、彼に帰るとき、彼はその罪を赦し、私を迎えてくれた。

私はイエスのもとで彼の多くの友を知った。彼の友は、今も、彼に敵し、十字架につけ、恥ずかしめ、苦しめている。十字架上のイエスは、その人たちのために祈っているのである。イエスとその人たちとの関係は、永遠に変わることなく、イエスの真実の友である。私は友を裏切り、友をなくした。イエスは言われた

「汝の敵を愛し、汝を憎む者のために祈れ」

汝の敵、汝を憎む者がイエスの真実の友である。イエスと共に、十字架の恥を得るとき、又、彼の友を得ることができるのである。パウロはガラテヤ書で神を愛し伝える信仰のみが益であると言った。このような愛のみが、真実の友を得ることであろう。

この病は死に至らず 十四

その口より出ずるものは

Tはモヒ患者で、私と向き合ったベッドにいました。私が入所した頃は、モヒ患者は珍しくありませんでした。又打とうと思えば一本十銭くらいでいくらでも打てたものです。看守に見つかれば勿論、監房へ入れられます。所内にモルヒネが入れられるのは、昭和のはじめ頃まで、ジプシーのように集団で放浪していた患者の残存者ですが、第二次大戦中に自然消滅しました。

戦後、T以外にモヒ患者を知りません。Tは朝鮮人です。終戦後間もなく祖国にらい療養所ができたことを聞いて引き上げていきました。しかしこれは噂だけで同胞の患者はテント生活をし、米軍の放出物資でかろうじて生命をつないでいたのです。Tは責苦の病友を見捨てて、今度は日本人のらい患者になりすまして、引き上げてきました。そして、熊本の恵楓園を振り出しに、各地の療養所を転々とし、再び全生園に戻ってきました。この間にTは麻薬密輸団に加わり、そして自らも中毒患者になってしまったのです。Tは長身痩躯で、片足が短く、歩くときははねるように歩きます。なぜか私の眼底には北風の中を風に飛ばされるように歩いていたTの姿しか見えません。或いはそれは祖国に帰るTの姿だったのでしょう。そのTが私の眼前に一つの姿を示しているのです。

Tは午後九時から十時の間にモヒ注射を打ちます。真夜中に薬がきれないようにとの配慮からでしょうか。Tは翌日の昼近くまで死んだように眠っています。目が覚めると朝食をとり、煙草を吸い気が向けば昔話をします。その口より出ずる言葉は、ロマ書一章二六節以下のどれかに該当します。Tはモヒが効いている間は、おだやかです。モヒを打った翌日の夜は、モヒの代わりに散薬を一度に五服呑んで休みます。普通の人なら一服呑んでも酔ってしまいますが、Tは五服呑んでも、体にモヒが僅かでも残っていないと効果がありません。薬は消えかかった火をかきたてる役目をするのです。ですから、三日か、四日目になって、体にモヒの気がなくなってしまうと、一度に十服呑んでも効きません。モヒがまわると、Tはまるで人間が変わってしまいます。先生、看護婦、患者付添夫に対して乞食の如くモヒの哀れみを乞うかと思うと、苦しいと云って子供のように泣き出したりします。そして、自分の希望通りにならないとひょう変し、「病棟に火をつける」とおどしたりします。誰彼の見さかいもなくののしりわめき、病人の安眠と安静を妨害します。病人にとってこれほど苦しい責苦はありません。病人はその苦しさを先生に訴えます。医師はほうっておくことも出来ず、Tを大人しくさせるために、モヒを打つことになります。Tは一度味をしめると、この手をしばしば用いました。

私は死んでやる

或る夜のことです。Tがいつものように騒いでいました。ところが病人は申し合わせたように、それに応じる者はなく眠った振りをしていました。付添夫も詰所から姿を見せません。Tは云いました。「お前たち、狸寝入りしていても駄目だぞ、わしには分かっている。お前たちはわしを馬鹿にしている。今夜は眠らせないから覚悟していろよ」

Tは朝鮮語で朝鮮民謡をのどをしめつけられるような声で唄いはじめました。それが終わると今度は突然「馬鹿野郎! 馬鹿野郎!」個人にではなくすべての人に向かって怒鳴りました。けんどんを叩きます。口ぎたなく男をのろい、女を恥ずかしめます。ゲタゲタ笑いしたかと思うと「わしを馬鹿にしている」と泣きだします。「わしは死んでやる。死んでお前たちにたたってやる」

Tは、この考えに満足したのか、手品師が手品の説明をするように調子を変えてこれからとげようとする自殺について、説明を始めました。「ここに三本の包帯がある。これを縄のようによって、そして窓からぶら下がる。見ていろよ! お前たちはわしが首をくくれないと馬鹿にしているが、お前たちの目の前にぶら下がってやる。そのとき驚いてとめるなよ」「誰がとめるものか、足を引っぱってやるから、早くくたばってしまえ」Tは聞こえるのか聞こえないのか、紐を造っています。「半分出来た。もう少しだ。見てろよ。今ぶら下がってやるから」

Tはスローモーションの映画を見るように長いこと時間をかけてつくっていました。Tは演技の時間が長いほど効果があることを知っていました。病室には異常な緊張が高まっていたのです。これから起こるかもしれない、あるいは起こらないかもしれない出来事に、病人は絶望的な期待をかけていました。「準備は出来た」とTは自分の演技に満足して言いました。「先ず窓を開ける」すると深い夜がガラス戸の走る音で破れました。「窓が開いたらベッドから窓に乗り移る」

Tは説明をしながら演技をつづけます。招かれている客の多くは、黒い夜の人、白い夜の人、霧のレースに包まれた人たちです。「窓の上に上ったら包帯の一方のはしをしきいに、一方のはしを首に結ぶ、そして窓から飛び下りる。そしておしまいだ。お前たちは首などくくれないと、腹の中で笑っているが見てろよ、今お目だちの前でぶら下がってみせるから、首はこういうふうに巻く」すると窓近くでは付添夫が大声を出しました。「冗談はいい加減にやめろ」
彼は、Tの演技に魅せられて無意識のうちに窓近くにすい寄せられていたのです。彼の言葉を合図に、「先生を呼べ」と、病人は騒ぎはじめました。今夜のうちに、病室を替えてもらうのだと、云う者、気違い病室だと云う者、頭がおかしくなったと云う者一斉にしゃべりだしたのです。

こうした中で、先生が来てモヒを打ったため、Tは猫のようにおとなしく寝てしまいました。彼は付添夫に抱えられて、窓からベッドに移されたのですが、母親に抱かれた幼児のようにおとなしくなったのです。今の今まで騒いでいたTとは思えないほど、突然異変を起こしたのです。目的を果たしたい上、これ以上演技をつづける必要はなかったのでしょう。

火をともす者は誰か

世には多種多様の火が灯っています。東海村には人間の叡知を象徴すると言われる原子の火がともっています。科学の火、芸術の火哲学・宗教の火があります。あるいはオリンピアの火がともっています。又名誉と富の火があります。歓楽街の火がともっています。あるいは、Tの如くモルヒネの火があります。あるいは、村には村の、町には町の、国には国の火がともっています。天には日の光栄、月の光栄、星の光栄があります。

私の内には、最早燃えるものがありません。全存在は燃えつきた後のカスです。私のうちに油を注ぎ、火をともすのは誰か。神の御子イエスキリストです。イエスの呑まれた盃は私の油、私の火です。私の復活の生命の火です。私は急いで彼の元へ行き、彼の御手から義の盃をうけねばなりません。この義の盃こそ新生の喜びの歌です。だが神は、私より無限に遠いところにいます。この無限の距離は、罪ですが、その罪は私にはわかりません。私を打つ審判の神は、私をこばみつづけています。義子の死をめぐって私に臨んだ審判の神は、私にとって、あまりにもおそろしい神です。しかし、このような神を、敢えて受け入れることが信仰でしょう。自己が死に、この審判の神を受け入れるとき、イエスの死がわかり、審判の神が恵みの神であることがわかります。だが私には勇気がありませんでした。その神を受け入れるとき、恐怖のあまり、私の心臓は止まるか、発狂してしまうでしょう。このような冒険を敢えてする事が信仰なのです。

Tは翌日、一日食事をとらず死んだように眠っていました。翌々日になってモヒがきれたのでしょう。目を覚ましましたが、そのとき私を呼びました。神様の話をしてくれと云うのです。私は彼の元へ行き、イエスが十字架にかかるとき、痛みをやわらげるためのぶどう酒を退けて飲まなかった話をしました。Tははじめて聞くとおえつしました。身につまされてしまったのでしょう。彼は私に祈ってくれるように言いました。私は彼のために祈り、彼も又最後に一言祈りました。「神様、私をお助け下さい」神は頑固でごうまんで自負心の強い私を、パロの如く利用し、救いの御手を彼にさしのべたのです。彼はその日からモヒとの戦いをはじめました。そしてその夜の夜半に幼児の如く、母の名を呼び泣いていました。「ウマー、ウマー」(以下次号)

さいわいということ

幸福なるかな、心の貧しき者天国はその人のものなり。 (マタイ5・3)
心の貧しき人たちは、さいわいである。天国は彼らものである。

口語訳のイエスの祝福の書「さいわい」を照合するとおもしろいことがわかる。文語訳の「さいわい」は心の貧しき者の上に冠のようにある。口語訳の「さいわい」は、心貧しい人たちの下にある。文語訳の「さいわい」は、恵みが心の貧しきものの上にヘルモンの露の如く注がれている。口語訳の「さいわい」は心の貧しい人たちの下にある。この「さいわい」を二枚のレンズのように重ねて、心の貧しき者を見ると、次のことがわかる。それは現在すでに神の国が到来し、それをもっていることと、終わりの日の約束としてそれをもっていることである。

わたくしはイエスの祝福の言に十字架をみる。イエスの贖罪なくして、祝福は私たちの上にとどまらない。イエスの祝福は御自身を与えることで、それを受くるものは十字架を受くるのである。わたくしは十字架の道を歩まれたイエスの如く、貧しい人を知らない。ルカ8章3節には婦人たちが自分たちの持ち物をもって、イエスの一行に奉仕したことが記されている。イエスは婦人たちに養われていたのだと云われ、その貧しさは乞食にひとしいものである。当時、同胞から忌み嫌われていた取収税人や、らい病人の家に宿をとるときのイエスは、乞食以下になる。乞食もらい病人の家に宿をとらないのである。更に、

「狐には穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕するとこなし」

と云われるとき、鳥や狐よりも貧しくなる。そして十字架のイエスは虫となり、死に渡されるのである。

何人がイエスの如く貧しく、低くなったろうか。何人が彼が如く神に捨てられ世に捨てられ、十字架の恥と苦しみをうけたろうか。何人が彼が如く、諸々の病を知り悲しみを知っているだろうか。

人はこう云えば、いつイエスが病んだかといぶかるであろう。しかしイエスは罪をほかにしては、人間のすべての苦しみをうけて、試みに会わされたのである。十字架はその凝集である。

十字架上のイエスはすべての病、すべての患い、すべての苦しみをうけている。十字架上に流されている血の一滴は、過去、現在、未来にわたって、苦しむわたくしたちの凡ての苦しみよりも重々しく、そこに流されたすべての涙よりも熱い。私たちの苦しみは、私たちの罪の万分の一に過ぎない。その罪を百パーセント負って下さったのがイエスである。だから彼のもとへ行くときは罪は雲の如く消え、霧の如く晴れる。それが彼よりうくる義なのである。

このように、一番低いところに下げられた神の子イエスがさいわいだと云われるのである。彼を信ずる者は、その恵みからもれることはない。彼より低いところはないのである。彼に会わされた者は、もはや彼より離れては一時も生きていることができないほど、心の貧しき者、悲しみの人となる。そして又、このような者にかの日の神が約束されるのである。さいわいなのだ。本当にさいわいなのだ。

ことば

虫の声もだいぶさびれてきた。寒さに弱いすず虫や、つくわむしの声は聞こえない。最後まで鳴いているのは、こおろぎである。

こおろぎは早くから鳴きはじめ、一番おそくまで鳴いている。大気は冷え、夜露は冷たく大地にこごえていく。自然の厳しさをこおろぎは、一番最初に感じているのではないだろうか。

深夜、目を覚ましていると、尻切れた羽根がこわばっているためだろうか、すじとすじがぶつかり合うかすかな鳴き声が聞こえる。こおろぎはつくられたまま、最後の息を引きとるまで鳴いている。

私は、こおろぎのふてぶてしいまでの生命力が好きである。どんなに駄目になっても、困難な状況におかれても、与えられた生命の火は燃えつづけなければならない。神の御前にこおろぎの如く、最後の息を引き取るまで、祈るものでありたい。

菊の花が一杯園内に咲く季節となりました。