「小さき声」 目次


 小さき声 No.142 1974615日発行

松本馨 

二つの死

  6月16日に、カトリック代表のSさんの葬式が教会で挙行されました。Sさんは、財団法人互恵会の会長であると共に、何期か自治会長を勤めました。

 Sさんは、1936年、神山復生病院より全生園に転園して来た熱心なカトリック信者でした。当時カトリック信者は、10数名に過ぎませんでしたが、敗戦直後のキリスト教ブームに乗って一挙に150名に増えると共に、会堂が建ちました。食糧難と衣料危機の時代、大量に送られて来た救援物資(カトリック)の力に依るものでしたが、熱心に伝道をしていたSさんの力に負う処も大きいのです。動機がどうあれ、今日の基礎を築いたのはSさんでした。

 そのためもあって、Sさんの葬式は、全生園の歴史始まって以来の盛大なものでした。参列者は約300名、その半数は外部の信者でした。東京教区の大司教、神父20名、この外シスター等です。式を司った神父は12名で、異例のことと言われます。

 私は、自治会長として出席し、Sさんの霊前に入園者を代表して、自治会長として、互恵会会長として尽したお礼を述べると共に、会衆に向って「自分は思い通りのことをして来たので、何も悔ゆることはない」と言われたSさんの最後の言葉に就いて感想を述べました。

 「思い通りのことをして来たので、何も悔ゆることはない」は信仰のない者にとっては、暴君や我欲なエゴイストの言葉に聞えますが、絶対者の神にかかわる言葉として、信仰の耳をもって聞くとき、それは素晴らしい言葉です。

 私は、Sさんが思い通りのことをして来たとしても、それがことごとく成功だったとは思えません。失敗や挫折があったに違いありませんが、それにもかかわらず「思い通りのことをして来たので悔ゆることはない」と告白出来るのは、すべて信仰に依るからでしょう。信仰に依るとき、失敗は成果であり、挫折もまた成果であります。神の意志に依るからです。そしてSさんが最後に言われた「すべてのこと感謝です。皆さまありがとうございました。」と言う告白が出来たものと思います。私はSさんの言葉を聞き、ロマ書11章のパウロの次のような聖言を想起しました。「すべての者は神より出でて、神によりてなり、神に帰するなり。栄光永遠に神にあれ、アーメン」

 大司教、神父、シスターの前で語れたのは、聖霊の働きに依るものでしょう。それにしても無教会とカトリックの相違をSさんの葬式を通して ほど知らされたことはありません。私はSさんの最後の言葉について語りましたが、それは私自身の信仰を語ったので、Sさんの言われた意味は違うのだと言う気がしてなりません。Sさんの死は堂々として、余りにも立派です。150名の会員は、Sさんがハ氏病の聖人として、祀られることを望んでいます。こうした気持が葬式にも現れ、それは葬式というより、華やかなお祭りに思われました。

 Sさんは「思い通りのことをしたので、悔ゆることはない」と言われましたが、それはそのまま受けとることがカトリックの信仰ではないだろうか。すべて信仰に依ることに失敗や挫折はなく、すべて確信通り進行するのはカトリックの信仰のように思われます。信仰に依る失敗や挫折は、不信仰として一蹴されてしまうのがカトリックの信仰のように思われます。失敗を成果とし、挫折を成果とする信仰は、無教会的なのでしょう。

 私はSさんの葬式に参列し、昨年秋、召されたTさんの死を思いました。Tさんは、前田集会の姉妹で「聖書愛読」の録音奉仕者でした。両親のすすめに従って、郷里の熊本に帰りましたが、結婚の相手となる方に会い、結婚を断念しました。相手は熱心なプロテスタント教会の信者でした。人間的には立派な方でしたが、無教会の信仰と相容れないものがあり、結婚を断念したのです。結婚の条件として、信仰を第一義に考えたTさんの手紙に私はひどく感動しました。結婚の条件として信仰を第一義に考えるものは、絶無と言ってよいからです。結婚は、相手を好ましく思うから結婚への意志が働きます。そして、信仰を第一義として受け取るのです。しかし、これは第一義ではなく、二義的に受け取っているのですが、多くの場合、このことに気付きません。しかし、それでも良いのです。神はそれをそのまま、受け入れ祝福してくれるからです。

 しかし、信仰第一義とは、結婚の相手に人間的には絶望するが、信仰の故に結婚します。それは涙の結婚であり、絶望の結婚であり、苦悩の結婚であります。そのような結婚が信仰第一義と言えましょう。

 Tさんの歩いた道は、そのような道でした。結婚を断念したTさんは、水俣病患者のために、保健婦として働くと共に、沖縄のライ療養所をも訪問しています。Tさんの信仰は、イエスの十字架と共に低い方へと傾斜して行きました。

 Tさんは、若くしてガンで亡くなりましたが、私には一言も伝えず、Tさんの宿舎の管理人から「小さき声」の返送と共にその死を知らせた一片の通知に依って死を知りました。私はその死を知ったとき、マタイに依る福音書25章の、少女のたとえ話を想起しました。Tさんは、思慮深い少女でありました。その思慮深い少女とは、その死を知られない程に一人キリストに見守られて、死んで逝った人を指すのでしょう。私には、それが無教会的信仰であるように思われてなりません。そして、後に残った私は、思慮の浅い少女に思われてなりません。

 或る友へ

 5月25日

 風薫る季節になりました。その後お元気でしょうか。私は長島愛生園で開催された21支部長会議に5月8日より16日まで行って来ました。会議の日程が長かったために、公私に亘って事務が山積し、連日慌しい日を送っています。長島愛生園の印象記を書くだけの時間的余裕がありませんが、会議の合間に歩いた海岸は、今も生々しく私の胸の中にあります。何故海は私を捕えて離さないのでしょうか。岩に腰をおろし、波音を聞いていると、時間の経つのを忘れてしまいます。海は故郷のような、母のような郷愁があります。だがそれ以上に海は創造の神の御手があらわなのです。

 創世記1章の天地創造の海が、現在も尚原型のまま残っているのです。海は創造以前の原始の世界に私を引き戻します。そこにはこの世界がなくしている神の御手があらわなのです。

 海はまた、神の祈りです。風の強い時、弱い時、雨の時、快晴の時、そして嵐の時、海は祈ります。それは感謝の祈りであり、讃美の祈りであり、哀訴であり、号泣であり、慟哭の祈りです。その前に私もまた頭を垂れ、共に神に祈ります。神から無限に遠くに落ちた人間の、神へのそれは祈りなのです。

 自己の不信と、罪の故に祈ることさえ出来ない時、海は私に替って祈るのです。時には静かに、時には激しく、或いは訴え、或いは叫ぶのです。海は生きているのです。激しい感情と、世界を包む広さと、神の愛を持っています。海は眠ることなく、休むことなく、人間の不信と罪の故に祈るのです。海が祈りをやめる時、世界は滅びるでしょう。この世界を根底から支えているもの、それはイエスの十字架であり、祈りであり、海の祈りでありましょう。海は静的でなく、動的です。それは、あらゆる生物を包み、神に祈るものだからです。海は神の祈りであり、十字架の祈りであります。キリストが来り給う時、海は最早や、嘆くことをやめるでしょう。叫ぶことをやめるでしょう。そして海は神をほめ讃えるでしょう。

 曙教会は、波に洗われるような海辺にありました。瀬戸3園の教会が祈りに熱心なのは、周囲が海に囲まれているためでしょう。海の祈りに自ら祈らずにはおられなくなるからです。環境的にこの人達は恵まれています。それは私にとって羨望の的でした。全生園はこれに比較して、余りにも俗化しています。療養所の解放政策が進んだ結果、全生園は社会と変らない程に世俗化してしまいました。こうした世俗化の中の信仰生活が、いかに困難であるか、想像出来ましょう。海の祈りが島の人達の祈りを呼びさますのとは逆に、療養所の俗化が、信仰をも俗化させ、世俗の波に呑まれてしまいます。けれども私達は、世俗内に生きなければなりません。世俗の波音を神への祈りに替えるまで、戦わなければならないでしょう。そしてそれは、可能なのです。世俗の唯中に神の子イエスは来たり給う。そして世俗の唯中でイエスは、十字架の死を遂げ給う、神なく不信の世俗の唯中にイエスは立ち給う。砂漠でしかない世俗の唯中に十字架を見出す時、この俗化した世界はそのまま、神の祈りの場所となります。世俗内の殺人、恐喝、盗み、姦淫、虚偽あらゆる悪の渦巻く世俗の叫び、悲鳴、呪い、うめき、絶望がそのまま神への祈りとなりましょう。神の祈りになるまで戦わねばならないでしょう。イエスの死と生をこの世俗内に持ち運ぶ時、世俗の世界はそのまま祈りとなり、海の祈りとなるでしょう。それ以外に私の生きる道はありません。十字架の義に固着する時、砂漠のような俗化したこの世界が、長島愛生園で見た海になるでしょう。そしてそれが世俗内の福音であり、私の戦いなのです。どうか私のために、否世俗の唯中でさまざまの悪の誘惑の前におののいている兄弟達のために祈って下さるようお願いします。

 

 療養通信

 21支部長会議に、私と副会長の富士原、付添いの山下、それに全患協本部員6名と5月8日午前10時5分、東京発のひかりで長島愛生園に発ちました。岡山には午後2時20分頃到着し、直ちに駅まで出迎えた長島支部役員と共に、マイクロバスで一路南下、1時間少々かかって虫明に着きました。そこから愛生園の船に乗り、約15分で島に上陸しました。菊池恵楓園に行ったときも経験したのですが、空気がきれいでおいしく、身も心も洗われる思いでした。

 長島愛生園はその名の如く東西に長く、その西端に邑久光明園があり、島の周囲は16キロあります。長島愛生園が創設されたのは1930年で、初代園長は、当時の第1区府県立全生病院院長光田健輔でした。彼は政府の依頼を受けて、日本の最初の国立療養所を作る敷地を探して、日本国中を歩いたと言われます。そして彼が敷地に相応しいものと決めたのが長島でした。江戸時代は岡山藩の馬の放牧場として利用され、民家もあったようです。愛生園を見学し、光田の構想の大きさを改めて知らされた思いです。愛生園の海岸は、潮干狩りに適し、本土から船で潮干狩りに来る家族連れが見られました。

 宿舎の裏には有名な恵みの鐘があり、毎朝6時になると、その鐘が撞かれました。頭の上で聞えてくるので、山頂にあることが分りましたが、樹木が茂り恵みの鐘を探すことが出来ません。二日目の朝、道を尋ねようやくにして鐘撞堂に登ることができました。鐘撞堂は山の頂きであり、その鐘撞堂を頂点に、周囲の山腹を開拓し、療養所が設立されたと見てよいでしょう。南北は狭く、道路は海岸を中心に走っています。南の瀬戸の対岸には小豆島が見えます。海の中に愛生の神社がありましたが、潮がひくとそこまで歩いて行くことができ、潮干狩りに最適の地になります。その海岸に曙教会がありました。

 曙教会はホリネスの系列に属し、祈りとあかしの教会といえます。瀬戸3園の教会は大体同じような傾向を持っていますが、愛生園に来て何故祈りが盛んであるか分りました。教会の土台は波に洗われる程近くにあります。ここに居れば祈らずに居られないでしょう。波音は、海の祈りです。おだやかな波音、岩をかむ音、嵐のような狂乱怒涛の波音、それは神に捧ぐる海の祈りです。時には静かに神を讃え、時には号泣し、慟哭し祈りに訴えます。それは人間の不信と罪の故に起ることなのです。岩に腰をおろし、私は時の経つのを忘れ海の祈りを聞いていました。その祈りを聞いていると、創世記1章の天地創造の原始の世界に私を引き戻してしまいます。何故、私を海は捕えて離さないのか、それは海の祈りが私を創造の世界にまで連れて行くからでしょう。

 長島愛生園は、光田に依って開拓されたものですが、光田と共に約70名の患者が、全生園から島に渡り、開拓に従事しました。光田と共にその大部分は既に世にありません。光田は、有名となり名を残しましたが、70名の患者は全く忘れられています。島に上陸し、私が第一に思ったことは、この70名の開拓者のことでした。過去5年医療センター運動を進めて来た私は、開拓者の労苦が痛い程分るのです。

 しかし、同じ開拓でも、当時と現在では状況が大分違います。愛生園開拓には、発展と繁栄が約束されていました。医療センター運動は、療養所を収拾するためのもの、らい園最後の頁を閉じる使命を持ったものです。センターには、高度な化学治療を施すことと、幾百万といわれる世界のらい者に、医療の手を差し延べてほしいと云う願いが秘められていますが、センター運動の根底にある理念は、収拾の際起る犠牲を出来るだけ軽減し、最後の一人に至るまで医療が受けられるような道を考えておくことです。

 21支部長会議は、私が予想していたような医療危機を迎えたことを、証明してくれました。何時の年も、会議の中心は経済問題であり、医療は形式的に討議されるに過ぎませんでしたが、21支部長会議は様子が全く変っていました。拠出制障害年金と同額の、月額2万5千円の給与金が支給されるようになったこともありますが、お金のことを口にする者はなく、医療危機が叫ばれ、いかにして医師、看護婦を確保するか、真剣に討議されました。機能が麻痺し、不能になりつつある施設は駿河療養所、栗生楽泉園、東北新生園、邑久光明園、沖縄2園、等です。中でも邑久光明園は絶望的といってよいでしょう。多磨に対する協力要請は、例年になく強いものがありました。栗生、駿河は、医師の派遣、ベッドの確保、駿河から多磨への診療バス運行など、今後医療危機が深刻になるに従って、こうした要請は益々強くなるでしょう。数年後には医療危機は更に深刻になり、療養所の統廃合が問題になるでしょう。厚生省は、現在9千人の患者が、15年後には3千になると計算しています。専門医によっては3千を割るであろう、と言っています。この15年が問題であり、いかにして犠牲を出さず、その数にもついてゆくかが問題でしょう。私の理解する限り、医療危機に襲われている療養所は既に犠牲者が出ています。つまり誤診や医師の不足による手遅れなどの犠牲者であり、各施設ともこうした犠牲者がふえる傾向にあります。死亡率が高くなるのは年令による不可抗力と医師不足によるものとを、厳密に分けておく必要がありましょう。

 21支部長会議は、9日夜より始まり、10日よりは午前、午後、夜と強行され、心身共に疲れました。そして残ったものは重苦しい医療危機と、各施設の療友の訴える悲痛な叫びだけでした。どんな方法を考えても、今世紀の内に姿を消す療養所に就職を希望する医者はいないからです。唯一の可能性は、地理的に恵まれている多磨全生園はセンターとして整備することによって、ある程度医者を確保することはできましょう。日本だけでなく、世界の医療センターとしての位置付けが必要であり、それなくしては医者を集めることは出来ないでしょう。

 私は光田の隔離政策は今後も機会のある毎に批判し続けるでしょうが、彼の政治力は評価しなければなりません。そして今療養所に必要なのは、光田の様なカリスマ的指導者なのです。光田は、日本かららい者をなくすために隔離撲滅政策をとり、収容所の拡張発展に努めました。現在必要なのは犠牲者を出さないで、らい園の歴史を閉じるための医療政策を強力に遂行できるカリスマ的人物です。現在の所長連盟には医療危機を収拾するための能力を持った所長はいません。自己保身の所長か良心的な所長は全体を考える能力を持っていません。所長の中で将来的展望にたち、多磨を医療センターとして整備することに賛成の所長は一人もいません。客観的、地理的条件を無視して、自園をセンターにし、センター長になること以外に考えていないのです。