「小さき声」 目次


 小さき声 No.143 1974715日発行

松本馨 

ゆ る し

 そのとき、ペテロがイエスのもとに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」イエスは彼に言われた。「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」(マタイ18〜21,22)

 ゆるしについて、イエスとペテロの問答は興味深い。「七たびまでですか」のペテロは、人間に可能なゆるしの限界と判断したためであろう。それに対してイエスは「七たびを七十倍するまで」と言われた。七十倍とは無限にゆるすことを意味する。

 ゆるしの本質は、十字架における1回的出来事である。したがって、イエスの七十倍の背後には、十字架があると見てよいであろう。このことを抜きにしてゆるしは考えられない。

 人間は本来死すべきもの、亡びの対象である。それが、神の恵みにより、キリストの償いにより生かされているのである。十字架における罪のゆるしであり、それを1回的出来事というのである。この十字架を離れて、人をゆるすとき、それは、律法とならざるを得ない。律法は、自己を義とし、結果的にはゆるしの相手を裁くことになる。信仰のないもののゆるしはいつもこうした経過をたどり、ゆるすことによって、相手を罰し、負目を負わせるのである。そして、相手にものすごい負担を与え、死へと追いやるのである。

 十字架によるゆるしは、相手の罪を自己に負い、罪から解放する。それが、恵みなのである。

 最近私は、この問題で考えさせられた。2年位前になるだろうか、駿河療養所からSという患者が転園して来た。彼は、大罪を犯し、菊池恵楓園の敷地内にあるハ氏病刑務所に10数年服役し、出獄後は、駿河療養所に療養していたが、深夜、女子独身寮に忍び込み、騒がれて未遂に終った。その結果多磨に転園して来たのであるが、彼は偽名を使い、過去の秘密を隠して転園して来て、それが発覚し、強制的に駿河療養所に帰すことになった。当時私は、人事を担当していたので、彼に帰るように勧告した。その時彼は次のように言った。「全生園には刑務所を出た者は何人か居りますが、立派に更生しています。私にも更生の機会を与えて下さい。全生園を追われれば、永久にその機会がなくなってしまいます」

 私は彼に答えた。「あなたに更生の機会を与えたいと、私は強く望んでいますが、あなたが必ず更生するという保証はどこにもありません。それが出来るのはあなた自身です」私は彼に、このことを伝えながら冒頭のイエスとペテロの問答を想起していた。

 その後、彼は真面目に療養し、更生したかに見えたが、再び同じ罪を犯した。彼は近くに住む女流画家より絵を習っていた。画家は、らいの苦悩を絵に現わしたいと言う彼の言葉に感動し、熱心に教えていたが、彼はその画家に暴行しようとした。そして、告訴されたのである。

 自治会では、このことが問題となり、即時彼を追放せよ、駿河療養所に返せと云う強硬論が大勢をしめた。このため私は駿河まで行き、彼を引き取るよう交渉した。そして最終的には、引き取ることになったが、Sは、駿河療養所に帰るくらいなら、死んだ方がよい、と言って、全生園に置いてくれるように望んだ。しかし、私は自治会役員を説得することが出来なかった。即時追放せよ、と云うのである。私は彼に、進んで社会復帰するように説得した。そのことが彼のために良いと判断したからである。彼は追われるように全生園を去ったが、私はこの事件を通して終始、自分に問い続けたことは、ゆるしとはどういうことなのか、ということであった。

 私は、彼が虚偽の名を使って、転園して来たとき、それをゆるし、全生園にとどまることを認めた。しかし、再び彼が罪を犯したとき、彼のために力になることが出来ず、結果的には裁いてしまった。この場合、前にゆるしたことはどうなるのか、ということである。私自身の経験によれば、また聖書の教える処によれば、真にゆるしたのではなく、律法のゆるしであった。ゆるしは十字架による1回的出来事であり、ゆるした人間を裁くことはあり得ないことである。

 ただ、私にとって唯一の慰めは、結果的には彼を裁くことになったが、私自身は彼を裁く気持は全然ないことである。彼がその気になるならば、何回でも更生の機会を与えたい。そして彼のために十字架を負わねば、と考えていることである。それ故に私は、自治会長として彼を裁くことになったが、信仰的には、ゆるしの場に立たされていると言ってよい。こうした立場に立つとき、今後も同じような立場に立たされると思うが、十字架の故にすべてを神にゆだねるだけである。

 

或る友へ

 

 孤独について、私の考えを書いてみます。私は、孤独は人間の病気だと思っています。そして、人は皆この病気にかかっています。それを強く意識しているか、していないか、あるいは全然意識していないかで、この病気からのがれることは出来ないのです。

 病気である限り、治療いかんによっては治すことができましょう。反対に治療いかんによっては、死に至りましょう。孤独が具体的形をなすとき、それは死でありましょう。冷たく沈黙し、一切を拒否している死者にある不安と恐れを抱くのは、同じ死に至る病気にかかっているからです。

 孤独の原因は、罪にあります。もし罪がなかったならば、孤独は存在しなかったでしょう。そして、死もなかったでしょう。では、罪はいかにして人間の世界に入って来たのか。旧約の記者は、創世記3章のエデンの園の神話の中で、罪と人間の関係を見事に説明しています。

 そして罪は、人間の祖先であるアダムとエバが、食べると死ぬから食べてはいけない、と禁じていた園の中央にある禁断の木の実を蛇にそそのかされ、食べたことにありました。

 罪は神の戒めを破ったことにあります。その結果、アダムとエバはエデンの園から追放され、二人に飢餓と苦難と死がのぞみました。エデンの園の神話が教えているものは、神の戒めを破ったことにより、アダムとエバが、神のもとから追放されたことにあります。神と人との関係が、断絶したことにあります。罪は、こうして両者の関係を絶ち、その結果、飢餓と苦難と死が、人にのぞみました。そしてそれが孤独なのです。孤独は、罪の結果生れたものですが、それは神との断絶、神に捨てられたことを意味します。それは、父に捨てられた子の如く孤独なのです。アダムの裔である人間は生れながら、この病気にかかっているのです。それを癒す治療方法は、神のもとに帰るより外なく、神との関係を回復することが、孤独を癒す道なのです。

 このようなわけで、キリスト者は、この世の誰よりも深く孤独を知っています。また孤独の深淵を知っているといってよいでしょう。孤独を知らないキリスト者がいるとすれば、その人は神を知らず、信仰の分ってない人と云ってよいでしょう。それ故、神を知る者は、

より深く孤独を知るでしょう。より深く孤独を知っている者は、誰よりも深く神を知っているのです。

 旧約において、最も深く孤独を知っている者は、同時に神の審判を告げる預言者でした。エレミヤ、イザヤ、ホセヤはその代表的人物と云ってよいでしょう。「わが生まれし日亡び失せよ」と灰の中に坐し、慟哭するヨブもまた孤独の人でした。

 モリヤの山で、吾が子イサクをはん祭に捧げるためにほふろうとしたアブラハムもまた孤独の人でした。イサクの頭上に斧を振り上げたアブラハムは、その瞬間恐るべき孤独の深淵をかいま見たでありましょう。

 新約の使徒達もまた、孤独の深淵を知っていました。逆説ですが、イエスを売って自ら縊れ死んだユダは、この孤独の深淵に自らを投じた人でした。彼もまた、孤独の深淵を知った人と云えましょう。

 だが、孤独の深淵に自らを投じた人は、神の子イエスでありましょう。あの十字架の一点は、孤独の深淵の極でありましょう。人は極を覗くことが出来ても、身を投じることは出来ません。それは、恐るべき破滅だからです。神と人との完全なる断絶、破局を意味するからです。しかし、神と人間との関係を回復するためには、この破局的極点に誰かが立たなければならなかったのです。一人の人以外に立つことが出来ないのです。

 私達は、孤独を知ってはいても、その深淵を知ることは出来ません。それは孤独を知っていても、本当の意味で、孤独を理解できないからでしょう。孤独を知っていながら孤独が分らない、という矛盾の中に立たされいるのがキリスト者でしょう。

 唯、私達に理解出来ることは、神のひとり子イエス・キリストだけが孤独を知り、孤独の極点に立っていることです。そしてそれは、十字架の一点です。私達が、魂に十字架を刻印されるとき、誰よりも深く孤独の深淵を知るでしょう。また、神を知るでしょう。孤独は私達にとって、死を意味しますが、同時にそれはまた、神を知ることになりましょう。

 私は、自治会の会長という任につき、前にも増して孤独を感じるようになりました。自治会の仕事は、この世的なもの、会長はこの世的なものの上に立つ長なのです。神から最も遠い人、神なき場所といってよいでしょう。それ故に孤独なのです。そして、そこに十字架を見ます。神なき場所、神の最も遠い処に、主イエスとその十字架があるからです。もしも、この世界に十字架を見ることが出来なかったならば、私は世と妥協し、私の周囲には多くの人が集まって来るでしょう。しかし、私は十字架を離れてこの世界のどこにも、身を置く場所がありません。それ故に孤独なのです。でも、私は孤独を愛します、それは神に最も近く在ることを意味するからです。

 

 療養通信

 

 6月25日より29日まで、全国13園より各代表1名が上京し、75年の予算編成に向けて、厚生交渉を行いました。場所は厚生省第7会議室で、午前10時より午後4時まで、連日各課交渉を行いました。

 私は、体力的に無理なので、夏の行動に参加したことはありませんでしたが、会長をしていることと、6月行動のために参加しました。7月よりは涼しく、それほど苦痛にならないと判断したからです。

 交渉の中心は、医療と整備に集中し、特に所長連盟との懇談は、緊迫した場面を迎えました。

 所長連盟に対しては、26日の懇談の際、医師、看護婦の充員対策を明らかにするように前もって申し入れておきましたが、具体的内容は示されなかったのです。

 高島会長の答弁の要旨は、次のようなものです。

(1)   近接の国療、国病の医療提携を強める。

(2)   施設間の協力を求める。

(3)   医者については、政府が各県の大学に、医学部を設置し、医者の養成を計っているので、ハンセン氏病の将来は、医者に関しては明るい。

(4)   医療センターは、時期尚早である。

(1)、(2)については、過去何年か言われているのですが、その成果は上っていません。(3)の見通しの明るさは、根拠がなく、5年10年後はいざ知らず、絶望的です。(4)については、私の心証に触れ、思わず高島会長をきめつけることになりました。「所長連盟の方針は成行きにまかせることで、深刻な医療危機対策になっていない。センター設立によって、他の施設の医療が犠牲になるならば、センターに替る対策を明らかにすべきである。所長連盟は、医療センターを進める上で癌である。」

 私の発言は、所長連盟の会長である長島愛生園の高島園長を激怒させました。「所長連盟は医療センターに反対した覚えはない。そんなことを言われたのでは、所長連盟はやってゆけない」そして、いやみを含めて次のように言いました。「多磨のセンター化に反対はしない。指導的地位にある多磨は、どうぞおやりなさい」

 事務長の菊池恵楓園の志賀園長は、高島会長を助けるために、演説口調で説教を始め、支部代表から静止されるなど、会場は混乱におち入りました。

 私は、その混乱の中で、「多磨のセンター化に反対しない」と言った高島会長の言葉をかみしめていました。本心は多磨のセンター化を決意し、74年より着工しようとしています。それを阻止しようとしているのが所長連盟なのです。「多磨のセンター化に反対しない」は、多磨のセンター化を進める上で、是非とらねばならない言質だったのです。過去5年、センター化を進めてきた私は、高島会長の言葉に、さわやかなものを感じていました。それほどに所長連盟は、多磨のセンター化を進める上に、障害となっていたのです。

「矢嶋君」と高島会長の怒りは、多磨の私から多磨の園長に向けられました。私は急いでそれをさけるために、発言しました。

 「多磨の病棟予算配分についても、私は高島先生に申し上げたいことがありますが、所長連盟は、センターに反対しないこと、また、多磨のセンター化にも反対しないことが分りましたので、申し上げる必要がなくなりました。所長連盟が、センターに反対していると考えていたのは、私の誤解であり、謝るとともに、多磨のセンター化に反対しない、と言われた高島先生と所長連盟に感謝します」

 私が念を押したのは、多磨のセンター化に反対しているのは、所長連盟だけでなく、多磨のセンター化を決議した各施設の支部長だからです。深刻な医療危機を迎え、医師、看護婦を確保しておくために、多磨のセンター化は必要であるとことを、支部代表は認めています。それなればこそ、賛成し、決議したのですが、現実に多磨に病棟予算がつき、そのために自分の施設の整備予算が少ないと分ったとき、多磨のセンター化に反対せざるを得なかったのです。どこの施設の患者も、施設を第二の故郷と考え、そこに骨を埋めるつもりで療養しています。施設は自分の家なのです。自分の家よりも、他の家がお金を多く貰い、整備されるのを見ると、理由のいかんを問わず、反対しないわけにゆかないのでしょう。そしてそれが、多磨への非難攻撃と、本省への陳情合戦となったのが、多磨の病棟予算がついたときの動向でした。

 こうした患者の気持は、その一生を患者に尽した所長も同じなのでしょう。それが所長連盟のセンター反対の理由なのです。けれども、そうした感情に溺れている時ではないのです。医師の老令化は、患者よりも高く、今年になって医療危機を迎えている施設が、急にふえてきました。患者の老令化も進み、年々死亡率が高くなり、患者数が急激に減っています。しかし、それ以上に医者の数が減っています。3、4年後には医療機関としての機能が止まる施設が出始めましょう。現在すでに、2、3の施設は、機能が麻痺しつつあります。

 多磨のセンター化は、こうした歴史的現実を踏まえて、設立されなければなりませんが、私の考えでは、多磨の医療センターとしてではなく、らいセンターとして、多磨研の協力のもとに設立されるでしょう。そして、日本のらい者の最後をみることになるでしょう。医務局長、療養所課長も、そのような考えのもとに立って計画を進めているように思われます。

 私は、高島会長の言質をとったことにより、私の使命は半ば達せられたように思われます。自治活動の目的が、多磨のセンター化にあったからです。しかし現実には、形の成るまで身を退くことは出来ないでしょう。

 本誌の発行が遅れがちですが、これは自治会の仕事が増えたことと、永年献身的に代筆の奉仕をして下さったUさんが、手首の骨折で代筆不可能になったためです。臨時にHさんに代筆して頂いています。何分にも不慣れのためと多忙な体のため、無理がきかないからです。暫くご了承下さい。秋迄にUさんの手首の回復が困難でしたら、本誌発行継続について決断を迫られることになるでしょう。覚えて祈って下さい。