「小さき声」 目次


 小さき声 No.200 197944日発行

松本馨 

 200号を記念して

本誌も今月で200号を迎えることとになった。本誌を発行したのは19629月で16年と8ヶ月になる。当時私は2年か3年続けばよいと願った。信仰による協力者がいたわけではなくただ神のみ手に委ねて始めたものであるが発行するに当ってはそれなりの理由があった。私が回心したのは1950年で29年になるがパンフレット発行の年を境に私の信仰生活を前期と後期に明確に分けることが出来る。 

前期の私は、厳しい自己()との連続的なたたかいであった。罪とのたたかいとは信仰による義が神の恵みであることが解らなかったことにある。 

「……人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によるのである。」(ロマ書28) 

を全身で受けとることが出来なかったのである。信仰そのものが律法となって私を苦しめたのであった。義とされることが信仰の条件になってしまうのであるが最後に受けとらされたことは十字架の義が恵みであること信仰も亦恵みであることを示されたことであった。その時私は完全に自己から解放された。自己からの解放とは自己に死ぬことでありキリストが代って私のうちに生きたことである。この時私は完全に自由な人となった。自由人になったとは神のあらたな戒めのもとに立つことであった。それがパンフレット伝道であるが今まで続くとは夢にも考えなかった。総べては神の意志である。然もそれだけではなくパンフレットを発行して7年目に自分でも予期しなかった自治会に関わることになった。 

パンフレット発行と自治会業務と、人間的に考えれば私には到底不可能な事に思われるが今日まで続いたのは徹底的に自己に死にキリストの生命にのまれたことにある。「……わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはやわたしではない。キリストが.わたしのうちに生きておられるのである。……」(ガラテヤ人への手紙、219、20) 

自由とはまさにイエスと共に十字架に死に、イエスと共に生きることである。 

私の自治活動に対して信仰とは相入れないと批判する人もいるが自由に制約があるとすればそれは信仰ではなく律法に縛られているためである。信仰による自由とはこの世の如何なる仕事に関わっても亦関わらなくてもよい。それは信仰によって決断することである。何故ならイエス御自身が十字架の死によって神なきところ世俗のただ中に立って居給うからである。

十字架の死は神の子がこの世と関わった場所でありこの世の罪を負われているところである。それ故にイエスの死と生を身に受けている者はこの世の如何なる仕事に携わっていても聖であり義であり自由である。ルターが言われるように万人の 祭司であると共に万人に仕える僕である。

パンフレットの発行は神に仕えることであり自治活動は万人の僕となって仕えることである。そのことがイエスの死と生を生きることになる。それ故にこのふたつのものに仕えることは私にとって苦痛でもなければ矛盾でもない。

キリストのなかに生きると言うことはかくも自由であり総べてが可能なのである。回心は霊によるイエスとの出合いと言う出来事であるがパンフレットはその出来事を言葉によって現わす武器である。自治活動はその言葉を行為によって表現したものである。年をとるに従って私の身体にはさまざまの障害が現われ不自由度も増して行くがこれとは逆に霊なる私は益々自由である。

 無教会

 「聖書の研究」誌に無教会に関する文章は極めて少い。それも感想的なもので体系だった無教会論はない。創刊号にも無教会の文字を見ることは出来ない。 

内村は無教会の創始者であるが独立伝道を始めるに当って無教会を宣言しなかった。内村にとって無教会とは何であったのだろうか?

内村の信仰はロマ書3章21節以下の十字架による罪の赦しの義認の信仰でありその十字架への集中が無教会と言う形をとったものであろう。内村の信仰はパウロと切りはなして考えることは出来ない。内村の回心と召命はパウロによく似ている。パウロはユダヤ教の熱心な律法主義者であった。彼はキリスト教徒をユダヤ教に敵対するものとして迫害した。そしてダマスコ途上でイエスとの出合いによって180度の転換をしたのである。然しパウロに同行した者には何事も起らなかった。

回心は霊的出来事だからである。パウロは律法から信仰へ迫害する者からされる者へと転換した。かくて異邦人伝道に一生を捧げたのであった。パウロはその使徒職を中央から授かったのではない。

「人にからでもなく人によってでもなくイエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」(ガラテヤ人への手紙1・1)

パウロにとって回心と召命はひとつであった。

 内村は不敬事件で日本を追われアメリカで回心した。アメリカは内村のダマスコ途上であった。日本に帰って来ると教会の外で独立伝道を開始するのであるが、内村も亦教会から牧師職を任命されたわけでもなく回心と召命はひとつであった。内村は日本における異邦人に向って伝道を開始するのであるが。その時内村は無教会であった。内村には多くの弟子かいた。その弟子たちは内村から信仰と無教会を継承した。かくて無教会の福音は師から弟子へと伝達されて行った。それは主従関係のようなものであった。師に仕え、時が来ると独立して行くのであった。然し内村の弟子たちは、10人が10人同一の無教会に立ったわけではなかった。重要なことは内村が無教会であったと同じように弟子も亦一人一人が無教会であった。それにも拘わらず2代目が一致出来たのは2代目の師が内村一人だったからである。

 3代目になって無教会の不一致が見られるようになったのは塚本矢内原黒崎藤井と師が複数になったためであろう。4代目になると師は更にふえそれだけに亦無教会は細分化されて一致をのぞむことは益々困難になって来た。代を重ねるに従って細分化は更に進み各自が師となり弟子となってやがては継承者もなくなってしまうであろう。

無教会が21世紀以後も歴史的使命を果たして行くためには何等かの改革がなされて行かなければならないだろう。それは無教会のロゴス化ではないだろうか。

愛による絶対隔離

 3章 病舎(1)

全生病院は職員の官舎地区と患者居住区からなっている。患者居住区の周囲は空堀と塀の代りに築いた高い土堤その上にからたちの生垣 がめぐらしてあった。

官舎地区から患者居住区に入る道路は二本あった。一本は車道で患者の通行を禁じ普段は門が閉められてあった。もう一本は事務所(管理棟)の裏廊下から職員や面会人が入る通路で昇汞水の水槽によって遮断されていた。職員や参観人は患者地区には長靴又は高歯をはいて入った。そして職員地区に戻る時は水槽に入って渡った。

職員は昇降棟で昇汞水の風呂に入りそれから普通の入浴をした。収容所内は空気も大地も汚染していると恐れたのである。だから所内では「目」以外は防毒着で全身を包み野の花一本でも手で触れようとはしなかった。

患者居住区の分布は次のようになっていた。職員地区に寄った所が治療棟病棟その前に炊事と汽缶場があった。病棟地区の東に当る所に患者の居住家屋が南と北に分けて建てられてあった。南は女子寮で東は男子寮である。女子寮地区には男患者の出入りを禁じ板塀で囲ってあった。この女子寮と男子寮の中間に共同浴場と礼拝堂があった。礼拝堂には各宗派の祭壇が祀ってあった。この礼拝堂は公民館のような性格をもち諸々の会場に使用された。

礼拝堂と向い合うようにして見張所があった。見張員は24時間の勤務体制で患者にとってはこの世の如何なるものよりも恐ろしい所であった。開所以来逃亡その他の理由で監房にぶちこまれた患者数は数え切れない程である。また見張員に抵抗した患者は厳しい体罰を受けた。百叩きとか二百叩きと言う拷問のほかに監房に監禁され減食の刑罰が加えられたのである。

梶原詩郎は一年と五ケ月の病棟生活をして寮に移った。詩郎の入った寮は一室12畳半で8人から10人が同居していた。一棟は4室で2室は南向き2室は東向きの鍵形の舎であった。開所当時の舎は総べて鍵形に統一され鍵の所が玄関でその奥に共同のお勝手と洗面所トイレがあった。のちにこの鍵形は12畳4室を併列した長屋に改造された。

詩郎は舎にさがったとは言え両足を足首から切断していたために歩くことが出来ず同室の者に車椅子で引かれて治療棟へ通った。詩郎は、長い病棟生活の間に姿は全く変ってしまった。頭髪は脱落し額には老人のように深い皺が見られた。一度は脱毛した眉が奇蹟的に生えた。顔や首に出来た結節は吸収されたがそのところは結節の痕跡のように皮膚がたるんでいた。詩郎の病型は結節らいであったが明らかに神経らいに変質していたのである。らいの病巣は、2本の足を切断した時切りとられてしまったためであろうか。

らいの治療薬は大風子油と言う熱帯植物の木からとった油である。この油を5gから10腕や大腿部臀部に一日おきに打つのである。大風子油は黄色であったが冬になると白く凍った。注射の時はこの氷をとかして使った。大風子油はらい菌を包み活動を一時的に抑えるのであるがその期間は長くはなかった。耐性菌が出来てしまうのである。

らいの病型には湿性(L)と乾性(T型)があった。湿性は結節と言う腫瘍が全身に出来てそれが化膿し潰れて行くのである。神経らいは顔や手足の一部が変形して固定する。それは小児麻痺に似た症状を現わしたが、神経らいに罹った者は治療を必要としなかったのである。

長期療養者の中には半世紀以上も療養をしている者もいるがこの人達は化学治療薬のなかった時代を生きぬいて来た神経らいの患者であり大風子油の治療も殆んどしていない。なかには、60年の療養中大風子油を3本打っただけの者もいる。神経らいは菌陰性の自然治癒の人達なのである。

アメリカでは神経らいの患者は治癒したものとして社会復帰させたが日本ではらいに感染したものは不治の病気として終身隔離撲滅政策をとった。

1951光田は国会でスルホン剤の化学治療薬は潰瘍を癒すことは出来るが骨の深部にくいこんだ病菌は殺すことが出来ない。それ故に患者の社会復帰を認めてはならないと終身隔離撲滅を強調した。光田が国会で証言してから28年が経過し約3千5百人か社会復帰しており沖縄県をのぞく本土における一年間の新発生患者は、20人を割って零になろうとしている。入所患者は全国で約8千人いるがその80%は菌陰性者で社会復帰を出来る者達であるが後遺症や高齢者のために療養所生活を余儀なくされている。平均年令は60才に達し今世紀のうちに13施設の大部分は姿を消そうとしている。然し現在もなお光田学説を支持する一部の医学者は化学治療薬は潰瘍を癒すことは出来るが骨の中の菌を殺すことは出来ないらいは絶対に癒らないと固く信じているのである。日本から一人の患者もいなくなるまでは自己の学説をまげることはないであろう。

詩郎の部屋は親方を含めて6人であった。他の部屋は7人から8人であった。定員は8人で時には23人オーバーをして入れることもあった。親方は付添夫で住込みで面倒をみていたのである。

浮浪者時代の習慣であろう付添に限らず作業主任或いは集団の上に立つ者はみな親方と呼んだ。詩郎が入所した時の収容人員は3百人をこえていた。その全員が浮浪者でなかには自宅患者もいたがそれは自宅収容者と言う意味ではない。収容所は浮浪者を隔離収容する目的で建てられたもので自宅患者は有料以外は入所出来なかった。これがために自宅療養患者のなかには路傍で行き倒れのように見せかけて収容される者もあった。浮浪者のみの収容所であったために団結心が強く自分より弱い者に対しては親切であった。浮浪生活のなかで身につけたものであろう。然し回春病室を始め浮浪者を扱っているものに正しく書かれているものは殆んどない。盗みかっ払い恐喝空巣姦淫賭博モルヒネなどの常習犯のように思われていたようだが実際に悪の道に走ったのは少数であった。多くの者は自宅からの送金又は門付などをして飢をしのいでいたのである。詩郎の部屋の親方「古賀」は10数人の浮浪者の親方であった。浮浪者は小集団をなし当もない旅を続けたのである。集団を形成したのは浮浪者の知恵であると同時に生きて行くための自衛手段であった。人間は単独では生きて行けない。如何なる者であっても集団を形成して行く。とくに被抑圧者の場合、協同の連帯感は強いものである。浮浪者は10人内外の集団を形成しそれ以上大きな集団にはならなかった。大集団では移動 が困難だからである。草津の湯の沢部落や熊本県の本命寺周辺に形成されたらい部落は浮浪集団とは性格を異にしている。湯の沢部落では、らいに効くと言う温泉があり患者目当の旅館 があった。熊本の場合本土よりもらいの稠密地帯であったことと本命寺があったことなど部落を形成する条件 があった。

詩郎の病気は結節らいから神経らいへと変質し2本の足を切断したが菌陰性となり治療を必要としなかった。変質は病形だけにとどまらず信仰的に詩郎はあらたに生れ変っていた。そして祈りと聖書の生活をしていたのであった。詩郎は聖書をききたがっている盲人を訪問し聖書を読んで上げたいと願い歩ける方法はないかと考えていた。そして詩郎が思いついたことは籠を編んだり桶を作っている作業場から孟宗竹を貰ってそれを足の代りにはけないかと言うことであった。

車椅子で古賀親方に押して貰い詩郎は籠屋の作業場を尋ねた。そして事情を話し仕事場に転がっている孟宗竹の最も太い部分を分けて貰った。籠屋の親方は呆れ乍らも親切に譲ってくれたのである。詩郎は孟宗竹のひと節を残して花瓶のようなものを作った。そして足をさしこむ部分の竹の肉を削りとり滑らかにした。足にきずを作らないようにするためであった。然し孟宗竹の義足は失敗に終った。足にきずを作らないためにガーゼを厚く当てて包帯を巻き竹筒の義足をはこうとしたが孟宗竹が細く円筒のために包帯を巻いたこともあって切断した足首の5p位しか入らず立って歩くことが出来なかったのである。

詩郎は孟宗竹を四つに割りそれを足に当てて上から包帯で巻いた。今度は前とは違って深くはくことが出来立つことも出来たが歩くまでには行かなかった。包帯で巻いた程度では詩郎の重心を支えることは出来なかったからである。然し詩郎は諦めず包帯の代りに針金で括ることや竹の代りになるものはないかと考えたりさまざまな工夫をしてみたが総べて無駄であった。そうした時籠屋の親方が尋ねて来た。親方は詩郎の前に2本の細長い桶を置いた。桶は真新しい青竹のたがでがっしりと出来ており金槌で叩いても割れそうにもなかった。親方は詩郎に「はいて見ろ」と言った。詩郎は始めてそれか義足であることを理解したのである。その義足は膝下から足首までのもので詩郎の足の形に作られてあった。詩郎はその義足をはいて見た。足に似せて上は太く下は細くなっているために両足は義足に一部の隙もなくおさまりそれだけで歩けるような気がした。詩郎は大事をとり障子に手をかけ、静かに立ってみた。そして次に障子から手を離し23歩あるいた。「歩けた!」と自分でも予期しない程大きな声を出した。「親方歩けた! 歩けた」。詩郎の心臓は激しく躍り大粒の涙がぽろぽろと畳におちた。親方はその詩郎を満足気に見ていた。「これなら大丈夫だろう具合が悪かったら持って来な直してやるから……」。そう言って親方は出て行った。

たがをした義足は見ばえのしないものであったが頑丈で桶を担ぐことも出来た。足を切断した者にとって籠屋の親方の義足は革命的な出来事であった。歩くことが出来ないと諦めていた患者に希望を与えたのである。その後足を切断した 者たちによって義足の研究会が作られ桶の義足は改造されてブリキの義足が作られるようになった。ブリキの義足は患者作業の金工部で作られたが足の型をした木が嵌めこまれて靴下や足袋をはかせることが出来るようになった。また厚紙で義足の型を作りそれを何枚も糊ではりつけてかためブリキと同じように使える義足が出来たそれは見事な作品で何処に出しても鑑賞にたえるものであった。政府が予算を計上したのは戦後の1950年代でこの時始めて市販の義足や盲人の杖が入って来たのであった。


(著者による誤植の訂正)
愛による絶対隔離  2月号4(中程)の久米川駅は東村山駅の誤りです。3月号2頁(左側上部4行目)の「では如何ににして現代人は十字架が解らない」は誤植ですからカットします。次いで同頁(右側下部5行目)の「動物」は動的の誤植です。このほかにも誤植がありますが判読出来るものにつきましては訂正しませんので御了承下さい。 


療養通信

3月より79年度の新自治会が発足しました。2月の選挙では独身軽症寮の中央委員選出が難航し結局欠員のままで発足することになりました。中央委員会は代議員制をとり各地区から2名をその地区の委員会が選出することになっています。

 独身軽症寮が選出出来なかった原因のひとつは、独身寮の整備に比較して軽症夫婦寮の整備内容があまりにもよすぎると言うのです。自治会は居室整備に当って施設側と協議し一人の坪数を6坪としました。不自由寮の場合は介助をして貰うために廊下がつきますがその分も6の中に入っています。独身軽症寮の場合は介助を必要としませんので廊下は必要でなくその分は自室の中に入っています。 

夫婦の場合は12坪になりますがトイレ洗面所も1ケ所でよくそれだけ自室の利用度が高くなります。つまり不自由寮は廊下がとられるだけ狭く独身寮は廊下が必要ではありませんので、それだけ広く軽症夫婦寮は独身寮よりもトイレ洗面所が1ケ所ですむためにそれだけ広くなっています。然しこうした考えは軽症夫婦寮にとって有利であり軽症独身寮の人達の不満が分らないわけでもありませんが自分の所よりもよく出来たことに対して何故喜んで上げられないのかあまりにも閉鎖的なのに淋しい思いかしました。 

軽症独身寮を建てた時はみんな喜んだのにあとから出来た軽症夫婦寮が格段とよいことで自分の寮か悪く見え自治会に不満を抱いたのです。然し軽症独身寮の名誉のために大多数の人達は軽症夫婦寮の新築を祝福していることと信じます。軽症独身寮から羨望の的で見られている軽症夫婦寮の人達はみな喜んでいるかと思うとそうではなく私の所へ「雨戸も濡縁もつけず内部構造もなってはおらん……他園の夫婦寮の方が立派だ」と、語気鋭く非難し抗議する者が何人かいました。 

不満の原因は、寮がよいか悪いかではなく心のもち方なのです。自身が国立療養所の施設に入っている患者であると言う自覚があればどの程度の整備が出来るかその限界が理解出来るし従って整備に対する希望にもおのずから規制をするものです。自身の立場を忘れてしまうと無制限に要求しその限界がありませんのでどんなによい寮を作ってもその人にとっては不満なのです。こういう不満型は彼の言いなりに作ってもやはり不満は残ります。不満の根本原因は外なる寮にあるのではなく自己自身にあるからで、自己自身にあることを理解するためには信仰が必要です。