松本馨
本誌も今月で200号を迎えることとになった。本誌を発行したのは1962年9月で16年と8ヶ月になる。当時、私は2年か3年続けばよいと願った。信仰による協力者がいたわけではなく、ただ神のみ手に委ねて始めたものであるが、発行するに当ってはそれなりの理由があった。私が回心したのは1950年で29年になるが、パンフレット発行の年を境に、私の信仰生活を前期と後期に明確に分けることが出来る。
前期の私は、厳しい自己(罪)との連続的なたたかいであった。罪とのたたかいとは、信仰による義が神の恵みであることが解らなかったことにある。
「……人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ロマ書3・28)
を全身で受けとることが出来なかったのである。信仰そのものが律法となって私を苦しめたのであった。義とされることが信仰の条件になってしまうのであるが、最後に受けとらされたことは、十字架の義が恵みであること、信仰も亦恵みであることを示されたことであった。その時、私は完全に自己から解放された。自己からの解放とは、自己に死ぬことであり、キリストが、代って私のうちに生きたことである。この時、私は完全に自由な人となった。自由人になったとは、神のあらたな戒めのもとに立つことであった。それがパンフレット伝道であるが、今まで続くとは夢にも考えなかった。総べては神の意志である。然も、それだけではなく、パンフレットを発行して7年目に、自分でも予期しなかった自治会に関わることになった。
パンフレット発行と自治会業務と、人間的に考えれば、私には到底不可能な事に思われるが、今日まで続いたのは徹底的に自己に死に、キリストの生命にのまれたことにある。「……わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが.わたしのうちに生きておられるのである。……」(ガラテヤ人への手紙、2・19、20)
自由とは、まさに、イエスと共に十字架に死に、イエスと共に生きることである。
私の自治活動に対して、信仰とは相入れないと批判する人もいるが、自由に制約があるとすれば、それは信仰ではなく、律法に縛られているためである。信仰による自由とは、この世の如何なる仕事に関わっても、亦関わらなくてもよい。それは信仰によって決断することである。何故なら、イエス御自身が十字架の死によって、神なきところ世俗のただ中に立って居給うからである。
十字架の死は、神の子がこの世と関わった場所であり、この世の罪を負われているところである。それ故に、イエスの死と生を身に受けている者はこの世の如何なる仕事に携わっていても、聖であり、義であり、自由である。ルターが言われるように、万人の 祭司であると共に、万人に仕える僕である。
パンフレットの発行は神に仕えることであり、自治活動は万人の僕となって仕えることである。そのことが、イエスの死と生を生きることになる。それ故に、このふたつのものに仕えることは、私にとって、苦痛でもなければ矛盾でもない。
キリストのなかに生きると言うことは、かくも自由であり、総べてが可能なのである。回心は霊によるイエスとの出合いと言う出来事であるが、パンフレットはその出来事を言葉によって現わす武器である。自治活動はその言葉を行為によって表現したものである。年をとるに従って、私の身体にはさまざまの障害が現われ、不自由度も増して行くが、これとは逆に、霊なる私は益々自由である。
「聖書の研究」誌に、無教会に関する文章は極めて少い。それも感想的なもので体系だった無教会論はない。創刊号にも無教会の文字を見ることは出来ない。
内村は無教会の創始者であるが、独立伝道を始めるに当って無教会を宣言しなかった。内村にとって、無教会とは何であったのだろうか?
内村の信仰は、ロマ書3章21節以下の、十字架による罪の赦しの義認の信仰であり、その十字架への集中が無教会と言う形をとったものであろう。内村の信仰はパウロと切りはなして考えることは出来ない。内村の回心と召命はパウロによく似ている。パウロは、ユダヤ教の熱心な律法主義者であった。彼は、キリスト教徒をユダヤ教に敵対するものとして迫害した。そして、ダマスコ途上で、イエスとの出合いによって180度の転換をしたのである。然し、パウロに同行した者には何事も起らなかった。
回心は霊的出来事だからである。パウロは、律法から信仰へ、迫害する者からされる者へと転換した。かくて、異邦人伝道に一生を捧げたのであった。パウロは、その使徒職を中央から授かったのではない。
「人にからでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」(ガラテヤ人への手紙1・1)。
パウロにとって、回心と召命はひとつであった。
内村は不敬事件で日本を追われ、アメリカで回心した。アメリカは、内村のダマスコ途上であった。日本に帰って来ると、教会の外で独立伝道を開始するのであるが、内村も亦、教会から牧師職を任命されたわけでもなく、回心と召命はひとつであった。内村は、日本における異邦人に向って伝道を開始するのであるが。その時、内村は無教会であった。内村には多くの弟子かいた。その弟子たちは、内村から信仰と無教会を継承した。かくて、無教会の福音は師から弟子へと伝達されて行った。それは、主従関係のようなものであった。師に仕え、時が来ると独立して行くのであった。然し、内村の弟子たちは、10人が10人同一の無教会に立ったわけではなかった。重要なことは、内村が無教会であったと同じように、弟子も亦、一人一人が無教会であった。それにも拘わらず2代目が一致出来たのは、2代目の師が内村一人だったからである。
3代目になって無教会の不一致が見られるようになったのは、塚本、矢内原、黒崎、藤井と、師が複数になったためであろう。4代目になると、師は更にふえ、それだけに亦、無教会は細分化されて一致をのぞむことは益々困難になって来た。代を重ねるに従って、細分化は更に進み、各自が師となり、弟子となって、やがては継承者もなくなってしまうであろう。
無教会が21世紀以後も歴史的使命を果たして行くためには、何等かの改革がなされて行かなければならないだろう。それは、無教会のロゴス化ではないだろうか。
全生病院は職員の官舎地区と、患者居住区からなっている。患者居住区の周囲は、空堀と、塀の代りに築いた高い土堤、その上にからたちの生垣 がめぐらしてあった。
官舎地区から患者居住区に入る道路は二本あった。一本は車道で患者の通行を禁じ、普段は門が閉められてあった。もう一本は事務所(管理棟)の裏廊下から職員や面会人が入る通路で、昇汞水の水槽によって遮断されていた。職員や参観人は患者地区には、長靴又は高歯をはいて入った。そして、職員地区に戻る時は水槽に入って渡った。
職員は昇降棟で昇汞水の風呂に入り、それから普通の入浴をした。収容所内は、空気も大地も汚染していると恐れたのである。だから所内では「目」以外は防毒着で全身を包み、野の花一本でも手で触れようとはしなかった。
患者居住区の分布は次のようになっていた。職員地区に寄った所が治療棟、病棟、その前に炊事と汽缶場があった。病棟地区の東に当る所に患者の居住家屋が、南と北に分けて建てられてあった。南は女子寮で、東は男子寮である。女子寮地区には男患者の出入りを禁じ板塀で囲ってあった。この女子寮と男子寮の中間に共同浴場と礼拝堂があった。礼拝堂には各宗派の祭壇が祀ってあった。この礼拝堂は公民館のような性格をもち、諸々の会場に使用された。
礼拝堂と向い合うようにして見張所があった。見張員は24時間の勤務体制で、患者にとっては、この世の如何なるものよりも恐ろしい所であった。開所以来、逃亡、その他の理由で、監房にぶちこまれた患者数は数え切れない程である。また、見張員に抵抗した患者は厳しい体罰を受けた。百叩きとか、二百叩きと言う拷問のほかに監房に監禁され、減食の刑罰が加えられたのである。
梶原詩郎は、一年と五ケ月の病棟生活をして寮に移った。詩郎の入った寮は、一室12畳半で、8人から10人が同居していた。一棟は4室で、2室は南向き、2室は東向きの鍵形の舎であった。開所当時の舎は総べて鍵形に統一され、鍵の所が玄関で、その奥に共同のお勝手と洗面所、トイレがあった。のちに、この鍵形は12畳4室を併列した長屋に改造された。
詩郎は舎にさがったとは言え、両足を足首から切断していたために歩くことが出来ず、同室の者に車椅子で引かれて治療棟へ通った。詩郎は、長い病棟生活の間に姿は全く変ってしまった。頭髪は脱落し、額には老人のように深い皺が見られた。一度は脱毛した眉が奇蹟的に生えた。顔や首に出来た結節は吸収されたが、そのところは、結節の痕跡のように皮膚がたるんでいた。詩郎の病型は結節らいであったが、明らかに神経らいに変質していたのである。らいの病巣は、2本の足を切断した時切りとられてしまったためであろうか。
らいの治療薬は、大風子油と言う熱帯植物の木からとった油である。この油を5gから10g、腕や大腿部、臀部に一日おきに打つのである。大風子油は黄色であったが、冬になると白く凍った。注射の時はこの氷をとかして使った。大風子油はらい菌を包み、活動を一時的に抑えるのであるが、その期間は長くはなかった。耐性菌が出来てしまうのである。
らいの病型には、湿性(L型)と乾性(T型)があった。湿性は、結節と言う腫瘍が全身に出来て、それが化膿し潰れて行くのである。神経らいは、顔や手足の一部が変形して固定する。それは、小児麻痺に似た症状を現わしたが、神経らいに罹った者は治療を必要としなかったのである。
長期療養者の中には、半世紀以上も療養をしている者もいるが、この人達は化学治療薬のなかった時代を生きぬいて来た神経らいの患者であり、大風子油の治療も殆んどしていない。なかには、60年の療養中大風子油を3本打っただけの者もいる。神経らいは菌陰性の自然治癒の人達なのである。
アメリカでは、神経らいの患者は治癒したものとして社会復帰させたが、日本では、らいに感染したものは不治の病気として、終身隔離撲滅政策をとった。
1951年、光田は国会で、スルホン剤の化学治療薬は、潰瘍を癒すことは出来るが、骨の深部にくいこんだ病菌は殺すことが出来ない。それ故に、患者の社会復帰を認めてはならないと、終身隔離撲滅を強調した。光田が国会で証言してから28年が経過し、約3千5百人か社会復帰しており、沖縄県をのぞく本土における一年間の新発生患者は、20人を割って零になろうとしている。入所患者は、全国で約8千人いるが、その80%は菌陰性者で、社会復帰を出来る者達であるが、後遺症や高齢者のために療養所生活を余儀なくされている。平均年令は60才に達し、今世紀のうちに、13施設の大部分は姿を消そうとしている。然し、現在もなお、光田学説を支持する一部の医学者は、化学治療薬は潰瘍を癒すことは出来るが、骨の中の菌を殺すことは出来ない、らいは絶対に癒らないと固く信じているのである。日本から一人の患者もいなくなるまでは、自己の学説をまげることはないであろう。
詩郎の部屋は親方を含めて6人であった。他の部屋は7人から8人であった。定員は8人で、時には2、3人オーバーをして入れることもあった。親方は付添夫で住込みで面倒をみていたのである。
浮浪者時代の習慣であろう、付添に限らず、作業主任、或いは、集団の上に立つ者は、みな親方と呼んだ。詩郎が入所した時の収容人員は3百人をこえていた。その全員が浮浪者で、なかには自宅患者もいたが、それは自宅収容者と言う意味ではない。収容所は、浮浪者を隔離収容する目的で建てられたもので、自宅患者は有料以外は入所出来なかった。これがために自宅療養患者のなかには、路傍で行き倒れのように見せかけて収容される者もあった。浮浪者のみの収容所であったために団結心が強く、自分より弱い者に対しては親切であった。浮浪生活のなかで身につけたものであろう。然し、回春病室を始め、浮浪者を扱っているものに正しく書かれているものは殆んどない。盗み、かっ払い、恐喝、空巣、姦淫、賭博、モルヒネなどの常習犯のように思われていたようだが、実際に悪の道に走ったのは、少数であった。多くの者は、自宅からの送金、又は、門付などをして、飢をしのいでいたのである。詩郎の部屋の親方「古賀」は、10数人の浮浪者の親方であった。浮浪者は小集団をなし、当もない旅を続けたのである。集団を形成したのは、浮浪者の知恵であると同時に、生きて行くための自衛手段であった。人間は単独では生きて行けない。如何なる者であっても集団を形成して行く。とくに、被抑圧者の場合、協同の連帯感は強いものである。浮浪者は10人内外の集団を形成し、それ以上大きな集団にはならなかった。大集団では移動 が困難だからである。草津の湯の沢部落や、熊本県の本命寺周辺に形成されたらい部落は、浮浪集団とは性格を異にしている。湯の沢部落では、らいに効くと言う温泉があり、患者目当の旅館 があった。熊本の場合、本土よりもらいの稠密地帯であったことと、本命寺があったことなど、部落を形成する条件 があった。
詩郎の病気は、結節らいから神経らいへと変質し、2本の足を切断したが、菌陰性となり治療を必要としなかった。変質は病形だけにとどまらず信仰的に詩郎は、あらたに生れ変っていた。そして祈りと聖書の生活をしていたのであった。詩郎は、聖書をききたがっている盲人を訪問し、聖書を読んで上げたいと願い、歩ける方法はないかと考えていた。そして、詩郎が思いついたことは、籠を編んだり、桶を作っている作業場から孟宗竹を貰って、それを足の代りにはけないか、と言うことであった。
車椅子で、古賀親方に押して貰い、詩郎は籠屋の作業場を尋ねた。そして事情を話し、仕事場に転がっている孟宗竹の最も太い部分を分けて貰った。籠屋の親方は呆れ乍らも親切に譲ってくれたのである。詩郎は、孟宗竹のひと節を残して花瓶のようなものを作った。そして足をさしこむ部分の竹の肉を削りとり滑らかにした。足にきずを作らないようにするためであった。然し、孟宗竹の義足は失敗に終った。足にきずを作らないためにガーゼを厚く当てて包帯を巻き、竹筒の義足をはこうとしたが、孟宗竹が細く円筒のために、包帯を巻いたこともあって、切断した足首の5p位しか入らず、立って歩くことが出来なかったのである。
詩郎は、孟宗竹を四つに割りそれを足に当てて上から包帯で巻いた。今度は、前とは違って深くはくことが出来、立つことも出来たが歩くまでには行かなかった。包帯で巻いた程度では、詩郎の重心を支えることは出来なかったからである。然し、詩郎は諦めず、包帯の代りに針金で括ることや、竹の代りになるものはないかと考えたり、さまざまな工夫をしてみたが、総べて無駄であった。そうした時、籠屋の親方が尋ねて来た。親方は、詩郎の前に2本の細長い桶を置いた。桶は真新しい青竹のたがでがっしりと出来ており、金槌で叩いても割れそうにもなかった。親方は詩郎に「はいて見ろ」と言った。詩郎は始めて、それか義足であることを理解したのである。その義足は膝下から足首までのもので、詩郎の足の形に作られてあった。詩郎はその義足をはいて見た。足に似せて上は太く下は細くなっているために、両足は義足に一部の隙もなくおさまり、それだけで歩けるような気がした。詩郎は大事をとり障子に手をかけ、静かに立ってみた。そして次に、障子から手を離し2、3歩あるいた。「歩けた!」と、自分でも予期しない程大きな声を出した。「親方、歩けた! 歩けた」。詩郎の心臓は激しく躍り、大粒の涙がぽろぽろと畳におちた。親方は、その詩郎を満足気に見ていた。「これなら大丈夫だろう、具合が悪かったら持って来な、直してやるから……」。そう言って親方は出て行った。
たがをした義足は見ばえのしないものであったが、頑丈で桶を担ぐことも出来た。足を切断した者にとって籠屋の親方の義足は、革命的な出来事であった。歩くことが出来ないと諦めていた患者に希望を与えたのである。その後、足を切断した 者たちによって義足の研究会が作られ、桶の義足は改造されて、ブリキの義足が作られるようになった。ブリキの義足は患者作業の金工部で作られたが、足の型をした木が嵌めこまれて、靴下や足袋をはかせることが出来るようになった。また、厚紙で義足の型を作りそれを何枚も糊ではりつけてかため、ブリキと同じように使える義足が出来た、それは見事な作品で、何処に出しても鑑賞にたえるものであった。政府が予算を計上したのは戦後の1950年代で、この時始めて市販の義足や、盲人の杖が入って来たのであった。
(著者による誤植の訂正)
愛による絶対隔離 2月号4頁(中程)の久米川駅は東村山駅の誤りです。3月号2頁(左側上部4行目)の「では、如何ににして現代人は十字架が解らない」は誤植ですから、カットします。次いで、同頁(右側下部5行目)の「動物」は、動的の誤植です。このほかにも誤植がありますが、判読出来るものにつきましては訂正しませんので御了承下さい。
3月より79年度の新自治会が発足しました。2月の選挙では、独身軽症寮の中央委員選出が難航し、結局、欠員のままで発足することになりました。中央委員会は代議員制をとり、各地区から2名をその地区の委員会が選出することになっています。
独身軽症寮が選出出来なかった原因のひとつは、独身寮の整備に比較して軽症夫婦寮の整備内容があまりにもよすぎると言うのです。自治会は居室整備に当って、施設側と協議し、一人の坪数を6坪としました。不自由寮の場合は介助をして貰うために廊下がつきますが、その分も6の中に入っています。独身軽症寮の場合は介助を必要としませんので廊下は必要でなく、その分は自室の中に入っています。
夫婦の場合は12坪になりますが、トイレ、洗面所も1ケ所でよく、それだけ自室の利用度が高くなります。つまり、不自由寮は廊下がとられるだけ狭く、独身寮は廊下が必要ではありませんので、それだけ広く、軽症夫婦寮は独身寮よりもトイレ、洗面所が1ケ所ですむために、それだけ広くなっています。然し、こうした考えは、軽症夫婦寮にとって有利であり、軽症独身寮の人達の不満が分らないわけでもありませんが、自分の所よりもよく出来たことに対して、何故喜んで上げられないのか、あまりにも閉鎖的なのに淋しい思いかしました。
軽症独身寮を建てた時は、みんな喜んだのにあとから出来た軽症夫婦寮が格段とよいことで、自分の寮か悪く見え、自治会に不満を抱いたのです。然し、軽症独身寮の名誉のために、大多数の人達は軽症夫婦寮の新築を祝福していることと信じます。軽症独身寮から羨望の的で見られている軽症夫婦寮の人達は、みな喜んでいるかと思うとそうではなく、私の所へ「雨戸も濡縁もつけず、内部構造もなってはおらん……他園の夫婦寮の方が立派だ」と、語気鋭く非難し、抗議する者が何人かいました。
不満の原因は、寮がよいか、悪いかではなく心のもち方なのです。自身が国立療養所の施設に入っている患者であると言う自覚があれば、どの程度の整備が出来るか、その限界が理解出来るし、従って、整備に対する希望にもおのずから規制をするものです。自身の立場を忘れてしまうと無制限に要求し、その限界がありませんので、どんなによい寮を作ってもその人にとっては不満なのです。こういう不満型は、彼の言いなりに作ってもやはり不満は残ります。不満の根本原因は外なる寮にあるのではなく、自己自身にあるからで、自己自身にあることを理解するためには信仰が必要です。