松本馨
唯物論の哲学に、絶対の真理とは正しい認識であると定義されていた。
私はこの言葉に接して、あらためて唯物論の絶対と、キリスト者の絶対との相異について考えさせられた。物以外に認めようとしない唯物論の世界では、結局のところ、自己認識が最後の拠りどころとなるであろう。正しい認識と言ってもそれは、結局、自己認識であり自己の絶対化である。
ソヴェトの共産主義革命によって幾十幾百万の人間が虐殺された。そのことが何故可能になるのか、また正当化されるのか、原因は自己の絶対化にあるように思われてならない。唯物論と相反するのが信仰であるが、信仰的認識とは神のみを絶対とし、他を総べて相対化することであろう。この相対化のなかには唯物的世界観も入る。
生来の人間は、聖書的に言えば神の前から脱落した罪人であり、正しい認識とはこのような自己を知ることであろう。詩篇やヨブ記にあるように、「神を恐るるは知恵の始めである」は正しい認識の原点である。では、神を恐れるとか、神を知るとはどう言うことなのであろうか? 私たちにはただひとつの方法しかない。それは、旧新約聖書を通して御自身を啓示されたイエス・キリストを知ることである。2千年前、神の子は賎しい僕の形をとって歴史の中に入ってこられた。それが、「神われらと共にいます」(マタイ1・23)であり、「言が肉体となってわれらのうちに宿った」 である。(ヨハネによる福音書1・1〜14)。
この史的イエスを、私たちは聖書とエクレシヤによって知るのである。その時自己は音を立てて崩壊する。それまで見えなかった自己の深淵を見せつけられるからである。私たちの罪科のために死に渡され、私たちの義のために復活された十字架のイエスを知ることは、自己の罪を知ることなのである。つまり、十字架の義は私の義であり、十字架の審きは私の罪なのである。然し、一人の人の死によって全人類が救われると言うことは、誰にでも解るものではない。聖霊の助けなしに理解することは不可能に近いが、次のことは、誰にでも理解出来ることではないだろうか。
人は誰でも孤独であり、不安の中にいる。そしてその孤独は、何時も影のようにつきまとい生命をおびやかしているのである。それが形となって現われるのが死である。それ故に、意識するとしないに拘らず、人は永遠の生命、完全なる自己、自由を求めているのである。永遠の生命は人間の側にはない。身も心も孤独によってひきさ かれている者には、イエスの十字架が何等かの形で、身近に感じられるのではないだろうか。
神の子キリストが、同時に人の子イエスであることは、矛盾であり逆説である。このような矛盾、逆説は、十字架以外に現わしようがない。つまり、十字架上において、神の子キリストと人の子イエスがひとつとなり、ひきさ かれているのである。この十字架のイエスに、孤独と不安におののいている自己自身を見ることが出来ないだろうか。
若い頃、聖書を読んでも意味が全然理解出来ず、この世の中に聖書程退屈なものはないと思った。然し、今になって思う時、聖書の読み方が間違っていたのであった。
聖書は漫然と読んだのでは解らない、そこに問題を見い出し自己の課題として、それを徹底的に追究する姿勢が必要である。それをしないで、ただ棒読みするだけでは、いくら読んでも解らない。譬えば、マタイによる福音書一章18節以下の、イエス降誕の記事を読んで、これは科学的でないと問題にしなかったり、神のことは解らないと言って不問にしてしまうようなことをせず、マリヤが聖霊によって身ごもったとは、どう言うことなのか、調べて見ることである。そのために、多くの時間や月日を費やしたり、あるいは何年もかかるかも知れないが、自己に課した問題を徹底的に追究することによって何時かは心の目がひらけ、イエス降誕の意味を理解する時が来るであろう。こうして、ひとつの問題が解ければあとはもうしめたもので、その悉く理解出来るものである。
マタイによる福音書五章3節の、「こころの貧しい人たち」が、何故さいわいなのか、「天国」が、何故、その人たちのものなのか、聖書を始めて読む者にとって、この言は不思議である。ある人は私に向って、この言は貧乏人を愚弄していると言っておこった。彼は唯物論者であるが、貧乏人を愚弄していると感じたならば、何故愚弄しているのか、その意味するところを極めてほしい、必ず誤解であること、3節のもつ祝福の言葉が、如何に恵みに満ちた素晴らしい言であるか、そして、 このみ言の背後にイエスの十字架があることを理解するであろう。
聖書は何処の節をとっても、そこに十字架を見るまで祈り極めることが必要である。人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく信仰によると、誰でも救いにあずかることの出来るきわめてやさしいものであるが、聖書を読むことはそんなやさしいものではない。聖書と格闘するような読み方が必要であり、一語一語、小鳥が餌を啄むように食べて行かなければならない。そうすれば必ず聖霊の働きによって、聖書は生ける神の言として語りかけて来るであろう。聖書の言は信じない者には退屈な印刷物にすぎないが、私たちにはその活字が、生けるキリストとなって見えて来るのである。
2千年前、ゴルゴダで十字架の刑に処せられる3日目に復活されたイエス・キリストが、ただの活字にすぎないような聖書の中に見ることが出来るのである。
私が、無教会者になったことを感謝しているひとつは、聖書が私のような者でも自由に読むことが出来、解釈することがゆるされていることである。もしも、聖書解釈が教職者の手に委ねられ、平信徒にゆるされていないとすれば、聖書は何と退屈でつまらないものであろうか。キリスト者はみな画一的な人間になってしまうだろう。キリスト者の中に、画一的な人間が多く見られるのは、聖書を自分の心で読もうとしないことにあるように思われてならない。
あらゆるものの価値が転倒し、混迷している現代にあって、キリスト者に求められていることは、聖書を自分の心で読み、主体的に生きることではないだろうか。
内村の一番の功績は、彼がアメリカ式の教会を模倣せず、日本人の心で聖書をよみ、主体的に、イエス・キリストと、その十字架を受けとめたことであろう。内村以後、無教会には先生、平信徒を問わず、各自が自分の心で聖書を学び、十字架を主体的に受けとめる信仰が伝統的に継承されて来たように思う。そして、この伝統は無教会の生命であり、のちの世まで継承されて行かなければならない。
各舎には舎長がいた。舎長は、舎員が選挙で選んだ者を所長が任命した。舎長は、舎単位の支給品の人名書き出しや、配給品の扱い、薬品の書き出し、これは、針金の手がついたノート大のブリキ板に毛筆で、水薬、梶原詩郎、散薬、古賀留吉と言うように書いて、薬局の受け付に持って行くのである。そして、午後4時頃、看護婦が金板の書き出しに従って、薬を配達して行くのであった。この金板は一回毎に水で洗って書きなおした。
舎長はこのほかに、監房に入った舎員の保証人にもなった。釈放の際は外来面会所に舎長が呼ばれ、その立会いの上で、監禁を解いた者に対して所長からの訓示があった。古賀親方は、舎員から信頼をうけて3月の選挙には、何時も全員から選ばれたが、所長は、古賀親方が舎長になることを拒否し、再選挙を命じた。古賀は危険思想を持った注意人物であり、舎長をさせることは出来ないと言うのであった。
古賀が注意人物視されたのは、「ラッキョ」3ケの副食では働けないから、もう少し栄養のあるものを考えて欲しいと、単独で給食に交渉したことがあったが、施設は彼の単独交渉を重く見て、謹慎室に5日間の謹慎を命じた。単独交渉は不穏当であること、患者のくせに態度が横柄であり、反抗的であると言うのが理由であったが、その時以来、彼は舎長に選ばれても所長は彼を任命しなかったのである。創立当時、所内に監房はなく、その代り、ゆるやかな謹慎室があった。所内規則を犯したものは、この部屋で謹慎を命じられたのである。
光田健輔は養育院から、第一区府県立全生病院の医長として就任した。それから4年後の1914年に、池内に代って所長となり、翌年には政府に対して、患者を罰する法律の必要性を訴えている。らい患者は罪を犯しても罰せられない、これがために所内秩序を維持することが不可能だと言うのであった。こうして1916年に現行らい予防法の一部が改正され、所長に懲戒検束権が与えられ、所内に監房が出来たのであった。所長は規則を犯したと判断した場合は、裁判なしに、患者を30日以内監房に監禁し、減食による体罰を加えた。更に罪が重いと判断した時は、30日目に一日釈放し、翌日からまた30日以内監禁することが出来たのである。1916年は、患者にとって暗い年となった。この年を契機に、所長以下職員は法的に警察官となり、患者は残されていた僅かの自由をも奪われ、罪人の位置におかれることとなった。
古賀が、ラッキョ3ケでは働けないと単独交渉をしたのは、彼自身のことを考えてしたのではない。働く者には一日5銭から8銭の収入があったので、それによって補食をとることも出来たが、病棟や、不自由舎にいる者には、その収入すらない、従って、この人達の食事を考えて欲しいと言うのが彼の狙いであった。然し、結果的には危険な思想を持った患者として、注意人物にされてしまったのであった。その後、 所内に一揆が起った。筵旗やプラカードを立てて、江戸街道を東京府庁目ざして上った。その先頭に立って指揮していた何人かの一人に古賀が入っていた。多磨全生園70年の歴史の中で、正門を破って江戸街道を上ったことが2度あった。その最初が、古賀達の起した一揆である。2度目は、1953年のらい予防法闘争であったが、2回共、田無町の入口で行く手を遮られてしまった。
最初の一揆の原因についてはいろいろな説がある。その(1)は、退屈だから仕事をさせろ、そのために東京府知事に陳情するのだ。(回春病室)。その(2)は、収入が零では生きて行かれない、だから仕事をさせろ(親方1)、その(3)、警察畑の所長では診療は受けられない。お前達治療を受けたいと思うなら、池内を辞めさせろ、そうすれば治療が受けられると、光田が言った(親方3)
一揆の理由は3説に分かれている、立場によって3人3様であった。おそらく、3説共全然根拠がないとは言えない。一揆は歴史的事実であり、この暴動のあと、1914年池内は所長を追われ、代って光田が2代目所長となった。
古賀はこの暴動のあと、光田が所長就任前に逃亡した。月のない暗い晩であった。古賀は、詩郎たち部屋の者に「今夜逃亡するが、皆元気で頑張れよ」と言った。逃亡の理由については何も説明しなかったが、共謀者が一人いたことがあとで分った。それは浮浪時代の仲間であった。古賀は舎を出て行く時、詩郎にだけ「収容所には2度と入らない」と言い残した。彼ともう一人の仲間は、見回りの隙を見て土堤に上り、荷物を外のから堀に投げこむと、かねて用意しておいた底を抜いたセメントのあき樽を、からたちの生垣の間に差込んでトンネルを作り、それをくぐってから堀に飛び込み、荷物を拾って這い上り雑木林に逃げこんだ。この雑木林は東に向って果てしなく続いていた。
脱走後の古賀は消息が全く絶えてしまった。元の浮浪生活には監視が厳しくて戻ることが出来ず、社会人としてその中にうまく同化したのであろうか? 然し、一度らいの刻印を押された者は菌陰性であっても、罪を犯した者と同じように、警察官と収容所の係員に追われていたのである。その追跡からのがれることは不可能であったろう。
古賀は検挙される前は、東京のある病人宿に下宿していた。この病人宿は菌陰性の快復者夫婦が経営し、下宿人には希望に応じて、大風子油5gの注射を5銭で打って呉れた。下宿人はみな患者であったが、外観はサラリーマンを装っていた。彼らは朝になると、一般のサラリーマンと同じように下宿を出た。そして、目的地の近くまで行くと、鞄から弁慶の七つ道具を取出して乞食に変装し、神社やお寺の人が集る所で物乞いをし、あるいは門付けをしたのであった。そして夕方になると下宿に帰って来るのであるが、その時はもう乞食ではなく、立派なサラリーマンに変っていた。
地方の浮浪者と東京の浮浪者の相異は、東京の浮浪者は下宿に泊りサラリーマンのような生活をしていたのに対して、地方では、川原や野山に野宿し、文字通り浮浪の旅をしたことであろう。四国巡礼の浮浪者は、最後には行き倒れとなり悲惨な末路であったことは、「差別者のボクに捧げる」に記されている。それに比較して、東京の浮浪者は恵まれていたと言えよう。宮本は、東京の浮浪者を東京乞食と呼んだ。古賀は、その東京乞食の親方をしていたのであるが、捉まった時は下宿であった。警察官と収容係官に包囲され寝込みを襲われたのであった。最も気の毒であったのは下宿の主人夫婦で、古賀の仲間として検挙され収容所へ送検されたのであった。そのあと下宿をとり壊し燃やされてしまった。らいはペストと同じく感染力の強い伝染病であるとして、患者の住居は地方でも焼打ちにされたのであった。
「小さき声」二百号を祝します。自分で雑誌を出したことのない私には、あなたの感謝と喜び、悲しみと苦しみは、わかるはずもありませんが、あなたのような限界状況の中で、校正どころか、自分の喋ったことが、どんな文字、文章になったかもわからずに出版することは、とうてい想像が出来ません。それに、前号でどんなことを書いたか、どこまで書いたかを確認することも、私の想像を絶することです。誌代も定めず、とにかく奇蹟としか言い様もない出来事でしょう。あなたにおいてご自身の栄光を現した、私たちの父なる神を讃美します。
さて、二百号3頁の「無教会」の中、『内村は不敬事件で日本を追われ、アメリカで回心した』は、事実と違うと思われます。不敬事件が第一高等中学校不敬事件なら、1891年(明治24年)31才(数え年)の時ですが、アメリカへ渡ったのは、浅田タケと破婚した直後の1884年(明治17年)24才の時ですから、渡米の方が7年ほど前と言うことになります。我々のように、一々、出典、根拠を確めて書いても、間違いは防げませんのですから、あなたのように記憶だけで、しかも、口述でこれくらいであることは、私にはむしろ驚きではありますが、伝道パンフレットはも早「公誌」なので、一寸お知らせします。
○無教会のロゴス化は、方向がそれだけかと言う問と共に、ロゴス化自身、大きな課題であると思います。
私もこのところ肉体の衰えを急に感じています。どうぞ御体充分に御大事に。 4月11日 Y.K. 松本馨様
本誌200号に寄せて読者より祝詞を頂きました。早速に掲載するつもりでしたが、紙数の都合で割愛せざるを得なくなりました。何卒御了承下さい。
Y.K.氏の来信を掲載したのは、前号の「無教会」の中で、内村鑑三が不敬事件以後アメリカに渡米し回心したのは、間違いであることを指摘され、訂正の意味を含めて掲載させて頂きました。私の、全くの記憶違い、と言うより、今日まで内村の渡米は、不敬事件で国を追われてアメリカへ行ったものと思い込んでいました。それだけに、不敬以前の渡米と分って、大へん驚きました。
4月4日より5日間、東部ブロック会議が自治会会議室で開催されました。8日の日一日は、医療交流会議と言って、東部5園の所長と代表との懇談会をもちました。5日の開会式には、園長の挨拶と幹部8役の出席を要請しておいたのですが、幹部は、学会のために全生園は留守になり、挨拶をする者がなく、冷汗3斗の思いでした。急遽、留守番の会計課長に挨拶を頼み、班長クラスに出席して頂き、急場をしのぎました。
総務部長が馴れないために、連絡が不充分であったことも原因しておりますが、それにしても、5園の代表が集まる開会式に、園長以下が出席出来なかったことは、残念でした。4月12日、大工でKと言うアル中の患者が、命よりも大事な大工道具を、Sと福祉室が隠匿したと自治会に訴えて来ました。私は総務に事情をきき、解決するように話しました。Kは、それから何回か自治会に来て、総務部長と話したようでしたが、その後の総務部長の報告としては、「自治会は人事を扱わないから、今後来てはならないと断ったから、もう来ないでしょう」と言うことでしたが、再び姿を現わし、副会長に、「共産党本部の電話番号を教えて呉れ、福祉室とSを告訴するために共産党に応援を頼むのだ」と言いました。私は、総務部長から事件についての報告を受けていましたが、要領を得ないのでKを別室に招き、何故、告訴するのか、その理由を尋ねましたところ、次のようなことでした。それは、今度、新しく建った夫婦寮に、S夫婦が引越すに当り、小屋と、庇と、濡縁を増築するつもりで、Kに依頼しましたが、工事の終らないうちにKはアル中の本性を現わし、毎日、酒を飲んで仕事をしなかったようです。こうしたことから、Sは大工道具をまとめて福祉室に届けたのです。その後、Kは道具を取りに行きましたが、見当らないのでSに尋ねたところ、知らないと言ったので、Kはその足で福祉室に行き尋ねると、作業係は「道具は預かっている」と答えましたが、誰が持って来たのかと聞いても言わなかったので、それから話しがもつれてしまいました。Sから、名前を言ってはならないと念を押されていたからでした。このため、Kは激昂し、Sと福祉室がぐるになって、俺の道具を隠匿したと、東村山警察署へ訴えたのでした。私はKに対し、このことについては自分に一任するようにと説得し、了解を得ました。次にSを呼び事情を聞きました。何故Kの大工道具を福祉室に持って行ったのか、それをKに隠そうとしたのか? Sはこれに対して、Kに仕事をさせたのは自分の意志ではなく、副園長に頼まれたからだと、二人の出会いのことから話し始め、仕事も終らないのに途中で投げ出して外へ酒を飲みに行き、園内の空舎で酔をさましていたことなど長々と話し、私の問に答えませんでした。然し、忍耐して聞いているうちに、福祉室に大工道具を持って行ったのは、仕事なかばで放棄し、酒を飲んでいたKに対する復讐であることが解りました。私は卒直に、「癪にさわったから道具を福祉室に隠したのではないですか」と尋ねたところ、Sは最後にそれを認めました。
私は、自分がSの立場にあったら、同じことをしたかも知れないその気持は理解出来るが、他人の道具を隠すことはよくない。然し、福祉室が何の疑いもなく預かったことに問題があり、この事件については私に任せて貰えないかと、Sからも一任を取りつけました。
私は事務部長に事件の概要を話し、円満に解決するには、福祉室長に泣いて貰う外はないと、私の考えを話しました。福祉室長が道具を預かる時、Sの依頼をそのまま受け入れるのではなく、Kに、道具を預かったことを電話で一言知らせておけば、こんな騒ぎにはならなかったのです。
かくて、福祉室長がKに謝罪することによって、事件は円満に解決し、Kは、告訴を取下げましたが、井伏鱒二の「たぢんこ村」に出て来るような事件でした。