「小さき声」 目次


 小さき声 No.201 197958日発行

松本馨 

 信仰による認識

唯物論の哲学に絶対の真理とは正しい認識であると定義されていた。 

私はこの言葉に接して、あらためて唯物論の絶対とキリスト者の絶対との相異について考えさせられた。物以外に認めようとしない唯物論の世界では結局のところ自己認識が最後の拠りどころとなるであろう。正しい認識と言ってもそれは結局自己認識であり自己の絶対化である。 

ソヴェトの共産主義革命によって幾十幾百万の人間が虐殺された。そのことが何故可能になるのかまた正当化されるのか原因は自己の絶対化にあるように思われてならない。唯物論と相反するのが信仰であるが信仰的認識とは神のみを絶対とし他を総べて相対化することであろう。この相対化のなかには唯物的世界観も入る。 

生来の人間は聖書的に言えば神の前から脱落した罪人であり正しい認識とはこのような自己を知ることであろう。詩篇やヨブ記にあるように「神を恐るるは知恵の始めである」は正しい認識の原点である。では神を恐れるとか神を知るとはどう言うことなのであろうか? 私たちにはただひとつの方法しかない。それは旧新約聖書を通して御自身を啓示されたイエス・キリストを知ることである。2千年前神の子は賎しい僕の形をとって歴史の中に入ってこられた。それが「神われらと共にいます」(マタイ123)であり「言が肉体となってわれらのうちに宿った」 である。(ヨハネによる福音書1114) 

この史的イエスを私たちは聖書とエクレシヤによって知るのである。その時自己は音を立てて崩壊する。それまで見えなかった自己の深淵を見せつけられるからである。私たちの罪科のために死に渡され私たちの義のために復活された十字架のイエスを知ることは自己の罪を知ることなのである。つまり十字架の義は私の義であり十字架の審きは私の罪なのである。然し一人の人の死によって全人類が救われると言うことは誰にでも解るものではない。聖霊の助けなしに理解することは不可能に近いが次のことは誰にでも理解出来ることではないだろうか。 

人は誰でも孤独であり不安の中にいる。そしてその孤独は何時も影のようにつきまとい生命をおびやかしているのである。それが形となって現われるのが死である。それ故に意識するとしないに拘らず人は永遠の生命完全なる自己自由を求めているのである。永遠の生命は人間の側にはない。身も心も孤独によってひきさ かれている者にはイエスの十字架が何等かの形で身近に感じられるのではないだろうか。 

神の子キリストが同時に人の子イエスであることは矛盾であり逆説である。このような矛盾逆説は十字架以外に現わしようがない。つまり十字架上において神の子キリストと人の子イエスがひとつとなりひきさ かれているのである。この十字架のイエスに孤独と不安におののいている自己自身を見ることが出来ないだろうか。

 聖書を読む

 若い頃聖書を読んでも意味が全然理解出来ずこの世の中に聖書程退屈なものはないと思った。然し今になって思う時聖書の読み方が間違っていたのであった。

 聖書は漫然と読んだのでは解らないそこに問題を見い出し自己の課題としてそれを徹底的に追究する姿勢が必要である。それをしないでただ棒読みするだけではいくら読んでも解らない。譬えばマタイによる福音書一章18節以下のイエス降誕の記事を読んでこれは科学的でないと問題にしなかったり神のことは解らないと言って不問にしてしまうようなことをせずマリヤが聖霊によって身ごもったとはどう言うことなのか調べて見ることである。そのために多くの時間や月日を費やしたりあるいは何年もかかるかも知れないが自己に課した問題を徹底的に追究することによって何時かは心の目がひらけイエス降誕の意味を理解する時が来るであろう。こうしてひとつの問題が解ければあとはもうしめたものでその悉く理解出来るものである。

 マタイによる福音書五章3節の「こころの貧しい人たち」が何故さいわいなのか「天国」が何故その人たちのものなのか聖書を始めて読む者にとってこの言は不思議である。ある人は私に向ってこの言は貧乏人を愚弄していると言っておこった。彼は唯物論者であるが貧乏人を愚弄していると感じたならば何故愚弄しているのか、その意味するところを極めてほしい必ず誤解であること、3節のもつ祝福の言葉が如何に恵みに満ちた素晴らしい言であるかそしてこのみ言の背後にイエスの十字架があることを理解するであろう。

 聖書は何処の節をとってもそこに十字架を見るまで祈り極めることが必要である。人が義とされるのは律法の行ないによるのではなく信仰によると誰でも救いにあずかることの出来るきわめてやさしいものであるが聖書を読むことはそんなやさしいものではない。聖書と格闘するような読み方が必要であり一語一語小鳥が餌を啄むように食べて行かなければならない。そうすれば必ず聖霊の働きによって聖書は生ける神の言として語りかけて来るであろう。聖書の言は信じない者には退屈な印刷物にすぎないが私たちにはその活字が生けるキリストとなって見えて来るのである。

 2千年前ゴルゴダで十字架の刑に処せられる3日目に復活されたイエス・キリストがただの活字にすぎないような聖書の中に見ることが出来るのである。

 私が無教会者になったことを感謝しているひとつは聖書が私のような者でも自由に読むことが出来解釈することがゆるされていることである。もしも聖書解釈が教職者の手に委ねられ平信徒にゆるされていないとすれば聖書は何と退屈でつまらないものであろうか。キリスト者はみな画一的な人間になってしまうだろう。キリスト者の中に画一的な人間が多く見られるのは聖書を自分の心で読もうとしないことにあるように思われてならない。

 あらゆるものの価値が転倒し混迷している現代にあってキリスト者に求められていることは聖書を自分の心で読み主体的に生きることではないだろうか。

 内村の一番の功績は彼がアメリカ式の教会を模倣せず日本人の心で聖書をよみ主体的にイエス・キリストとその十字架を受けとめたことであろう。内村以後無教会には先生平信徒を問わず各自が自分の心で聖書を学び十字架を主体的に受けとめる信仰が伝統的に継承されて来たように思う。そしてこの伝統は無教会の生命でありのちの世まで継承されて行かなければならない。

 愛による絶対隔離

 第3章 病舎 (2)

各舎には舎長がいた。舎長は舎員が選挙で選んだ者を所長が任命した。舎長は舎単位の支給品の人名書き出しや配給品の扱い薬品の書き出しこれは針金の手がついたノート大のブリキ板に毛筆で水薬梶原詩郎散薬古賀留吉と言うように書いて薬局の受け付に持って行くのである。そして午後4時頃看護婦が金板の書き出しに従って薬を配達して行くのであった。この金板は一回毎に水で洗って書きなおした。

舎長はこのほかに監房に入った舎員の保証人にもなった。釈放の際は外来面会所に舎長が呼ばれその立会いの上で監禁を解いた者に対して所長からの訓示があった。古賀親方は舎員から信頼をうけて3月の選挙には何時も全員から選ばれたが所長は古賀親方が舎長になることを拒否し再選挙を命じた。古賀は危険思想を持った注意人物であり舎長をさせることは出来ないと言うのであった。

古賀が注意人物視されたのは「ラッキョ」3ケの副食では働けないからもう少し栄養のあるものを考えて欲しいと単独で給食に交渉したことがあったが施設は彼の単独交渉を重く見て謹慎室に5日間の謹慎を命じた。単独交渉は不穏当であること患者のくせに態度が横柄であり反抗的であると言うのが理由であったがその時以来彼は舎長に選ばれても所長は彼を任命しなかったのである。創立当時所内に監房はなくその代りゆるやかな謹慎室があった。所内規則を犯したものはこの部屋で謹慎を命じられたのである。

光田健輔は養育院から第一区府県立全生病院の医長として就任した。それから4年後の1914年に池内に代って所長となり翌年には政府に対して患者を罰する法律の必要性を訴えている。らい患者は罪を犯しても罰せられないこれがために所内秩序を維持することが不可能だと言うのであった。こうして1916年に現行らい予防法の一部が改正され所長に懲戒検束権が与えられ所内に監房が出来たのであった。所長は規則を犯したと判断した場合は裁判なしに患者を30日以内監房に監禁し減食による体罰を加えた。更に罪が重いと判断した時は30日目に一日釈放し翌日からまた30日以内監禁することが出来たのである。1916年は患者にとって暗い年となった。この年を契機に所長以下職員は法的に警察官となり患者は残されていた僅かの自由をも奪われ罪人の位置におかれることとなった。

古賀がラッキョ3ケでは働けないと単独交渉をしたのは彼自身のことを考えてしたのではない。働く者には一日5銭から8銭の収入があったのでそれによって補食をとることも出来たが病棟や不自由舎にいる者にはその収入すらない従ってこの人達の食事を考えて欲しいと言うのが彼の狙いであった。然し結果的には危険な思想を持った患者として注意人物にされてしまったのであった。その後所内に一揆が起った。筵旗やプラカードを立てて江戸街道を東京府庁目ざして上った。その先頭に立って指揮していた何人かの一人に古賀が入っていた。多磨全生園70年の歴史の中で正門を破って江戸街道を上ったことが2度あった。その最初が古賀達の起した一揆である。2度目は1953年のらい予防法闘争であったが2回共田無町の入口で行く手を遮られてしまった。

最初の一揆の原因についてはいろいろな説がある。その()退屈だから仕事をさせろそのために東京府知事に陳情するのだ。(回春病室)。その()収入が零では生きて行かれない、だから仕事をさせろ(親方1)、その()、警察畑の所長では診療は受けられない。お前達治療を受けたいと思うなら池内を辞めさせろそうすれば治療が受けられると光田が言った(親方3)

一揆の理由は3説に分かれている立場によって3人3様であった。おそらく3説共全然根拠がないとは言えない。一揆は歴史的事実でありこの暴動のあと1914年池内は所長を追われ代って光田が2代目所長となった。

古賀はこの暴動のあと光田が所長就任前に逃亡した。月のない暗い晩であった。古賀は詩郎たち部屋の者に「今夜逃亡するが皆元気で頑張れよ」と言った。逃亡の理由については何も説明しなかったが共謀者が一人いたことがあとで分った。それは浮浪時代の仲間であった。古賀は舎を出て行く時詩郎にだけ「収容所には2度と入らない」と言い残した。彼ともう一人の仲間は見回りの隙を見て土堤に上り荷物を外のから堀に投げこむとかねて用意しておいた底を抜いたセメントのあき樽をからたちの生垣の間に差込んでトンネルを作りそれをくぐってから堀に飛び込み荷物を拾って這い上り雑木林に逃げこんだ。この雑木林は東に向って果てしなく続いていた。

脱走後の古賀は消息が全く絶えてしまった。元の浮浪生活には監視が厳しくて戻ることが出来ず社会人としてその中にうまく同化したのであろうか? 然し一度らいの刻印を押された者は菌陰性であっても罪を犯した者と同じように警察官と収容所の係員に追われていたのである。その追跡からのがれることは不可能であったろう。

古賀は検挙される前は東京のある病人宿に下宿していた。この病人宿は菌陰性の快復者夫婦が経営し下宿人には希望に応じて大風子油5gの注射を5銭で打って呉れた。下宿人はみな患者であったが外観はサラリーマンを装っていた。彼らは朝になると一般のサラリーマンと同じように下宿を出た。そして目的地の近くまで行くと鞄から弁慶の七つ道具を取出して乞食に変装し神社やお寺の人が集る所で物乞いをしあるいは門付けをしたのであった。そして夕方になると下宿に帰って来るのであるがその時はもう乞食ではなく立派なサラリーマンに変っていた。

地方の浮浪者と東京の浮浪者の相異は東京の浮浪者は下宿に泊りサラリーマンのような生活をしていたのに対して地方では川原や野山に野宿し文字通り浮浪の旅をしたことであろう。四国巡礼の浮浪者は最後には行き倒れとなり悲惨な末路であったことは「差別者のボクに捧げる」に記されている。それに比較して東京の浮浪者は恵まれていたと言えよう。宮本は東京の浮浪者を東京乞食と呼んだ。古賀はその東京乞食の親方をしていたのであるが捉まった時は下宿であった。警察官と収容係官に包囲され寝込みを襲われたのであった。最も気の毒であったのは下宿の主人夫婦で古賀の仲間として検挙され収容所へ送検されたのであった。そのあと下宿をとり壊し燃やされてしまった。らいはペストと同じく感染力の強い伝染病であるとして患者の住居は地方でも焼打ちにされたのであった。

来信

 冠省

 「小さき声」二百号を祝します。自分で雑誌を出したことのない私にはあなたの感謝と喜び悲しみと苦しみはわかるはずもありませんがあなたのような限界状況の中で校正どころか自分の喋ったことがどんな文字文章になったかもわからずに出版することはとうてい想像が出来ません。それに前号でどんなことを書いたかどこまで書いたかを確認することも私の想像を絶することです。誌代も定めずとにかく奇蹟としか言い様もない出来事でしょう。あなたにおいてご自身の栄光を現した私たちの父なる神を讃美します。

 さて二百号3頁の「無教会」の中『内村は不敬事件で日本を追われアメリカで回心した』は事実と違うと思われます。不敬事件が第一高等中学校不敬事件なら1891年(明治24)31才(数え年)の時ですがアメリカへ渡ったのは浅田タケと破婚した直後の1884年(明治17年)24才の時ですから渡米の方が7年ほど前と言うことになります。我々のように一々出典根拠を確めて書いても間違いは防げませんのですからあなたのように記憶だけでしかも口述でこれくらいであることは私にはむしろ驚きではありますが伝道パンフレットはも早「公誌」なので一寸お知らせします。

○無教会のロゴス化は方向がそれだけかと言う問と共にロゴス化自身大きな課題であると思います。

 私もこのところ肉体の衰えを急に感じています。どうぞ御体充分に御大事に。 4月11日 Y.. 松本馨様

 本誌200号に寄せて読者より祝詞を頂きました。早速に掲載するつもりでしたが紙数の都合で割愛せざるを得なくなりました。何卒御了承下さい。

 Y.K.氏の来信を掲載したのは前号の「無教会」の中で内村鑑三が不敬事件以後アメリカに渡米し回心したのは間違いであることを指摘され訂正の意味を含めて掲載させて頂きました。私の全くの記憶違いと言うより今日まで内村の渡米は不敬事件で国を追われてアメリカへ行ったものと思い込んでいました。それだけに不敬以前の渡米と分って大へん驚きました。

 療養通信

 4月4日より5日間東部ブロック会議が自治会会議室で開催されました。8日の日一日は医療交流会議と言って東部5園の所長と代表との懇談会をもちました。5日の開会式には園長の挨拶と幹部8役の出席を要請しておいたのですが幹部は学会のために全生園は留守になり挨拶をする者がなく冷汗3斗の思いでした。急遽留守番の会計課長に挨拶を頼み班長クラスに出席して頂き急場をしのぎました。

 総務部長が馴れないために連絡が不充分であったことも原因しておりますがそれにしても5園の代表が集まる開会式に園長以下が出席出来なかったことは残念でした。4月12日大工でKと言うアル中の患者が命よりも大事な大工道具をSと福祉室が隠匿したと自治会に訴えて来ました。私は総務に事情をきき解決するように話しました。Kはそれから何回か自治会に来て総務部長と話したようでしたがその後の総務部長の報告としては「自治会は人事を扱わないから今後来てはならないと断ったからもう来ないでしょう」と言うことでしたが再び姿を現わし副会長に「共産党本部の電話番号を教えて呉れ福祉室とSを告訴するために共産党に応援を頼むのだ」と言いました。私は総務部長から事件についての報告を受けていましたが要領を得ないのでKを別室に招き何故告訴するのかその理由を尋ねましたところ次のようなことでした。それは今度新しく建った夫婦寮にS夫婦が引越すに当り小屋と庇と濡縁を増築するつもりでKに依頼しましたが工事の終らないうちにKはアル中の本性を現わし毎日酒を飲んで仕事をしなかったようです。こうしたことから、Sは大工道具をまとめて福祉室に届けたのです。その後Kは道具を取りに行きましたが見当らないのでSに尋ねたところ知らないと言ったのでKはその足で福祉室に行き尋ねると作業係は「道具は預かっている」と答えましたが誰が持って来たのかと聞いても言わなかったのでそれから話しがもつれてしまいました。Sから名前を言ってはならないと念を押されていたからでした。このためKは激昂しSと福祉室がぐるになって俺の道具を隠匿したと東村山警察署へ訴えたのでした。私はKに対しこのことについては自分に一任するようにと説得し了解を得ました。次にSを呼び事情を聞きました。何故Kの大工道具を福祉室に持って行ったのかそれをKに隠そうとしたのか? Sはこれに対してKに仕事をさせたのは自分の意志ではなく副園長に頼まれたからだと二人の出会いのことから話し始め仕事も終らないのに途中で投げ出して外へ酒を飲みに行き園内の空舎で酔をさましていたことなど長々と話し私の問に答えませんでした。然し忍耐して聞いているうちに福祉室に大工道具を持って行ったのは仕事なかばで放棄し酒を飲んでいたKに対する復讐であることが解りました。私は卒直に「癪にさわったから道具を福祉室に隠したのではないですか」と尋ねたところSは最後にそれを認めました。

 私は自分がSの立場にあったら同じことをしたかも知れないその気持は理解出来るが他人の道具を隠すことはよくない。然し福祉室が何の疑いもなく預かったことに問題がありこの事件については私に任せて貰えないかとSからも一任を取りつけました。

 私は事務部長に事件の概要を話し円満に解決するには福祉室長に泣いて貰う外はないと私の考えを話しました。福祉室長が道具を預かる時Sの依頼をそのまま受け入れるのではなくKに道具を預かったことを電話で一言知らせておけばこんな騒ぎにはならなかったのです。

 かくて福祉室長がKに謝罪することによって事件は円満に解決しKは告訴を取下げましたが井伏鱒二の「たぢんこ村」に出て来るような事件でした。