「小さき声」 目次


 小さき声 No.202 197968日発行

松本馨 

 聖霊による十字架

4月29日のNHK朝のニュースは北海道で中学2年の女子生徒が同級生を刺殺したことを報じていた。このニュースを聞いて私が心を暗くしたのは返り血を浴びた衣服を 着替えて平然と授業を受けていたと言うことで罪の意識を全くもっていないことであったがこれは最近のニュースで聞かれる殺人事件の特徴と言ってよい。 

大阪の銀行で起った事件も犯人は警官2人と銀行員2人を射殺しそのほかに、 重傷を負わせた銀行員の耳朶を人質の1人に切り取らせてそれをしゃぶったと言う。この犯人は少年時代に殺人を犯していたがこれをたんに異常な性格として片づけることは出来ないように思う。 

最近の殺人の傾向として罪意識が全くないことであろう。過激派学生の内ゲバによる殺人にしても罪の意識はない。これはただ日本だけの傾向ではなくアメリカでは更に大規模な殺人事件が報じられているがヨーロッパでも同じようなことが起っているのではないだろうか。こうした殺人事件に対して専門家はそれぞれの立場から青少年の教育問題を論じているが私には大事なことがひとつ欠落しているように思われてならない。 

科学の進歩によって若い人達が唯物的な世界観のとりことなって神を信じなくなったことである。人間は被造物でありそれ故に自己は自己自身のものではなく神のものである。従って自己に対して自ら手を下すことは出来ない。それは創造者への反逆であり罪だからである。他人の殺害についても同様のことが言われる。聖書はこのことを明確に教えているが人間が神を見失う時両者の関係は破れそこから無軌道な自殺と殺人が起る。 

人間と動物の相違は事物を総括する能力が人間にあるのに対して動物にはないと言うことであるが私の知る限りでは人間と動物の相違は神を知っているかいないかにあるように思う。 

人間は神によって作られたことを知っているが他の動物は神を知ることが出来ない。科学の進歩によって神がないと思いこむ時人間は他の動物と同じ位置に立つことになるのではないだろうか。そしてそこに動物の世界に起っているような弱肉強食の闘争が始まる。殺人に対して罪の意識をもたないことはそのさきぶれであり人類全体が神を全く否定し去る時マタイによる福音書24章に見られるような世の終りが来るのであろう。現在既にその方向に向って進行していることは疑うことが出来ない。

これに対してキリスト者は警告し悔い改めを求めることが出来ないのだろうか。世界には幾億万のキリスト信徒がいるがそれにも抱らず破局への進行をくいとめることが出来ないのだろうか。

唯物的な若者たちに神を指し示すことが出来ないのだろうか。イエスの宣教活動は言と行為(癒しと海上歩行のような奇跡)からなっているが現代の宣教活動はイエスの言が中心であり行為(癒し)あまり重視されていないように思われる。然し宣教活動の中では言と共に行為(癒し)は重要な意味をもっている。ヨハネが獄中からイエスの許に弟子を遣わして「きたるべきかたはあなたなのですか。それともほかにだれかを待つべきでしょうか」と問わせた時イエスは答えて言われた。

「行ってあなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え足なえは歩きらい病人はきよまり耳しいは聞こえ死人は生き返り貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者はさいわいである」。(マタイによる福音書11章)

イエスがここで宣教の第一にあげているのは盲人や足なえらい病人らであった。言による宣教の対象は貧しい人々であるがこの貧しい人々とは心のやまいをもった人達であろう。これらの人達に対する癒しと言による宣教はイエスがキリストであることのあかしであった。更にもうひとつ重要なことは律法からの解放であった。

「……この人が生れつき盲人なのはだれが罪を犯したためですか」。(ヨハネによる福音書92)

「…・この女は姦淫の場でつかまえられました。モーゼは律法の中でこういう女を石で打ち殺せと命じましたがあなたはどう思いますか」。(ヨハネによる福音書84、5)

 イエスと中央の祭司長長老律法学者らとの決定的な対立となったのはイエスが安息日を破って片手の萎えた者や足腰の立たない病人を癒したことにあった。彼らにとって安息日を厳格に守ることが神に対する服従であり安息日を破った者を死に追いやることが神への忠誠であった。そしてイエスを十字架にかけたのであるがそれは決定的な律法廃棄の宣言であった。イエスの言とわざによる安息日違反の宣教は十字架においてひとつとなり全人類に福音が及んだ。即ち律法からの解放が全人類にのぞんだのである。 

十字架は神の国とこの世との接点であり十字架をはなれて私たちは神を知ることが出来ない。ロマ書3章21節以下のイエスの贖罪による義認の信仰を啓示されたことによってパウロの異邦人伝道は可能になった。

ルターがパウロの義認の信仰「人が義とされるのは律法の行ないによるのではなく信仰による」を啓示された時宗教革命が起った。日本においては、内村がイエス・キリストとその十字架の信仰に立った時無教会が起った。

三者による宗教改革に共通していることは説明するまでもなく律法からの解放である。パウロはユダヤ律法からの解放でありルターはカトリックからの解放であり内村は教会からの 解放であった。現代の若者たちに福音を伝えることが出来ないのは若者の側に問題があるのではなく教会側無教会をも含めてあるのではないだろうか。それはパリサイ人や祭司長らと同じ位置に立っていないかと言うことである。義認の信仰が律法になっていないか。 行ないがなくてもイエス・キリストを信ずれば救われるとしてあらたな神の戒めの許に立とうとしないだけではなく立とうとする者を律法主義として非難していないか。 このような信仰は信仰による義を律法として受取っているのである。それは安息日に病人や手足の萎えた者を癒したとして責めるパリサイ人や祭司長と同じ位置に立っているのである。こうした律法を克服する道は十字架への集中以外にない。彼だけが律法から解放してくれるし2千年前のイエスと同じようにこの世の病める者貧しい者悩んでいる者と関わりをもつことが出来る。殺人を犯しても罪意識をもたない人達と関わりをもつことが出来るのではないだろうか。十字架と言っても教義としての十字架ではどうにもならない。聖霊によってイエス・キリストとその十字架の前に立たされることである。

イエスの死と生をこの世にもち運ぶことである。このことが可能になるのは祈り以外にないが現代キリスト教がこの世に対して無力になっているのは聖霊によるイエス・キリストとその十字架を受取らされていないためではないだろうか。聖霊が働く時そこに十字架を示されあらたな世界が展開するであろう。

愛による絶対隔離

 第5章 病舎5

 藤田サク18才は1909年11月15日に目黒慰廢園から集団で収容された。浮浪患者を収容する施設が東京に出来ると聞いた浮浪者は開所の日が待ち切れずに東京へと集まってきた。その患者たちを一時預かったのが目黒慰廢園であった。

 目黒慰廢園はキリスト教のらい病院であったがこの時を境に全生病院に収容する患者を一時預かる仮収容所の機能を果すことになった。

 サクの父親作蔵は神経らいで手足が不自由であったが労働に差支える程ではなく農業に従事していた。サクは12才の時に発病したが、サクの母親は病気の夫と娘を捨てて行方をくらましてしまった。

 父作蔵はその後家をたたみサクを連れて当もない放浪の旅に出た。冬は南国夏は北国へと流浪の旅を続けた。その間に作蔵の病気は進行し足の裏に傷(患者は裏傷ずまたは万年傷とよんだ)を作り歩行が困難になった。サクはその父を乳母車に乗せて犬に引かせ浮浪患者の仲間と旅を続けたのであったが作蔵はきずのほかに肝臓を悪くして黄疸になった。

 作蔵は賭博モルヒネなど浮浪者がおちいる悪の道を歩いたがサクには自分と同じ道を歩かせまいとして折をみては読み書きを教え悪の世界から遠ざけようとつとめた。然しサクは父親の目の届かないところでタバコ賭博モルヒネと浮浪者が経験するすべてを知った。サクは父親と同じ神経らいで数本の大風子油注射をしただけであった。大風子油は腕や大腿部に行なう筋肉注射であるが油性で濃厚なために注射針は太くサクは痛がって打たせなかったからである。それにも拘わらずサクは左手の薬指と小指が内側に少し曲っただけの後遺症で自然治癒してしまった。本人から手が悪いと言わなければ気がつかない程であった。

 東京にらい病院が出来るという噂をきいて作蔵親娘は仲間から分かれて東京に向つた。作蔵の身体が弱っていたことと娘の将来を考えてのことであった。病院に入れば注射で殺されると言う仲間の反対を押しきって東京に向つたのであるがその途中で作蔵は亡くなりサクだけが目黒慰廢園に辿りついたのであった。サクの収容された時は開所して間もないこともあって病棟は鍵形の病舎をあてていた。患者はこの舎を曲り舎と呼んだ。

 畳敷きの病室であるが床を敷いたまま一ヶ月も寝ていると疊は蒸れて便用出来ない程になった。それに医師や看護婦が長靴で入って来るために掃除が大へんであった。こうしたことから疊がはがされて病室にはベッドが入るようになった。

 サクと一緒に収容された重症な患者は病室に入りサクは女子の一般舎に入った。女舎は5棟で周囲を板塀で囲み男患者との交際は禁じられていた。昼間のうちは門をあけてあったが夜になると固く閉ざして見張所の監視員が一時間から二時間おきに巡回して来た。

 サクの入った部屋は梅舎の4号室で12畳半に4人であったが数ヶ月後には8人になった。サクが舎に入って間もなく厳重な監視の目を盗んでは男患者が遊びに来るようになった。監視員の気配がすると女たちは男をそれぞれ押入に隠したり裏からこっそり逃がした。監視員達は男患者が女患者のところに来ていることをうすうす感じていたが証拠を掴むことが出来なかった。そのうち監視員達を驚愕させるような事態が起った。

 見張所の監督日誌に当時の慌て振りが次のように記されている。「妊娠中の女患者4名疑がわしき者1名、云々」

 生まれた子供については家族のある者には引き取らせたが家族のない者は孤児院に預けたり里子に出した。それでもなお生れてくる子供の処置に困り男患者が子供を背負って駅の待合室や人通りの多い所にこっそりと捨てて来た。

 女舎の監視は日を追うに従って厳しくなって行った。そして深夜に女舎の一斉点呼が行なわれるようになった。数人の監督が玄関から長靴で侵入し一部屋毎に眠っている女達を叩き起し一人一人の身体検査をしたのであった。初めての検査の時サクは布団にしがみつき「何もしていません。勘忍して下さい」と言って泣いた。監督はそのサクを猫でもつまみ上げるように吊し上げた。…

 監督が出て行くと女達はたたみの泥を拭きとっていたが屈辱と悲しみと憤りに打ちのめされていたのであった。そのうち一人が言った 。「助ベエー野郎」 女2.「シッ壁に耳ありよ」。 女3.「聞こえたってかまうもんか」。 女1.「私たちは人間じゃないんだからどんなことをされても仕様がないんだ」 。 女4.「人間でなければ私たちは何さ」。 女1.「ブタだよ」。(周辺の農民は全生園の患者を山のブタと呼んでいた)。女たちはもう何も言わず布団の中にもぐりこんでしまった。その静けさの中にサクのむせび泣きが何時までも続いていた。

夜の点呼はその後も定期的に行なわれた。そしてその度に屈辱的な検査を受けたがサクは何時の頃からか泣かなくなっていた。大胆に積極的に監督の前に立ったのであった。1914年暴動の責任を負って失脚した池内に代って光田が所長に就任した。そしてその翌年には生れてくる子供の処置に窮した光田は男患者に優生手術を行なった。らい患者に優生手術を行なうことは違法であるが光田は敢えて法律に違反しワゼクトミーを奨励したのであった。それから33年後の1948年に治らい薬「プロミン」の出現によって療養所が湧き立っている中でそれを否定するかのようにらい患者の優生手術が合法化されたのであった。

ワゼクトミーの実施と共に女舎を囲っていた板塀は取毀された。光田は浮浪患者を全生病院に落着かせるためには結婚を認めた方がよいと言う考えに変っていった。それはあくまでも政略的な承認で患者の人間性を認めた結婚ではなかった。それ故に結婚は容認したが夫婦が同居することは認めなかった。男患者が女舎にしのびこんだのをそのまま制度化し結婚の届け出をした男が夜だけ妻の許に泊りに行くのを認めたのであった。患者はこれを通い婚と呼んだ。通い舎は結婚した女が12畳半に8人住み夫は夜だけ妻の許に行くことが許されたのであった。

第一区府県立全生病院が開院された時蔦舎と言う夫婦舎が一棟建った。夫婦で収容された患者が6畳一間に2組ずつ住んだが所内で結婚した者は通い婚を強いられたのであった。のちに入籍した者は夫婦舎に入れるようになったが夫婦舎が少ないために少数の者に限られていた。

宮本はらい予防法の矛盾について次のように批判する。らいはペストと同じ伝染病であり隔離しなければならないと言うのが為政者を始め関係者の思想であった。それにも拘わらず第三条で次のように規定している。

「癩患者ニシテ扶養ノ道ヲ有セズ且救護者ナキモノハ行政官庁二於テ命令ノ定ムル所二従ヒ療養所ニ人ラシメ之ヲ救護スベシ。但シ適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムベシ…………」。

扶養の道を有せず救護者なきとは浮浪患者対象の収容を意味する。但し適当と認める時は扶養義務者に引取らせるとは患者を養う能力のある者は収容からは外すということであり自宅患者は対象とならない。このような隔離政策は医学よりも政治が優先している。らいは 文明国の恥であると言う思想が生れたのもこれがためであった。

療養通信

5月29日より12日までの4日間岡山県邑久光明園で第26回定期支部長会議が開催されました。私は本部に同行し7日の午後4時すぎに光明園に着きました。着いた岬は雨で、その晩は嵐を思わせるような激しい風と雨でしたが会議の期間中は好天気に恵まれました。会議は例年と同じような医療の充実と施設整備が中心で、10日の如き感がありました。 

26回定期支部長会議の新議題はらい療養所の将来構想の研究委員会を設置し2年後の28支部長会議で決定すると言うものでしたが職員と患者による委員構成について紛糾しました。職員と患者の将来構想は基本的に違うと言うのが各支部の意見でした。

 前者は、ハンセン病なきあと如何にして自分達の職場を守るか患者は5年10年後の医療と生活を如何にして守るかと言うことでした。

 委員会の構成は患者だけで作り職員からは意見を聞く程度にとどめる方がよいと言うのでしたが奄美和光園のように併設が問題になっているところでは患者と職員による委員会でなければならないと言う切実な意見もありました。これがために各支部の事情によって委員会構成は弾力性のあるものに落着きました。

 将来構想で更に問題になったのは「らい予防法」改正の是非について来年の27支部長会議で決定することになっておりましたが将来構想との絡みで一年延期したことでした。

 多磨支部はらい予防法の改正は将来構想とは関係がないとして延期には反対しましたが大勢は延期に賛成でした。

 多磨を除く支部会員は予防法改正には消極的か、又は反対であり将来構想研究会を口実に延期してしまったと言うのが本音のように思われます。

 恐らく全患協にはらい予防法の改正は困難でしょう。会員の老齢化によって1953年のらい予防法闘争に見せたエネルギーはないし療養所の改革をのぞむだけの進歩性も失われています。老齢化が進むに従って人間は保守的になっていくからです。

 この問題については機関誌「多磨」8月号に書くことにして省略致しますがらい予防法と将来構想とを絡ませることは間違いであることだけは明記しておきたいと思います。

 らい予防法は患者の終身隔離撲滅を目的にして作られたものでありその基調をなしているものは医療差別です。一度らいの宣告をうけた者は社会復帰をしても健康保険を使うことが出来ません。もと患者であったと分れば診療を拒否されてしまうからです。このような予防法は廃止し国民に与えられている医療の自由をらい患者にも与えるべきです。そして自由を獲得したのちにらい療養所の将来は如何にあるべきかを考えるべきでしょう。

 併設のためにらい予防法を改正しなければならないと言う思想は本末転倒です。

 この会議で多磨にとって重要議案は多磨支所が提出した多磨全生園と多磨研究所の機構の一本化による医療協力の問題です。ハンセン病療養所の医療危機は年毎に深刻になって行きますがこの問題の解決は地域の医療機関との協力以外に解決の道はありません。

 青森県の松丘保養園では近接医療機関との協力が進み入院が可能になりました。時間的にはかかるかもしれませんが他の園でも将来は入院の道が開けて来ることでしょう。それによって地方施設の医療問題は或る程度解決すると思いますが地域の医療協力を以ってしても解決の出来ないものにハンセン病基本治療の問題があります。現在と将来に向って基本治療の専門医を養成する必要がありそのためには臨床と基礎の協力がなければなりません。多磨研と多磨全生園との協力によって研修センターを作りここで専門医を養成すると共に地方の医師看護婦が研修をうけられるようにすること外国との医療協力もセンターを通して行わなければならないし難治らいを始め治療薬についての医学的な治療体系を確立して欲しいことなど両者の一本化については多くの希望があります。

 数年前まではこのような問題について地方支部は反対でしたがこの度は感謝されました。

 地方支部は基本治療の専門医に対して危機感をもっており多磨全生園と多磨研究所の機構の一本化によって専門医の養成と医学的な治療方法の確立を強くのぞんでいたからです。

 ハンセン病の治療は各自の経験に委ねられ学問的な裏付けがないのではないかと言うのが各支部長の発言でした。こうした発言が聞かれたのはある支部ではリハンピシンが大量に使われて患者が身体をこわしてしまったことプラ6の治療方法にしてもある施設では少量使うことによって皮膚は黒くならず然も効果が高いのに対して皮膚が黒くなるまで使用していると言う施設もあり問題になりました。以上のようなことから学問的に基礎づけられた治療方法が強くのぞまれたのです。