松本馨
ホーリネス系の信徒であろうか、熱心な再臨主義者に会った。彼に言わせると、現在は世の終りであり、そのしるしとして、いくつかの例をあげた。その一番のしるしは、世界的に不信の時代を迎えていること、「……人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカによる福音書18・8)。神なき不信の結果として、ロッキード、ダグラスに見られるような政界の腐敗、男女間の乱れ、モラルの低下、科学的には原水爆の出現……。 終りの日に、この原水爆は決定的な役割を果すであろう。米、ソを始め、世界はこぞって原水爆をもつことをのぞんでいるが、それは、世界が各自の責任において、終りの日のために準備をしているのである。この危機的世界から人類を救うものは、キリストの再臨以外にはなく、その日は近いと言うのである。私は、この話に共感を覚えたが、全面的に賛成することが出来なかった。
信仰とは何か、聖書は多岐的であり、その読み方によっては、再臨を信仰の中心におくことができ、或は、復活を中心におくことができよう。そしてまた、十字架を中心におくこともできる。何れをとっても、それは事実であり、間違っているとは言えないが、聖書の中心にあるものは、イエスの代罰ではないだろうか? この問題を欠落させることはできない。即ち、イエスが言われているように、「神の支配と神の義を求めよ」、と言うことであり、十字架による審判と赦しは義の問題であり、信仰の中心でなければならないと思う。
終りの日に、私たちはキリストが審判者として来り給うことを知っている。然し、十字架を欠落させてキリストの再臨を求める時、それは、抽象的なもの、観念的なものになってしまわないだろうか。
キリストは、あくまでも人の子として世にこられた。世にこられたと言うことは、マリヤからお生れになったと言うことよりも、世の罪を負って十字架にかけられ、神なき世俗の直中に立たれたことであろう。私たちが、どんなに不信仰であっても、神なきこの世に埋没していても、十字架においてキリストをみることができるのである。
十字架は、私たちと同じ神なき場所、世俗のどん底だからである。そこに、神の子キリストは人となって、私たちと同じ位置に立って居給う。キリストの再臨を待望するのはこれがためであり、十字架を再臨のキリストにみることができるからである。十字架を離れて、復活のイエスを知ることができないし、再臨のキリストを知ることもできない。
終りの日とは、一体何であろうか、冒頭の再臨主義者が語ったような、世の終りを指すのであろうか?。聖書の言う世の終りとは、キリストの到来を指して言っているのではないだろうか? 時間的、又は事物の滅び、精神の滅びを指して言っているのではないように思われる。
「その日、その時はだれも知らない。天の御便たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」。(マタイによる福音書24・36)
その日、その時とは、キリストの来臨を指し示すものであり、それが世の終りである。つまり、キリストの到来が世の終りであって、世の終りがあって、キリストが来るのではない。
十字架は、キリストとイエスの接点である。神の子が人となり、世の罪を負われた場所なのである。このところを離れて、私たちはキリストを知ることができない。また、終りの日のキリストの前に立つこともできない。とすれば、十字架に集中することは、終りの日に生きていることにならないだろうか。イエスの死と生をこの世にもち運ぶとは、終りの日をもち運んでいることにならないだろうか。
私は、自治活動をしているが、その関り方は終末的である。私は、この世に対して、何の期待もしていないし、行為に対する報酬をも望んではいない。それは、一方的に仕えるだけである。私はキリストのものであり、この世のものではないからである。
自治活動の基本的な考え方はいっさいを相対化してみることである。組織活動は、ともすれば、自己を絶対化する危険が伴なう。平和運動や戦争反対は、その最もよい例であろう。平和運動や戦争に反対しない者は敵であり、うらぎり者になってしまう。
然し、神を知っている者は、真の平和は神の支配以外にないことを知っているからである。だからと言って、私は、平和運動を否定したり、戦争を肯定するものではない。キリスト者が、この世の平和運動に参加する時、それは、あくまでも相対的な平和運動であり、神以外に平和のないことを知っていなければならないことを強調したい。このことを知っている者に、始めてこの世の平和運動に対して、真の平和運動が出来るであろう。それは、イエスが言われているように、己が命を捨てて十字架を負うことになる。十字架を負うとは、神の子キリストが御自身を放棄して、賎しい僕の形をとって、世のため、死にまで降って行かれた十字架を負うことである。それは、一方的に己れを与えることである。
私は、自治活動をしていると、ときどき、霊的な酸欠症に罹り、呼吸難に陥ってしまう。その呼吸難から救われる道は、聖書と祈り以外にない。自治活動が烈しくなればなる程、そして、祈りの時間がなくなる程、酸欠症状は重い。この世は、神の国とは相容れない荒野なのだ。それ故に、神のものがこの世に関る時、酸欠が起るのである。
自治活動は、その結果が形となって現れないと、会員に不満の声が起る。言わば、自治活動は賭のようなものである。自治活動、つまり、政治活動に生き甲斐を感じている者は、その結果が形となって現れることにある。多く働けばその稔りも、それだけ多くなる。私は、10年間自治活動をして、このことを身を以て知らされた。運動が目に見えた形となって現れ、会員から感謝されることがあるけれど、私は、それを会員のために喜んでも、自己の生き甲斐にすることが出来ない。むしろ、逆に心の奥深いところで、強い孤独と悲哀を感じる。感動が大きければ大きい程、会員の感謝が多ければ多い程、悲哀と孤独は深い。それは、この世界のすべてを相対化してみているからである。真の喜び、仕合わせは、神に帰る以外にないからである。
この意味で自治活動は、私を、悲哀、孤独の人間にすると同時に、霊的酸欠症が重くなる一方である。それでも、私は自治活動から身を引くことが出来ない。イエス御自身が神の子であるにも拘わらず、賎しい僕となって、十字架の死にまで降り、世のためにとりなしていてくださるからである。地上で、誰よりも深い孤独と、悲哀の人がイエスであり、誰よりも重い、霊的酸欠症に罹っていたのはイエスであろう。その極点が十字架上のイエスである。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうして私を、お見捨てになったのですか)
キリスト者がこの世に関る時、誰もが多少の差はあれ、悲哀の人、孤独の人となり、霊的酸欠症に罹るであろう。このことが起らないとすれば、それは、この世と妥協し、神の国と、この世の接点である十字架が欠落しているためであろう。このような関り方は終末的なのである。
お手紙、懐しく、嬉しく拝見致しました。私から差上げなければならないところを、先生からいただき、ただ済まないと思うばかりでございます。お手紙を差上げたいと思いながら、どうしても書くことが出来ませんでした。それは、神様を信じたいと思いながらも、信じられないこと、肉体的には大きな試練に合わされ、書くだけの自由がゆるされなかったことにあります。先生と青森駅で別れ、私は一人東京に向ったのですが、車内で一人になると同時に、異様な空気に包まれてしまいました。周辺の乗客は、私から離れて他の車両に移る者、あるいは、反対側に集るなどして、一人にされてしまいました。私は、眠ったふりをよそおっていましたが、乗客の視線を全身に感じていました。それは、自分の方を見ては何かひそひそ呟き合っているのです。私はその視線に耐え切れず、次の駅に到着したのを機会に、逃げるように下車しました。全生病院には徒歩で行く決心をしたのでした。然し、そのような考えは甘かったのです。
牢から一歩も出されなかった私の足は弱っており、一日歩いただけで、両足のうらは皮をはいだように赤くただれてしまいました。感覚がないために、それまで気付かなかったのです。
私は、きずを癒すために、人気のない山中に入り、いく日か過しましたが、食物はなく、きずが癒るまで山中で待つことが出来ず、再び、東京に向って歩き出しました。それからと言うものは、きずと飢えに連日悩まされました。先生から頂いたお金はあっても、パンを売ってくれる店がないのです。私の姿をみると、足もとにパンを投げ、「早く行け、シッ、シッ」と、野良犬でも追い払うようにせき立てるのでした。私は、足もとに投げられたパンを拾うと、急いで店を出ました。その私に水をぶっかける者、犬をけしかける者、子供たちは石を投げるなどして、町から、村から追い払われました。私は、夜は人の住んでいない荒寺や墓地、火葬場などを住家としながら、全生病院に向ってひたすら歩き続けました。そこだけが、私を受入れてくれる唯一の場所、そこに行けば仕合わせがあると思いこんでいたのです。
足のきずは「たこ」のように踏みかためられては潰れ、また、潰れては踏みかためられなどして、悪化するばかりでした。時には、何週間も歩くことが出来ず、一ケ所にとどまっていることもありました。あまりの苦しさに一度は死を決意し、荒縄を持って、枝振のよい木の下に立ったことがあります。これが最後だと思った時、少年の頃から今日までのことが、走馬燈のように思い出されました。父のこと、母や妹のこと、座敷牢での生活など、懐しかったことつらかったことが、きれぎれに浮んでは消えて行きました。そのなかで、最後に私に残ったものは、「誰のため、何のために自分は生れて来たのか?」と言う自問でした。この問にぶつかった時、私は死を一時思いとどまりました。「誰のため、何のために自分は生きて来たのか?」の問に対する答えを見出すまでは、生きねばならないと決意したのです。
然し、この問に対する答えは、今もって見出すことが出来ません。その後、私は途中で精魂つきて動けなくなり、気を失ってしまいました。どの位そうした時間が続いたのかわかりませんが、気が付いた時、私の耳に警察官の呟くのが聞こえました。「まだ息があるんじゃないか、仏様の方が面倒臭くなくてよいのだが……」。
こうして、私は警察官に拾われ、家蓄を運ぶ貨車で、全生病院に送られました。そして、両足を足首から切断しましたが、私の身に奇跡が起ったのです。私の病形は湿性らいでしたが、神経らいに突然変異をしたのです。仲間は冗談のように、「らい菌が会議のために両足に集まったところを、足首から落としたために、癒ってしまったのだろう」と言いました。そんなこともあったかも知れませんが、収容されて間もなく、私は丹毒で40度の高熱を出しました。これがために、頭髪は脱落してしまいましたが、この高熱によって、湿性らいから神経らいに変質したのではないか? つまり、菌陰性になったのではないかと考えております。
両足を切断しましたが、社会で桶屋をしていた親方から、樽の義足を作って貰い、私は、何処へでも自由に歩いて行くことが出来るようになりました。そして不思議なことが起ったのです。歩くことが出来なかった時は、坐ったままの人生でしたが、義足で立った時、坐っていただけの人生に比べて、数倍の広がりをもって展開したのでした。静から動の人生に転換したのです。私は今、聖書をテキストに読み書きの勉強をしていますが、こんな言い方をしておゆるし下さい。
このなかには、勉強をしたくても読み物がないのです。新聞や雑誌類も自由に読むことが出来ません。活字と言えば先生から頂いた聖書だけなのです。申し訳ございませんが、聖書以外、何か適当な書物かありましたならば送って頂けないでしょうか。ここでは、勉強する時間はいくらでもあるのですが、図書館もなければ、書籍を入手する方法もなく、活字には、すごく飢えています。私のように、活字に飢えている者、 軽い労働をしたい者等さまざまですが、それに答えるだけの設備はなく、多くの者は身体をもてあまし、賭博や、モヒなどで日を過しているのが現状です。
この人達は、窮屈な隔離政策を嫌って、放浪時代の自由を求めていますが、こうした人達に、一日も早く、療養への希望が見出せるような制度を作る必要があるように思われます。今はただ、浮浪者を狩り集めて、収容所に収容したと言うだけで、すべてが、これからと言う感じがします。
終りに、母のことで、先生にお尋ねしてよいでしょうか? 私が牢の中で、一人死を待っていた時、先生は、その牢から私を救い出して下さいましたが、先生を私のもとに遣わしてくれたのは、母ではなかったでしょうか? それから母は再婚したのではないでしょうか?
母が、家を出た頃のことを考える時、再婚の相手がいたのではないか、と言う気がして来ました。母は、毎日行商をしていましたが、夜は、遅く帰って来ることもあり、時には、驚く程美しく見える日もありました。病院に入るまで、私は母を鬼のような人だと怨んでいました。動物でも、自分の生んだ子は可愛がって大事に育てますのに、我が子が呪われた病気に罹ったからと言って、牢に閉ぢこめて姿を消してしまう親が、ほかに居るでしょうか。
然し、今の私は、母を怨む気持は少しもありません。もし、再婚したのであれば、仕合わせに暮していてほしいと願っています。私が、このような気持になったのは、理由があります。自分が両足を切断して病室にいた時のことです。一人の若い女が尋ねて来ました。私は、始め看護婦さんではないかと思いましたが、それは、藤田サクと言う患者でした。藤田さんは12才の時発病し、父と2人で、流浪の旅を続けていたのでしたが、父は亡くなり、一人になって、全生病院に入院したのでした。この藤田さんが、私に、「貴男は石狩詩郎と言う方で、はると言う妹が居たでしょう」と言うのです。
石狩の姓は違っていますが、名前は、確かに私と妹なのです。その時の驚きを御想像下さい。藤田さん父娘には、石狩太郎と言う気の合った仲間がいました。病気は軽くなかったのですが、旅をするのに、それ程不自由ではありませんでした。この石狩太郎と言う浮浪者は、藤田サクさんに向って、「自分には、サクちゃんと同じ位の、男の子と女の子があった」と、機会ある毎に話していたと言うのです。藤田サクに、家に残して来た2人の子供のことが思い出され、折を見ては話したものと思われます。私は、母から、父は出稼ぎ先で事故に会い亡くなった、と聞かされていましたが、その父が生きていたなどとは、夢にも考えたことはありませんでした。然し、藤田さんに言われて気がついたのですが、亡くなった父の遺体を見た記憶がないのです。
父は、らいに罹り、家のことを考え、放浪の旅に出たのではなかったか? それは、間違いなく旅に出たものと思われます。そして、父は旅の途中で亡くなり、藤田父娘に手厚く葬られました。石狩太郎は、私の父であり、その事実を知った時、母に対する怨みは悉く消え去りました。母程、世に気の毒な人はいない。夫はらいに罹って放浪の旅に出、あとに残った母は、行商をしながら2人の子供を育てていましたが、私もまた、父と同じ病気に罹り、母の、最後ののぞみをも摘みとってしまったのです。母の悲しみが、どんなに深いものであったか、私には解るような気がします。その母が再婚したとすれば、私だけでなく、亡くなった父も、母のために、きっと喜んでいることと思います。
先生は、父の病気のことも、母の再婚のことも知っていたのではないでしょうか。そうだとすれば、母を怨んでいた私は、何と言うおろかな罪深い人間なのでしょう。差し支えかなければ、父のこと、母のことをお知らせ下さればさいわいです。この手紙は、脱走患者に託して外のポストに入れて貰うことにしています。無事先生のお手許に届くかどうか心配です。北海道は、今頃、厳しい冬を迎えているものと思いますが、何卒、御身大切にして下さい。武蔵野の一角より、遥かに先生の御健康を祈ります。
6月17日、公会堂で、秋津教会、カトリック教会、聖公会の三派合同主催による講演会が、午後一時より開催されました。講師は、中央大学文学部、小塩節教授で、演題は、「アウシュビッツ捕虜収容所と、ドイツ福音教会」でした。この講演で、私が最も感銘を受けたのは、ヒットラーが、最初に建てた捕虜収容所を訪れた時の話しでした。この捕虜収容所は、のちに、アウシュビッツ捕虜収容所の原型となったものです。
教授の話された内容に対する私の感想は、人間加工場と言う一言につきます。重労働で、骨と皮ばかりになったユダヤ人が、先づ最初に連れて行かれたのは「バーバーショップ」で、ここで断髪され、次に入浴するのですが、それは死の入浴であり、シャワーの代りに十分で死ぬガスの洗礼を受けたのです。遺体は流れ作業となって火葬場に運ばれるのですが、その途中で、遺体からは金冠が抜きとられ、カマボコ型のカマに移されます。カマの底には、いくつかの穴があって遺体より脂肪が抜きとられ、最後に灰になります。
教授の説明によると、人間を殺すことによって、加工工場の設備費、人権費を差し引いても、尚利益があったと言うことです。600万人のユダヤ人を殺すことによって、どれだけの利益があったのであろうか? 教授は、このあと、地方のある教会の夕拝に出席し、白髪の 紳士の説教をききましたが、この人は、ヒットラーに抵抗して投獄され、連合軍の落下傘部隊によって救出された数学の先生でした。説教のテーマは、癲癇の子の父の告白、「主よわれは信ず、信仰なきわれを助け給え」でした。この教会は、どういう性格のものであろうか、牧師ではなく、数学の先生が説教をしているところは、無教会に似ていると思いました。
アウシュビッツのことは、映画化もされて、あまりにも有名であります。世界の多くの人は、活字で、あるいは映画で知っていると思いますが、改めて、人間の罪の深さを知らされた思いでした。神を否定し、自己を絶対化する時、人間を商品として加工する思想が生れて来るものと思われます。それは、神の厳しい審判であり、何人も、その審きをのがれることは出来ません。
ユダヤ人は、神の選びの民であり、このユダヤ人を通して、神は御自身を啓示し給う、アブラハム、ダビテ、モーセ、そして、イザヤ、エレミヤがそれであり、これら予言者を通して、新約のイエスが指し示されています。ロマ書11章では、ユダヤ人の不信は異邦人の救われるためであり、そして、最後にユダヤ人が救われるとありますが、アウシュビッツにおけるユダヤ人600万に及ぶ処刑は、何を指し示しているのであろうか。終りの日のキリストの来臨を、指し示しているように思われます。
6月は、行事の多い月で、5月29日より6月4日まで盆栽会の展示会、5日より7日は全患協本部中央委員による55年度予算要求行動、8日は、多磨盲人会ハーモニカバンドの演奏会、12日は、老齢者会の総会、14日より19日までは、全国囲碁大会が、厚生会館で開催されます。