「小さき声」 目次


 小さき声 No.203 197975日発行

松本馨 

終りの日

 ホーリネス系の信徒であろうか熱心な再臨主義者に会った。彼に言わせると現在は世の終りでありそのしるしとしていくつかの例をあげた。その一番のしるしは世界的に不信の時代を迎えていること「……人の子が来るとき地上に信仰が見られるであろうか」(ルカによる福音書188)。神なき不信の結果としてロッキードダグラスに見られるような政界の腐敗男女間の乱れモラルの低下科学的には原水爆の出現……。 終りの日にこの原水爆は決定的な役割を果すであろう。米ソを始め世界はこぞって原水爆をもつことをのぞんでいるがそれは世界が各自の責任において終りの日のために準備をしているのである。この危機的世界から人類を救うものはキリストの再臨以外にはなくその日は近いと言うのである。私はこの話に共感を覚えたが全面的に賛成することが出来なかった。

信仰とは何か聖書は多岐的でありその読み方によっては再臨を信仰の中心におくことができ或は復活を中心におくことができよう。そしてまた十字架を中心におくこともできる。何れをとってもそれは事実であり間違っているとは言えないが聖書の中心にあるものはイエスの代罰ではないだろうか? この問題を欠落させることはできない。即ちイエスが言われているように「神の支配と神の義を求めよ」と言うことであり十字架による審判と赦しは義の問題であり信仰の中心でなければならないと思う。

終りの日に私たちはキリストが審判者として来り給うことを知っている。然し十字架を欠落させてキリストの再臨を求める時それは抽象的なもの観念的なものになってしまわないだろうか。

キリストはあくまでも人の子として世にこられた。世にこられたと言うことはマリヤからお生れになったと言うことよりも世の罪を負って十字架にかけられ神なき世俗の直中に立たれたことであろう。私たちがどんなに不信仰であっても神なきこの世に埋没していても十字架においてキリストをみることができるのである。

十字架は私たちと同じ神なき場所世俗のどん底だからである。そこに神の子キリストは人となって私たちと同じ位置に立って居給う。キリストの再臨を待望するのはこれがためであり十字架を再臨のキリストにみることができるからである。十字架を離れて復活のイエスを知ることができないし再臨のキリストを知ることもできない。

終りの日とは一体何であろうか冒頭の再臨主義者が語ったような世の終りを指すのであろうか?。聖書の言う世の終りとはキリストの到来を指して言っているのではないだろうか? 時間的又は事物の滅び、精神の滅びを指して言っているのではないように思われる。

「その日その時はだれも知らない。天の御便たちもまた子も知らない。ただ父だけが知っておられる」。(マタイによる福音書2436)

その日その時とはキリストの来臨を指し示すものでありそれが世の終りである。つまりキリストの到来が世の終りであって世の終りがあってキリストが来るのではない。

十字架はキリストとイエスの接点である。神の子が人となり世の罪を負われた場所なのである。このところを離れて私たちはキリストを知ることができない。また終りの日のキリストの前に立つこともできない。とすれば十字架に集中することは終りの日に生きていることにならないだろうか。イエスの死と生をこの世にもち運ぶとは終りの日をもち運んでいることにならないだろうか。

私は自治活動をしているがその関り方は終末的である。私はこの世に対して何の期待もしていないし行為に対する報酬をも望んではいない。それは一方的に仕えるだけである。私はキリストのものでありこの世のものではないからである。

自治活動の基本的な考え方はいっさいを相対化してみることである。組織活動はともすれば自己を絶対化する危険が伴なう。平和運動や戦争反対はその最もよい例であろう。平和運動や戦争に反対しない者は敵でありうらぎり者になってしまう。

然し神を知っている者は真の平和は神の支配以外にないことを知っているからである。だからと言って私は平和運動を否定したり戦争を肯定するものではない。キリスト者がこの世の平和運動に参加する時それはあくまでも相対的な平和運動であり神以外に平和のないことを知っていなければならないことを強調したい。このことを知っている者に始めてこの世の平和運動に対して真の平和運動が出来るであろう。それはイエスが言われているように己が命を捨てて十字架を負うことになる。十字架を負うとは神の子キリストが御自身を放棄して賎しい僕の形をとって世のため死にまで降って行かれた十字架を負うことである。それは一方的に己れを与えることである。

私は自治活動をしているとときどき霊的な酸欠症に罹り呼吸難に陥ってしまう。その呼吸難から救われる道は聖書と祈り以外にない。自治活動が烈しくなればなる程そして祈りの時間がなくなる程酸欠症状は重い。この世は神の国とは相容れない荒野なのだ。それ故に神のものがこの世に関る時酸欠が起るのである。

自治活動はその結果が形となって現れないと会員に不満の声が起る。言わば自治活動は賭のようなものである。自治活動つまり政治活動に生き甲斐を感じている者はその結果が形となって現れることにある。多く働けばその稔りもそれだけ多くなる。私は10年間自治活動をしてこのことを身を以て知らされた。運動が目に見えた形となって現れ会員から感謝されることがあるけれど私はそれを会員のために喜んでも自己の生き甲斐にすることが出来ない。むしろ逆に心の奥深いところで強い孤独と悲哀を感じる。感動が大きければ大きい程会員の感謝が多ければ多い程悲哀と孤独は深い。それはこの世界のすべてを相対化してみているからである。真の喜び仕合わせは神に帰る以外にないからである。

この意味で自治活動は私を悲哀孤独の人間にすると同時に霊的酸欠症が重くなる一方である。それでも私は自治活動から身を引くことが出来ない。イエス御自身が神の子であるにも拘わらず賎しい僕となって十字架の死にまで降り世のためにとりなしていてくださるからである。地上で誰よりも深い孤独と悲哀の人がイエスであり誰よりも重い霊的酸欠症に罹っていたのはイエスであろう。その極点が十字架上のイエスである。

「エリエリ、レマサバクタニ」(わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか)

キリスト者がこの世に関る時誰もが多少の差はあれ悲哀の人孤独の人となり霊的酸欠症に罹るであろう。このことが起らないとすればそれはこの世と妥協し神の国とこの世の接点である十字架が欠落しているためであろう。このような関り方は終末的なのである。

愛による絶対隔絶

 4章 手紙 (1)

 飯野重吉先生 19131128

 お手紙懐しく嬉しく拝見致しました。私から差上げなければならないところを先生からいただきただ済まないと思うばかりでございます。お手紙を差上げたいと思いながらどうしても書くことが出来ませんでした。それは神様を信じたいと思いながらも信じられないこと肉体的には大きな試練に合わされ書くだけの自由がゆるされなかったことにあります。先生と青森駅で別れ私は一人東京に向ったのですが車内で一人になると同時に異様な空気に包まれてしまいました。周辺の乗客は私から離れて他の車両に移る者あるいは反対側に集るなどして一人にされてしまいました。私は眠ったふりをよそおっていましたが乗客の視線を全身に感じていました。それは自分の方を見ては何かひそひそ呟き合っているのです。私はその視線に耐え切れず次の駅に到着したのを機会に逃げるように下車しました。全生病院には徒歩で行く決心をしたのでした。然しそのような考えは甘かったのです。

牢から一歩も出されなかった私の足は弱っており一日歩いただけで両足のうらは皮をはいだように赤くただれてしまいました。感覚がないためにそれまで気付かなかったのです。

私はきずを癒すために人気のない山中に入りいく日か過しましたが、食物はなくきずが癒るまで山中で待つことが出来ず再び東京に向って歩き出しました。それからと言うものはきずと飢えに連日悩まされました。先生から頂いたお金はあってもパンを売ってくれる店がないのです。私の姿をみると足もとにパンを投げ「早く行けシッシッ」と野良犬でも追い払うようにせき立てるのでした。私は足もとに投げられたパンを拾うと急いで店を出ました。その私に水をぶっかける者犬をけしかける者子供たちは石を投げるなどして町から村から追い払われました。私は夜は人の住んでいない荒寺や墓地火葬場などを住家としながら全生病院に向ってひたすら歩き続けました。そこだけが私を受入れてくれる唯一の場所そこに行けば仕合わせがあると思いこんでいたのです。

足のきずは「たこ」のように踏みかためられては潰れまた潰れては踏みかためられなどして悪化するばかりでした。時には何週間も歩くことが出来ず一ケ所にとどまっていることもありました。あまりの苦しさに一度は死を決意し荒縄を持って枝振のよい木の下に立ったことがあります。これが最後だと思った時少年の頃から今日までのことが走馬燈のように思い出されました。父のこと母や妹のこと座敷牢での生活など懐しかったことつらかったことがきれぎれに浮んでは消えて行きました。そのなかで最後に私に残ったものは「誰のため何のために自分は生れて来たのか?」と言う自問でした。この問にぶつかった時私は死を一時思いとどまりました。「誰のため何のために自分は生きて来たのか?」の問に対する答えを見出すまでは生きねばならないと決意したのです。

然しこの問に対する答えは今もって見出すことが出来ません。その後私は途中で精魂つきて動けなくなり気を失ってしまいました。どの位そうした時間が続いたのかわかりませんが気が付いた時私の耳に警察官の呟くのが聞こえました。「まだ息があるんじゃないか仏様の方が面倒臭くなくてよいのだが……」。

こうして私は警察官に拾われ家蓄を運ぶ貨車で全生病院に送られました。そして両足を足首から切断しましたが私の身に奇跡が起ったのです。私の病形は湿性らいでしたが神経らいに突然変異をしたのです。仲間は冗談のように「らい菌が会議のために両足に集まったところを足首から落としたために癒ってしまったのだろう」と言いました。そんなこともあったかも知れませんが収容されて間もなく私は丹毒で40度の高熱を出しました。これがために頭髪は脱落してしまいましたがこの高熱によって湿性らいから神経らいに変質したのではないか? つまり菌陰性になったのではないかと考えております。

両足を切断しましたが社会で桶屋をしていた親方から樽の義足を作って貰い私は何処へでも自由に歩いて行くことが出来るようになりました。そして不思議なことが起ったのです。歩くことが出来なかった時は坐ったままの人生でしたが義足で立った時坐っていただけの人生に比べて数倍の広がりをもって展開したのでした。静から動の人生に転換したのです。私は今聖書をテキストに読み書きの勉強をしていますがこんな言い方をしておゆるし下さい。

このなかには勉強をしたくても読み物がないのです。新聞や雑誌類も自由に読むことが出来ません。活字と言えば先生から頂いた聖書だけなのです。申し訳ございませんが聖書以外何か適当な書物かありましたならば送って頂けないでしょうか。ここでは勉強する時間はいくらでもあるのですが図書館もなければ書籍を入手する方法もなく活字にはすごく飢えています。私のように活字に飢えている者軽い労働をしたい者等さまざまですがそれに答えるだけの設備はなく多くの者は身体をもてあまし賭博やモヒなどで日を過しているのが現状です。

この人達は窮屈な隔離政策を嫌って放浪時代の自由を求めていますがこうした人達に一日も早く療養への希望が見出せるような制度を作る必要があるように思われます。今はただ浮浪者を狩り集めて収容所に収容したと言うだけですべてがこれからと言う感じがします。

終りに母のことで先生にお尋ねしてよいでしょうか? 私が牢の中で一人死を待っていた時先生はその牢から私を救い出して下さいましたが先生を私のもとに遣わしてくれたのは母ではなかったでしょうか? それから母は再婚したのではないでしょうか? 

母が家を出た頃のことを考える時再婚の相手がいたのではないかと言う気がして来ました。母は毎日行商をしていましたが夜は遅く帰って来ることもあり時には驚く程美しく見える日もありました。病院に入るまで私は母を鬼のような人だと怨んでいました。動物でも自分の生んだ子は可愛がって大事に育てますのに我が子が呪われた病気に罹ったからと言って牢に閉ぢこめて姿を消してしまう親がほかに居るでしょうか。

然し今の私は母を怨む気持は少しもありません。もし再婚したのであれば仕合わせに暮していてほしいと願っています。私がこのような気持になったのは理由があります。自分が両足を切断して病室にいた時のことです。一人の若い女が尋ねて来ました。私は始め看護婦さんではないかと思いましたがそれは藤田サクと言う患者でした。藤田さんは12才の時発病し父と2人で流浪の旅を続けていたのでしたが父は亡くなり一人になって全生病院に入院したのでした。この藤田さんが私に「貴男は石狩詩郎と言う方ではると言う妹が居たでしょう」と言うのです。

石狩の姓は違っていますが名前は確かに私と妹なのです。その時の驚きを御想像下さい。藤田さん父娘には石狩太郎と言う気の合った仲間がいました。病気は軽くなかったのですが旅をするのにそれ程不自由ではありませんでした。この石狩太郎と言う浮浪者は藤田サクさんに向って「自分にはサクちゃんと同じ位の男の子と女の子があった」と機会ある毎に話していたと言うのです。藤田サクに家に残して来た2人の子供のことが思い出され折を見ては話したものと思われます。私は母から父は出稼ぎ先で事故に会い亡くなったと聞かされていましたがその父が生きていたなどとは夢にも考えたことはありませんでした。然し藤田さんに言われて気がついたのですが亡くなった父の遺体を見た記憶がないのです。

父はらいに罹り家のことを考え放浪の旅に出たのではなかったか? それは間違いなく旅に出たものと思われます。そして父は旅の途中で亡くなり藤田父娘に手厚く葬られました。石狩太郎は私の父でありその事実を知った時母に対する怨みは悉く消え去りました。母程世に気の毒な人はいない。夫はらいに罹って放浪の旅に出あとに残った母は行商をしながら2人の子供を育てていましたが私もまた父と同じ病気に罹り母の最後ののぞみをも摘みとってしまったのです。母の悲しみがどんなに深いものであったか私には解るような気がします。その母が再婚したとすれば、私だけでなく亡くなった父も母のためにきっと喜んでいることと思います。

先生は父の病気のことも母の再婚のことも知っていたのではないでしょうか。そうだとすれば母を怨んでいた私は何と言うおろかな罪深い人間なのでしょう。差し支えかなければ父のこと母のことをお知らせ下さればさいわいです。この手紙は脱走患者に託して外のポストに入れて貰うことにしています。無事先生のお手許に届くかどうか心配です。北海道は今頃厳しい冬を迎えているものと思いますが何卒御身大切にして下さい。武蔵野の一角より遥かに先生の御健康を祈ります。

 人間の罪

 6月17日公会堂で秋津教会カトリック教会聖公会の三派合同主催による講演会が午後一時より開催されました。講師は中央大学文学部小塩節教授で演題は「アウシュビッツ捕虜収容所とドイツ福音教会」でした。この講演で私が最も感銘を受けたのはヒットラーが最初に建てた捕虜収容所を訪れた時の話しでした。この捕虜収容所はのちにアウシュビッツ捕虜収容所の原型となったものです。

教授の話された内容に対する私の感想は人間加工場と言う一言につきます。重労働で骨と皮ばかりになったユダヤ人が先づ最初に連れて行かれたのは「バーバーショップ」でここで断髪され次に入浴するのですがそれは死の入浴でありシャワーの代りに十分で死ぬガスの洗礼を受けたのです。遺体は流れ作業となって火葬場に運ばれるのですがその途中で遺体からは金冠が抜きとられカマボコ型のカマに移されます。カマの底にはいくつかの穴があって遺体より脂肪が抜きとられ最後に灰になります。

教授の説明によると人間を殺すことによって加工工場の設備費人権費を差し引いても尚利益があったと言うことです。600万人のユダヤ人を殺すことによってどれだけの利益があったのであろうか? 教授はこのあと地方のある教会の夕拝に出席し白髪の 紳士の説教をききましたがこの人はヒットラーに抵抗して投獄され連合軍の落下傘部隊によって救出された数学の先生でした。説教のテーマは癲癇の子の父の告白「主よわれは信ず信仰なきわれを助け給え」でした。この教会はどういう性格のものであろうか牧師ではなく数学の先生が説教をしているところは無教会に似ていると思いました。

アウシュビッツのことは映画化もされてあまりにも有名であります。世界の多くの人は活字であるいは映画で知っていると思いますが改めて人間の罪の深さを知らされた思いでした。神を否定し自己を絶対化する時人間を商品として加工する思想が生れて来るものと思われます。それは神の厳しい審判であり何人もその審きをのがれることは出来ません。

ユダヤ人は神の選びの民でありこのユダヤ人を通して神は御自身を啓示し給うアブラハムダビテモーセそしてイザヤエレミヤがそれでありこれら予言者を通して新約のイエスが指し示されています。ロマ書11章ではユダヤ人の不信は異邦人の救われるためでありそして最後にユダヤ人が救われるとありますがアウシュビッツにおけるユダヤ人600万に及ぶ処刑は何を指し示しているのであろうか。終りの日のキリストの来臨を指し示しているように思われます。

療養通信

 6月は行事の多い月で5月29日より6月4日まで盆栽会の展示会5日より7日は全患協本部中央委員による55年度予算要求行動8日は多磨盲人会ハーモニカバンドの演奏会12日は老齢者会の総会14日より19日までは全国囲碁大会が厚生会館で開催されます。