「小さき声」 目次


 小さき声 No.21 1964525日発行

松本馨

三つの手紙 () 所内伝道を志す友へ 

あなたは、多くのことを語りましたが、要するに社会復帰を断念し、同病者の伝道のため一生を捧げると言うのでしょう。正直のところあなたの言葉をきいて、奇異な感を受けました。病人でないものが、病院で一生くらすということは、奇異なことではないでしょうか。 

もし、あなたが、らいでなく他の病気、たとえば結核で入院していて回復したとします。そして、ここで語ったことを言ったら、あなたの家族はあなたの入院費をうち切るか、専門医にあなたの精神鑑定を依頼することにならないでしょうか。もし、入院費の全額を国が負担しているとすれば、病院をあずかる院長は、義務としてあなたに退院勧告を出すでしょう。 

一般病院で考えられないことが、この世界では、自然に受け取られています。あなたの言葉に対しても、それをあやしむ者もなく、所長もまた退所勧告を出すことはないでしょう。私たちはそのことを喜んでいいのでしょうか。それを悲しむべきでしょうか。 

つぎに私が奇異に感じることは、療養所の伝道は、患者でければならないと言うことです。理由は患者のことは患者でなければ解らないと言うことですが、伝道の第一条件はキリストの僕であるということではないでしょうか。第二第三の条件も同様であります。十字架の言にはそれを伝える者は、イエスのなげかれたごとく、ふるさとに受け入れられないという性質をもっています。患者のことは患者でなければ解らないという考えは、イエスのなげかれた言と矛盾していないでしょうか。もしあなたがテレビ、映画に熱中している兄弟、あるいは野球や相撲に熱中している兄妹にその熱心の十分の一を神にささげようと言ったらどういうことになるでしょう。また、競輪に魂を奪われている兄弟に、それは罪だと指摘し、また身分不相応な家庭電化のために、夫は労務外出に、妻は内職に魂を奪われている夫婦に、その十分の一の熱心を、神に捧げるように言ったら、この人たちは言うでしょう。「私たちは毎週の日曜礼拝を守っている。間違ったことはしていない。生きて行くために必要な最低のものと、慰安を求めているに過ぎない。世の人たちに比較するなら、私たちの生活は貧しく、その慰安は微々たるものである」

もし、あなたが多くの人の前で聖書を破ってみせている人、自分が教会に籍を置くのは、アメリカさん、イギリスさん、ローマさんから物がもらえるからだと言っている人たちに、神の審判を告げるなら、あなたは顔がこわれるくらいなぐられるでしょう。それでもなお語りつづけるなら、あなたは狂信者、兄弟を裁く、神を恐れぬ、高慢な者としてユダの如く忌み嫌われ、誰からも相手にされなくなるでしょう。そして、好むと好まざるとにかかわらず、あなたは外に出ていかなければならなくなります。友よ、私がこのようなことを語るのは、次のことが言いたいからであります。即ち、キリストの血によって贖われ、神のものとされていることはどういう意味かということです。イエスが地上にもちきたった神の国の一兵士として、戦列に加えられていることではないでしょうか。ある者は、神の言の剣と銃をとって前線に、ある者は祈りの食糧と弾丸を前線に送る輸送隊に加えられています。ベッドで動くこともできない病人も、明日死ぬ病人も、天の万軍をひきいて地上に来り給うキリストを迎える日までは、一時として戦を休むことはできません。

教会は、毎年多くの信者を世に送り出しています。が、その中の何人が戦列に加わっているでしょう。巨大な世の力の下に、屈伏し、戦列から落後しているのが実状ではないでしょうか。その原因が、あなたがたはらいという十字架を負っている。それ故に、何もしなくても救われると、特殊な恵と特殊な信仰を植えつけられたことにあります。十字架の義の前にらいに何の価値がありましょう。健康な肉体に如何なる意味がありでしょう。同じ土塊で作られた二つの器に過ぎません。(ロマ書921)

いま、私たちに求められることは、このような特殊な恵と信仰とを神にかえすことではないでしょうか。私は所内伝道という言葉を好みませんが、まずあなたがそれを望むなら、そのことからなさるべきです。そして、それはあなたが速やかに社会復帰することです。自ら働き、世に向かって伝道すべきです。この世界で受けた恵のかずかずを世に向かって証しとするとき、あなたはもとらい病人のキリスト者というだけで、様々の困難と苦しみに会うでしょう。その苦しみと困難が所内伝道であります。らい園にむけられたあなたのキリストの証しではないでしょうか。

この病いは死に至らず 二十一

第七章

ロマ書を著したパウロに、七章の実験があります。一日に数節の聖言を暗誦すること以外に、聖書を学ぶことを許されなかった私にとって、また、律法をもたない異邦人である私にとって、血と汗でつづられたパウロの七章は、唯一のロマ書注解でした。聖霊によって著されたキリストの罪である私たちはみなそれぞれ七章をもっているのではないでしょうか。私の七章は、自分から望んだ実験ではなく、上から強いられた実験です。私の七章は、イエス・キリストと、その十字架を知ったことがはじめであり終わりです。 

私はイエス・キリストと、その十字架を知ったとき、自分の罪を知りました。もし、彼を知らなかったら、おそらく一生私は、罪に泣き、罪に苦しんでいながら罪を知ることはないでしょう。イエスを知ったことであります。また、同時に罪を知ったことです。彼から義人の刻印を押されると共に、罪人の刻印も押されたのです。彼の命と共に、彼の死をも受けたのです。彼から平安と苦しみ、希望と絶望、歓喜と悲しみを受けたのです。

もし、彼を知らなかったら、生きながら怒りの子である私は、怒りなるものを知らなかつたでしょう。彼を知ったために、心に殺人の罪をおかし、彼のために裁かれ、死に渡される結果になりました。もし、彼を知らなかったら、愛敵なるものを知らなかったでしょう。彼を知ったために私を恥かしめる者、忌み嫌う者、あなどる者、卑める者に対して罪をおかす結果となりました。 

むかし、若かった頃、監督に引率されて、園外に落葉掻きにいったことがあります。門を出るとき私たちの一行の前と後には、白衣で武装した二人の監督がついていました。先頭の監督は腰が曲がるほど大きなカギ束を腰にぶら下げてガチガチいわせていました。その後から、篭を積んだ車をはさんで、私たちの仲間がつづきました。青や黄や、紺の作業服に長靴をはき、ある者は車を引き、ある者は熊手をかつぎ、ある者は腰に鎌をさし、あるものはやかんや、水のはいったバケツを下げていました。それは、作業場に連行される囚人の一行となんら変わりません。

落葉で埋まった林道をしばらく進んで行くと、前方にチャンチャンコにもも引きの農夫が落葉を掻いていました。農夫は手を休めて、私たちが近づくのを珍しそうに眺めていましたが、お互いの顔がはっきり解る所まで近づいたとき、農夫は突然篭を引きずって逃げ出しました。木と木の間を背をまるくして猿のように逃げていくのです。その時私は群衆の面前で、顔に平手打ちをくったような激しい恥辱と怒りを感じました。そして、その後を追っていき農夫をつかまえて熊手と篭を奪い、着ている物をはぎ取り、のどを鶏の首をしめるように、しめてやりたい衝動にかられました。こうしたことは、しばしば経験しました。十字架のイエスを知ったために、心に隠れていたこれらの罪が生きかえり、死に渡される結果になったのです。では、イエスキリストは罪なのでしょうか。そうではなく、彼のために死にわたされ、彼の生命にのまれるためです。十字架の主イエス・キリストは、私たちの罪のために裁かれ、十字架の死に渡され、ご自身の生命を与えて下さるのです。その生命を受くるとき、怒りから解放されて敵を愛することができます。 

「十字架の言は、滅びゆく者には愚かではあるが、救にあずかる私たちには、神の力である」(コリント一118)

これが私の実験であり、その記録が私の七章です。 

講義を受ける 

1952年秋から毎月1回、関根先生の聖書講義を受けることになりました。場所は学園の教室でイエスにまねかれた取税人、罪人のごとく、先生に同行して来た兄妹と一緒に受けたのです。社会の人と同席したのは隔離されて以来はじめてのことで、十七年ぶりでした。それまでは、同席はおろか接近することさえ許されなかったのです。講義のテキストは詩篇でした。何べんも読みましたが、全篇を連読して読んだことがありません。このことは旧約聖書全体にいえることで、私が目を通したのはモーゼ五書くらいです。いかに不熱心、不勉強であったかがわかります。

講義は、私には難解中の難解でした。テキストなしで聞くのですから解らないのが当然といえます。三回目ぐらいだったでしょうか、私は先生にお願いして次回は何編であるか、一週間前くらいにあらかじめ知らせていただくことにしました。この一週間の間に、テキストの詩篇を暗記して講義にのぞむようにしたのです。それでも私には難解で、講義を十とすれば、その中の九は解りませんでした。しかし、十の中の一つが解るだけで、私のさかずきはあふれました。私は、はじめの間は講義全体を知ることはあきらめて、ただ一つのことに心を集中しました。それは、今まで考えたことも思ってもみなかったこと、聞いたことも、学んだこともない新しい言。生まれてはじめて経験する世界のできごとです。

「きょうダビテの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。この方こそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼い葉桶の中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたにあたえられるしるしである」(ルカ21112)

と、御使いが羊飼いに告げた人。

「このように、タビテ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビテの子であろうか」(マタイ2245)

 と、いわれた人。「イエスは彼らに言われた。

 『よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前からわたしはいるのである』」(ヨハネ858)

 と、ご自身を証しされた人。

 「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい。他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう」(マタイ274042)

 と、群衆、祭司長、律法学者、長老らに辱められた人。

 「イエスは、大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言われた。それは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ2746)

 とよばわった人。イエス・キリストとその十字架であります。十数年前に知った人でありますが、眼科病棟で生ける神の声を聞いたときより、彼と私との間は、生きた関係になりました。彼の名を耳にするとき、私は生命の充溢を感じます。

先生は新約をはなれて、詩篇を講義なされなかったので、その名と、その出来ごとについては毎回聞くことができました。同じ先生の口から繰り返し聞かされるその名と、その出来事は、一回よりも二回、二回よりも三回、と新しくいまはじめて聞く人の名の如く、その出来事は、今起こったニュースのごとく新しいのです。それは誇張ではなく事実です。恋人の消息を聞くとき、退屈したり、その名にあきることがあるでしょうか。恋人はもぎたてのトマトのように、相手の心の中に新鮮に生きつづけるでしょう。よみがえりであり、生命でいたまうイエス・キリストは、永遠の恋人であり、永遠に新しい人であります。十字架の血によって聖められた者もまた新しい人です。

「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ロマ書634)

講義は一年に僅か十二回にすぎませんでしたが、その一回、一回が私には驚きでした。あるときは、まぶねのみどり子のイエスの前に引き出され、あるときは、イエスと共に十字架につけられた強盗の如く、イエスを拝し、あるときは復活のイエスの足下にひれふし、あるときは、苦難の僕の前に引き出されました。

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと、しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のため砕かれたのだ。彼は自ら懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ5335)

盲人のために進んで死ぬ人はいるでしょう。しかし、らい病人のために、大罪をおかして獄につながれている者のために、人殺しの死刑囚のために、いったいだれが死んでくれるでしょう。神の子、イエス・キリスト以外におりません。十字架を仰いで誰が泣かぬ者がありましょう。狂喜しない者がありましょう。講義は十字架の言にみちあふれました。(つづく)

ことば

散歩に快適な季節となった。武蔵野は、若葉の香りが薫風のように青く感じられる。それが全身にしみるようである。

私は、朝、木の葉を打つ杖の音を聞くのが好きである。特に、雨あがりの朝とか、梅雨の朝、しずくが木の葉をはげしく打った音が好きである。

天の恵みの露をしのばせるからである。神の恵の露は、露の語感からくる暗いものではない。

壮大な詩篇133篇のヘルモンの露である。

五百巻入るテープの書棚を作った。

私の希望は、この倍の書棚であるが、場所がないことと、先だったものがないために断念した。

内村先生の「ロマ書研究」を収録すると、Mさんの計算によると十巻になる。五百巻だと「ロマ書研究」程度の本が五十冊である。そう多くないが、これだけ集めるには十年かかる。

気の長い話である。

現在、私のもとには百巻あるが、これだけ集めるのに三年かかった。

内容は聖書と、関根先生の聖書講義と雑誌が大部分である。

この他に内村先生の「ヨブ記」と、収録中の「ロマ書研究」「ガリラヤの道」「旧本の天職」がある。

これだけのものを繰り返し聞いている。ここは盲人が約一五○人いるが、ラジオを持っていないのはおそらく私だけである。

ニュース以外は、あまりラジオには興味がない。

盲人会館には、文学書、その他のテープがあるが、私の聞きたいものはない。

結局、自分のテープを繰り返し聞くより他にないのである。

しかし、何回くり返して聞いても退屈することはない。それが私の生きるためであり、私のよろこびであり、楽しみである。

人に変人と言われ、おろか者と言われても苦にならない。

むしろ、変人であることに神に感謝し、おろか者にされていることを喜んでいる。