「小さき声」 目次


 小さき声 No.3 19621124日発行

松本馨

<自由>

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 聖書をはじめてひらいたとき、わからぬことばかりであった。その後、心の目がひらけて、聖書が私に語りかけるようになったが、最後まで理解出来なかったのは、パウロの次の言であった。「召されるとき、奴隷であってもそれを気にしてはならない」(コリント1721) 奴隷であってもそれを気にしたり、思い煩ってはならないというのである。パウロは次節で「主によって召された奴隷は主によって自由人とされた奴隷である」と説明している。世にこれ程不思議な言があろうか。奴隷から解放されて、自由人になり得るのである。奴隷の自由人とは何を意味するのであろうか。私は誤訳でないかと思い辞典を引いてみた。が、やはり誤訳ではなかった。私はこの聖句に接する度に、いらだたしく、心の平静を失った。奴隷の下で、苦しんでいる被害者の一人であったからである。らいは私が好むと好まざるに関わらず、私の主人である。私は彼のために捕えられ、獄屋のはずかしめを受けている。若い頃、私は囚人を羨望したものである。彼らには服役の期がおわり、その罪が赦され自由の身となるときがあるのである。私には無い。らいの牢獄に永遠に閉ざされているのである。戦前の話であるが、はじめて帰省したことがあった。当時の帰省は今の退院よりもむずかしかったが、門を出たとき、空気の甘いのにおどろいた。柊の生垣の内と外との空気が違う筈はないのであるが、全身に沁み入るように甘いのである。私は駅に向かって歩きはじめたが、体に羽が生えたようで地に足がつかず困った。道はどこまで歩いてもさえぎる塀はなく、私は心臓が躍って歩くことができず、幾度も立ち止まらなければならなかった。囚人の自由への欲求は異常である。聖書の中で「自由」の文字ほど私の心をおどらすものはない。 

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 私が神を求めたのも、らいの牢獄から解放されたいためである。しかし、神は私に求むるものを与えなかった。かえって私が恐れていたもの、神を信じていなかったときにも祈らずにはおられなかったもの、死よりも恐れていたものを与えた。サタンは私を打ち、光を私から奪ってしまった。私は失明して知った。昼は太陽、夜は月と星を見ることが出来た。光と風、木と草、鮮烈な季節の花を見ることが出来た。富士や、秩父の山々を望見することが出来た。書物を通じて、世界のいずこへも行くことが出来たのである。しかし、私にはまだ歩く自由があった。冬の期間を除いて私は毎朝散歩をする。太陽が上るか上らない頃の清澄な大気の下を歩いて自由を楽しむのである。この頃の季節になると、落葉掻く人が路上で焚火をしている。いっであったか、私は焚火の中を歩いて通ったことがある。落葉掻く人は熊手を投げ出し、大きな声を出して私のところへとんで来ると、私の足から火の粉を払った。そのときはじめて・火の中を歩いたことを知って愕然となった。私の足は燃えていても、私にはわからない。手もまた同じである。目は目、手は手、足は足で鎖につながれてしまったのである。 

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私の生は、影のように不確かである。おかしなことを言うようであるが、神の言を離れて、自己の生死を確かめることは出来ない。生きていると思えば生きているようであり、死んでいると思えば死んでいるようである。人は言うであろう、「めしを食っているではないか」と。めしを食っていることが、人間として生きている証拠にはならない。虫もけものも食ったり、寝たり、起きたりしているのである。 

 こうした中で、私はイエス・キリストと、十字架を知った。そして自己の罪を知らされた。十字架の前に一人立たされたとき、誰か自己の罪を戦慄せぬものがあろう。先に、らいは私が好むと好まざるとに関わらず、私の主人であり、私は彼に捕えられ、獄屋のはずかしめを受けていると書いた。しかし、私を牢獄に閉じ込めていたのはらいではない。らいは手先であり、その主人は罪であり、罪の主人()は死である。魂の核は死である。イエスはかかる死を死に、私たちを罪と死から解放した。私はイエス・キリストを知らずして、自己の生死を知らない。イエスの死を知って、初めて自己の死を知り、復活のキリストを知って、初めて自己の生を知った。神の恵みにより、信仰により、イエスの死をこの身に受け、キリストの生を生としているのである。パウロの奴隷の自由はキリストの命に呑まれてはじめて分かることである。私の体は今もなお鎖につながれている。猫はねずみを捕り、犬は家の番をする。私にはそれだけの力も自由もない。しかし、私はすべてのものに対して自由である。私は今ほど自由の空気を呼吸したことはない。パウロは福音のために、自由を用いつくさなかったことを縷々と述べているが、私は福音のため、十字架の下に転がっている石になりたいと希っている。これが地上で私の望んでいる自由である。 

この病は死に至らず  没落

一九三四年(昭和九年)の秋に、私はらいにかかりました。左足の脛に巾二、三センチ縦十センチくらいの傷が出来ました。どこで作ったのか全然記憶がなく、このときはじめて、左脛部に感覚がないのに気付きました。私が十六才の秋で、東京で働いていました。父の死後、私の家は没落しました。膨大な借金を残して父は亡くなったのです、昭和の初め頃だったと思いますが、長兄は百姓をきらって家出をしました。父は怒って勘当しましたが、それから数年の後、長兄から自動車の運転手になった旨の手紙が父の手許に届きました。 

父は勘当を解いたのみでなく、家の財産すべてを彼の事業に投じました。そして父は亡くなり、彼は事業に失敗し放蕩に魂を売ってしまったのです。私の家は山から転がり落ちる石の様に、貧窮のどん底に落ちていきました。家は次兄の養父の名義に代えた為に残りましたが、山林、田畑、農具、蚕具・家具・畳までも借金のカタに取られました。姉と四男は年季奉公に出、家には母と私と弟妹の四人になってしまいました。こうした苦境の中にあっても、長兄の放蕩は止まず、無心の手紙で母をいじめていました。人をひいて刑事問題になり、いくらいくらのお金がなければ監獄に入れられるといった類のものです。田舎者の母には、監獄の二字は大いに効果がありました。それを聞いただけで、母の顔色は変わりました。兄や妹の働いた金は、ほとんど長兄に貢いでいました。それでも尚かつ、彼の放蕩には足りなかったのです。送金が切れると自身帰って来て、金が出来るまでいじめていました。母は私に向かって、家に帰るだけの旅費が手許にあるのなら家はどのくらい助かるかわからないと言った事があります。内からは長兄が催促し、外からは借金取りがおしよせてきました。「鬼ババ…」とか「太いアマだ」とがなりたてる借金取りの声に私と弟妹は表に逃げ出した事が何度もあります。そして石や棒切れをもって、外から中の様子をうかがっていました。万一の場合、母を助ける心得だったのです。この為に私は学校を出ると、小さな工場に年季奉公にやられました。 

 肉親を呪う

私は昼働き、夜は病院に通っていましたが、一ヶ月も経っても少しも良くなりません。心配になって近くに住んでいた長兄に相談して、或る大学病院で診断を受けました。そして、らいであることがわかったのですが、私が知ったのはそれより半年後でした。しかし診察室に呼ばれて戻って来た兄を見た瞬間、自分の病気が容易なものでないことを直感しました。死刑を宣告された死刑囚のように、彼はふらふらしていました。ふるえのため満足に口もきけない彼から、私が知ったことは大学病院では傷の手当てが出来ない故、東京の郊外に私の病気を治療する療養所があると言うことでした。後になってそれがらい療養所であることがわかりました。彼は最後に私に向かって言いました。「お前はもう一生働かなくてもよいのだ」  

 彼は私を、すでに結婚している姉に預けると「松本家は呪われている」と、母に手紙を書き、行方をくらましました。 私は翌年の七月、療養所に入所したのですが、長兄は大学病院で、私を療養所に連れて行くようすすめられていたのです。大学病院を出た足で療養所に向かっていたら、私の運命はもっと変わっていたでしょう。おそらく退院は可能であり、一生療養所で過ごすことはなかったでしょう。また、入所するまでの苦しみを経験する必要もなかったのです。私は長年の問、彼をうらみ呪いました。私が不幸になった原因の一部が、彼にあると考えたからです。私はまた、自分がらいであるとわかった時・母に向かってなぜ私を生んだのか、私がらいにかかったのは父の不潔な“酒"生活にあると、亡父と母を呪いました。母は主線を膝に落とし、一言も答えませんでしたが、私の不幸がトゲのある鞭で打たれるよりつらかったことでしょう。 

 何故、帰って来た私は姉の所に二週間程いて田舎に帰りました。姉の家に居る間中、私は大学病院の長兄のただならぬ姿と、言葉から、もしかしてらいではないかしらとの不安におののいておりましたが、らいを意識したとき、私の頭に浮かんだのは三男の死です。私は三男が病気を持っていたことは知っていましたが、如何なる病気であったかは知りません。おそらく両親以外には誰も知らなかったのでしょう。自殺病患者でない限り、簡単に人は死ねるものではありません。死ぬからには、死ぬだけの理由がある筈です。三男の自殺の原因が、直接病気に関係があったことはわかりますが、死なねばならぬ病気とに如何なる病気か、世に絶望的な病気は多くあるものではなく、考えてみると不審な点が多くあります。私が田舎に帰ったのは、三男の病気をしらべるためでした。私がらいであるか否かを握る鍵は彼の病気であると思ったからです。しかし、その必要はありませんでした。家に帰り敷居をまたいだ瞬間、すべてを了解しました。門に私の前に立ちふさがるように、叔父が仁王のように真っ赤な顔をして待っていたのです。叔父は私を見るなり「何故帰って来た。馬鹿者…」とどなりつけました。この一言で、私はらいであることをさとったのです。母はあきめくらで、手紙は叔父に読んでもらっていましたが、例の長兄の手紙を母は何も知らずに、叔父に見せてしまったのです。叔父は私がらいであることがわかると、速達で長兄と姉に、いかなることがあっても私を田舎に帰してはならないと書き送りました。姉は叔父の手紙については、私に何も言わなかったのです。私は、私に向かって「お前はわし達一家を破滅させる心づもりか」とか「わしの子供達を殺す心づもりか」と怒号する叔父の言葉が、私のらいと如何なる関係にあるのか、すぐには理解出来ませんでした。やはりらいであったのかとの絶望感が、眼前で怒号する叔父の存在を忘れさすほど、気を転倒させてしまったのです。叔父には多くの女の子がありました。このために私がらいであることが、村に知られる恐れがありました。子供を嫁に貰ってくれる人がなくなると考えたのです。らいは遺伝ではなく伝染病でありますが、昔から遺伝病、業病として、患者のみならず家族をも世人から恐れられ、まじわりを絶たれ、事実上、社会からほうむり去られるのでした。このためにらい病人の出た家は、その人を土蔵に隠すかひそかに旅に出しました。旅に出た者は、命の燃えつきるまで放浪を続け、最後は虫のように死んでゆきました。 

 最近、私は或る兄弟の御好意で、内村鑑三のヨブ記研究をテープで聞きました。その中に、18章のビルダドの言葉「死の初子を説明して「死の生んだもののうち、最も力あるものにて、らい病をさすのであろう」と、言っております。らいは如何に深刻かつ悲惨な病気であったか察しられます。叔父の怒号は私から、私に付き添って来た姉に向けられましたが、叔父の怒号の終らぬうちに、駅に向かって駆け出しました。叔父の背後でおろおろしながら立っていた母はその後を追ってゆきましたが、姉は帰って来ませんでした。姉と母が駆け出すのと同時に、私は反射的に仏間に駆け込み、仏壇の引き出し から三男の写真を取り出しました。すすけた写真の顔にはあきらかにお灸のあとがあります。当時草津には温泉と灸治療を行うらい者の部落がありました。治療薬のなかった昔、患者自身が発見した治療法なのです。効果がどれほどあったか存じませんが、おそらく藁をも掴む気持ちではじめたものなのでしょう。病人にとって治療薬がない程、絶望的なことはありません。私は三男が草津へ行ったことも、家を空けたことも知りませんが、父が三男を叱って言った一言が、不思議と私の記憶にありました。それは叔父が私に浴びせかけた「なぜ帰って来た」の言葉なのです。私はこの言葉から、もしかして三男はらい病にかかっていたのではないだろうか考えました。不幸にも私の考えは的中していたのです。私は三男の写真を見た瞬間、世界がガラガラと音をたてて、私の足許から崩れていくのを感じました。私はその場にうずくまり、頭を上げる事も出来ませんでした。眼からぼたぼたとひざに涙が落ちました。「お前はもう一生働かなくてもよいのだ」と言った長兄の言葉を、このとき初めて理解しました。それは「お前はもう社会の一員ではない。人間以外の者、廃人なのだ」と言うことなのです。 (以下次号

<主は私の牧者

「主は私の牧者であって、私には貧しいことはない」(詩編231)1節は主題である。2節以下は説明であって、全体の意味は1節に含まれていると言ってよい。イスラエルの先祖はアブラハムであるが、彼は牧畜の種族の長である。イスラエル人と牧畜の関係は、日本人と米くらい関係が深いのではないだろうか。それだけに詩人の「主は私の牧者」は深く尊い言葉である。聖書に羊に関する記事の多い事からも、両者の関係の深さを知る事が出来る。ルカ伝のイエス誕生の記事の羊飼いは、飼い葉桶の嬰児をはじめに拝したことで有名であるが、単に偶然とは考えられない。イスラエル人を代表して拝したのではないか。そしてそれを代表する者が祭司、長老、学者ではなく、絶対に羊飼いでなければならなかったと考えられる。23篇を正しく受けとめるためには、他に、パレスチナの気候風土を考慮に入れておく必要がある。砂漠あり死の谷がある。パレスチナの地方では水は貴重なものであると考えるが、これらと対立して牧場があるのである。また羊を狙うものに獅子その他の獣が棲息している。詩人はそうした緊張関係に立って「主は私の牧者」とうたうのである。牧者は羊を養うために天と地を治め、水を治め、また獣から守るのである。 

 2節にある緑の牧場とは如何なる情況をさすのか、神が特別に緑の牧場をもうけたのではない。主によりたのむとき詩人のいる場所が緑の牧場と化すのである。私は23篇を学ぶときイエスの「心貧しい人たちは幸いである……」以下を思い出すのである。

世にあってはもっとも不幸な死の影の谷間にいる人たちであるが、イエスは正しい人たちを招くためでなく、罪人を招くために来たのだと、かかる人たちに愛されたのである。信仰をもって岩を打つとき、死の影の谷に水は吹き出し、清き流れとなり、清流は砂漠にもそそぎ、緑の牧場と化すのである。人はそれによって空腹をみたし、渇きをいやすことが出来るのである。