「小さき声」 目次


 小さき声 No.4 19621223日発行

松本馨

 <祈り

 私には祈らねばならぬことが沢山あるが、その一つに私にもっとも近いもののために祈っていることがある。彼が悔改めて、信仰に立ち帰ることである。一度は求道の志を起したが、サタンは彼を誘惑し、彼はこの世の物を追求しはじめた。彼のために祈るようになって、もう何年にもなるが、一日として欠かしたことはないのであるが、彼はあいかわらず、悔改める様子はない。神は私の祈りをきかれないのだろうか。断じてそうではない。私の祈りはすでに.十字架上できかれている。 

イエスは人類の罪を負って十字架にかけられたが、それは抽象的、観念的なものではなく、一人一人と対面した死ではないだろうか。パスカルは回心のとき「われは汝を十字架に釘付けたり」と告白している。御前に悔改めるとき、誰もが受けとらされる実感であろう。 

暗黒の中になすこともなく、終日座していると、孤独、悲哀、寂寥が潮のようにおそって来ることがある。そのようなとき、私を慰め、励ましてくれるものは、神の力である。十字架の 言葉である。孤独と寒気にわなないている裸の魂を、内側から包んでくれるものはキリストの義の衣のみである。 

詩篇八篇の詩人は、夜空の下に立って、宇宙の壮大な美にうたれて、次のように歌った。

「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」 

十字架を仰ぐとき、私もまた詩人の如く打たれる。塵にひとしきもの、虫にひとしきもの、微生、微小のわれを、神はいかなればみ心にとめ、いかなれば顧みたまうのであろうか。キリストとの出会いがなかったならば、私はとっくに狂死、もだえ死んでいたであろう。神の恵みは善人にも、悪人にも、信者にも、不信者にも、陽の如く、雨の如く注がれている。私のように罪の深い者は救われて、彼の救われぬことはない。しかし現実の彼は益々神から離れ、この世の歓楽を追求している。これを如何に解釈すればいいのか。神は彼のために悔い改めにもっともよいときを備えて下さるのである。その日はいつか 今日か、明日か、或いは彼が息を引きとる瞬間かもしれない。或いは死後に備えられているのかもしれない。それは神の御計画の中にある。十字架を仰ぐとき 、かく信ずる。彼に対する私の祈りはおそらく今後も続くであろうが、今までの如く、地上の彼に悔い改めを迫る切羽詰まったものではない。信頼し、祈り、時を待つのみである。私の地上で 見ることの出来ないときは、神の国で待つだけである。 

<この病は死に至らず 四>

 四つの目 

その日から私は、奥の一間に隠れ住む身となりました。肉体にらいの刻印を押されたことによって、人間を怖れねばならなくなったのです。母と叔父夫婦の間には、私の将来について、毎夜の如く協議が続けられました。叔父は私を草津へ送ることを主張し、母は国立療養所に入れようとしました。極秘のうちにかたづけるには、草津へ送るのが最良の道でした。国立の施設に入れるには、めんどうな手続きを必要とし、秘密の漏れる怖れもありました。母は万一を心配しましたが、家には私の一日の宿泊費と、治療費を払う力はありません。何年、何十年かかるか判らない、私が死ぬまでの療養費を負担することは 、夢にすぎません。叔父夫婦はそれを承知しながら、強引に主張しました。理性では判断できない、私の病気の絶望性から起こったことなのです。やる、やらないの押し問答が毎夜の如く続きましたが、ある晩、母は叔父夫婦に言いました。

「一体、馨に死ねと言うのですか」疲れていたのでしょう。母は自分の言った言葉に驚き、その場に泣き伏してしまいました。私は母が口にする前に、既に死を予知していました。私に向けられていた四つの目は、私に「死ね」と命じていたのです。叔父夫婦と母の言葉のやり取りは、隣室で聞いている私には、死の判決文であり、拷問台のようなものでした。叔父夫婦の去った後には、真空のような静寂さが訪れましたが、きまって私は悪寒と、孤独におそわれました。気がつくと全身ねっとりと汗をかき、それが冷えて氷のように冷たく、ささくれだって皮膚につきささり、私の骨はおののきふるえているのです。

私は生きたい、どんなに苦しくとも生きていたいと思いました。私は十六才です。植物なら、すくすくと生長盛りの若木です。生きていたい欲求は、本能です。理性もまた、生きることを要求しました。生から切り離されるかもしれない恐怖の中で、魂の奥底から発した言葉は、

「私は何のために生まれてきたのか。人生とは何か」

と、言うことでした。乳幼児の頃の私は弱く、母のふところに抱かれて毎日病院に通い、無事に育つとは誰も思わなかったと、あとで母から聞かされました。私は生まれたときから病気と闘うように、運命づけられていたのです。少年時代は三男の死のグロテスクな幻影に悩まされ、貧苦の中に成長しました。世に出て、これから自己の運命を開拓しようとするとき、死がすべてであるとしたら、イスカリオテのユダの如く、私はむしろ生まれなかった方がよかったことになります。いまから考えてると、私の問いは単純幼稚でしたが、それだけ一途に思いこみました。若し、私の問いに誰かが答えてくれるなら、今日にも死んでもよいと思いました。 

 

 叔父夫婦は、その夜以来姿を見せませんでした。母は私を国立療養所へ入れる為に手続きをとりましたが、施設は空床がなく、ベッドが空くのを待たねばなりませんでした。

 年が明けて、私の左脛部の傷は自然に癒えましたが、顔はむくみ、眉が脱落をはじめました。洗顔のあとで、タオルを見ると何本かの眉毛が付着しているのです。こうした私に母は神仏に 縋るより道がないと考えたのか、日蓮宗に帰依しました。一九三五年(昭和十年)のことです。この年の七月、私は施設に入ったのですが、その間の約半年は、母と私にとって大きな試練でした。母は昼は化粧品の行商をしていましたが、朝は暗い中から夜は遅くまで、信仰によって私の病気を治すのだと、ナムミョ ウホウレンゲキョウを唱え、団扇太鼓を叩いていました。また病気に効くと伝えられている民間の宗教上の行事はすべて行いました。そのために山伏、祈祷師、占い師といったあやしげな人たちが家に出入りしました。母は私に信仰を勧めましたが、母が熱くなればなるほど、かえって私の心は冷たくなってゆきました。信仰によって病気が治るのなら、この世に病人はいないと、ここでも私は単純に考えたのです。私は母をうらみました。私が病気にかかったのは、両親の責任だからと思いこんだからです。しかし、私の恨みは一時的なものでした。私を恐れ、兄や姉は近寄らず、後には私から姿を隠しました。叔父夫婦も私を恐れて、その娘たちは、私の家の前を通るときは、ハンケチで口をおさえて走って通りました。肉親においてすらかく恐れたのですから、世の人たちが恐れるのは当然でしょう。

こうした状況の中で母のみは私を愛し、身を神仏に捧げて祈ってくれたのです。どうしで恨むことが出来ましょう。若し、私の恨みが長く続いたとしたら、恨み悲しみを訴えることの出来る人は、母より外にいなかったためです。世に向かって叫んでも、私の声の届くほど近くに世界はなかったのです。母と別れて入所し、日がたつにしたがって、母がいかに私を愛し、私がいかに母を愛していたかを知りました。私は母が深夜、しかも冬、裏の井戸端で冷水を浴びていたのを見たことがあります。そのとき、母が念じていたものは何であったかを知るよしもありませんでしたが、おそらく吾が子のらいを、この身に受けさせ給え---と祈っていたに違いありません。 

 私の療養生活も既に二十七年を経過しましたが、前半の闘病の中心にあったものは、母の愛であったような気がします。すべてのものが信じられなくなり、幾度か危険にさらされ、ついには罪を犯したこともありましたが、いかに泥沼の中に陥っても、私は母の愛を疑うことはなく、絶対的なものでした。敗戦の翌年、母もまた私を捨てて姿を隠しました。いくら愛しても、報いられない愛を十余年の歳月の間に燃焼してしまったのです。私の受けた打撃は、肉体にらいの刻印を押されたとき以来のものでした。私の母に対する気持ちは、信仰に近いものでした。母の愛の限界は考えられなかったばかりでなく、.そのような不信は冒涜とすら思えました。母に捨てられて世界の孤児となったとき、母も又、人であり、いかに人のあてにならぬものであるかを知らされました。 数年前、既に母はこの世にいないことを知りましたが、最近 、母に対する私の感謝は尽きません。 

 母はキリストの出会いに至るまでの、私の守り袋です。不幸にして母は神を知りませんでしたが、私のために身を賭して祈った祈りは、私の中に凝集し、唯一の真の神イエス・キリストヘと導いたのです。母は最後に私を捨てましたが、それによって母に対する私の感謝は一層大きくなっています。

 母のそれは、母もまたイエスのあがないなくしては救われない、弱い肉の人であり、結果的には十字架を指し示していたのであります。(以下次号

<三十八年を待つ

 ヨハネ伝章に、五つの回廊(おそらく廃廊であろう)の浮浪者の記事がある。尤も浮浪者とは私の想像で、或いは五つの廊はこの人たちの住居として いたもので、エルサレムの貴婦人や、信仰の篤い人たちに看てもらっていたのかもしれない。いずれにしても彼らの地位に変更はなく、そこは人生の吹きだまりで、浮浪者とうけとった方が私には自然に読める。 

 こうした人たちにも、各自それぞれの願いがあった。盲人は見ゆる目を、足なえは立って歩ける足を、病人は健康なからだの与えられることである。五つの廊は、ベトザダの池の近くにあった。彼らは朝夕、池を眺めながら暮らしていたが、彼らのせつなる願いは、主のみ使いが天より降りて、水を動かすという希望となり、希望は水の動いたとき、一番先に池に入る者は癒されると言う確信となった。この人たちの中に、三十八年水の動くのを待っていた人があった。水は動き、救われる機会はしばしばあったのであるが、身の自由がきかぬため先を越され、目的を果たすことが出来なかったのである。救いは目の前にあり、手をのばせば届くほどの距離にあるが、彼の力ではその距離を縮めることが出来ないのである。救いを目の前にして我がものとすることが出来ない彼は、自己の無力と、罪の深さに或る時は池に向かって大声を発し、或る時は号泣したであろう。 

 しかし救いを前にして、身も心も焼かるる苦悩の炉の三十八年は彼を忍従の人、待つ人、信仰の人とした。イエスとの出会いが、そのことを語っている。「なおりたいか」と言われたとき、彼は答えた。「主よ、水が動くときに、わたくしを池へ入れてくれる人はありません。わたくしが入りかけると、ほかの人が先に下りて行くのです」信仰のない人にはこのように素直に答えることはできない。イエスを嘲笑し、罵倒し、背を向けるであろう。「なおりたいのか」のイエスの言は、長年病いに苦しんでいるものに向かっては、適切な言ではない。狂人か、白痴の言としか考えられない。病人の求めている言は「なおりたいのか」ではなく「なおしてあげる」の言である。しかし、「なおりたいのか」はやはりイエスでなくては言えない言である。イエスの、彼に求めているのは、直接的ではなくて信仰なのである。イエスの問いに答えられる人は、信仰の人である。「イエスは彼の信仰を見て言われた。「起きてあなたの床をとりあげ、そして歩きなさい」。

 彼は起きて床をとりあげて歩いた。このとき彼は知ったであろう。三十八年待っていた人が、イエスであることを。彼はユダヤ人の前で、自分をいやして下さったお方がイエスであることをあかした。イエスと彼との出会いは偶然ではない。神があらかじめ彼のために備えておいた時なのである。苦難の炉のほかで試されているとき、必要なことは忍耐して待つことである。神はすべての人に、時を備えて下さったのである。三十八年の試練は決して短くはない。しかし御前に立たされる時、一瞬の試練に過ぎないのてある。 

<つぶやき>

 今年もあと数日で終ろうとしている。一年をふりかえってみるが、書きとめておきたいことは何もない。 

 聖言を聞くこと、祈ること、治療に行くこと、散歩すること、これらのことを毎日規則正しく繰り返していたような気がする。なんのへんてつもない単調な日々であったが、悔いることはない。恵みの中にあったことを感謝するだけである。 

○○○ 

 私にとっては、一日も一年も同じである。年の初めであり、一年の終わりででもある。「この病は死に至らず」で、私は恥をしのんで、過去の私を書いているが、これも回心までである。回心以後の私を語ろうとする時、困惑を感じる。キリストが私を占領し、私はその影になってしまったからである。一日も年も同じだと言ったのも、この意味である。永遠なるものの前には、一日と一年の時間差はない。御前の一日は千年の如くなのである。 

○○○ 

 クリスマスが来たが、特別の喜びはない。キリストにあっては毎日が喜びなのであり、希望である。また、神なきクリスマスを批判する気にもならない。クリスマスが来ると、毎年きまって信仰に熱心になる信者と、神なきクリスマスを祝う人たちとは、五十歩百歩で、本においては異なるところがない。 

○○○ 

 キリストは今この時、この瞬間、私たちの戸口に立っているのである。一年間戸口に立たせておいて、二十五日だけ迎えようとする、これほど不信仰な行為があるだろうか。嬰児を、自らの手で十字架につけることである。 

○○○ 

「小さき声」は主にある兄姉の祈りによって毎月世に送り出している。私が一番読んで頂きたい人たちは、病床にある人と、肢体不自由者である。私が救われたのである。だから世に救われない人がいない、と言いたいのである。反対に読んでもらいたくない人たちは、私と同じ病いに苦しんでいる人たちである。この人たちに必要なのは、健康な人たちの信仰である。