「小さき声」 目次


 小さき声 No.8 1963415日発行

松本馨

<たまご>

  終戦前のことである。病室に入室していた病人が、滋養の卵を売ってお金を貯めていた。この人たちは守銭奴ではない。死期の迫ったのを知って、自分の葬式の費用をつくっていたのである。当時は一日働くと、八銭から十銭になった。働くことの出来ない病いの重い人たちは、互恵会(患者の作業によって得た収入を元に運営された)から月額一円支給された。この場合、家から送金のある者は受け取る資格がない。又、一度でも送金があると、その分を引かれる。不自由な人たちにとっては、洗濯、ほころび縫い、一から十まで他人の手を借りなければならない。如何に物価の安いときでも、一円の中から葬式の費用を捻出することは出来なかった。当時はまだ一般食と病人食の違いはなく、主食は麦飯で、副食は大部分園内でとれる野菜でまかなわれた。  誰が考えたのか、らいは肉類、魚類、テンプラ等は毒で、粗食ほどこの病気によいと言われた。医学的裏付けはないが、これは貧しさを合理化することと、骨と皮のみであったなら、あの悲惨な世界に落ちずに済むと言う悲願がこめられていた。ところで病人には希望によって、お粥と、一日一個の卵か、一合の牛乳のどちらかが、滋養として支給された。病人にとって卵はお金になり、唯一の収入源であったわけであるが、病人にとって卵はどれほど重いものであるか言うまでもない。結果的には命をちぢめていたのである。こうした病人に目をとめて、卵を買いあさるブローカーもいた。私は卵でゴーゴリの「死せる魂」を思い出す。主人公のチチコフが、お金のために地主から死んだ農奴の魂を買い歩くのがすじである。そこに登場する主人公をはじめ、地主、あらゆる階層の人物はみな死せる魂の主人公である。私は卵をめぐる人たち(キリスト者もいた)が、死せる魂の持ち主とは思わないが、信仰がこのようなところで、最後に訪れているのではないかという気がする。最後に受け取らされるのは、神か世である。人は二人の主人公に仕えることは出来ない。富める青年は律法を守ったが、救われなかった。そうしてイエスのもとへ行って、永遠の命を得るためには何をすべきかを尋ねた。イエスは己の財産を売って、貧しい者にほどこし、我に従えと言った。青年はこの言葉に悄然となって、イエスのもとを離れて行った。青年もまた、自分を葬るための、地上の宝を放棄することは出来なかった。世に死ぬことが出来なかったのである。  キリストは自由を得させるために、全ての恐れから私たちを解放して下さった。イエスの死をこの身に受け、彼の命に生きるとき、恐れるものはない。彼のために世から捨てられ、家族から捨てられ、友人、同病者からも捨てられ、虫の如く死に、その死体を葬る者はなかった。野に枯骨をさらすとも、私たちにはなお望みがあり、喜びがある。  終りの日、キリストが来たり給うとき、私たちは枯骨より復活し、永遠の命に入れられるのである。信仰にキリストの命がなくなるとき、信仰は卵になる。教会にキリストの命がなくなるとき、産むのは卵のみである。  信仰は最後のところでわかったようで、わからないのは、この卵を温めているためではなかろうか。

<この病いは死に至らず 八>

神のもとから逃げ出す

 半月ぶりに私は、病棟から寮に帰りました。半月前、誰が一体この日を予知したでしょう。私は寮に戻ると、頭から布団をかぶって初めて泣きました。悲しみのためか、罪のためか、それとも痛みのためかわかりません。  友は、義子を送った人の数が百を越えたこと、告別式は感動的であったことを教えてくれました。しかし、その言葉は、私の耳には風よりも空しく聞こえました。たとえ、千余の入院者が、葬列に加わるとも墓に下る者になんの益がありましょう。それよりも、すべての人が私たちをかえりみない方が、私を慰めるでしょう。義子の枢を担ぐ者も、送る者も、告別式を司る者も、火葬する者も、骨を拾う者もなく、墓もまた拒否します。そのとき、義子の枢を担ぐ者は私のみであることを知るでしょう。送る者も、告別式を司る者も私のみです。私は薪を伐り、遺体を焼き、ただ一人骨を拾うでしょう。墓もまた、捨ててかえりみない故に、遺骨を自分の部屋に置き、私の命のある限り、朝夕守ることにします。だが、現実は私の存在が最早無用となり、私とは無関係に、義子は地上から消えて行きました。私は知りました。義子に最も遠い人、それは私です。義子と私との間には罪があります。その罪が、二人を無限に遠ざけます。罪を除かぬ限り、私の愛も、真実も影にすぎません。またしても、口を閉じられたことに対する絶望がおそいかかってきました。そして、目、鼻、口から発散する腐敗した魂の臭気に苦しめられました。  私は太陽が秩父の山並に落ちるのを待って、一人霊安所に出かけて行きました。口を閉じたまま生きて行かねばならぬ生涯を考えるとき、じっとしておられなかったのです。イエスは死んだ者に、死んだ者を葬らせよ、と言います。私は死者に向かって、口から罪を吐き出し、赦しを乞おうとしたのです。  霊安所は病棟の西北のはずれにありました。鰻の寝床のように長く、中央が遺体安置所になっています。義子の遺体には十字架の覆いがかけてありました。顔には白布がかけてあります。私はその白布を取りました。その下から美しく化粧した未知の女の顔が現れました。義子ではない、私はその顔を消してしまいたい衝動に駆られましたが自制したのです。この女の顔の下に死がある。その死の下に義子の素顔があります。美しく化粧した女の顔を消すことが出来ても、死を消すことは出来ません。それが出来るのは、イエス・キリストにある聖霊のみです。私は告白するために、その傍らにうずくまり目をつぶりました。だが心が千々に乱れるのです。両の腕に義子を抱きしめたい欲望を抑えることが出来ません。魂は罪におののきながら、手は罪を握って離さないのです。このような状況の中で私は告白しようとしましたが、そのときでした。霊安所が舟のように揺れ始め、窓ガラスが怒り狂ったように叫び始めました。「またか」と、私は思いました。そしてあまりの恐ろしさにその場に突っ伏しました。が、必死に自分に言い聞かせました。「気の迷いだ、冷静になれ、落ち着いてみよ、地震か突風が起こったのだ」私は両腕で半身を支え、頭を上げ、かっと目を開き窓を見ました。窓の近くに竹の枝が見えます。笹は毛ほどの動きもありません。樫、杉、柊の葉は薄暮れの中に深く沈黙を守っています。私は目を室内に向けました。電灯と糸のように垂れ下がっている煤が、空間に停止しています。何事も起こっていません。だが、霊安所は揺れ、窓ガラスは高い金属音をたてています。私の体は中気病みのように震え、骨々の関節ははずれ、歯と歯はぶつかりあい砕けるばかりでした。私は白布を義子の顔にかけましたが、その数秒間はギロチンの下に頭をさしのべているような、恐怖に満ちた恐ろしく長い時間でした。私はかけ終わると突き飛ばされたように霊安所から逃げ出しました。神のもとより逃げ出して、何処へ行こうというのか、息を切らし喘ぎながら夕闇の中を夜に向かって走りました。

 第一回の攻撃  

  義子の死後、生きる道を詩に求めました。小説を書くことが私の希望でしたが、視力に自信がなかったのです。結婚後、一九四七年から八年にかけて、私は神経痛を病みました。神経痛は左眼から始まって、手足から全身へ広がっていきました。それまで私は、肉体的な苦しみを経験したことがありません。私の体は健康な人と変わるところがなく、病いによる苦しみは精神的のものでありました。らいの宣告を受けて十三年目に、恐れていたものが遂に来たのです。全身の末梢神経は、ささくれだって内側から皮膚に突き刺さり、激しく痛みました。私は風と飛行機の爆音を恐れました。刺すようにささくれだった神経に引っかかり、かきむしるような激痛を起すのです。こうして末梢神経は炎症を起し、痛みがおさまると共に自然に枯死し、その部分が麻痺してしまいます。私の場合、失明と手足の麻庫はほとんど同時に起こりました。  神経痛とともに顔や手足には、石のような硬い瘤(結節)が皮膚の下に無数に出来ました。人によって時間の差はありますが、一、二年の内に、この結節が表面に現われて化膿し、膿を吹き出します。そして雪だるまのように手足を溶かし、目鼻口と溶かしていきます。ヨブが 朽腐(くさり)を父と言い、蛆を母姉妹と呼んだ、らいの末期症状なのです。こうした状況の中で、神の義を問題としたことは一度もありません。らいは不治の病いで、信仰には関係がないと頭から決めていたからです。らいに関する限り、奇跡は一度も起こりませんでした。信仰篤き者も、不信仰な者も、ともに悲惨な最期を遂げました。目のあたりにそれを見ていた私は、信仰は心霊上の問題で、肉体には関係はないのだ、と考えるようになっていました。らいの病いを不治のものとする信仰ほど神に遠いものはないでしょう。人間を塵より造り、これに息を入れ給う神、死人を甦らせ給う神に、らいを癒す力がないと、どうして言えるでしょう。神を信ぜず、自己を神としているからです。現在の私は、信仰を心霊のみの問題と限ってはいません。肉体の栄華なき信仰は、私には無意味です。復活のイエスはトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」(ヨハネ・20・27)これはトマスが「わたしはその手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、またわたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言った言葉に対する答えです。なんという慰めと、希望に満ちた言葉でしょう。いま、このとき、この瞬間、私の仰いでいるイエス・キリストと、その十字架を、神の国にても仰ぐことが出来るのです。と言うことは、地上の私が、このまま栄化することであります。ヨブは如何に、彼は神の義を疑りましたが最後には塵灰の中にて悔い改めて、神より祝福を受けて癒されました。異邦人ナーマンも癒されました。イエスもまた多くのらい病人を癒しています。現実はいかに。らいはすでに過去のものとなりつつあります。日本には一万余のらい患者が、全国療養所に入院していますが、約八十%は無菌者だと言われています。そのうちの大部分は十年以上の長期療養者で、後遺症と老齢のために、社会に復帰出来ぬ人たちです。この人たちが地上から去るとき、日本かららいは消えてなくなるでしょう。世界からも消えてなくなる日は近いのです。なぜ今日までらいは存在したのか、神の深き意を極めることは出来ませんが、一つには、人間が自己を神の位置にまで高めることのないためです。らい患者の悲惨な姿を見るとき、人は神の前に低くならざるを得ません。又一つには、神の義のため、ヨブ一人の苦難のために存在したとも言えます。ではなぜ、今消そうとするのか、終わりの日が近づいているためか、らいに代わる病気が生まれたためか、神のみ知り給う、私に言えることは今は恵みの時だと言うことです。夜は更けて日は近づいています。暗き業を捨てて、光の鎧を着る時です。キリストの義の衣を着る時です。これらのことが私にわからなかったのは、神を知りながら、神を崇めず、感謝せず、罪の中に沈んでいたためでありました。このような私に、神の怒りは臨みました。神は私の肉体をいばらの衣として、私を打ちました。これが第一回の攻撃であります。第二回の攻撃は、義子の死であります。二回目は、一回目よりさらに厳しく、魂に亀裂が生ずるほど、神の鞭は私の肉体に喰い込みました。しかし私は悔い改めることが出来ずに、その場から逃げ出しました。そうして、詩の泉で受けた疵を癒そうとしたのです。(以下次号)

<イエスの墓>

 「ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きな石をころがしておいて帰った」(マタイ27・59〜60)  イエスの復活を、春と結びつけて受け取りがちであるが、始めに挙げた聖句からは、春を連想させるものは何もない。墓は岩肌をえぐって造ったもので、入口には大きな石をころがしておいたとある。その中に、人間の罪と死を呑んだイエスの死体が納めてあるのである。  イエスの死は、冬眠の蛙や冬の間地中深く眠っている草根の如きものではない。ヨハネによる福音書記者は、十字架上に息絶え給うたイエスの脇を、兵卒が槍で突いたと記してある。死者の体に槍をつけたのである。イエスは死の死を死んだのである。墓はこのようなイエスの死体を呑んでいたのである。死海の沿岸は不毛の地、山はすべて岩塩で白熱の光の下に、骨のように裸をさらしていると聞いている。イエスの墓は、正に死海的状況である。すべてと断絶し、すべてを拒否している。墓に向かって座した二人のマリアは、おそらくその前に、無限の悲しみと絶望を経験したであろう。この墓が開き、人間の罪と死を呑んだイエスが、死人のうちより甦り給うたのである。  キリストの命に罪と死が呑まれたのである。この驚くべきことを、初めに伝えたのは御使いである。  「……恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしたちにもわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあイエスが納められていた場所をごらんなさい」(マタイ28・5〜6)

 二人のマリアは、大いなる喜びをもって、弟子たちに知らせるために道を走った。そして、その途上で復活のイエスを拝するのである。復活のイエスを知るには順序がある。始めに十字架と復活のイエス・キリストについて、聖書を通して、預言者、使徒たちに聞くことである。次に、聞いて信じ、十字架による罪の赦しを信仰によって受け取ることである。十字架を飛び越えて、復活のイエスを知ることは出来ない。又、信仰なくして、知識のみで知ることも出来ない。人間の知恵は、善意をもってしても、空虚な墓の周辺を捜すのが精一杯である。「もしあなたが、あの方を移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞおっしゃって下さい。わたしがその方を引き取ります」(ヨハネ20・15)復活のイエスにイエスの死体の在り方を尋ねているのである。人間の限界である。生まれながらの人間は、罪のため、復活のイエスを知ることは出来ない。聖霊により、信仰によるほかないのである。イエスの墓は忘れられがちである。墓より受ける印象が暗いためであろう。しかし、十字架より下ろされたイエスの死体は、ヨセフによって墓に葬られ、その墓より甦り給うたのである。十字架のイエスを慕って墓にまでついていく者、拒否と断絶の前に無限の悲しみ、絶望を経験する者のみが、真に復活のイエスを魂の奥底に、受け入れることが出来るのであろう。

<ことば>

 四月二十五日で私は四十五才になる。七月が来ると療養二十八年である。随分長く生きたものだ。全生園の門をくぐった時、三年は生きまいと思った。十五年目に失明した時私は私の人生に終止符が打たれたと思った。しかし、その時が終わりではなく、始めであつた。失明前の私には悔いがあるが、失明後の自分に悔いはない。闘いは苦しく、厳しかった。幾度か悲鳴をあげた。でも十字架にある恵みと、喜びは大きかった。