「小さき声」 目次


 小さき声 No.85 1969920日発行

松本馨 

世俗の中にあって 

私の自治会活動に対するキリスト者の評価は、信仰的にはマイナスであり、後退であるといった疑惑の目をもって見る者が多いようです。なかには信仰的堕落であると厳しく批判する者も居ます。唯物論者は信仰を捨てたのだと、一時的に喜んだようです。両者とも、私が依然として小誌の発行を継続していることに驚いているようです。 

私自身の自己評価は、信仰は自治会活動や政治活動に左右されるものではないと信じています。信仰はこの世のものでなく、神のものであり 「人間社会の歴史的現実と組織的関係を持つものではない」 (バルト) からです。したがって、人間の目から見れば如何に絶望的状況であっても、それが動機となり、原因となることはありません。あくまでも信仰による決断なのです。自治会活動をなぜ選んだかに就ては、イエスはなぜほかの死を選ばずに、十字架の死を選んだのかと問うのと同じくらい、愚かな問いであります。私たちは十字架の内容に就て、不完全であっても説明することができますが、十字架の事実を説明することはできません。それは紀元二千年前に、エルサレム門外で起った出来事であり、私たちは出来事として受取るよりほかないからです。 

自治会活動が信仰的決断である限り、それによって多くの人から喜ばれ、感謝され、あがめられ、反対に多くの人から憎まれ、敵視され、或いはいやしめられても、直接私の自治会活動に対しては何の力も持つことはできません。この世に対して私は完全に自由であり、何ら拘束をうけないからです。この世とは、罪と死の支配の下にある人間社会でありましょう。 

私は約二十年前、罪と死の支配の下にあるこの世から解放されました。つまり回心です。十字架による罪の赦しを受けています。この世に対して私自身は全く死んでいます。心ばかりでなく、肉体的にも死んでいると言ってよいでしょう。 

私の身体は手足をも含めて、全体の70%の皮膚はマヒしています。このマヒは手足が一番ひどいのですが、骨にまで達し、指を切断されても痛みを感じません。触覚のある50%の皮膚も健康な時のような鋭敏な感覚はありません。薄いベールの上から知る触覚なのです。麻痺した指で物をつかもうとするため右手指の爪は親指を残して殆どありません。生える頃には、はがしてしまうのです。年毎に耳鳴りもひどくなっていきます。その上に視力はゼロです。 

信仰を離れて私自身のことをも考えるとき、私の世界は墓よりも暗い世界と言えましょう。もし神が存在しないならば、現在の生活よりも墓場の生活を望むでしょう。こうした極限的状況の中に居る私は自治会活動をしているのです。もの好きだからと単純に説明することはできません。私にとってはあくまでも信仰の問題であり、自己をも含めてこの世から解放されているが故に、この世のために生きることができます。イエスが神を敵とするこの世のためにご自身を十字架にかけられたのは、彼がこの世の人でなく復活の力によって神の子とされた神の子であったからです。私自身もまた信仰により、恵みによりキリストイエスの贖いにより、神のものとされているが故にこの世のために死ぬこともできるし、生きることもできます。

 私の周囲には学問的に、政治的に、健康的に、あらゆる点で、私より勝れた人が沢山おります。現実には生ける屍と同様な極限状況の中に居る私が、これらの人達に代わって自治会活動をしているのは何故か、一口に言えば信仰の問題であると言えましょう。信仰があるか無いかが、両者の生き方を規定しているのです。バルトは  「恩寵は神が人間をよみし給い、人間が神を喜ぶという不可解な事実である。この事実を不可解として認識するとき恩寵は恩寵たり得る」  と言っています。この恩寵に立ってキリスト者は各自の使命を与えられるのでしょう。それが信仰的決断であります。

最後にベトナム戦争と、平和の問題に就て私の考えを述べてみたいと思います。「無教会独立新聞」に、高橋三郎先生の著書をめぐって何人かの先生が、戦争と平和の問題で誌上討論を何回かにわたって行ないました。私は率直に言って、どの先生のお考えにも全面的に賛成することはできません。私自身は戦争には反対であり、平和運動には賛成です。けれどもそれによって信仰の是非が問われるとは全 く考えていません。信仰は戦争と平和には直接関係がないからです。 戦争に対しては自由であり、平和に対しても自由です。或る人は戦争に反対し、或る人は戦争に賛成します。平和に就ても同じことが言えましょう。ベトナム戦争に反対しない者はキリスト者で無いかの如く決めつけることは、信仰的発言とは言えません。それは自己主張であり、神の名を利用した自己主張であります。資本主義が悪で、社会主義が善であると定義づけることも信仰的には許されないことではないでしょうか。資本主義も社会主義も神の国と対立するものでありましょう。罪と死の支配の下にあるこの世に属する世界です。私たちはキリストにあってこの世からは自由であり、何の拘束も受けません。私は自治会活動をすることによって、組織的に拘束を受けることがあります。自由を奪われることもあります。それにも 拘わらず、キリストにあって私は自由です。私の内奥に踏み入ることを許しません。私の内奥に現在し給う方は宇宙万物の支配者で居給うキリストだからです。この世の王であり、下僕であるキリストだからです。大祭司であり、罪人であるキリストだからです。このキリスト以外に、絶対なるものは存在しないのです。信仰によって良心を偽わらず、神を侮らず、真実に戦争に反対するならばそれもよし、南ベトナム人民のために戦争もまたやむを得ないと考えるならばそれも赦されましょう。最後の審判は神にまかせるべきでありましょう。

 私は自治会活動に何も期待していません。私の期待と希みは、十字架が約束した世の終りの日にキリストが再び来る、ということにあります。私は世の終りに右大臣左大臣の位を希みません。またそれにふさわしい屋敷を要求しません。私は神の国とはどんなものか知りません。世の終りの完成も知りません。私の唯一の希みと期待は極限状況の中で、私を生かし、不可能な仕事をさせているキリストにお目にかかることができるということです。暗黒の只中で、混乱と混迷の只中で根底から私を支えている十字架上の主イエスキリストにお目にかかることができるということです。それ以上の希みを私は神に対して、キリストに対しても持ち出しません。この世の仕事の無意味性と空しさが分れば分るほどキリストとの出合いが、ますます希まれます。期待が大きくなっていくのをおさえることができません。

死の家覚え書

No 61

(花岡健への手紙 つづき)

義認と聖化の問題で、信仰につまづいたことを僕は書きました。具体的には肉体が枯死しているのに、慾情が生きて働き、僕をその囮にしている事です。問題は更に発展し客観的に形をとって僕の目の前に現われました。忘れもしません、昨年冬の或る朝でした。外来面会所に大至急来るようにと、監督の呼出しをうけました。肩を怒らした厳しい目と態度から何事が起ったかと思い、不安な気持で夕子に引かれて急いで表に出ました。夕子は僕との間隔を出来るだけ取るために、腕を伸ばして親指と人差指で僕の袖の端をつまみ引っぱるようにして先に立って歩いていました。僕より前に少しでも出て歩くことは意味があるのです。それは僕の全身から発散する腐臭を頭からかぶらないで済むからです。僕はそのような夕子を責める気にはなれません。もし僕が夕子と同じ立場に立っていたならば、同じ行動を取ったに違いないからです。面会所には人影は無く、法廷のように二つに仕切られた室内は寒々としていました。患者の椅子は木の椅子で粗末なものでしたが、職員の椅子はクッションの強い革の椅子でした。一時間位待ったでしょうか、表に靴の足音がして、内科の医官と監督が入って来ました。二人とも目と耳だけを出し、全身は白衣でくるみ、長 靴を履いていました。「急患が出来たため、待たせて済みませんでした」。医官は挨拶のかわりに椅子に腰を下ろし、立っていた僕と夕子に坐るように命じました。 

「最近、見ませんが詩を作っていますか、小説を書いていますか、文学は捨てたのですか、宗教の世界は如何ですか」。 
医官は僕の返事も待たずに次から次へと質問し、核心に触れていきました。 
「ところで、あなたは断種の手術を受けていますか、その年月日が分りますか、あなたは現在でも奥さんを満足させてあげることができますか」。
僕は医官の真意が解し兼ねて、正確に答えることが出来ませんでした。また答える必要も無かったのです。医官の手帳には必要な事柄は総て書き込んであったからです。
 
「あなたは盲で気がついていないかも知れないが、実は奥さんは妊娠しているのです」。
 僕は医官の言葉を自分でも驚くほど冷静に聞くことが出来ました。前から既に知っていたような、この日が来ることを予感していたような気がしたのです。事実は考えたこともなかつたのですが…….
「外科の先生に聞かないと分らないが、あなたはもう一度手術をしてもらうことになります。そうでないとお腹の子をおろすわけにはいかないのです」。
「南条は手術をし、夕子は子をおろすのだ。二人とも分ったな」 と監督は念をおしてから夕子を叱りつけて言いました。
「お前の生活は近頃派手すぎる。患者のくせに口紅をつけたりおしろいをぬったりしている、そんな金があるならば貯金しておけ」。
夕子と僕が釈放されたのは昼近くでした。面会所を出た夕子は、医官と監督の姿が見えなくなると、口汚く監督をののしりました。
「あの助平野郎、あたしのお腹を調べると言って面会所の一室につれこみ、あたしのお腹に手をつっこみ、いたずらをした、そればっかりでなく、私を裸体にして笑っていた」。
「よせ」と僕は夕子の言葉をさえぎりました。それ以上聞く気になれなかったからです。夕子はひどく興奮し寮に帰るまで喋りつづけました。夕子にとって化粧することは、命よりも大切なことだったのです。その後のことに就ては、君も知っている通りです。夕子は子をおろし、僕は二度目の手術を受けました。手術台の上に股をひろげて寝ている僕の光景を君に書かなければならないのだろうか。股の一部を切り開いた外科医は、助手の二人の看護婦に向って言ったものです。
「僕の腕に狂いは無かった。見てごらん、手術は成功だったのだ。尤も手術が失敗であるか、失敗でないかは、この患者にとっては意味がない。患者はもはや男では無くなっている。柿の種のようなものは、××の蕊なのだ、潰瘍で溶けて蕊だけが残っているのだ」。
外科医は切開いた部分を縫うと僕に言いました。
 
「一週間分玉子を出しておきます。静かに寝ていて下さい」。
数年前までは断種の手術を奨励するために、手術を希望する者には玉子が十個付いたと言います。その奨励は既に廃止されていましたが、僕の場合、病気の進行と衰弱が激しかったために特別に玉子が付いたのです。僕は股をひろげ、ガニ股で亀のようにゆっくりと寮に戻りました
「わたしは虫であって人ではない」、その時の僕の実感です。人間の感覚を持つことができなかったのです。

 その後、君も知っている通り、夕子は一まわりも年下の若い男と脱走し、現在、長島愛生園で療養していると聞いています。負けおしみでなく、僕は夕子が脱走してくれたことを喜んでいます。病状の悪化によって僕の自由がきかなくなるに従って、夕子は大胆に若い男を部屋に連れこむようになりました。最後まで僕の目が見えないと思いこんでいた夕子は少しも恥じなかったのです。部屋に連れてこないようにと注意した事から僕たちはひどく口論したことがあります。そして口論の中で、「お前は俺に三度目の手術をさせるつもりか」 と怒鳴りつけました。「お前はそれほどまでしてもあの男が可愛いのか」、すると夕子も負けずに言い返しました「あの人は潔白です。前のことはあの人に関係はありません」 。 「人妻に手をつけて、潔白だと言うのか」と僕は鼻で笑いました。「あんたは何も知らないのです。本当のことを教えてあげましょう。おろした子の父親は花岡さんです。岩淵さんだって……」 。
 
「黙れ」と僕は物すごい形相で立上り、夕子につかみかかろうとしました。夕子は僕の権幕に恐れて黙ってしまいましたが、恐らく尚も喋りつづけていたならば、僕は夕子の首をしめていたでしょう。

零の生

ある教友より、幼児昇天の悲報を受けました。時刻は午後九時過ぎで、既に私は寝ていましたが、床の上に正坐し幼児のために祈りました。少々の事では動じない程、過去に幾十幾百の死に接してきましたが、幼児昇天の報せには胸を打たれました。イエスを除いて地上で私に最も近い人、我が愛し子のような親近感を持っていたためです。幼児は生れた時から寝たままの生活を十二年間続けてきました。その上に自己意識は無かったのです。十二才の少女を幼児と言ったのはこのためであります。人間は誰でも生きている理由と目的を持っています。ある人は家のため、ある人は事業のために、或いは隣人のために、社会、国家のために、或いは学問、芸術のために、それぞれ生きる理由と目的を持っています。けれども、この世には、存在理由と目的が不明の人たちも居ます。人間の目から見れば、この幼児のような零の生であります。この零の生という一点で幼児と私は結ばれていました。

小学校五年生のとき、兄の縊死を発見し、そのとき以来私は自己に向って 「人間とは何か、何のために生きているのか」 を問い続けてきました。その後、癩の宣告を受けたことによって、この問いは一層大きな問いとなり、私を苦しめたものです。 社会から恐れられ、忌み嫌われる自己の存在を肯定出来なかったからです。戦後、占領軍を通して治癩薬が入ってきました。零の生である私の生も家のため社会のため、祖国復興のために役立つときが来たと大いなる希望と喜びを持ったものでした。けれどもそれは束の間で、私は失明し手足の感覚は無くなるという予想もしなかったことが起りました。  内的にも外的にも閉ざされた世界に転落してしまったのです。 「童さえも我をあなどる」とヨブは哀哭していますが、私もまた同じことを経験しました。同病者すら、我をあなどる世界に落ちたのです。これが零の世界であります。生きることも死ぬことも出来ず、毎日、死を死んでいる世界です。こうした中で私は神を知りました。神を知ったということは特別の経験ではありません。印刷機械によって印刷された一冊の聖書、単に文字にすぎなかった聖書の言が、ある日、生ける神の言となって語りかけて来た、ということなのです。毎日見馴れていた書斎のキリストの肖像画が、ある日、画面を破って肖像画のキリストが私の前に立ったということなのです。このとき私は人間とは何か、何のために自分は生きているのかの問いに対する答を与えられました。現在の神キリストを知ることか答の総てだったのです。ヨブの苦難に対する答もまた同じです。その後 、私は関根先生を通し、十字架を徹底的に教えて頂きました。神の子が蔑しい僕の形をとり、人となられたということは零の生になられたということでしょう。それが極限で示されているのが十字架上のイエスであります。そしてそれが私たちの救いの印であり約束であります。否、救いそのものであり、義であり給う彼の死と生を受くということは彼の零の生にあずかることでありましょう。彼の生命に呑まれるということも、彼の零の生に呑まれることでありましょう。私たちは彼の前に肯定的な自己を持出すことは許されません。プラスでなくマイナスの自己でなければなりません。そしてそれは十字架により頼むとき、初めて出来ることでありましょう。

 幼児昇天の報せを受けて私が感じたことは幼児のために嘆くのは果して誰か、ということです。幼児は零の生を生き、地上ではイエスを除いて罪を犯さない人でした。最も神に近い人と言えましょう。私自身、零の生だと言っても幼児の零の生とは雲泥の差があります。終りの日にキリストが来り給うとき、この幼児に、とりなして貰わなければキリストの前にさえ立つことができないほど、罪深いものです。ところで十字架の零の生を知るとき、幼児の十二年間を恩寵の十二年間と言ってよいでしょう。この汚い世界を見ないで済んだことは素晴らしいことです。私自身の零の生は泥にまみれていますが、やはり恩寵の生であると告白せざるを得ません。それ故に現在が、こういう言葉は安易に使いたくないが感謝の一語に尽きます。最後に幼児を亡くしたご両親に言いたい。「幼児の一生は祝福の一生であった」と。なぜなら私達は十字架の零の生の一点で結ばれているからです。それ以外の処でイエスを知ることも、神を知ることも出来ないからです。

 創立60年に寄せて

 未来の歴史(つづき) 

老婆はこうした矛盾に苦しみながら、衝動的に掴み合いを始めたのである。ゲバ棒をふるう大学生と、掴み合いをする老婆と、本質に於て違っている面があるだろうか。老婆は一日でもよいから個室に入りたいと訴えている。個室に入れば、何もかもよくなると、一途に思いこんでいるのである。こうした老婆の願いを誰も笑うことは出来ないし、非難することも出来ない、それが現実なのである。医療センターと、重障害者寮は耐火建築にしなければならない 。 現在の病棟と不自由者センターは、万一火が出れば十五分で火の海と化すであろうと言われている。この火の海の中に病人と盲人と肢体不自由者等五百人が居る。耐火建築切替は急がねばならない。このほかの一般住宅は、平家の場合は木造、二階以上の場合は鉄筋コンクリートの耐火建築にしなければならない。

 居住区は医療センター、不自由者、健康者、このほかに自由地区を設ける必要がある。厚生作業者と、労外者は自由地区に移さなければならない。現在のようにまちまちでは、所内作業者は不幸だし、厚生作業者も労外者も不幸である。それぞれの、あるべき姿に帰すための努力がお互いに行なわれな ければならない。自由地区の人達に就ては、医療と住居を保障してやらねばならない。このほかの処遇については施設側と自治会と自由地区の人達と三者間の協議で決定していけばよい。医療センター構想は再編成再統合につながる、自由地区の構想はコロニーにつながると言って反対する人達もあるが、いつまでも現状維持を願うことは、時代に逆行することであり、H氏病療養所を前時代的な暗黒の夜に戻すことになるであろう。創立六十年を迎えて、私達は明日の歴史を作るために決断をしなければならない。()


校訂者註

原本7頁左下から4行目
「毎日見馴れていた書斎のキリストの肖像画が、ある日、画面を破って肖像画のキリストが私の前に立ったということなのです。」

「毎日見馴れていた書斎の肖像画のキリストが、ある日、画面を破って私の前に立ったということなのです。」
に改めた。