松本馨著作集目次


部分改正か廃止か

「多磨」 1987年3月号
松本馨
 (全生園患者自治会長

 本誌、新年号に当面する問題としてらい予防法をとりあげたが、再びこの問題をとり上げることにする。そのまえに、なぜらい予防法を改正しなければならないのか、ハンセン病の宣告を受けた時の、私の小さな経験についてふれておこう。 

 私は一九四三年、十六歳のときに慈恵医大でハンセン病の宣告を受けた。そのときの衝撃は筆舌に表わすことができない想像を絶したものであった。ハンセン病の治療薬がなかったことと、世間にもれれば家族、のみならず親戚をもまきこみ、村八分にされ、家族は心中でもしなければならないような恐れがあった。 

 私の選択する道は、死か、入ったら最後、二度と出ることのできない隔離収容所に収容されるかどちらかであった。私は、死を選んだ。一生を拘束される収容所は死よりも辛く感じられたからである。その気持ちは五十年後の今日でも変っていない。 

 私は、働きながら進学の準備をすすめていたのであるが、田舎に帰り夜になると死に場所を求めてあてもなく闇のなかをさまよった。そして、ある夜秩父の入口にあたる荒川にかかっている吊橋の上に立った。そこから川に向かって飛び降りれば体は岩石にあたって、砕け、確実に死ぬことができる。しかし、いざ飛び込もうとしたとき、「俺はなんのために生まれてきたのか」  という疑問がおこった。このまま死んだのでは、自分の人生はあまりにもみじめすぎる。死ぬことはいつでもできる、疑問をといてからでも遅くはない、と思い返し収容所に入った。しかし、私の考えは甘かった。収容所は私の体を拘束するだけではなく内心の自由をも奪ってしまう苛酷な牢獄であった。 

 最初の五年間は、一日として自由な社会を忘れることができなかった。さらに五年たっても同じ気持ちであった。そして、一九四九年収容されて十四年目に夢にまで見た特効薬が出現し、化学療法(プロミ ン)が始まったのであるが、時すでに遅かった。 私は失明し、手足の感覚はなくし、重度障害の世界へ落ちていったのである。それでもなお治療をつづけ、一九六〇年代になると、化学療法の効果があがり、私の体からは菌を見いだすことはできなくなった。ハンセン病から解放されたのである。私は主治医に全生園を出て一般の視覚障害者施設に入りたいので手続を依頼したが、ライ予防法は患者の強制隔離収容を定めた条項はあるが、退所の条項はないと断わられてしまった。らい予防法を改正しない限り病気が治っても自由の身になれないことをこのときほど強く感じたことはない。 

 一九六九年、会員の諸々の要求に対応できず、自治会は会員の支持が得られず閉鎖してしまった。閉鎖は戦後獲得した自由を放棄し再び収容所時代の奴隷に帰ることである。私は同志とはかり自治会再建を決意した。そして、自治会を再建し総務部長を五年勤め、一九七三年から今日に至るまで十三年間、会長をつとめた。 

 ライ予防法闘争にはじまって、患者付き添い夫の職員看護切り換え、年金獲得闘争、患者作業の全面返還、大部屋雑居の個室化、医療の近代化闘争と十八年にわたる運動の結果、全生園は暗い収容所時代のおもかげは消えて近代的な文化村に生まれ変った。昔を思うとき、夢のようだと会員は口ぐせに言ったが、皮肉なことにそれが患者運動を私に断念させることになった。私の選挙基盤は第一センターであるが、八十六年の選挙に寮長会は、らい予防法改正運動をしないことを条件に私を中央委員に推薦した。らい予防法を改正すれば既得権が奪われることを恐れたからである。私はそれを断った。らい予防法は我国のアパルトヘイトであり、人種隔離政策である。予防法の改正なくして私たちに真の自由も幸せもない。この第一セン ター寮長会の私に対する要求は、全患協傘下の全国療養所の大かたの声であった。私は、私の患者運動が終ったことを改めて知るとともに戦後四十年間改正できなかった原因がどこにあるのか考究した。その結果、原因は全患協にも所長連盟にもあるのではなく、我国の国民性にあることを知った。本誌に四回にわたって発表した  「いのちの重み」 がそれである。そのなかで、我国はたて社会で養蜂民族であると定義づけた。養蜂社会では、民主主義の基盤になっている人の命は地球よりも重いという""が欠落していると指摘した。女王蜂のために滅私奉公が最高の善であり、忠義であり、神風と忠臣蔵はそれを代表するものであろう。 

 第二次大戦に敗れたとき、連合軍によって戦争を起こした東条英機らはA級戦犯として裁判を受け処刑されたが、国内では戦争責任の追求は起こらなかった。それだけではなく、戦争の犠牲となった二百万からの兵士とともに靖国神社に合祠されたのであった。すべては天皇陛下と祖国のためにおこした戦争であり、善かつ忠なのである。 

 光田健輔らがおこなった完全隔離とワゼクトミーによる患者とその子孫を撲滅する行為は、世界に例をみない非人道的なものであるが、大和民族をライから守ったということで 、時の政府と国民は最高の勲章を与えて讃え、その犠牲となった患者の人権はまったく無視されている。こうした思考方法はA級戦犯を靖国神社に合祠したものと同一なのである。私は若いケースワーカから、わが国の福祉の原点は、光田健輔であると大学で教えていることを知って、飛び上るほど驚いた。ある公立の老人養護施設では、寮長は園長が任命し、付き添いは先生といわせ 、戦前の全生園の収容所に似た運営がされているという。 

(二) 

「いのちの重み」は引退を決意した私の二十一世紀への遺言のようなものであるが、これが発表されたのち、らい予防法をめぐって事態は大きく動きはじめた。現行予防法は患者の人権を侵害しているとしてWHOをはじめ海外で問題になっていたが、国内ではこの問題を全患協以外は第三者が取り上げたのは東京弁護士会にある人権擁護委員会がはじめてである。このことは特筆しておかなければならない重要なできごとであった。 

 民主主義のためである「個」の畑である社会構造に、民主主義の萌芽をみたからである。私は素直にいって我国の民主主義に疑問をもっている。 昨年、中曽根総理の自民党へむけての講演が人種差別であることに気づいた者はひとりもいなかった。アメリカで問題になってはじめて我国のマスコミと政治家、學者らが問題にし、中曽根総理を非難したが、非難するものもされるものも本質的に変ってはいない。民主主義の基本原理である「個」の尊厳がわかっていないことからおこるのである。これと同じようなことが音楽や絵画や映画などにも言われる。ヨーロッパでこれらの芸術が評価されてはじめて日本で評価されるということがしばしばおこっている。一度、外国で評価されると日本の芸術家がその高い知識水準に欧米人に劣らぬ芸術論や民主主義論を展開するのである。しかし、知識として、頭で理解しているものと、体で知っているのとでは違うのである。これが私の言う「個」の欠落である。創造性の欠如なのである。働きバチは世界を民主主義の風に乗って飛びまわっているが、ファシズムの風が吹けばそれに乗って同じように世界を飛び回るのであろう。一九四五年の敗戦によってファシズムの働き 蜂は民主主義の働き蜂に生まれ変ったのではなく、その民主主義の制度化のなかで秀れた能力を発揮し、物質的に繁栄しているのが我国の姿である。そして、この民主主義の制度を守っているのは、中国や韓国、アジアの人達そして世界の世論ではないだろうか。日本政府をはじめ多くの関係者は、あの忌まわしい十五年戦争の侵略という言葉を教科書から消し去り、歴史を書き換えようとしたり、日韓併合は韓国にも責任があるといったりして過去の誤を合法化しようとする意図が折にふれてあらわれてくる。それに対して、中国その他の国が抗議し歴史の書き換えを許さない姿勢をとっている。しかし、外国の抗議が果たしていつまで続くのであろうか。GNPの1%という軍事予算の歯止めがはずされて、軍国主義の道を歩み始めようとしている。その力を背景に第三者の抗議を拒否する時がやがてこないだろうか。 

 私が恐れるのは、こうしたファシズムの傾斜のなかで弱者は切りすてられてゆくことである。最近の世論にはこうした危険な発言が非常に多くなってきた。また、貿易摩擦による円高によって経済大国となった日本は、大きく揺れ動いている。その中で日本は増々混迷を深くし、人間崩壊がすすんでいるように思われ、親が子を、子が親を殺害し、中学生が弱者殺害を遊び道具にしたり、罪人を逮捕した警官が明日は逮捕され、同じく罪人を裁いていた者が明日は裁かれるという、宗教的観点からみれば終末を思わせるような現象がみられる。こういう状況のなかで、人権擁護委員会がらい予防法をとり上げたことに、私は大きな意義をみるのである。一億二千万の人口のなかに、施設にいるハンセン病患者は約七千人である。その家族をも含めて数万人にすぎないが、この人達の人権が法律によって抑圧されていないか、とり上げたのである。 

 私が強調する人の命は地球よりも重いという民主主義の基盤にある真理をみるのである。このことは精神障害者をはじめ重度障害者弱者にとって大きな希望となるであろう。そして、ここから真の意味の民主主義が成長するように思うのである。敗戦によって餓死 線上をさ迷っていた日本人が四十年の間に経済大国となり、飽食時代を迎えたが、大切なものを見失っているように思われる。それは命そのもの、人間の尊厳である。人権擁護委員会に私が期待するのは、らい予防法によって奪われてしまっている人間の自由と命の尊さを発堀して頂きたいことである。

(三) 

所長連盟は、三十二回定期支部長会議の決議によって、既に現行予防法の改正を決定し三月には具体的にその内容が全患協に提示されようとしている。こうした所長連盟に対して、全患協は関心を示し、すでに決定している部分改正について賛否両面から議論が深められ、よりよい方向が見いだされることが望ましい。私は、部分改正に賛成するものであるが、その精神は結核予防法に学ぶ必要がある。結核予防法には感染の恐れのある者についての入所規定はあるが、同時に、退所規定もある。入所期間は三ケ月から半年、長期の場合でも一年ぐらいではなかろうか。再発の場合、すすんで入院し、回復すると退院し入院前の職業につくのである。こうして入退所をくり返しているが、これに対して医師及び看護婦はもちろん一般の人達によって結核は不治の病気だと思うものは一人もいないし、結核を恐れるものもいない。 

 これに反してハンセン病の場合、ひとりでも再発すると、医師看護婦はもちろんのこと、一般の人も、そして再発患者もやはりハンセン病は治らないのかという、あるいはハンセン病は不治の病気なのかと思い込んでしまう。こうした両者の相違はどこにあるのか。その原因は、結核の場合 、看護する者とされる者、治療する者とされる者とが交替する。つまり、医師なり看護婦が感染し患者になってしまって、そしてよくなると、また、もとに復するということである。それによって、結核を病むものの痛み、悲しみを知っており、また、体でもって病気そのものの性格をも知っていることである。ハンセン病の場合、八十年近い歴史のなかで、医師、看護婦のなかに一人の犠牲者も出なかった。つまり隔離されるものの痛み、悲しみがわからない。外見の悲惨 さだけをみて、隔離の必要性を強調することである。その代表的なものは光田健輔を頂点とする病院時代の所長達であろう。 

 結核予防法に習うといった場合、たんに法律に限らず、そこに働く医師看護婦の対応にも学んでほしいと思う。さらに重要なことは患者自身の病気に対する自覚にも相違があるようである。全生園の定員は約九百名弱であるが、そのうちの有菌者は、私自身が驚いたのであるが五十余名で、残りの八百余名は菌陰性の快復者なのである。この数字からみれば、らい予防法は無名であり、全生園そのものの存在が不必要にさえ思われる。しかし、現実には存在している。さらに、担当の医師から説明を受けたのであるが菌陰性者のうち約三百五十人は、ただ治療を継続していることである。再発を防ぐための治療として医師のすすめによって継続しているものと本人から申し出て治療を受けている。この人達の多くは、ハンセン病は完全には治らないと思いこんでいる。菌陰性者に治療をすすめる医師も同じような考えをもっているのである。こうした現実は、ハンセン病菌組織の解明ができないことをからくるものであろう。それと長期にわたる隔離療養のなかから身についたものであろう。 

 私がらい予防法の廃止を基本的には望みながら、それを表面に出して言えないのもこうした療養所の現状を思うからである。全生園の現状は、そのまま全国療養所にもいえることである。予防法の全廃を主張した場合、全患協傘下の会員の支持と協力を得ることは不可能であろう。しかし、会員のなかには小数であってもらい予防法を廃止することを強く望んでいる者もある。所長の間にも廃止して一般病院への転換をはかろうとする者もいる。こうした考えをまったく無視することはできない。私が結核予防法に学べというのは、こうした人達をも念頭において言っているのである。現在、すでに結核療養所の多くは結核予防法の下で、多くは成人病の病院や総合病院、重度障害者の施設等に切りかわっている。そうしたなかの一部を結核病棟にあて、治療にあたっている所もある。ハンセン病療養所も、この結核療養所に習うべきではないだろうか。おそらく療養所は僻地にあることと、医師の不足によって一般病院への転換はできないであろうが、なかには総合病院を目ざして整理している施設もあるので、その可能性のある所は切り換えていけばよいと思う。 

 現行のらい予防法は、患者を終身隔離するための施設として作られ、その枠のなかにはめこまれている。あくまでも、らい予防法のための収容所なのである。この両者は切り離して考えることはできない。しかし、ハンセン病予防法は、そうあってはならない。あくまでも今後発生する患者に対する予防対策としての法律で現在療養している者を取り締まる性格のものではないことを明らかにしておく必要があろう。そうでなければ、部分改正の意味はまったくない。現行予防法が悪法なのは隔離収容を目的にしたというだけではなく、社会に復帰できないよう、もろもろの規則を含めていることである。たとえば、就職の禁止、消毒、医師の診療禁止、治療薬の発売禁止など、ハンセン病ほど徹底した差別は世界に例をみないであろう。部分改正のハンセン病予防法は、今あげたようなことは一切解除し、ハンセン病にも保険が使用できること、このことは医師の選択の自由をハンセン病患者にも与えることである。従来、隔離からの解放の唯一の目玉の如くいわれた外来診察は、絶対作るべきではない。これは、あくまで社会参加を認めようとしない差別なのである。 

 しかし、ハンセン病予防法についていえば、専門の立場から、また、患者の立場から徹底した討議が必要であり、軽々に決める性質のものではない。部分改正にしても全面廃止にしても一長一短があり、その精神は我々がうけた偏見と差別をなくすための改廃でなければならない。そして、この改廃の前堤となるものは患者自身が偏見と差別をもたないこと、職員についても同じことがいえよう。今日もなお危険手当が必要であると主張する全医労のハンセン病職組の感覚は差別以外の何ものでもない。全患協支部報に本部と職組がこの問題で話された内容が明らかになったが、危険手当のひとつとして(お嫁さんにゆけない)とのことばには驚いた。二十年・三十年前にはうなづけようが、今日のハンセン病療養所に勤務しているゆえに嫁に行けないという事実があるのだろうか。給料の低下を恐れる気持ちはよくわかるが、実際に少ないのであればもっと違った形で我々がいっしょになって運動をできるような運動に切り換えるべきであろう。 

 私がもっとも恐れるのは、現行予防法改正の反対者が予防法を喰いものにすることである。今日の療養所は、国民から、職員は患者のために犠牲的に働いている聖者の如く思われ、患者はまた長い隔離の苦難に対する同情を受けているが、明日はまったく逆転し、国民から厳しい非難を受ける実態がおこらないとはいえない。現行予防法の改正は、そうした状況に 陷ることのないために健康な療養生活を目ざすものでなければならない。 

 終りに、私は、本年一月をもって自治会長を辞任した。十三年の長い間、関係者各位から心強い支援と指導を賜ったことを深く感謝する。会長の前に総務部長を五年勤め、十八年間にわたって患者運動の指導的役割を果してきた。私の自治会活動は無教会キリスト者の信仰的実践はいかにあるべきかということを課題に関わってきた。この課題についての私なりの結論を得たつもりであるが、その評価は会員にお任せしたい。()


解題

この文は、、「いのちの重み」の次に書かれ、1987年「多磨」3月号に 掲載されました。当時は、療養所の自治会の多数意見は、らい予防法の改正や廃止などという根本的な問題にたちいるのではなく、予防法を温存したまま療養所の処遇を改善することのほうを重視していました。松本さんは、御自身の主張が受け入れられなかったことを見届けると、御自身の立場を「捨て石」と位置づけ、自治会長を辞任されました。この文書から、松本さんが自治会長を辞められた当時の心境を伺うことが出来ます。