松本馨著作集目次


いのちの重み

「多磨」1986年4月−7月
ラザロ・恩田原(松本馨)

(一)

戦後四十年を経過して、国際的にも悪名高いらい予防法が今もなお存在していることに、今さらながら驚きをおぼえるとともに、改正できない原因がどこにあるのか、改めて考えさせられた。全患協は、らい予防法改正の是非を会員に問おうとしているが、そのような方法は問題の本質をついているとは思えない。隔離とワゼクトミーによって、患者とその子孫の撲滅をはかった行為は、ある人種は有害であるからと、ヒットラーは、六〇〇万人のユダヤ人を殺戮したが、その思想とどこかでつながっているようである。

 私がこれから問題にしょうとしているのは、このような思想の生まれた背景と、改正の障害となっているのは、厚生省なのか、現場の所長なのか? 全患協なのか? それとも他に決定的な要因となるものがあるのか、ということである。

 らいの浮浪患者を収容する施設が我国に作られたのは、一九〇九年(明治四十二年)である。我国では天刑病として忌み嫌われた。これは仏教の困果応報の思想からきている。また血統病として患者とその家族は村八分にされた。それが為に患者の出た家では、患者を屋根裏とか土蔵の奥深くに隠した。隠し場所のない家では患者に困果を含めて放浪の旅に出したのである。患者にとってそれは死出の旅であった。命の燃えつきるまで地をさ迷ったのであるが、その患者達は、神社や仏郭、人の多勢集まる所で見ることができたが、明治の時代ほど、こうした浮浪患者が巷にあふれた時代はなかった。

 徳川幕府を倒した王政派の国家理念は、天皇を神とする超国家主義であった。男子には兵役の義務が生じ、二十歳になると懲兵検査の義務が生じた。そして、その最初の犠牲者がらい患者であった。らいは結核とともに青春病といわれ、十代で発病した。懲兵検査をのがれるために屋根裏や土蔵に隠れていた患者は、家族を守るためにあてのない旅に出たのである。

 この浮浪者に救済の手を最初に差しのべたのは神山復生病院(明治二十二年御殿場富士岡村開設カトリック教)、目黒慰廃園(明治二十七年)プロテスタント、回春病院(聖公会)、日本人では、深敬病院(日蓮宗)であった。

 らい予防法が国会で成立したのは一九〇七年であるが、尽力した一人に東京養育院の院長渋沢栄一と養育院の嘱託医であった光田健輔がいた。しかし、らい予防法が国会で通過する裏には、次のエピソードを無視することはできない。イギリス大使館門前にらい患者が倒れていた。大使は、日本政府が門前に患者を捨てたと抗議をした。その抗議のなかで  「一等国の貴国にらい患者がいるのは恥である。ヨーロッパの文明国には患者はいない」 と言われた。日清・日露の戦争に勝利して、文明国になったと思いあがっていた日本人に、キリスト教の救らい事業を説いても、馬の耳に念仏であることを知っていたのである。日本人には罪の意識はないが、恥の感情は豊かであり、文明国の恥はその点をついたのである。当時の収容所の所長をはじめ、関係者の合言葉は、らいは神国の恥、また文明国の恥、日の丸の汚点であった。

 らい予防法成立のもう一つの原因は、懲兵検査によって我国のらい患者が二万〜三万とも数えられ、超国家主義者達の間で、大和民族をらいから守らねばならんという危機感が生まれたことにあった。そして、時代の要請に答えるかのように、神の民、大和民族をらいから守ることを自己の使命として起ち上ったのが光田健輔であった。光田は、江戸幕府を倒した長州藩の武士の家に生まれた超国家主義者であった。独学で医師の国家試験にパスし、帝国大学の研修生となり、渋沢栄一が院長であった東京養育院の嘱託医となった。浮浪病者の遺体かららい菌を発見し、一八七三年ノルウェーのハンセンが発見したらいの伝染病であることを確認した。しかし、ここで注意しておかなければならないのは、彼の著した「回春病室」のなかでそのことについてふれ、らいはペストと同じ伝染病であると告白している。顕微鏡でらい菌を発見しただけでペストと同じ伝染病であるという断定はあまりにも非科学的で、此発想は現代では考えられないことであるが、光田は真実そう思いこんだのである。らい患者にとってはこれによって苦難な時代が始まったといえる。『ペスト』はカミューの小説のなかで、ねずみが媒介し発生すると町や村を全滅させてしまうという恐ろしい病気であった。十一・二世紀頃ヨーロッパに大流行したが、らい者がヨーロッパにいなくなったのは、ペストによって死滅したためだという説をとなえる医師もいるほどであった。光田は渋沢栄一を通して、浮浪患者を隔離収容するため施設を作るために国にはたらきかけると共に、養育院のなかに隔離病室をつくりらい患者を収容し、大和民族をらいから守るという自らに果した使命の第一歩を踏み出したのであった。

(二)

第一区府県立全生病院は、一九〇九年九月二十八日に開設された。初代の所長は、千葉県市原郡長池内歳次郎であった。光田は養育院で働いていた看護婦と回春病室の患者を連れて医長として全生病院に迎えられた。池内の管理はゆるやかで患者は所沢まで堀を越えて買物に行くことができた。光田は池内が医師でないことと、患者を寛大に扱っていることに対して不満をもっていた。彼の任期は五年であった。彼の辞任の理由は明らかにされていないが、辞める前に患者の暴動が起った。待遇改善を要求して、東京府知事に陳情する為に門を破りむしろ旗を立てて田無街道を行進したのであった。その説得にあたったのは光田医長であった。デモに参加した患者の証言によると、このデモには光田が深く関わっていたようである。このデモの後池内は所長を辞めて光田が二代目所長として任命されたのであった。

 光田が最初にしたことは逃亡や所沢に買物に行く患者を取り締まるために監視体制を強化したことであった。彼は違反した患者を法的に罰することの権限を所長に与えるように地方の所長と謀り政府に要請した。世界史に例をみない患者の生殺与奪の権限を要求したのである。一九二八年光田が所長となって三年目にこの要請は国会を通過したのであった。

 療養所長ハ入所患者二対シ左ノ懲戒又は検束ヲ加フルコトヲ得 一、譴責、二、三十日以内ノ謹慎、三、七日以内常食二分ノーマデ減食、四、三十日以内の監禁

 光田が収容所の患者をどのように見ていたか、貴重な文書が残っている。維持係のケガイが患者をいかに扱ったらよいか、文書で光田の指示をあおいでいる。これに対して、やはり文書で「罪一等を減じた扱いをせよ」と指示している。死刑囚に罪一等を減ずると無期徒刑囚となる。終身隔離の患者を、光田は無期徒刑囚と考えていたのである。かくて府県立全生園病院は無期徒刑囚の監獄と化してしまったのである。監房が立ち、所内規律を犯す者を容赦なく監禁し減食の体罪を加えたのであった。

 面会は監督の立ち会いのもとに行なわれ手紙・小包・新聞は検閲の対象となり、社会から完全に隔離されたのであった。光田の理想は患者を絶海の孤島に幽閉することにあったが、全生園を絶海の孤島にしてしまったのである。

 光田の責任で行なったものにワゼクトミーがあった。倶会一処にも記されているが、開設当時は男患者と女患者は板ベイでし切られて行き来することはできなかった。しかし、男患者は夜になると板ベイを越えて夜這いに入った。男女の交際の厳しかった昔は、農村でよく行なわれていたことで、めずらしいことではない。どんなに監視を厳しくしても男女の交際を断つことはできなかった。その結果子供が生まれ外に捨てたようであった。光田は処置に困り、夜這いを制度化し、一緒にすることによって収容所に落ちつくことをも考えたのであった。そして、男子はワゼクトミーを前提に夜這いを認めたのであった。

 患者は、光田が結婚を認めたものと理解したが、監督日誌をみると「女患者某に情夫男患者某ができた」と記してある。倶会一処は、通い婚という言葉で表現しているが、女は情夫ができると通い婚に指定した女舎に移らなければならなかった。十二畳半に八人が定員であるが、夜になると八人の男が泊まりに行くのであった。男は日が沈んでから女のもとに行くことが許され、朝は日の出前に自分の舎に戻らなければならなかった。日中は女のもとに行くことは禁じられ、監督が時々巡回し、男がいると追い出したのであった。女八人に男八人の夜を想像しただけでも戦慄を覚える が、光田はこうして患者の人間条件を奪っていたのである。

(三)

浮浪らい取締り法による収容施設が作られたのは一九〇九年であるが、二十年代には、都市部では浮浪者の姿はほとんど見られなくなった。三十年代になると自宅患者の強制収容が始まった。短期間に浮浪患者の隔離収容ができた秘密は、らいをペストやコレラと同じ伝染病として扱い、国民にその恐ろしさを徹底させたことにあった。昨日までは遺伝病、天刑病として放置し、民衆は患者を見ても少しも恐れはしなかった。親切な家では宿を提供してフロまで入れて労わった程である。それが一夜明けるとペストと同じ病気となり民衆の間にパニック状態がくり広げられていった。患者を発見した市民は警察に通報し警察は収容所に連絡し武装車が現場に急行して患者を収容した。患者のいた場所と歩いたと思われる所は大がかりに消毒を行った。

 都市から離れた村落で患者を発見すると、大人に交って子供たちまでが棒切れや石を投げて村から追い出した。十五年戦争の激化と共に患者弾圧はますます厳しくなっていった。畑仕事をしていた患者は、その場から強制的に連行され隔離収容された。
 沖縄県では、警察官が畑仕事をしている患者の脇腹に短銃を突きつけ、その場から連行して隔離した後、患者の家に火をつけて焼いてしまった。こうした強制収容が大きかったため収容所で発狂した者や、収容所を脱走して先祖の墓で首をくくって死ぬ者もあった。

 光田は、部下の家来に命じて脱走を企てた者をとらえて見せしめに大勢の患者の前で青竹でなぐらせた。一九三〇年、光田は国立療養所長島愛生園の初代園長として転任し、代って林芳信が三代目所長となった。林に代っても隔離撲滅の手はいささかもゆるめられることはなく警察官の協力によって隠れ住んでいる患者を探しだしては強制収容をした。

 沖縄愛楽園では、戦争末期には定員の二倍の患者を収容し二〇〇人もの餓死者を出した。全生園では一九四二年から四六年の五年間に定員の二分の一にあたる約六〇〇名の患者が飢えと医薬品の不足から治療らしい治療が行われず亡くなっていった。

どこの施設もこれと同じような道をたどっていったのである。ペストにかわって戦争が収容所を襲い多くの犠牲者を出したのであった。

 林芳信は、熱心な神社信徒で、毎月二十八日を開園記念日として学園グランドに患者を集めて早天皇居遥拝をした。国旗掲揚した後皇居に向かって遥拝をするのであった。その後、林は「ライは文明国の恥であり、日の丸の汚点であり、隔離撲滅しなければならな.い」と訓辞し、グランドから二〇〇メートルほど離れた永代神社に戦勝祈願をしたのであった。この林によって監房に監禁された患者は幾百という数に達し、監房のなかで首をくくるものもめずらしくなかった。

 戦争と強制収容によって患者の命が奪われていた時、この収容所にも春の足音が確実に近づいていたのであるが、患者は一人としてそれに気づかなかった。大東亜戦争の始まった年の一九四一年に、アメリカで抗生物質によるライの治療薬プロミンが発見されていたのであった。この朗報が我国に伝えられたのは、戦争に敗れ連合軍の進駐によってもたらされたものであった。東大薬学部教授の石館博士によってプロミンが作られたのであった。

 一九四七年に全生園では試験的に四人の患者に治療が行なわれた。プロミンは静脈注射で選ばれた四人は潰瘍のあるL型の患者であった。治療を始めてまもなく四人の患者に奇跡がおこった。傷が乾き癒えていったのである。本病の唯一の治療薬であった大風子油は、一時的に病勢をおさえることができたが、耐性菌ができるともはや何の効果もなかった。患者の誰もが恐れていた最後の段階を迎えていたのであった。大風子油はそれに対して何の効果もなかった のである。その傷がプロミンによって癒えたのである。

 ライは旧約聖書の中にも表われてくる。おそらく人類の歴史始まって以来の不治の病気として今日まで恐れられてきたものである。それが今、奇跡としかいいようのない化学療法が発見されたのである。誰もがこぞって衣類や書籍など金目になるものを売り払ってプロミンを購入し治療を始めた。売る物も持たない無一物の患者は「俺にもプロミンを打ってくれ」とハンガーストに入り全国の施設に広まっていった。

 一九四九年、プロミンは正式に化学療法として採用されたのであった。収容所は、連合軍によって人間回復への第一歩を踏み出した所へ、第二弾としてらいからの解放というとてつもない大きな送り物を受けたのであった。

 収容所は喜びに湧き返った。その喜びをあざ笑うかのごとく光田は、「プロミンは潰瘍には効くが、ライ菌を殺すことはできない」 と冷や水を浴びせかけた。患者にとってそれは悪魔の呪訴としか聞こえなかった。

 治療薬としてプロミンが採用された二年後の一九五一年、宮崎松記、林芳信、光田健輔の順で国会で証言を行なっているが、その内容はひどいものであった。化学療法を否定し隔離とワゼクトミーによる患者とその子孫を根絶するための対応策を要望しているのである。

 昭和二十六年十一月第十二回国会・参議院厚生委員会に於ける証言より、(光田健輔証言)「未収容患者が二千人残っていると厚生省の統計はいっておられますが、詮索すると余計にあるかもわかりません。その残っている患者を早く収容しなければなりませんけれども、これに応じない者がたくさんあります。そのような者に強制的に、このらい患者を収容するということが、今のところでは、はなはだそのようなところまで至っていないのであります。この点については特に法律の改正というようなことも必要でありましょう。強権を発動させるということでなければ何年たっても、同じことを繰り返すようなことになって、家族内伝染は決してやまない。手錠でもはめてから捕まえて強制的に入れればいいのですけれども、ちょっと知識階級になりますと何とかかんとか逃げるのです。そのような者はどうしても収容しなければならんという、強制のもう少し強い法律にして頂かんと駄目だと思います。治療も必要でありますが、私どもまずその幼児の感染を防ぐためらい家族のステルザチヨンということも勧めてやらす方がよろしいと思います。らいの予防のために優生手術ということは、保健所あたりにもう少し、しっかりやってもらいたいと考えております。それで患者の逃走ということですね。これは何ぼ入れてもですね 、その綱の目をくぐって逃走するのでございますから、私どもは、逃走しないようにですね、長島というところは海の中にあって、どこへでも船でゆかねばならんようにしている。ところが船を買収しまして、いまでは千円、二千円ほど漁夫にやって向こうへ逃げてゆくようなわけです。そういうものはですね、逃走罪という一つの体刑を科するかですね 、そういうようなことができればほかの患者の警戒にもなるのであるし、今度は刑務所もできたのでありますから、逃走罪というような罰則が一つほしいのであります。これは一人を防いで多数の逃走者を改心させるというようなことになるのですから、それができぬものでしょうか。 病名をハンセン氏病と日本で変えるということについては、子供みたいな話ではないかと、私どもは考えるのであります。それからもう一つ予防上から申しておくのは、所の中に民主主義を誤解して、患者が相互に自分の党をふやすということで争っているところがありますし、それは遺憾なことで患者が互いにいがみ合っているようなことになっております。これは患者の心得違いでありまして、そのためにそこの従業員が落着いて仕事ができない。結局は患者の不幸になって参ります。もう少し法を改正して闘争の防止ということにしなければ、不心得な分子が院内の治安を乱しますから、十分法の改正すべきところはして頂きたいと、以上でございます。」

 光田証言は、皮肉にも沖縄を除く十一園の患者自治会の組織結成にはずみをかけた。一九五三年のらい予防法闘争の引き金となったのである。この年光田は文化勲章を授けられ、マスコミと一般市民から日本民族をらいから守った人として、ダミアン神父、シュバイツアに匹敵する恩人として讃えられ、心ある患者を悲しませた。光田・林は軍国主義者の手先となった。民族浄化の名のもとに患者を弾圧した戦犯の片割なのである。光田が文化勲章を授 った年は、プロミンが化学療法として採用されて五年目にあたるが、この年の多磨全生園の年間の死亡者は八名であった。プロミンは潰瘍を治すことはできてもらい菌を殺すことはできないと いう光田の発言がいかに非科学的なものであったかが理解できよう。その二年後の一九五五年、ローマの国際ライ学会では、らいを伝染病として隔離することを否定し、一般の病気と同じように扱うことを決議している。らいの解放を正式に決めたのである。しかし、光田は国際ライ学会を無視して、世界は我国の隔離に見習うべきだと妄言し、世を去るまで自説を曲げなかった。

(四)

 光田の隔離撲滅を継承したライ学会は、戦後四十年を経た今もなおらい予防法の改正に手をつけようとしない。ライ学会の犯した誤ちは患者の隔離撲滅に熱心なあまり、ライ学会そのものが日本医師会から孤立してしまったことである。大学では教科科目かららいをはずし、町の薬局ではらいの治療薬を市販しなくなってしまった。ライ学会は、患者撲滅の独占企業会社になってしまったのであった。ライ学会は厚生省の管轄にはいっているが、この独占企業を認める他なかった。明治維新という歴史的状況の中で、政府自体がらい行政の専門家をかかえるだけの人材も予算もなく、現場の所長に行政が委ねられた。その結果が今日のライ学会の独占企業化を招いた原因なのである。企業に対しては消費者の利益を守るために独占禁止法があり、公正委員が企業の行きすぎに対してチェックしているがライ学会に対してはそれを規制する法律はない。今日に至るまで国際的に非難を受けながらも患者撲滅の政策を変更しなかったのもこれが為である。

 一九六八年、インドのアグラーで国際ライ学会が開催された。プロミンを治療薬として我国で採用してから約二十年後である。この二十年の間にプロミン以外にも治療薬は十指に余るほどあらわれ、その効果もプロミンとは比較にならないほど進歩している。DDS・チバ・B663・ストマイ・リファンピシン・等々がある。我国には十三の国立療養所があるが、その中に小・中学校があった。らいは幼児感染で潜伏期間が六年とも七年ともいわれているが、この点は確かではないが、多くは十代で発病している。らいが結核とともに青春病といわれたのもこれが為である。化学療法が始まってからこの二十年間に、児童の発生は減少し各施設の小・中学校は閉鎖され、最後に残った全生園も近い将来閉校の運命にあった。沖縄県を除く本土における患者の発生はゼロとなり、療養所そのものが終息に向かっていることが明確になった。アグラに於る国際ライ学会で、化学療法による成果が報告されるはずであったが、日本代表の宮崎は、世界の各国は我国の隔離撲滅政策を見習えとばかりに、胸をはって会場を見下すようにして隔離撲滅の実態を報告し始めたのであった。これが為に、会議の即時中止と宮崎発言に対する批難で会場は混乱に陥ってしまった。一時は日本代表団と会議を開くことはできないと、解散するところまでいったようであるが、最終的に、日本代表団が宮崎に発言させないことを陳謝し続会された。宮崎発言に世界各国の代表が抗議し たのは、化学療法を認めず、あくまでも隔離によって撲滅しようとする非人道的な野蛮性にあった。

 宮崎は発言の場所をまちがえたのである。患者隔離撲滅を認め、国を上げて勲章を授けたり殉教者のごとく讃える国は日本以外にはないことを宮崎は理解できなかったようである。アグラの宮崎発言は、我国ではあまり知られていない。もし、日本人全体が知ったなら、光田や宮崎がすすめてきた隔離撲滅に対する評価は変ったのであろう。しかし、我国のライ学会は独占企業であり、学会以外の情報を入手することはできないのである。

(五)

 宮崎発言からさらに二十年近くが経過しているが、光田が敷いた隔離撲滅政策のレールをライ学会は基本的には忠実に守っている。これに対して、学会からの反論があろう。我国では既に解放政策をとり 、社会復帰や外出の自由を認めているではないか。政府も同じような考えをもっていると思うが、我国は法治国家であり、らい予防法の骨旨となっている医療差別も今日なお生きている。WHOが非難するのはこの点なのである。一度らいの宣告を受けた者は、永久にらいの刻印を押 され、公には健康保険は使用できない。患者はらい療養所以外では医療を受けることはできないからである。社会復帰者が健康保険を使用できるのは、もとらい者であることを隠しているからであり、公に利用している訳ではない。

 現行予防法の改正ができない原因はどこにあるか。厚生省の体質によるか、らい学会の保守性にあるか、国民の合意が得られないところにあるのか。私はこの問題の原因とらい行政の責任を追求しているうちに、日本人の国民性に目を開かれ、思いがけない結論に達し愕然とした。私が、「いのちの重み」で問題にしたのはこの一点である。

 独占企業化したらい学会の隔離撲滅政策を医学上の立場から批判できる機関を大学はになうべきものと思うが、それがないということほど患者にとって不幸なことはない。京都大学皮膚特研があるが、規模が小さく、らい学会を批判できる力はないように思える。国際的に批難を浴びながら戦後四十年経ってもらい予防法の改正ができないのはこれがためである。せめてマスコミが国際感覚をもって正しい報道をしてくれればと希うが、患者弾圧をした所長達に種々の功労賞を送り結果的に隔離撲滅政策を奨励している。市民の一人は  「私たちが健康で暮らすことができるのは皆さんのおかげです」 といった。国民を代表する声であろうが、なんのことはない。犠牲になった患者に感謝しているようで、実は隔離撲滅政策を推進した所長達に感謝しているのである。これは日本的発想なのであろう。私は、所長達が医学上の名の下に患者を弾圧した数々の事例を上げて機会あるごとに訴えてきたが、すべては徒労に終った。日本人は  「人、全世界をもうけるとも、己が命を損すれば、なんの益かあらん」 という聖書のことば、「人の命は地球よりも重い」 ということがわからないのではなかろうか。日本人の思想の土壌となっているものは汎神論で八百万の神々とみ仏につかえることからきている。多数の神々とみ仏につかえることから自己否定的な生き方が生まれ、己が欠落してしまうのである。日本人と対照的に欧米人が個人の基本的人権を重視するのは、キリスト教の唯一 神教からきている。唯一の神とひとりの人間が義をめぐって解決し、それによって神は神となり、人は人となって自己を確立するのである。また、欧米人が個性的なのは家の構造にもよるといわれている。家屋はレンガ造りで家族と一緒にいてもわずらわされることはなく、部屋は独立し、内から鍵をかけて自己を守ることができ、個としての自己が形成されていった。

 これと反対に、日本の家屋は木造で家族は一室に同居していた。親と子が独立した部屋に住んでいても部屋は襖や障子で仕切られていたために個としての自己を守ることはできず、家族集団のなかで家長につかえる。滅私奉公の風習がつくられていった。

 日本の輸出攻勢にいらだったヨーロッパ人が、「日本人は働き蜂だ」 と言った。この言葉は真実を突いているが、その意味が分って言っているとは思えない。日本人はただの働き 蜂ではなく、養蜂的習性をもった民族なのである。蜜蜂はそこに快適な巣と豊富な蜜があるために、集団で住みついているのではなく、そこに女王蜂がいるからである。女王蜂がいなければこの集団はたちまち離散してしまうのである。女王バチは集団の引力であり、法則なのである。

 徳川幕府を倒した明治の志士たちは、天皇を神にまで高め国家統一をはかり、領土拡張の侵略戦争を押しすすめた。男子は一銭五厘の赤紙で戦場へかりたてられ勇敢に戦って死んでいった。機体に爆弾を積んで敵艦に体当りしていった神風はこの養蜂民族の典型的なものである。しかし、このような超国家主義はまちがっていたことはその後の歴史が明らかにしている。世界史のなかでも王が神となったもので滅びなかったものはない。

(六)

 日本人の集団による外国旅行は世界的に知られているが、これは養蜂民族の習性なのである。第二次世界大戦で日本軍を連合軍は解体して養蜂的構造を残した。これはアメリカの知恵であったかもしれない。女王蜂を除いていたならば統合の拠り所を失った働き蜂は離散し血で血を洗う抗争が続き今日の経済復興をみることはできなかったであろう。

 大企業は終身雇用制をとっているが、これは養蜂的構造なのである。会社の頂点に立つ者は女王蜂で社員は働き蜂なのである。アメリカで開発された精神が滅私奉公の働きバチの手にかかるとより 完璧な精神に生まれかわってしまう。先端技術の面でアメリカと競うまでになったのはこれがためである。発明できないのもこれがためであるが、民主主義のもとで、この習性がよい方向に働き経済的に成功したのであった。しかし、嵐のようなファシズムが吹き荒れるとき、それに同化することも考えられる。このことを裏づけるような事件が中曽根首相の靖国神社参拝によって起こった。首相 は、靖国神社参拝は国民の感情であるといった。中曽根首相のことばは国民の大多数の心情であろう。しかし、中国学生は、中曽根首相の靖国神社参拝に抗議し激しいデモを行った。

 中国に対して侵略戦争を起こした指導者たちが一般兵士とともに祭られている靖国神社に中曽根首相が参拝することは、侵略者たちの行為を肯定することになるが、抗議を行った中国学生の感情が日本人には理解できないのである。侵略戦争を起こした個人的責任が日本人にはほとんど理解できないからである。それは養蜂的滅私奉公の構造からきている。第二次世界大戦に敗れたとき、一億総懺悔ということがいわれた。これは一億総国民一人一人が罪を悔い改め懺悔しているということの意味であるが、実際はそれとはまったく逆に一億総懺悔の 言葉によって個人の懺悔は問題にされず、結局は誰も懺悔していないということなのである。  これが日本的思考であり、養蜂的なのである。

(七)

東京裁判で連合軍は東条英機らを戦争犯罪者として処刑したが、養蜂的思考によれば、永久戦犯者も一兵士も同一性の働きバチで、女王バチのために働いたので戦争責任者なるものは存在しないのである。それでは戦争責任を追求する者は我国には一人もいないかというと、そうではない。第二次世界大戦では二百万からの戦死者がでたが、もしこの人達が生き返ったならば、徹底的に戦争責任を追求するであろう。戦争を引きおこした軍人、協力した政治家、文化人、マスコミ、ただそれだけでなく戦争に協力して我子を戦場へと送った両親をも裁くであろう。戦場にて死の洗礼を受けた兵士たちは、人の命が地球よりも重いことを知っているからである。養蜂社会で見失っていた自己を兵士たちは死という一度の経験によって回復したのである。

 これとは逆に、GNPが戦後世界第二位となった現代に生きる日本人は、養蜂化社会でますます自己を喪失しつつあるように思える。自殺者までだしている子供たちのイジメの問題もこの養蜂的社会において起こっている現象なのである。子供の働き 蜂集団のなかで、なにかの原因で行動を共にすることのできない子供がイジメの対象となっているのである。このようなイジメは欧米の子供たちの間にはないという。日本独特の現象なのである。このイジメの問題は養蜂社会がわからないと理解しにくい。子供たちのイジメの問題が社会問題となるまえに横浜で中学生による浮浪者のイジメがあった。中学生たちがなにかおもしろい遊びはないかと捜していたところ、浮浪者が目についた。おもしろいから殴って遊ぼうと中学生たちは棒切れで浮浪者を襲った。浮浪者は悲鳴をあげながら悶え、苦しむ様をおもしろがり、公園に寝ている浮浪者を捜しだして次から次へと襲い、それによって死に至る者もあった。この衝撃的な事件は社会に深刻な波もんを投げかけた。  学校・父兄・文化人・マスコミ等様々な立場からこうした暴力を生みだす背景と環境が問題となり、隣人愛や道徳を教えることの是非が論じられた。しかし、浮浪者を放っておくことの大人の責任については全々ふれられなかった。働く気力のないこの浮浪者は、やがては飢えと冬の到来によって死んでゆき、野犬や野良猫の死体と同じように市の係りによって片づけられてゆく身なのである。この人達を救済することは、大人の責任ではないのか。放っておくことは子供のイジメよりも残酷なイジメに思える。

(八)

 イジメの根底にあるものは、人の命は地球よりも重いという、命の尊さというものが欠落していることである。旧約聖書の創世記に神が御自身の形に人を似せて創ったとある。御自身の形とは、色々な解釈があるようであるが、神が分身として人をつくったということではないだろうか。自殺が聖書的に罪なのはこれが為で、神の意志に逆うことになるからである。養蜂社会では集団から切り離された個人は存在しない。それ故に、先天的に後天的に働きバチとしての機能を失った者は、集団から脱落し、イジメの対象となってしまうのである。

 らい患者と精神障害は、我国の偏見と差別のルーツであるといわれているが、イジメの典型的なものであろう。報徳会宇都宮病院で看護人が金属バットで精神障害者を虐待したことが大きくマスコミにとり上げられたが、これは永山の一角であろう。戦時中、精神障害者施設から全生園へ移されてきた患者がいたが、彼の話によると、施設では患者が気を失うまで蹴る殴るの拷問が行なわれた。天井から患者を逆さまにつるして殴ることもめずらしくなかった。なぜそのようなことをしたのか。意識を回復させるための治療方法として拷問が行なわれたという。  全生園では誰が指示したか分らないが、精神障害者施設の協力のもとに三十名の精神障害者にらい菌を移植したが、成功しなかった。実際に感染するか、しないか実験したのである。  また、戦時中、軍部が開発した新薬が治療に用いられ、多くの犠牲者をだした。今となっては果してらいの治療薬として開発されたものなのか、軍事目的のために開発されたものなのか不明である。

(九)

養蜂的構造の骨格をなしている滅私奉公に伝達される方法は、上から下に垂直に伝達され、それを聞く者は批判したり疑問をもったり拒否したりすることは許されない。天の声として受け入れるのである。「神風」がそうであり、武家社会がそうであった。殿様と家来の関係もそうであった。滅私奉公で殿様の為に死ぬことが善であり、徳であり、忠義であった。忠臣蔵は武士の鏡であった。歌舞伎に講談に浪曲に絶対の人気をもっている。マッカーサーは忠臣蔵の歌舞伎の上演を禁止したほどであった。主人の恨みをはらす忠臣蔵に日本人の野蛮性をみたのであろう。しかし、それは誤解であった。今の日本人に仇討ちの心はさらさらない。忠臣蔵は養蜂民族の心のふるさととして愛しているのである。顕著なことは、たとえ悪徳の女王蜂であっても、それを倒して民衆をその支配から解放するという思想はまったく見られないことである。民衆に仕え、民衆のために死ぬということが考えられないのである。

 養蜂社会は縦関係で、横の関係がないために痛みを分ちあうことがないのである。この縦社会を武器に例えるならば、防備的なものでなく、攻撃的なものである。軍国主義者はこの構造を巧みに利用して侵略戦争をすすめた。

 戦後、敗戦によって無一物となった養蜂民族は、アメリカの放出物資によってかろうじて命をつないだが、奇跡の復興を為したのは、この攻撃的な滅私奉公にあった。世界はその復興に驚嘆し賞讃したが、超経済大国といわれるまでになった時滅私奉公の貿易の武器は経済侵略の凶器となって世界を脅かし始めた。アメリカをはじめ、西洋諸国は、貿易不均衡の是正の為の関税の障壁を取り除くこと、内需拡大、海外投資、発展途上国への援助拡大等を要求した。政府もそれに答えて対策を講じているが、貿易黒字は一向に減らない。西側のイラダチは募るばかりで、手をうっても増えこそすれ減ることのない黒字に困惑しいるのが日本政府であった。

 養蜂的構造の抱えている様々な矛盾が貿易黒字として噴出したのである。養蜂的構造そのものにメスが入らない限り根本的な解決はできないであろう。

 構造改革には二つの条件がある。その一つは天皇制の問題である。憲法は天皇を統合の象徴として定めている。私は民主憲法を支持する者であるが、その条件として、二月十一日の建国記念日、君が代の国歌、日の丸の国旗は認めることはできない。これらは天皇を神とした養蜂民族の印なのである。新たに作られる国歌と国旗と建国記念日は、主権在民の象徴的なものでなければならない。

 もう一つの条件は、学歴社会を改革することにある。いかなる学歴をもっているかによって人の一生はほぼ決定してしまう。豊かな才能と感性に恵まれていても、学歴のない者は世に出ることはできない。それゆえ、生まれると同時に徹底した教育がほどこされた。名門の大学に入るまでには幾多の試験と競争相手にうち勝っていかなければならない。世にいう試験地獄であるが、競争から脱落した者が校内暴力やイジメという現象で起った。アメリカを先端技術の面で競うまでに教育の徹底化にあったが、それによって日本人は増々自己を喪失していった。

 ソビエトの原子力発電所の事故にみられるように制禦できないまでに肥大化した科学の前に、世界はますます不透明となり、不確実な時代を迎えているが、その先頭を走っているのは養蜂民族である。

(十)

 本書の目的は、冒頭にもふれたように国際的に悪名高いらい予防法が戦後四十年を経ても改正できない原因がどこにあるのか、患者とその子孫を撲滅しようとした者は誰かを明らかにすることにあった。戦後独立した発展途上国は概して軍人による独裁政治が行なわれているが、民衆の政治意識が低いために起っている必要悪といっていいであろう。明治以後の我国も同じような道を辿ってきた。

 光田・林などの隔離撲滅政策はこうした歴史的背景を考えるとき、一概に非難できない面もあるが、私が光田等を糾弾するのは個人の基本的人権を保障した民主憲法下にあっても、彼等は以前として隔離撲滅の姿勢を崩さなかっただけでなく、世界は我国の隔離撲滅政策を見習うべきであると公言していることである。また、光田の撲滅政策を支持している医師の多いのも養蜂的構造からくるものであろう。

 我々の組織である全国ハンセン病患者協議会は、予防法の是非を会員に問うているが、七五〇〇人のうちその大半はすでに七十歳を超えて予防法改正には批判的である。その理由は、予防法が改正されれば養療所にはいられないと思いつめているのである。横浜の中学生達によって石ころや棒切れで打ち殺された浮浪者と自分を重ねてみているのである。老人たちは、戦前の浮浪時代を実際に経験し、あるいは見聞きし、我国の養蜂的構造の何であるかを体で知っているのである。

 また、全医労傘下の職組は、危険手当改正の動きを察知して反対の署名運動をすすめている。自己の利益の為には患者として永久に予防法によって拘束しておけということなのである。

私は「いのちの重み」が現代人に理解されるとは思っていない。らい患者の書いたものとして問題にされないだけでなく、気違いか被害妄想患者の書いたものとして無視されるであろう。それを承知の上で書いた。現代人に向かってではなく、二十一世紀以後の人間に向かって書いたのである。おそらく、この養蜂的構造は二十一世紀には崩壊し、各自が自己意識に目ざめるであろう。そのことが起こらなければ養蜂民族は国際社会の一員として二十一世紀には生き残ることはできないからである。自己意識とは、人の命は地球よりも重いという個としての自己を確立することである。

 しかし、私はこの小論文が現代人にまったく理解できないとは考えていない。養蜂民族以外の人であるならば理解できるであろう。人権問題を扱っている国連に「いのちの重み」を英訳して送ってくれる読者の現れることを望んでいる。

 私は強制隔離収容されて半世紀になる。やがて七十歳に達しようと、肉体も弱まっていていつ地上を去るかわからない。その為であろうか、ある郷愁をもって強制隔離時代を回想している。強制収容されてまもない頃、貧しかった母はどのようにして、入手したのか手あみのセーターを送ってくれたが、見張り所の監督は、らい患者のくせにセーターは贅沢であると物置に投げ込み虫が喰ってボロボロになってから渡してくれた。その時はすでに母は世にはなく、私はボロボロのセーターを胸に抱いて母を偲んだ。また、母は収容所では生肉・鮮魚は食べられないと分ったとき、ブタ肉を正油で煮しめてこんにゃくのように見せかけて送ってくれたが、監督に分り、没収されてしまった。ここでは麦メシに患者の作った野菜の煮付けとつけ物が副食であったが、戦争の激化するにしたがって、それも食べられなくなり、主食は甘藷や馬鈴薯、かぼちゃや、ダイコンにかわりその葉やイモずるが副食となった。所内に棲息していた小動物、野良犬や、野良猫、ヘビ、カエル、野島は唯一の動物性たんぱくとして食した。胸を病んでいる者はネズミの裸の子を生きたまま飲んだ。気の狂っていた患者は誰も食べようとしない毛虫やイモ虫をとって食べていた。栄養失調で患者は皆痩せこけていたが、なぜかイモ虫は丸々と太っていた、それを生のまま泡を吹きながら食べているのを見たとき、私はこの世界は生きながらの地獄と思った。

 これらの先輩はすでに世にいない。この人達にかわって私はこの小論文を二十一世紀の遺言として送ることにした。おそらく想像に絶した最後をとげていった収容所の先輩たちは、私のこの考えに同感してくれるものとして信ずる。(完)
 


解題

この文は、1986年「多磨」4月ー7月 に4回に分けて連載されたものですが、この時期、松本さんは、薬害(サリドマイドの後遺症)で病床にあり、おそらくは遺書のつもりで書かれたものと思う。「ラザロ・恩田原」という洗礼名のようなペンネームが、それを暗示しています。 この文書は、「自治会会長」としての肩書きをはずして、戦中・戦後を生き抜いてきた「一療養者」から、未来の「21世紀の日本の読者」へむけて書かれたメッセージという意味があると思う。 この文書を発表したときの全生園は、まだ光田健輔の縁者が園長を務めていましたが、松本さんは、實に明快率直に、「光田イズム」の批判を書いています。