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自己からの解放 

「小さき声」19783 

 信仰者と無信仰者の相違は、前者は自己を放棄し神に生きるのに対して、後者は自己を拠り所に生きます。そのことは生活の隅ずみまで現れるようです。 

 自治会活動という具体的な場を通してこのことが一番よく現れるように思います。信仰者は自己に死に無となっているために、この世の事業、自治会活動にかかわってもそれに拘束されることがなく自由です。

 パウロはガラテヤ人への手紙五章1節で「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と言っています。 

 ガラテヤ人への手紙の主題は、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるということを、いろいろな角度から論証をしているのです。ここでいう自由とは、律法からの解放であります。キリストによって解放されたということは、律法によって肉の奴隷、罪の奴隷となっていたものが、キリストによって解放されたことを指しているのです。具体的に解放とはどういうことなのであろうか。それは自己に死ぬこと以外ではありません。十字架の前に死ぬことであります。しかし、人間にとって死ぬことはそれほど簡単ではありません。もし自己の意志、努力によって死ぬことができるとすれは、聖書の言うイエスと共に十字架に死んだと言うこととは意味が違います。自己の努力によって自己に死ぬことは、厳密には自己から自己へと死んだので、自己を死に至らしめた自己は残ります。その意味で自己からの解放ということはありません。それは無限に自己の死を繰返すことであり、その世界は地獄であり、自己からの解放ではなく、解放したと思った瞬間に奴隷になっています。 

 聖書の言う自己の死は、内から来たのではなく、外から来るもの、それはイエス・キリストを信ずる信仰によって起るものです。しかし、信仰によって起るとすれば、私が信じたという私が残り、信仰という誇りが残ります。信仰によってイエスと共に死ぬ時、上からの一方的な出来事として起ります。その時、私の信仰は全く無力となり、その出来事に何らのかかわりもありません。信仰そのものが上からの恵みとして圧倒的な力で迫って来るからです。それ故に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2−20)という告白ができるのです。死ぬことは自己の意志でも力でもなく、上からの出来事なのです。このように無とされた者は、完全に自由で、自己に対してもこの世に対して自由であります。 

 自治会活動をしていて私が一番有難いと思うのは、その仕事に拘束されないこと、全く自由であるということです。重荷になるのは自治会の仕事そのものが重荷になるのではなく、イエスが言われているように、己が十字架を負ってわれに従え、と言う意味の重荷に変えられていることです。ですから自治会の仕事がいかに大きく重いものであっても、私を奴隷にすることはできません。私はこの世に対しても自己に対しても、完全に自由なのです。信仰による自由、すなわち自己に死に完全にキリストのものとされ、無的な自己となっている限り、この世のいかなる仕事にかかわっても自由であります。 

 私の自治会活動に対しては、不自由の身で大へんであろう、余程の努力と忍耐が必要であろうと言います。しかし私自身は、自治会活動のために人一倍努力し、忍耐し勉強をしているとも思っていません。むしろ誰よりも努力せず、忍耐せず、勉強をしないと言えましょう が、楽々とできるのです。その理由は自己が無になっているためであります。信仰的に自己に死ぬことができず、生来の私が仮に自治会活動をしていたとすれは気が狂ってしまうか、疲労困憊のあまり一年も続かなかったでしょう。 

 失明だけでも私は生きてゆくだけの力もなければ、希望もありませんでした。この世で最も不自由な者、肉体的に奴隷としての位置にある者はハンセン病の視力障害者でありましょう。失明だけでも大へんなのに、手足の感覚はなく、客観的にはこの世の何処にも自己を支える拠所とするものがありません。 

 回心後の約十年間、私は聖書の暗唱に熱中しましたが、信仰による義が神の恵みであることがわからず長年苦しみました。そして、時に主イエスとその十字架が見えなくなることがありました。十字架のイエスだけが私の最後の拠りどころであり生命と信じていたのに、主イエスを見失ってしまうのです。そんなとき、私は宇宙に投げ出されたような孤独と恐怖感に襲われました。足に感覚はなく、手にも知覚がないために、地球がガラス玉のように思われ、そこからすべり落ちて無限の空間に投げ出されるような恐怖に襲われ、地球にしがみつきたいような衝動にかられたものです。そして地球の土を舌で試し、自分が地球上に存在していることをわずかの触覚で感得し、孤独と寂寞から逃れようとしたものです。 

 十字架にある義が恵みであるとわかったとき、完全に私は自己に死にました。信仰そのものが神の恵みであること、イエス・キリストの信仰によって義とされる、と言うことを受け取らされたのです。その時以来、私は自己自身を見ることができなくなりました。私のうちに生きてい給うのは私ではなく、キリストだからです。それ故に私はこの世とかかわっても、それによって拘束されたり、奴隷になることはありません。自由なのです。側から見て大変だと思われても、私は一向に大変ではなく、どんな障害にぶつかっても、困難に遭遇しても絶望するということはありません。振り返って見ると、いつも困難や障害を楽々と乗り越えて来たように思われます。 

 「自由を得させるために、キリストは私たちを解放して下さったのである」(ガラテや5−1)ということは、教義ではなく事実なのです。