松本馨著作集目次


自由を奪うもの

「多磨」 1967年4月号
松本馨(本園入所者)

黒い影

 療養所は解放下の道を歩いている。半世紀の間隔離し、抑圧し、疎外していた門は開かれた。私たちは自由を獲得しつつある。否、すでに自由を得た。 

私は一九三五年に、隔離収容された。十七才の時である。そして、来年は孔子の天命を知る年になろうとしている。少年期の終から青年期、壮年期、初老へと隔離生活をしてきたのである。そしていま、故国帰還への道が私の前に開かれているが、老令と後遺症のために、若い人たちと一緒に帰ってゆくことは出来ない。目を閉じて解放の足音を聞いていると、いつも次の聖句を思い出す。 

「あなたがたの神は言われる。「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」

捕囚の民イスラエルに、バビロニヤからの解放を告げる預言者の言葉である。この言葉には、キュロスによるバビロニヤの征服と云う歴史的背景がある。 

私たちのキュロスはアメリカである。アメリカは広島、長崎に原子爆弾を落すと云う史上最大の殺戮を行ったが、日本占領と共に、スルフォン剤の治癩薬と、民主主義を以て癩と監房の鎖につながれていた私たちを解放したのである。こうした大きな転換期には、混乱が生ずるものである。私たちの療養所でも混乱はまぬかれなかった。隔離から解放へ、旧体制から新体制へ、隔離療養から解放療養へ移るための混乱である。私たちはこの混乱を恐れてはならない。おびえてはならない。勇気を出して混乱から立上り、主体的に生きることがゆるされている。これこそ自由なのである。 

最近、この自由に対して懐疑的な人たちが現われている。療養所の解放政策に対して、余りにも自由放任すぎるとして取締りの強化を希んでいるのである。私はある人から、光田健輔の隔離政策の正しかったことを聞かされた。彼は第二の光田が現われて混乱の療養所を救うことを願っていた。彼の言葉に私は深刻に反省させられた。現代の療養所に墓の光田を引っ ぱってくることは逆行である。折角与えられた自由を放棄し、再び奴隷の地位に身を置くことにならないだろうか。光田健輔の隔離政策の是非は論議し尽されていると思うが、この機会に私の考えを少し述べておきたい。 

結論から云えば、光田の隔離政策は行き過ぎである。全生園と愛生園は、光田の手になったものであるが、この二園は監房と監督の土台の上に立ったものである。その制度は刑務所を模倣したものである。家族の面会は自由にゆるされず、監督が立会った。手紙小包は検閲を受けた。医師の診察を受けなければ、魚肉を購入して食べることさえゆるされなかった。病人に対してこれ程、苛酷なあつかいがあろうか。癩予防法は、懲戒検束権を所長に与えているが、彼は最高に、懲戒検束権を発揮したのである。 

光田は自己に一つの使命を課していた。その使命感が、不動の信念となって、恐怖の隔離政策を推進させたのである。その使命とは日本国民を癩から守ると云う哲学である。「生命の畏敬」を著した哲学者であり、神学者であるシュワイツアーとは本質に於て違う。光田の哲学からは人種と国境を越えて、アフリカの癩の黒人のために一生を捧げると云う人類愛は生れてこない。勿論、光田が癩患者を如何に愛し、その一生を癩者のために捧げ尽したか、私は知っている。然しこれとそれとは違うのである。また、隔離政策を全面的に否定するものではない。家族や世に捨てられて、地をさ迷っていた患者にとって、隔離療養所は絶対に必要だったのであるだからと云って、彼の恐怖の隔離政策は肯定することはゆるされない。彼のあやまちを指摘することは監房で首を縊って死んだものや、監督の下でうらみをのんで世を去っていった先輩に対して、残っている私たちの義務でもある。自由の行き過ぎと、光田の隔離政策を礼讃する反動的な人たちの動きに対して、私たちは警戒し、自由を守らねばならない。 

懲戒検束権に代わるもの 

一昨年だったろうか、園(職員)より作業管理規定が出されたことがあった。その中に無断で、三ヶ月労務外出したものは、退園処分にすると云う罰則があった。私はそれを見た時、昔の監督制度復活だと思った。無断で労務外出している者を探すためには、施設の内外に見張りを立てておかねばならないだろう。状況によっては、入所者全員の非常呼集の必要性も起って来よう。昔は夜、行なわれたものである。一人の無断労務外出者を探すために、全入所者が監視の対象になるのである。運営には、自治会役員を参加させて、慎重を期すことになっていたが、問題は方法にあるのではない。患者の生殺与奪の権を無条件で、園にゆだねることにある。これは懲戒検束権に代わるものではないだろうか。 

私は現在の職員は、民主々義を身につけた立派な人だと信じているが、権力の座につくとき人間が如何に変るか、監房時代にいやと云う程知らされている。羊が狼になるのである。歴史もまた、このことを明らかにしている。平凡な何の取柄もないような人間が、一度、王と云う権力の座につくとき、考えられないような大殺戮を行なうのである。狂人に刃物と云う言葉があるが、権力はそのような魔性を持っているのである。権力を握らないことは、私たち患者だけではなく、職員にもよいことなのである。狂人に刃物式な危険を避けるためである。 

作業管理規定は作従連--作業従事者連絡協議会--の反対にあって廃案になったことは両者のためによかった。作従連の反対理由は私は知らない。また反対の声明書を出したのか、作従連、自治会、園の三者会談で、どのような発言をしたかも知らない。然し私には大体見当がつく。作従運の人たちは長期療養者で、暗黒時代を身をもって経験してきた人たちである。作業管理規定を見た時、この人たちが想起したことは何であったろう。 或る者は監房の中の自分であった、或る者は、監督に引立てられて行くみじめな自分である。また或る者は事務所裏で肩をいからした大勢の職員に囲まれて 「貴様、監房が恐ろしくないか」  とおどしつけられている自分である。作従連が、作業管理規定に反対したのは、理屈ではない。過去に対する怒りであり、抗議である。彼らは身体でもって反対したのである。戦後入ってこられた職員には、こうした患者の気持は理解出来ないのである。 

然し作業管理規定に賛成した人たちもいる。解放政策に不満を持つ人たちこそ、主に不自由舎に在籍する人たちである。理由は極めて単純である。自分たちには関係がない、また無断で労務外出をしないものには、どんなに厳しい罰則でも関係は無いと云うのである。果してそうだろうか。昔、所長に与えられた懲戒検束権は、患者を強制隔離収容するためであった。所内の監房と監督制度は、脱走者をふせぐために設けられたものである。それでは不自由舎に在籍している者、逃亡の意志の無い者には、この制度は影響なかったろうか。真面目に療養しているものが脱走者と同じように非人間的にあつかわれ、囚人の如くあつかわれたのである。むしろ脱走者よりも真面目に療養している者の方がこの制度の下で苦しんだのである。作業管理規定に盛られている罰則は、決して無断で労務外出する者 にだけではないのである。 

既に過去のものとなった作業管理規定を更めて持出したのは理由がある。それは今後作業管理規定に代わるもの、私たちの自由を奪い、奴隷にしようとするものが、将来出てくる可能性があるためである。療養所の整備統合にもそれが現われてくるであろう。この際、私たちは自由を守るための考えを、はっきりさせておかなければならない。 

自治会の癌

自治会を閉鎖して早くも半年を経過した。この間に、自治会再開の動きがあったが実現しなかった。本誌にも識者の再開を希む言葉が毎号の如く掲載された。その全部を読んだわけではないが、私の感じたことは、ただ漠然と再開を希むだけで自治会を閉鎖するに至った原因の究明と、分析が行なわれていないことである。このことがなされ、それへの反省がない限り、自治会の再開はあり得ない。何故なら自治会閉鎖は会員が自治会に絶望し、拒否したことなのである。その絶望的なもの、癌を摘出しない限り自治会は健康にはならない。

では自治会の癌は何か、私は二つの委員会制度、特に常任委員会制度にあったと思う。自治会が暗礁に乗りあげた時は、きまって常任委員を選出することが出来ないのが理由であった。このために、過去に幾度か自治会規約の改正が行なわれ、常任委員会の仕事の領域を縮少した。常任委員に誰でも気軽に出られるようにするためであった。然し、この二つの委員会制度はいつも存続させてきたのである。ただ執行委員が常任委員に、評議員が中央委員に名称を変えただけである。この二つの制度は、全生園が若かった時、二十年も前に作られたものである。執行委員と云う精神的、肉体的にも激務な役員を選出するのに、当時困難はなかった。 

然し二十年後の全生園は年を取った。平均年令が、昨年が四十九才である。この内の七十パーセントは、肢体不自由者と高齢者と、病人と小児である。残る三十パーセントの内健康に恵まれたものはホッチキス工場と労外に取られている。こうして最後に残った者の中から常任委員長と常任委員を選出することになるが、選挙の度毎に会員の意志が生かされたことは希であった。当選しても受けないからである。その結果は、推薦委員会を作り、元常任委員長や常任委員の肩書きを持つ人たちに嘆願し哀願して歩くのが習慣になっていた。 

こうした自治会には、最早、会員の自由はない。少数の人たち、元常任委員長や、元常任委員の肩書を持つ常任資格者のものになってしまったからである。この人たちが首を横に振れば、自治会は危機にひんし、首を縦に振れば自治会は成立した。その度毎に一般会員は右によろめき、左によろめいて少数の人たちに振りまわされていたのである。私はこの人たちを 非難するつもりはない、常任委員会制度の弊害について書いているのである。この人たちもまた、被害者なのである。 

私は人の面から制度の弊害について述べたが、予算面からも少しふれておきたい。自治会役職員の給料の予算は、年間約百三十万円程度である。予算の出所は売店と豚舎の利益である。この二つの事業は入園者のものであって、福祉に使われる性格のものである。それにも関わらず、その大部分は役職員給料に取られた。その上に自治会費は上がった。こうした自治会に対して、会員の間から自治会に対する不満は当然である。このために自治会は、規約を改正して作業賃の中から年間百二十万円を役職員給料に廻そうとした。作従連はこれに反対し、自治会が分裂の危機に陥った。この分裂を避けるために選んだ道が自治会閉鎖である。

私は作従連が自治会を閉鎖に追いやったことは正しかったと思っている。自治会は、会員の福祉のためにある。然し、近年の自治会はその機能を喪失し、会員の自由を奪い、抑圧し、食いものにし、自治会自身の延命策のみを考えるようになった。制度の欠陥か、かくも歪んだものにしてしまったのである。 

私は最後に今後の自治会は如何にあるべきか、少しふれておきたい。今迄論じてきた中で、その方向は大体分って頂けたと思うが、二つの委員会制度は廃止し、それに代わって単一の評議会を作る。評議会の主な仕事は、園より示される予算使途計画の審議、それに関連した会員の福祉である。常任委員会制度は絶対に廃止しなければならない。それが無くては困ると思うのは習慣と、惰性なのである。自治会閉鎖後、必要なことは園が総てをしているが、私たちは困ってはいないのである。評議会と、諸団体との関係は、過去の自治会が、諸団体と園との窓になっていたようなことをしてはならない。窓はしばしば壁となって諸団体を拒否し、園の代弁者となる過ちをおかしてきた。評議会は、諸団体の自主制を重んじなければならない。ここで再び作従連を登場させることにする。自治会閉鎖後、作従連と直接接触し、自主的に運営をしている。この関係は自治会発足後も継続しなければならない。ここでの評議会の仕事は作業所のために予算を少しでも取ってきてあげることと、作従連と園との交渉が行き詰った場合、アドバイスすることである。これは評議会と諸団体との関係である。

自治会再開は、急いではならない。急ぐことによって、再び過去の過ちをくり返すことになるからである。自治会不在によって、一番困るのは病室の病人であろうが、もうしばらく辛抱してもらいたい。自治会不在の時が、過去の自治会が雑然としてきた仕事を煮つめて何をしなければならないか、必要なものは何か、評議会の仕事の領域を明らかにしてくれるであろう。自治会不在の時が煮つめたものは、今後の自治会の素となるであろう。 

現在は、会員は自治会不在による太平ムードに浸っている。あの絶望的な選挙や、自治会のよろめき、マイクから流れてくるヒステリックな叫び、頭が狂ったのではないかと思われる堂々めぐりの中央委員会の実況放送。頭の上に重くのしかかっていた雲が切れて、久しぶりに青空を見るように解放されたのである。然し、この解放は真実ではない。青空は一時的なもので、台風の目の中なのである。こうした中で、われわれは、自由を奪うものは誰か、自己に問い続け、その答えを求めなければならない。