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 終末と言うこと 

「小さき声」 19858

松本馨

 年をとり、体が弱くなって行くに従って、聖書に記されている終わりの日への希望が大きく脹らんでいくようである。若い頃は将来への夢があり、自由があったが、年をとると夢はなくなり行動も限られ、想像の翼ももぎとられ、その日その日の現実だけしかない。食物への魅力もなくなり、心も体も枯れて行く様である。 

 エゼキエルの枯骨の世界である。エゼキエルは枯骨の復活を描いているのであるが、私の終末への望みは、これがために、大きくなって行くようである。そして、これは矛盾であるが、終末への希望が大きくなるに従って、この世への愛も大きくなって行く。 

 終末を希望するある人達は、その日が近いとみて家業を捨て、ひたすらその日を望み見ているが、その様な事は私には全然ない。内村鑑三先生は第一次世界大戦に米国が参加した事から、この世界に絶望し、再臨運動を起こした。真の平和は、キリストの来たり給う終わりの日以外にない、と啓示を受けたためであろう。しかし、それは長く続かなかった。前にも増して聖書の研究に取り組み、十字架を説いたのも再臨を否定したのではなく、十字架を説く事が、再臨を一層確かなものとしたためであろう。つまり再臨は、漠然と世の終わりを待つというものではなく、又観念や抽象でなく、十字架においてリアルになったのである。エルサレム入城後イエスは、弟子達に世の終わりについて語られたマタイ伝二十四章・二十五章はその代表的なものであるが、.イエスの御生涯は、この終わりの日をめざしていたと云えよう。イエスの十字架は終わりの日のために起こったと、云えないだろうか。 

 「人の子が来たのは仕えられる為でなく、却って仕えるためであり、多くの人の贖いとして己が命を与える為である。」とイエスは云われたが、何のために世の罪を贖うのか、一人の滅びる者をも望まないのは何故か。それは、終わりの日キリストによる世界の支配が前提にある。神の国の到来というものが無ければ、罪の贖いは無意味になってしまうだろう。この終末を信じたが故にイエスは、十字架の道を歩まれたのである。神は独り子を給う程にこの世を愛されたのもこれがためである。 

 神を信ずる者も信じない者も、現代を指して終末と云う言葉を使っている。核戦争が始まれば世界は滅びると思っているからである。確かにそれは終末であるが、原因は核戦争にある事ではなく、現代人は人間同志信じられなくなった事から起こっている終末なのである。そしてその原因は、神がないと云う事であろう。神が信じられない時、人間は人間が信じられなくなるのである。キリスト者のうち、果たしてどれだけの人がキリストの再臨を信じているだろうか。キリスト者の終末も、神を信じていない者の終末も、本質において同じように思えてならない。キリスト者が内村先生が信じたような終末を信じたならば、イエスの歩まれた十字架を負って歩むであろう。十字架は世の罪を贖う神の愛であり、そこでは人間が人間を信じきる事なのである。そしてそれが、終末の意味ではなかろうか。十字架を離れて終末はないし、終末を離れて十字架はないからである。