松本馨著作集目次


創立七十周年に寄せて

「多磨」1979年9月号 
松本馨(本園患者自治会代表)

 一、倶会一処

  国立療養所多磨全生園が、第一区府県立全生病院として発足したのは一九〇九年九月二十八日である。ハンセン氏病療養所の終焉は近づいており、再編成か併設か、各施設とも決断を迫られるときが近づいている。これは避けて通ることのできない歴史の必然であり、各施設とも、この問題を巡って真剣な討議と探究が始まっているものと思う。では、多磨全生園は将来どうなるのであろうか。センターとして方向づけが成され、多磨に関するかぎり、将来への心配はないと言う者がある。果たしてそうであろうか。時間に多少の差はあっても、他施設と同じ道を歩むであろう。ハンセン氏病の患者の発生率が近い将来、ゼロになろうとしているとき、ハンセン氏病センターもまた、閉鎖か他への転用か、決断を迫られるときが来るからである。われわれ患者自治会は、こうした現実を無視して、目先だけの運動をする気にはならないし、われわれ自身の年齢を考える悠長な運動もできないのである。

 多磨支部患者自治会が、一時閉鎖から再建されたのは一九六九年の十年前である。六月に再建して最初の仕事は、創立六十周年の記念事業であった。このときの会員の強い要望は、七十周年記念を迎える者は限られており、六十周年が最後になるかも知れないから、思い出になるような記念事業を考えてほしいと言うことであった。

 その記念事業として始めたものに、ハンセン氏病文献の資料館を造ることと、緑化事業があった。六十周年に直接関係はないが、全生園の全面的な整備、センター中心のマスタープランが立てられ、運動を起したこの運動は、土地の一部を売って二、三年で整備を終るというものであった。このほかに、私の念頭を去らなかったのは、患者の手で全生園史を編纂しておくことであった。資料館の設立と文献収集が軌道に乗るにしたがって、全生園史の出版の必要性は大きくなっていき、二年前、五人の療友に編纂を依頼し、八月下旬に出版されることになった。書名は全生園の共同墓地一納骨堂一の墓碑銘を取って「倶会一処」と付けた。「倶会一処」の経過をさかのぼって考えるとき、何らかの意味で六十周年記念事業に関係があったように思う。これら事業について言及し、七十年以後の自治会活動についての私見を述べることにする。

「倶舎一処」については、既に触れたように八月下旬に出版されるA5判で四百頁に達する大作で定価は二千五百円である。出版所は、全患協の患者運動史を出版した一光社で、一般書店でも購入できるので多くの人達が読まれることを望みたい。

 公立のハンセン氏病の隔離収容所が、わが国に最初に出来たのが一九〇九年で、東京、青森、大阪、香川、熊本の五ケ所であった。その後の収容施設は、この五ケ所の施設の経験を生かし建てられていったが、その原型となったものが多磨全生園であろう。ハンセン氏病と光田健輔を切り離して考えることはできない。光田の終身隔離撲滅の思想は、わが国らい行政の基礎を成したものであり、光田と切り離して隔離収容所の是非を論ずることはできないからである。第一区府県立全生病院の開設に当って、光田は医長として就任し、五年後の一九一四年に二代目所長となり、一九三〇年にわが国最初の国立療養所長島愛生園に初代所長として赴任していくのである。長島愛生園は、光田が全生園当時の経験を生かし、彼が理想とする絶海の孤島に建設したものであった。光田の長島愛生園々長赴任と同時に、ハンセン氏病療養所の中心は全生園から愛生園に移り、メッカとなった。小川正子の「小島の春」や明石海人の「白描」で、その名は一層知られるようになった。しかし、光田の引退後、医療の中心は再び全生園に戻りつつある。地方施設が深刻な医療危機に立たされているとき、多磨全生園は東京という地理的条件もあって、医師、看護婦に恵まれているからである。

 多磨磨全生園の七十年を語ることは、わが国のハンセン氏病を語ることになるであろう。しかし、従来、患者の手に成る全生園史は無かった。光田健輔の「回春病室」をとおして全生園は世に紹介されていたと思う。「倶会一処」は「回春病室」に欠落している部分が中心となるであろう。欠落している部分とは、隔離収容所下の患者としての収容所の記録であり、光田とわれわれとの関係は医師と患者であるとともに、懲戒検束権を与えられている所長と、その下で一切の自由を奪われ、法的に何らの保障もされていない罪人としての患者の関係である。過去に言及するとき、被害者の立場として権力者を告発する性格を持たざるを得ない。客観的に冷静に編纂員は資料を扱っているが、被害者の立場は変らない。その意味では、光田健輔の「回春病室」と照合し、読まれることを望みたい。われわれはハンセン氏病に関心のある人達が「倶会一処」の内容に対して正当な評価を下されることを望みたい。何よりも私達が希望したいのは、ハンセン氏病が病気として隔離の対象となっているが、医学的に正しく扱われていないこと、医学よりもらいに対する偏見と因習が先行し、徹底した人間蔑視の政策がとられたことであろう。ハンセン氏病入所患者の八0%は菌陰性であり、本土における七八年の新発生患者は二十人を割った。今世紀のうちに、わが国のハンセン氏病は姿を消すであろう。それにもかかわらず、現行予防法は存続し、医療差別は依然として行われている。わが国に隔離収容所ができた七十年前の偏見と差別は今もなお、少しも変更されていない。この意味で「倶会一処」は隔離収容所の告発であるが、本書はいたずらに告発だけを目的にしたのではない。 

 一九四五年八月十五日、第二次大戦に敗れた日を境に、巨大な山のように患者を封じ込めていた隔離撲滅政策は根底から揺らぎ始めたのである。新憲法によって選挙権が与えられ、思想、言論が自由となり、抑圧行政に対して批判と改革を要求する道が開けたのである。四五年より一九七〇年の約二十五年間は、隔離撲滅政策の転換を求める患者と患者の解放を望まない行政側との厳しい対決の時代と言ってよいであろう。しかし、七〇年代になると両者の協調時代がはじまる。政府自身が積極的に解放政策に切り換えていく姿勢を示し、患者が患者を看護する管理作業の返還、日用品費の自用費方式による確立等によって、対決の時代は終ったのである。七〇年代は、施設管理者と患者自治会が一体となって、年ごとに深刻になっていく医療を如何にして守るかの時代なのである。両者が対決している施設は、医療施設として存続していくことは困難であろう。 

 「倶会一処」の編纂に当って、大西園長はじめ施設幹部より協力していただき、見張所時代の貴重な監督日誌を資料として提供して頂いたことは両者の協調時代を迎えていることのあかしとなるであろう。現代の療養所が隔離収容所時代と根源的に変革されたことのしるしでもあり、隔離収容所時代には考えられなかったことである。この機会に協力して頂いた施設幹部に対してお礼を申し上げておきたい。 

二、森と医療センター

 患者自治会が植樹を始めたのは一九七一年からで、やがて十年になろうとしている。戦時中、防空ごうの材料に園内の樹木を伐採し、さらに戦中戦後の燃料不足によって園内の樹木は殆ど姿を消したと言ってよい。戦後われわれの先輩が桜を中心に植樹をはじめたが、現在ではその桜が周辺の町の名所の一つとなり、花の季節には多くの人が桜見物にみえる。桜以外の本格的な植樹は七一年より始まり八年が経過したが、既に丈余の緑となり、全生園を包んでいる。全生園が建設された一九〇九年の東村山村と清瀬村は雑木林が海のように広がり、その一部に畑と森の中に点々と農家が見える程度であった。私が入院した一九三五年には、雉(キジ)や梟(フクロウ)の鳴く声が聞こえたし、狐(キツネ)もいたと言われる。四十余年後の今日では全生園以外に森林を見ることができない程に都市化されている。患者自治会は、全生園が東村山市の緑地帯として今後ますます貴重な場所になっていくことを考慮し、地域住民に、われわれの感謝の記念に全生園を森として残しておく計画を立てた。今世紀のうちに全生園の大方の患者は地上から消えていくであろう。その日に備えての植樹であるこの計画は全入園者の共感を得、患者作業の大部分はこの緑化運動に参加し、年ごとに緑が濃くなっていきつつある。戦後久しく絶えていた郭公が数年前より、五月二十日を過ぎると見えるようになった。全生園には数日とどまるに過ぎなかったが、今年は七月の終りになっても郭公の声が聞こえる。植樹の生長によって郭公の住みつく条件が出来たのであろう。十一万坪を森林にするとき、全生園は野鳥の楽園になるであろう。そしてそれは、そのまま森林とともに地域住民に感謝の記念となるであろう。

 センター問題については本書で機会あるごとに訴え続けてきた。次号では第二十六回定期支部長会議に多磨から提出したらいセンター問題について書くことになっているので、ここではセンターと地域住民とのかかわり方について触れておきたい。厚生省は多磨のセンター化に触れて、地域住民にもセンターの恩恵が及ぶような方法について研究するようにと、大西園長に対して指示があったと聞いている。具体的には、放射線によるガン治療棟を建設する場合、健保によって地域住民が利用できるようにすること、その他の各科についても段階的に開放していくというものであった。世論を恐れて、現行予防法の改正に積極的に取り組むことのできない本省にしては、考えられない程のざん新で革命的な提案と言ってよいであろう。全患協傘下の患者自治会が要求しているのは、近接の医療機関をハンセン氏病患者に開放し、入通院を認めよと言うものである。これとは全く逆に、一般住民の側に立ってハンセン氏病センターをわれわれ地域住民に開放し、入通院を認めよと言うことなのである。われわれ患者自治会と施設は、厚生省の提言を真剣に受けとめ、地域住民に医療の門戸を開放していくよう努力しなければならない。私達に対する偏見は社会にだけあるのではなく、私達自身のうちにもある。この辺のところを厚生省は巧みに衝いたとも言える。センターの地域住民への開放は、全生園の森林とともに感謝の記念にふさわしいものとなるであろう。

 三、内に望むもの

  自治会を再建して十年になるが、私達が意図した運動は失敗もあるが多くの成果を挙げ、八〇年代に向って新たな展開をみようとしている。八〇年代は創立七〇年代ということになるが、自治会活動の最大の目標であったセンター中心の整備も不自由舎の一部を残すのみとなった。全生園の歴史はじまって以来の改革であり、患者居住区の整備はあと二年か三年で終ると思うが、全生園はかっての強制隔離収容所の面影は完全に消えて、最も環境に恵まれた森の中の医療施設を持った文化住宅になるであろう。私達の進むべき方向は前編に述べたように決定しているが、最初にして最後まで残る問題は、ハンセン氏病に対する偏見と差別であろう。 

 この偏見と差別について、幾つかに分類することが出来る。その一は、社会の私達に対する偏見、これを一般的偏見といえよう。その二は、私達の看護に当っている医療関係者の偏見。その三は、私達と家族のもっている偏見である。これら偏見を同一に考えることはできない。社会的偏見は過去の因習や、その地域固有の伝説や宗教に由来している迷信等、多様である。医療人の偏見は医学的無知と、わが国の場合はらい予防法による法的差別である。三の場合は、一と二による迫害と抑圧の中から生まれてくるもので、多くの場合、劣等感という形をとって自己閉鎖的となる。どの一つを取っても、なおざりに出来ないやっかいな問題である。 

 患者自治会は、一については地域住民との交流を深めることによって、正しく理解してもらうということを目標に、東村山市の身体障害者連絡協議会(七団体)に参加し、代表を送り込んでいる。地域の障害者の問題をわれわれ自身の問題としてとらえ、対市、対都交渉にも積極的に参加している。そして、この身患連が窓口となって、全生園は一般市民の関心をひくようになった。昨年は市民大学に講師として招かれたが、今年も八月には、大西園長と私が講師として、全生園について話すことになっている。この計画は東村山市社会教育課が主催しているものであり、東村山市民と私達の関係は八〇年代に向って、新たな展開を見ようとしている。 

 二の法的差別は、予防法改正がすべてに優先するが、私達を直接看護している医療人の内にある偏見克服に一層の努力を望みたい。今年五月、岡山県の邑久光明園で支部長会議が開催された。光明園は愛生園と共に瀬戸内海に浮ぶ島であるが、対岸の邑久町と最も近い処は15米位であると聞いている。両園はこの狭うい海峡に橋を架けてもらう運動を進めている。運動を進めてから十年になり、国も県も架橋に賛成しているが、地元の邑久町との話がまとまらず、暗礁に乗り上げている。地元の商店街は両園に対し店を閉ざしているが、日生では各商店が協議し、光明園と愛生園の患者に店を開放したとのことである。私が考えさせられたのは、両園の職員の多くは邑久町から通勤していることである。日生から通勤している者は殆どいないと思うが、この現象を私達はどう考えたらよいのであろうか。大島青松園の職員は対岸の庵治町から通勤しているが、ハンセン氏病に対する偏見は邑久町以上とも言われる。全生園の場合、こうした現象は起っていないだろうか。私達は、この問題については楽観している。全生園のセンター化は一般の病院化を促進することになるであろう。医療に携わる職員意識も、これに伴って一般の医療人としての意識を変革していくことが考えられる。既に、その意識の改革は進行しているとみてよいであろう。 

 偏見の問題で最も困難なのは、内にある偏見を克服するための自己改革である。その自己改革の第一案件は、強制隔離収容所時代から,受けた被害者意識を克服することにある。私達の上部組織である全患協は、すべての要求の基礎に、過去の強制隔離収容によって受けた損失補償を掲げている。私は、この思想に全面的に賛成するが一療養所は大きく変りつつある。全生園は森の中の医療を抱えた文化住宅に生れ変ろうとしている。処遇の面でも、社会の身体障害者に比較するとき、それより決して低くははない。つまり、過去の強制隔離収容にに受けた損失は、こうした形で補償されつつある。全患協は、運動としてはその高姿勢を今後も取り続けていくと思うが、会員は被害者意識を克服し、自己改革をしていく必要があろう。そのためには、外に向って閉ざしていた、厳密に言えば閉ざされた門戸を開放する時がきたように思う。全生園の場合、東村山市民は私達との対話を求めている。それに私達は答えなければならないであろう。その対話の方法は、人それぞれ違うが、文芸や趣味、あるいは宗教、テニス、ゲートボール等のスポーツを通して交流を深めていく必要があろう。私は、いつの日にか東村山市の文化祭、その他さまざまな行事に何の抵抗もなく、一市民として参加できる日が来ることを期待したい。そして、私達の居住区に市の障害者が一緒に住む日のくることを望みたい。

 全生園の医療施設が東村山市民の医療施設となることが必ずしも夢でないことを期待したい。創立七十周年を迎えて、私達の運動が外に向っての働きかけ以上に、自己との闘いを進めていかなければならないであろう。それは被害者意識を克服し、市民としての自己改革を図ることである。より具体的には、日々の生活を自己目的のためだけでなく、隣人のために分かつ生活、思いやりの生活をすることである。心の豊かな生活と言おうか、各自が長期療養の中で身につけた趣味、俳句、短歌、囲碁、将棋、盆栽、あるいは宗教を自己目的のためばかりでなく、地域の住民に分かち合う生き方を望みたい。こうした意識の変革を図ることによって、全生園は市民から愛されるものとなるであろう。