寂寥

            環眞沙緒子

寂寥は――
日暮になると心にヒタヒタと
忍びよる
そして胸の古傷を
鋭いメスでゑぐる

傷みに耐へかねた時
私は心のカナリヤに
想ひの文を結んではなす

心のカナリヤは
遙かに杳い緑衣の
星を目ざして
暮靄の彼方に消えてゆく。


(「山桜」昭和9年1月号)
 

戀の短章

            環眞沙緒子

戀は
赤きヨウコウ爐です
とける鉛はネ、私でせうか

      ×

戀は夜空に瞬く星です
それを捉へやうとする
私はネ 阿呆でせうか

      ×

アダムの盗つた戀は
禁斷の木の實です
私は戀を拾つたので
盲目になつたのでせうか
                 

(「山桜」昭和9年1月号)


            環眞沙緒子

渚に・・・・・
母を憶へば
限りなき波々の音
やさしき 母の子守歌と響き

貝殻を拾ひて 海に投ぐれば
追憶も ほろゝ
私は濡れ濡れて
ひとり 渚の砂よ


(「山桜」昭和9年2月号)


洪水


            環眞沙緒子

濁水は渦を巻きすさまじい勢いで流れる
河岸の家は皆押流されてしまつたのに
子守唄が何處からか聞えてくる
  母の子守唄でもない・・・・・・
  父の子守唄でもない・・・・・・
旅で見た町々のやうに判然と記憶には
無いが何處からか聞えてくる子守唄・・・・・・
ああ父よ、母よ−

たつた一人残された女はその力の無い
腕に一本の棒杭をしつかと抱き乍ら
もはや救ひを呼ぶだけの元氣もない
髪の毛は海草のやうに河中に浮び
刻々増る水嵩に女は眼を閉じた
だが・・・・・・・その耳になほ子守唄が細々と
聞えてくる。


(「山桜」昭和9年6月号)

顔百態

           環眞砂緒子

お前はまだ人間の顔をしてゐない
衷心から嬉しい時のお前は
おかめの面を附けた
お目出度い顔をしてゐる

衷心からむらむらと
怒り立った時のお前は般若の面を
附けた物凄い夜叉の顔をしてゐる

世の中がつまらなくなつた時の
お前はひよつとこの面を附けた
下素根性の顔をしてゐる

百面相だ、百面相だ
そうだお前は眞實百面相だ
お前は生まれ乍らお面を附けて
生れてきたのだ
百面相に哭き百面相に踊る奴だ
お前が今、お面を取ったとて
お前の顔は人間の顔はしてゐない

お前が百面相の面を附けたま丶
鏡を見て、その鏡の中に
嬉びもない怒憤もない悲嘆もない
無表情の顔を發見した時こそ
それが眞實の人間の顔で
お前のほんとうの顔なんだ。

(「山桜」昭和9年7月号 特選欄)

 

春夜詩抄

                   東京 環眞沙緒子

ほとほとと
ほとほとと
 聴こえる跫音は誰か知ら
 戀しきひとの誘ひか
 近く來るよな來ないよな
 耳を澄ませ焦らすよに
   春深夜を
   春深夜を
  ええ憎や誰か知ら

ひそやかに
ひそやかに
 雨戸敲くは誰か知ら
 戀しきひとのしろき手か
 私を誑す狐狸か知ら
 耳を澄ませば焦らすよに
   春深夜を
   春深夜を
  ええ憎や誰か知ら

こつそりと
こつそりと
 マッチを擦るは誰か知ら
 消えた私の胸の灯を
 仄かに點しまた消して
 眼閉づれば焦らすよに
   春深夜を
   春深夜を
  ええ憎や誰か知ら

(「 山桜」 昭和9年7月号)
( 「蝋人形」昭和9年9月号)



           環眞沙緒子

パパに抱かれて
乗つた馬
ほかほか背中が
暖かい

ポツクリポツクリ歩きだしや
なんだかお尻が
くすぐつたい

ポクポク駆ければ
恐くなる
ゆつくり歩けば
いい天気

パパに抱かれて
乗つた馬
下りれば大きく
見える馬


(「山桜」昭和9年7月号)
(「 詩人時代」昭和9年9月号)
 


お面・神楽

                 環眞沙緒子

 お面が一つ欲しい
 どんなお面でもいゝ、般若の面であらうと
 天狗の面でえあらうとかまひません

 それをすつぽり顔につけたら
 私の顔の醜さも隠れるだろう
 そしてせめてもの神楽舞にうき身をやつしたいのです。

 私達は生きて居る間、神楽を踊らなければならないのです。
 皆さんは・・・・・・まさか私の顔がこんなに
 醜い容貌(かを)とは思はないでせう
 きつと、色の白いやさしい好い男と
 思ふかもしれません。

 それを見て私はひとり北叟笑乍ら、
 皆さんを偽はりつゝ神楽を舞ひたいのです。
 世の中にはどんなに多くのお面をつけた人達が居る かもしれません。
 噫、お面が一つ欲しい是非欲しい おかめの面でもひよとこの面
 でもかまひません。

 これで皆さんにもお面が私達には無くてはならないといふことが
 はつきりとお解りになつたでせう
 さあ皆さん お面の欲しいかたは私と一緒にお面を 求めませう
 ・・・・・そして神楽を舞ひませう・・・・・・

( 「山桜」昭和9年8月文藝特集号)

 

風船玉

            環眞砂緒子

うんとふくらまそ 
うんとふくらまそ 風船玉
  頬ぺたはらしてうんとふこ
  坊やのお守に うんとふこ
 そーら見る見るふくれ出す

うんとふくらまそ 
うんとふくらまそ 風船玉
  眼の玉くるくるうんとふこ
  背中で坊やも 眞似て吹く
 そーら母さんに見せてやろ

うんとふくらまそ 
うんとふくらまそ 風船玉
  頭を振り振りうんとふこ
あんまり吹いたらはち切れる
 そーらパチンとはち切れる。

(「 山桜」 昭和9年8月文芸特輯号)

 

母愁の秋

            環真砂緒子

自ら身をせばめせばめて
こんなにも双肩に食入る重圧に一日の
安息とてない私の傷心に秋は大波の如
うねりうねり縺れた母愁を打寄する

母よ、唯一條の歪んだ感情に、まだこんな
にも私の心は見果てぬ蒼穹の真唯中に
的度もなく浮遊する風船玉だ
涙と共、只管に湧出する悔情は
描き損ねてずたずたに画布を断切る
画家の焦心(こころ)だ

ああ だが母よ……
ひしひしと用赦なく双肩に喰入るこの重圧を
支へ、道標を尋ねてさ迷い疲れ切った
この足は腐敗した大根のようだ
歩き出せばぼろぼろに崩れるこの足……
血苦笑慟哭しつつ……
こころの螺せん階段を上り詰めるのは
ああ、いつの日か……

追憶の秋は今日も怒涛の如く歪んだ
廃船を洗ひ、貝殻は幼時の子守唄を
吐いては飲み、吐いては飲み
尖、尖、母の情感を運ぶ。

( 「山桜」昭和9年9月号)
 


蕎麥の花

            環真砂緒子

山深きひとつ家なれど
蕎麥の花しろじろ咲きて
ひそやかに秋は來にけり

こころなく歳は長けねど
ふくらみぬおもき乳房に
つのりゆく胸のときめき

眞白なる蕎麦の花にも
それとのう夢を偲ばせ
せつなしやうるむ眸よ。

( 「山桜」昭和9年9月号)
 


キャンプ

            環真沙緒子

白雲は低く流れて
手を出せば届きさうだよ
岩つばめすいすい飛んで
 郭公の聲も静かよ

岩傳ひ清水尋ねて
白樺の森に這入れば
湧きかへる蜩の声して
山深くみどり匂ふよ

深々と狹霧生れて
遠山も霧にぼやける
木下透いて風も冷く
 點る灯に山も眠るよ

( 「山桜」昭和9年9月号)

 

誰かしら

         環眞砂緒子 (東京)

こつそりと
こつそりと
  マツチを擦るは誰か知ら
  消えた私の胸の灯を
  仄かに灯しまた消して
  眼閉づれば焦らすよに
春の夜を
怪しきマツチを擦るのは誰か知ら。

(「 詩人時代」 昭和9年9月号)
 


柚の實

               東條 環      
 

送り來し柚の實なれや
ふくいくと冬を匂ひて
ふるさとの影をひそめり

懐かしの母が乳房よ
慕はしの君が面輪よ
想出は 柚に浮びて

歯を入れしたまゆらむねに
ほろほろと思慕のひろごり
淡き日は 柚に暮れ行く。
   
( 「山桜」昭和9年10月号)

 


歸航(母への手紙)

             東 條  環

夜毎、涙腺を揺らす母の白い御手に
綴られた涙の蒼白い花束が
病頭に郷愁を漂はせる

歸り得ぬふるさとを持つあなたの子は
故郷への慕心に、病み疲れた肺臓は
青ごけに埋もってゐます。

それでも明日の彼方へ…………
歸航を送る挽歌に泣濡るゝ
心の廃港がある

母よ、今宵あなたへの別れの饗宴に
歯を入れた石榴から肌寒い郷愁は
私の体内に喰入り、ほろほろと肺は
音も無く崩壊てくる

おお母上よ、あなたが涙もて綴られた
蒼白い花束と共、今こそ黒旗を掲げて
黝い私の廃船が故郷へ歸るのです。

(「山桜」昭和9年10月号)
 


戀の紅糸 

            東條 環

戀の紅糸繰る宵は
薄い情にひかされて
 どこまで伸びる戀ごころ
 胸のしごきも空解ける

着物のたけをかよわせる
絹の糸さへ切れもする
 ましてかぼそい戀の糸
 切れたこころを何としよう

戀の紅糸繰る宵は
ほのかな戀の溜息か
 諦めませうの涙かよ
 窓の茜の遠あかり。

(「山桜」昭和9年10月号)

 

秋の朝

            東條 環

とろりこ温くとい
寝床の中
ちんちん湯沸し いい気持ち

竈戸にやちろちろ
薪燃えて
ぷーぷー御飯も 沸いてゐる

お背戸で父さの
くしゃみした
早よから落葉を おかきだろ

障子も真赤な
朝焼けだ
厩でお馬も 鼻鳴らす。

(「山桜」昭和9年10月号)
 


一本橋渡ろ

               東條 環

渡ろ 渡ろよ 下駄脱いでほい
 ほいほいほい こら ほいほいほい
體を浮かせて 浮かせてほい
一本橋揺れるよ ほいそれほい
  とことんとこ そら滑る

渡ろ 渡ろよ 舵とつてほい
 ほいほいほい こら ほいほいほい
ふうわり浮雲 浮雲ほい
流れに映つて ほいそれほい
  とことんとこ そら危い

渡れ 渡ろよ 一本橋ほい
 ほいほいほい こら ほいほいほい
他見をしないで しないでほい
遠くで鐘が鳴る ほいそれほい
  とことんとこ そら落ちる

(「山桜」昭和9年11月号)
 

蜜柑に想ふ

               東條 環

ふるさとの青き蜜柑よ
わが胸にそつと抱けば
微笑みて母の問ひかく

ふるさとの青き蜜柑よ
わが耳にそつとあつれば
ひたひたと波のよせくる

ふるさとの青き蜜柑よ
わが唇にそつとあつれば
かのきみのべーゼ(接吻)うかびぬ

ふるさとの青き蜜柑よ
ふるさとの青き蜜柑よ
いつしかに泣きつ喰へぬ。

 

 (「山桜」昭和9年11月号)
 

晩秋を知る

                   東條 環

来るか、来るか、
遂 足止めた

……呆けつかれて
やるせな涙……

冷へた 素足に
晩秋を知る
      
(「 山桜 」昭和9年11月号)

 

濱邊にて

                 東條 環

うす紅の小貝ひろひつ
なつかしさ胸にあふれて
沁々と光りにかざす。

父の貝、母の貝、
はたまた杳つ督先 の
もだしては君の貝なと
供へますこれのせつなさ
限りなく涙あふるゝ。

いざ共に抱きつ行かばや
うす紅のあはれ小貝よ
ほとほとと ほとほとと
砂地に沁むる
あつき泪の跡を殘しつ ……
あてもなくさまよひて行く。

(「 山桜 」昭和9年12月号)


 

冬・斷章

            東條 環


風見は益々癇が強くなり
蠅は日毎、木乃伊の
首輪を飾る

  ×

黒猫は研ぎ澄まされた
メスを咥へて
眞闇の中に蹲つた。

私は、もはや動けない鼠であつた。

 

(「山桜」昭和9年12月号)

 

滑り臺 

         武蔵野  東條 環

  日溜り小溜まり 滑り臺
 光が跳ねて 踊つてさ
行きは登りで 段數へ
歸りは滑るよ スルスルスル
 蒼空眺めて スルスルスル
  お尻も温くいな スルスルスル。

  お池にゃ 小波 白い波
 白鳥も浮んで ゆうらりさ
緋鯉も見えるよ 臺の上
僕が先頭で スルスルスル
 影も一緒に スルスルスル
  後から後から スルスルスル。

  日溜り小溜り 滑り薹
 廣告氣球もうつとり 夢見てさ
遠くでサイレン 鳴つてゐる
どこかの小父さんも スルスルスル
 お犬を抱いて スルスルスル
  僕も負けない スルスルスル。
 


(「 山桜」 昭和9年12月号)
(「詩人時代」昭和10年4月号)
 

秋三唱

環眞沙緒子

九月は……
茜の斜光を浴びて
帰る荷馬車の後を慕ふ
少年のおさない
感情です。

十月は……
新妻にあられもない
疑をかけて
寂しがらせた姿です。

十一月は……
留学の子を
波の彼方に送った
母の……
波止場の感触です。
(「詩人時代」昭和九年十月号「野の家族」昭和十年四月)