青鳩

 

                            東條耿一

 

朝方眼帯を除つてみた

鬱たうしいこころも繃帯と共に取替へて

さつばりとした気持ちで病棟(いえ)を出る

芒の径 団栗の林 百舌の聲がきんきん沁みる

あいつの悪戯(しわざ)だらう

枯枝に蛙がいくつも刺してある

―さうかさうだおれも確かに死ぬことはあるんだ

うつろな胸をつとつきぬけてつたのはその聲だつたか

眼見ゆればこその空の色 垣根越しでも娑婆の風だ

どりやおれも青鳩でも飛ばさうかな

ふるさとの山脈が遙かに青い

 

 

(「四季」昭和12月号)

 

 

 雨後

                             東條耿一

 

痛々しいほど 叩きのめされてる

なかには 中腰をへし折られたのもゐる

そのまゝ みんな仰向いて 花をつけてる

しかも 美しさに遜色がないんだ

おお ボン・ヂユウル・コスモスの花(たち)

人はうつかり仰向くと泥のなかに足をつつ込む。

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

初春のへど

                                東條耿一

――俗物の歩み牛の如し――

 意志その他

 怖るべき事。眞に怖るべき事は、世界の生命の中にある二つの和解し難きちからの間の闘争である。更に、人生の意義を人生そのものよりも高く置きつゝ、人生の意義が破壊されるや、しかも人生を破壊せずにはゐられない。といふ悲劇である。さうしてわれわれの悲劇は、われわれはわれわれ自身の意志を冒してまで意志しなくてはならぬ。といふ一つの矛盾より始まるこの矛盾故イプセンは生涯を悲劇した詩人であつた。

 われわれは悟らねばならない。靈のための自制が靈夫自身を病弱な不具なものにするということを。

 道徳の概念も藝術の概念も永遠ではない。われわれは何時叛旗を掲げるか分かつたものではない。

 絶えず問題になるのは意志ばかりだ。

鬼・敵・悲劇

 鬼は退屈の餘り、掌(てのひら)へ落書をはじめた。鬼の掌に書かれた、何と滑稽にも慄ツとする、噫々私の人生!

 敵は既に七首を閃かせて懐へ飛込んでしまつてゐる。研澄ました刃物が咽喉もとへぴつたり當てがはれてゐるとは人々は氣付かない。 その刃の下で一体何をし何を歌はうといふのか。

 詩を書いて何になる。詩を書かなくたつて誰も困りはしないのだ。困るのは作者、つまり詩人だけなんだ。

作家と詩人

 作家が野卑で助平なら、詩人は隷属的で無能な淫賣婦になり墜ちたばかりの處女である。裸体にされ、じろじろと好色の眼を注がれ乍ら、助平根性の對象となる類なのである。恐らくその場合の彼女等は、相手の客を頭から軽蔑し、激しく嫌悪し乍ら、しかし満足の調節にされるのである。これが乃ち文壇に於ける作家と詩人の、また同時に現在の我国に於ける詩と散文の比喩である。さうしてどちらもかくも野卑なる比喩を持つてされるほどのものなのである。

苦悩と発狂

 人間に耐え得られないといふ苦悩は無い。如何は苦悩が過重するとも、頑として耐え得る能力を人間は持つてゐる。苦悩が過重し、若し精神が打負かされた場合、その時その人間は發狂する。然し發狂する事に依つてその人間は苦悩に堪え得るのである。さうして人間が發狂するという事は人間の自由にはならない。それは最早神の領分である。神はその人間を發狂させることに依つてその人間に苦悩に堪え得る力を興へ給ふたのである、神は曰ふ。汝、苦悩の頂点に達したる者なれば速やかに發狂せよ。

 ニイチエを見よ、發狂もまた偉大である。

悲想なる祈り

 神若しわれに、只一つにてよし健全なる眼を興へ給へ。さらば必ず偉大なる詩人になり了ほせるものを……天を仰いでさう嘆き乍ら、然し、幾多の、未完の癩詩人は盲目になつたのである。痛切なる悲劇なるかな。

義務の文学

 室生犀星は復讐の文学と云つた。また或る詩人は、ああ現實は復讐されねばならない。と詠嘆して復讐の詩作を宣言した。然し私は負担の文學義務の文學と云ひたい。現實はもつと負担されねばならないのだ。われわれ人間の、現實への負担は極めて大きい。現實はわれわれ人間に對して益々負担を過重し、偉大なる義務を要求してゐる。人間は生れ乍らにして負担を輕くする義務をもつてゐる。宇宙は負担に滿ちてゐる。われわれは義務の哲學、義務の思想、義務の行動を採らねばならない。私の詩作は負担である義務である。さうして私が私の義務を遂行し了はつた時、私は死ぬであらう。

幽霊

 詩は美しい幽霊であつた。眉目(みめ) 麗はしい面影を持ち、肌理(きめ) も匂やかな、げにも氣高い姿をした幽霊であつた。古今東西、如何に多くの人々が、彼女を捉へようと腐心し、失望し、嘆き悲しみ續けてゐることか。その彼女はそれをさも心地よげに嘲笑い乍ら。隨時隨所、或ひは白晝公然と群衆の中へ姿を現はすのであつた。最近では工場と云はず酒場と云はず、街頭、事務所、大學に、ギロチンにさへその憧れの姿を現すのであつた。偶々彼女は、この柊の垣根の中病院へも訪れた。人々はすつかり夢中になり、くずれた肉軀(からだ) も仰々しく、嫌がる彼女を追ひ廻し僅かに彼女の裳裾の片鱗を捉へたように思つ  たのであつた。豈圖らんやその彼女は、柊の垣根をひとつ飛び、輝かしい裳裾をひらめかせ、遥か濃碧の空高く鮮やかなタンゴを踊り乍ら、彼女はしみじみ呟くのであつた。虫が好かないとでも云ふのか。癩者はどうも好きになれません。私のこの崇高な玉体(からだ) にまで、あの嫌らしい癩の醜悪さをぬりたくらうとするからです。

愛吟詩評釋

 日が暮れるこの岐れ路を橇は發つた……
 立場の裏に頬白が啼いてゐる歌つてゐる
 影が増す 雪の上にそれは啼いてゐる 歌つてゐる
 枯れ木の枝に ああそれは灯つてゐる 一つの歌 一つの生命(いのち )
                                                        ――三好達治開花集より――

 諸君よ、この詩を心ゆくまで味わつて見給へ。この一篇の作品の中に、清澄な音楽と、渺茫とした味はひが如何に巧みに秘められ表現されてゐることだらう。この詩の情操してゐるものは作者がその心の中に、魂のもの侘しい薄暮を感じ、頬白の啼いてゐる風景の中で、その心に擴がつて來る薄暮の影を、侘しく悲しげに凝視してゐるのである。このやうに詩に於ては、いつも心の中の主観が、外観の客観と結びつき、心の風景と自然の風景、心の薄暮と自然の薄暮とが一緒になって表現される。故に詩には、抒情詩に對して云はれる叙景詩なんていふものはないのである。すべての詩は等しく抒情詩なのである。 ――純正詩論より引例――

散文詩
椰子の實

 私が扉の蔭で見てゐるとも知らずに、少女は背伸びをして標本棚から古ぼけた椰子の實を取下した。懐しさうに頬ずりをしまるで人形でも抱くやうに両手に抱くと、いそいそと教室を出て行つた。何處へ行くのであらう? 私は奇異な感に打たれ、少女の後をそつと尾けた。寮舎の間をいくつもぬけて赤松の林の中へ這入つて行つた少女は、そこで小さな腰を下ろし、可愛い両足をちよこんと投出して坐つた。私は赤松の幹に隠れてじつと様子を窺つてゐた。黄昏に近いそちこちの繁みの中で頬白が啼いてゐる遠い。潮騒のやうに木枯が渡つて行く。淡い日ざしを澪し乍ら泳いでゐる芒の葉群など、ひつそりと静まりかへつてゐる。 少女は膝の上に椰子の實を乗せ、ながいこと見詰めてゐる。さうして聲は細々してゐて聞こえないが、何か愉しさうに呟いてゐるのである。少女の長い睫毛の下の瞳は荘厳なまで澄んでゐる。やがてまた抱きすくめると狂氣のやうに頬ずりをし、そつと唇を押しつける。そんな事を何度も繰返してゐたが、いきなり両手に椰子の實を高く差上げ、お父さん!と叫んで固く固く抱きしめた。私は思はずはつとした。今までの謎が一時にゼンマイのほぐれるやうに解けたのである。熱い大きな感謝のながれが胸の底を波打つて走つた。彼女は今父親と愉しい語らひをしてゐたのである。盡きることなき愛情の囁きに耽つてゐたのである。少女の手にあるのは、もはや椰子の實ではなく、父だつたのである。父親だつたのである。

 少女は三ヶ月ばかり前病氣の重い父親と入院したのであつた。病院へ來るまで、不自由な父親を箱車へ乗せ、それを犬に曳かせて物乞ひの旅をしてゐたのであつたといふ。間もなく父親は小さな彼女を残して、病室の片隅で淋しく死んで行つたのを、その時不圖私は思ひ出したのである。面影の殆ど分からないまで病に犯された父親の顔を、ゆくりなくも椰子の實に偲んだのであらう。天涯に全き孤獨の少女と、哀れまた故郷を遠く流れ來た椰子の實の、何と床しい 5 友情であらう。

 少女の愛撫はまだ盡きない。少女が椰子の實であらうか。椰子の實が少女であらうか。薄暮の中で、私は迷昏に疲れ果てた。

(「山桜」昭和12年2月号 )

 

少年

 

 北の窓だけが開いている。そこから夕陽がちよろち

よろ零れ。半ばは壊れた積木のお城が、部屋一ぱいに

ひろげた世界地図を占領して見える。その傍のちよつ

ぴり覗いてゐる青い畳へ、べつたり頬を押しつけて大

の字なりにへたばつてゐるのは、確かに王子さまらし

い。ところどころきらきら光るサーベルを引き抜き、

ナポレオンが何だ!太閤が何だ!お父さんだつてお母

さんだつて、なんだつてかんだつて、ぼくの邪魔をし

ようなら、みんな平らげてしまふ、と意気まいてゐる。

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

 


       

火葬場の姿は見えない
靄の中から
念佛の聲 頬白の歌
静かだな 爽やかだな いや和やかだな
ひとり閑雅な舌鼓をうち
まがつた指も器用に 私は
朝餉の箸をうごかしてゐる

 

(「山桜」昭和12月号)

(「四季」昭和12年2月号掲載)

 

 

望郷臺

                             東條耿一

 

故郷(ふるさと)よ 故郷よ 私の向いた方向に お前は居るのか
いや居るに違ひない 幼い頃に別れたなりで 

私はお前を覚えてゐない ああ 病んでゐる身の逢ひには行けず
呼べば谺は返つて来るが (とも)しいぞよ 紅蜻蛉

 

文学界昭和12月号 )

(「山桜」昭和14年4月号に舊作として)


椰子の実

                             東條耿一

 

「眉毛もない 鼻もない

みれば見るほど

死んだお父さんそつくりよ・・・・」

 

こよひもまた寮をぬけ

ひとり赤松の幹に凭れて

あなたは抱き 泪を流し さうして

飽くことなく愛撫する 椰子の実を

 

おお椰子の実よ お前もまた

故郷を知らぬ子

少女の腕に軽くあれ

 

(「山桜」昭和12月号)

 

    

 

誕生

                            東條耿一

 

風が吹く 紙戸を閉める 雪が降る 懐炉を点す

不自由な 盲ひの身の 明け暮れを 手塩にかけて

鶯の 一つの歌の誕生を 心密かに待つてゐる

沈黙の佳人 不屈の禅師 ああこの()()に跪拜する

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

舞踏聖歌

                             東條耿一

 

灯が消える 灯が点る 霙に風さへ加はつて

時折不気味な 音を立て

玻璃扉へ咲くのは 雪の華

死報の鐘が 病棟の 周囲をめぐつて 木霊する

 

今人々は踊つてる 言葉もなく 聲もなく

無言の裡に踊つてる

形而上の踊りです さう形而上の踊りです

 

どうやら吹雪になりました

   たいそう寒気が滲みますな

地球が冷えて行くのでせう

   さあどうぞおあたりなさい

 

お湯の滾りも心よい

   何かのどかな晩ですね

天国地国が一つになつた

   何故かそんな気がします

 

二列に並んだ 寝床(ベット)では 病んだ金魚のそれほどに

微かな呼吸が生れてる

吊つた布団や 松葉杖 物云ひたげな 表情です

 

仄明りうすら漂ふ その真ん中の 寝床では

口紅ほどの 血を吐いて

死んだ少女が 眠つてる

その枕元で 友の手が 可愛い鬘を ()んでゐる

 

結んでゐる 鬘を眺めて 人々は 心密かに感じてる

同じいやうに或るものを

それは等しく 無言の裡に 感じ合つてるものでした

 

今人々は踊つてる 言葉もなく 聲もなく

無言の裡に踊つてる

形而上の踊りです さう形而上の踊りです

 

世界の普遍の

  生命(いのち)の中の

和解の出来ぬ 二つのちから

  その合一ぢやないですか・・・・・

 

灯が消える 灯が点る 吹雪吹ぶいて 夜が更ける

死報の鐘がはるばると

村々めぐつて 鳴つてゐる 歌つてゐる 鳴つてゐる

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

霧の夜の風景に詠める歌 

                             東條耿一

 

向ひの山脈に霧が湧き それがこちらへ移つて来る

月は今中空 雲は一ひら風もない

足下に辛夷の一本 その白い花かげを透いて

寮舎は遠く山峡に眠つてゐる

激しい議論の後 友は去り 私は暫くをこの美しい風景に見入る

君は口の酸つぱくなるほど人間を説いた 偉いと思ふ しかし

君はあの病床の夥しい肉塊を知つて得よう さうして自己を

生き乍ら腐つて行く亡んで行く肉体に

何の精神 何の立派な統一性があらう

否定し給へ 否定する事だ 否定し去つた後にこそ

新しく生れる血の滾りを覚え

肉の孕むのを知るだらう ああしかし・・・

霧がこちらの山を登つて来る 寮の灯はもう見えない

夜は三更 この風景の斜面に佇つて

私は心にはげしく立ちすくむ

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

鞭の下の歌

                             東條耿一

 

ちちよ ちちよ

いかなればかくも激しく 狂ほしく

はた切なしく われのみを打ちたまふや

飛び来る鞭のきびしきに耐え兼ね

暗き水面の只中を泳ぎ悶轉(まろ)べど

石塊(いしくれ)の重き袖は沈み 裳裾は蛇の如く足に絡みて

はや濁水はわれを呑まんとす

おお わがちちよ

なにとて おん身 われを殺さむとするぞ

死にたくはなし! 死にたくはなし!

卑しく 空しく いはれなき汚辱の下に死にたくはなし!

好みてかくも醜く 病みさらばへるにあらざるを

おん身の打ち振ふ 鞭は鳴り

鞭はとどろき

ああ 遂にー

鼻はちぎれ 額は裂けて血を噴けり

おおされどわれ死なじ 断じて死なじ!

たとへ鞭の手あらくなりまさり 濁水力を殺げど

おん身の心やはらぎ 憐情に飢ゆる時までは

おおその時までは 血を吐き 悶絶すとも

おん身の足下に われ泳がん 泳ぎて行かん。

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

伴侶

                            東條耿一

 

義足よ つれづれの孤独の伴侶(とも)私に力を借せよかし

人生(ひとのよ)の片影 そを安らかに歩むより 私に想望(おも)ふ事もなし

いまこそ疵も癒ゆたれば お前に学び 歩きたい

向ひの病室 あちらの花芥 (いかのぼり)の泳ぐ芝平ら

 

(「山桜」昭和12月号)

 

 

 

 心象スケッチ

 

          春日抄 

 

日はうらうらと燃えちぢれ 花菜畑を私は歩む

人生既に半ば いまこの途上に佇つて

古い感情も叫ばず 想ふ事すべて平明

囀鳥しきり 佇ずみ 花粉にまみれ

うつらうつらと私は歩む

いのちの友

 

彼の書斎に灯がはいる 書架一鉢黄水仙

彼は人生を嘲ふ 彼は文学を罵倒する

片方きりの眉毛がちよと動く

さうして彼は聲を上げて読む フロオベエルの書簡

ああそのやうな日もありき 北條よ

わが盲ひて 物想ふ宵

       

   春の虹

 

お尻を振り首を振り 躓き乍ら沼に飛入る家鴨達

それの向うの堤の上を電車が走る

新療地区に雲を割つて日ざしが立つ

望郷臺にほつかり架つた春の虹

 

   青畳

 

向ひの丘に雲雀啼き 陽炎燃えて燈籠一基

さてわが寮は 床間(とこ)に一幅 花鳥の図

仄やかに爽やかに 匂ふ備後の青畳

軒におとなふ熊ん蜂

いま友は読書の後 気軽な昼寝

偽足を脱いで枕にする

       

   唖蝉

 

夏の日の沈黙の佳人 樹間隠れの唖蝉よ

お前は神さまの不浄物 美しい不具者 私の精神(こころ)

さうして私の貧しい歌は この哀れな唖の蝉

心で啼いて歌はれず

 

(「山桜」昭和12年7月号)   

 

 

 

 別れて後に

                             東條耿一

 

日が暮れる  (はや)()も沈む ああ日が暮れる

私達の呟きも もう済んだ 孤りになつた私のうしろで

ツグミが啼く ああその歌も悲しい その生命も呪はしい

影をます その暮藍の中へ

私もまたあの雑居寮へ (かへ)らねばならんのだ

その共同の生活(しぐさ)と謂へ

私にはもう堪らない 取残されたこの椅子(ベンチ)

思へば共有の物なのだ ああ堪らない 私は行かう

日が暮れる 私は行かう 残り少ない 私の影 影よ

その影のやうに 私は闇の中へ 沈んで行かう

何處までも(ああそれは不幸だらうか)しかし

私は構はない 私は私を信じよう

 

(「山桜」昭和12月号)

 

                           

 

夕雲物語

 東條耿一

 

リノリウムには先刻から朝日が溜つたり跳ねたりしてゐるのに、いくら揺り起してもお父さんの返事がない。よつぽど眠いのだらう。と暫く枕頭で待つて.ゐると、附添夫は黙つて眠つてゐるお父さんを擔荷に乗せ、解剖室へ連れて行ってしまつた。一體なにごとが起きたんだらう、と蟻子は小さい胸を痛めたがいつの間にやら忘れて遊び呆けてしまつた。夕方になつて不圖思ひ出し、解剖室へ行つて重い扉の隙間からそつと覗いて見ると、確かに台の上に寝てゐた筈のお父さんの姿が見えず、そのかはり片隅に白木の大きな箱がちよこなんと坐つてゐる。それならきつと何處かへ用事に行つたんだらう。とその日は帰つて寝てしまつた。

 

 翌る朝。お父さんのお骨上げですよ。.と保母さんに連れられお友達と一緒に來て見たが、火葬場にもやつぱりお父さんの姿は見えない。さては厠の中へでも墜ちてゐるのか知ら。と尠からず心配した。見ると保母さんもお友達もみんなしくしく泣き乍ら灰皿のきれいに焼けた骨がらを拾ってゐるので、ではお父さんは本當に死んでしまつたのかも知れない。と始めて悲しくなつたが、心の中ではきっと何處かに隠れてゐるに違ひない、さうして不意にわたしを、吃驚させるお積りなんだわ。と考へられ、手にする骨がらも貝殻のやうに美しく見えてくるのだつた。

 

 帰つてから病室の厠の中も捜して見たが墜ちてはゐない。これはいけないぞといよいよ心配になり、それからは思ひ出す度に病院ぢうを.尋ね廻るのだつたが、お父さんは何處にも見えず、彼女はしみじみひとりぼつちになつたことを感じ、淋しくなるばかりであつた。

 

 ある日。望郷台へのぼつて西の空いつぱいに流れてゐる夕雲を見てゐると、雲の形がさまざまに變つてゆくので、すつかり面白くなって見惚れてゐた。仔どもを抱いたヒグマになつたり、お伽噺に聞いた海の中のお城に見えたかと思ふともう青い堤の向うに耳だけ出して隠れたつもりでゐるらしい兎になつたりした。はては人の様になり、優しい眼まで出來てそれは次第に誰かの顔に似て來た。蟻子は思はず、お父さんだ。と叫んで、まがつた指も伸びてしまふほど空いつぱいに両手を上げた。雲の中に隠れてしまつたんだもの、いくら尋しても分らない筈だつた。と思ひ、それにしてもどうしてあんな所へ行つてしまつたのだらうと不思議になつた。すると、急にお父さんとの間に遠いとほい距離を感じ、お父さんのバカ、お父さんのバカ。と小さく咳いた。あまつさへはるか彼方の山脈の上に一つ星がきらきら耀きそめると、望郷台にはせうせうと冷たい風が流れ出し、やうやく見つけたお父さんの姿も見てゐるうちにひつそりと灰色の闇の中に沈んでしまつたので、蟻子はとうとう聲をあげて泣き出した。

 

(「山桜」昭和1210月号)

 

 

 晩秋

                             東條耿一

 

 芒のさ揺れ 赤松の幹の光 静かな疎林のほとりからこころに沁みいる アンジェラスの鐘―

 

―小父チャン 天ニモオ家ガアルンデシヨ 

アレハ迷子ニナラナイヤウニ 天ノオ家デ鳴ラスノネ

天ノオ家ハホントノオ家ネ アソコニハ オ父サンヤ

オ母サンモ ミンナヰルンデシヨ アタイハヤク行キタイナ

ミンナハ天ノオ家 知ラナイノ?

―ミンナハ遊ブコトバカリ知ツテヰテ ホントノオ家ヘ帰ルノヲ

忘レテシマツタ オバカサン イケナイネ・・・・

―ヂヤア 小父チヤンハ?

―アア小父チヤンモ忘レテヰタヨ コレカラハハルチヤント

 仲良ク帰ラウネ

―ミンナトンボニナツテ帰ルノネ ステキ ステキ

 

止んでまた鳴りつぐ 鐘の音の 枯野は寂し

ああ肩の上の少女の聲に

しみじみと自省す はんぎやくの虚心・・・・・。

 

(「山桜」昭和1210月号)

 

 

 

 

 樹々ら悩みぬ

―北條民雄に贈るー

 

            東條耿一
           
月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 悲しげに 身を顫はせて呟きぬ

   蒼夜なり
   微塵の曇りなし
   圓やかに 虔しく 鋭く冴え
   唯ひとり 高く在せり

月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 手をとり 額をあつめ
   あらはになりて 身を顫ふ
   されど地面にどっしりと根は張り
      地面はどっしりと足を捉へ

  (悲しきか)
  (悲し)
  (苦しきか)
  (苦し)

   樹樹らの悩み 地に満ちぬ
   彼等はてもなく 呼び應ふ

ああ月に攀ぢよ
月に攀ぢよ
   樹樹ら 翔け昇らんとて
   翔け昇らんとて 激しく身悶ゆれど
   地面にどつしりと根は張り
   地面はどつしりと足を捉へ

 

 四季昭和1211月号)

 

 

 

国旗

                             東條耿一

 

白地を浸し

日の丸を抜き

露ら 群をなして

光りぬ

光りぬ

萬象をひとつに孕み

瞬間を燦と光りぬ

静づ静づと竿を濡らし

こころよく肌へをめぐり

露ら 虔しく 鮮やかに消えぬ

ひとつ、

またふたつ、

(悲しきか)

(あらじ)

(嬉しきか)

(あらじ)

日に遭ひて更に光りぬ

風勁ければ

彼等一瞬にして麗はしく死絶へぬ

(はた風の吹かざるもまた・・・)

こは何ならむ

露ら知らじ

とこしへに露ら知らじ

―ただ日の丸の紅きを知るのみ。

 

(「山桜」昭和1212月号)

 

臨終記


 彼(北條民雄)が昭和十二年九月の末、胃腸を壊して今年二度目の重病室入りをして以来、ずつと危険な状態が続いて来たが、こんなに早く死ぬとは思はなかつた。受持の医師が、私に、北條さんはもう二度と立てないかも知れません、と云はれたのは彼が死ぬ二十日ばかり前の事であつた。私はその時はじめてそんなに重態なのか、とびつくりする程迂闇に彼に接してゐたのである。来る春まではまあむづかしいにしても、正月ぐらゐは持越すものと信じてゐた。それほど彼は元気で日々を送り迎へてゐたのである。彼にしても、こんなに早く死が訪れようとは思はなかつたに違ひない。尤も死期の迫りつつあることは意識してゐたらしく、その頃の日記にも、
「かう体を悪くしたのも、元を質せば自ら招けるものなり。あきらめよわが心。けれど、かう体が痩せてはなんだか無気味だ。ふと、このまゝ病室で死んでしまふやうな気がする。」
 また重態の日々が続いた後であらう、苦悶の様が書かれてゐる。
「しみじみと思ふ。怖しい病気に憑かれしものかな、と。
 慟哭したし。
 泣き叫びたし。この心如何にせん。」
 その頃が最も苦しかつたらしく、また、死との闘争も激しかつたやうに見受けられた。私にも、おれはまだ死にたくない、どうしても書かなければならないものがあるんだ。もう一度恢復したい。と悲痛な面持で云つた事もあつた。
 彼は腸結核で死んだのである。
 彼は最後の一瞬まで、哀れなほど実に意識がはつきりしてゐた。文字通り骨と皮ばかりに痩せてはゐたが、なかなか元気で、便所へなども、死の直前まで歩いて行つたほどである。その辛棒強さ、意志の強靭さは驚くばかりであつた。それでも死ぬ三四日前には、起上るにも寝返りするにも、流石に苦痛を覚えたらしく、私が抱起してやるとほつとしたやうに、さうして呉れると助かるなあ、と嬉しげであつた。寝台が粗末で狭いので、痩せこけてゐる背中のあたりが悪く、剰さへ蒲団が両脇に垂れ下がり、病み疲れた体にはその重量がいたく感じるらしく、よく蒲団が重いなあ…………と苦しげに咳いた。私が蒲団を吊つてやらう、と云ふと、彼は俄かに不機嫌になつて、ほつといて呉れ、君、ここは施療院だぜ。施療院の、おれは施療患者だからな。出来るだけ忍ばにやならんよ。それに蒲団を吊ると重病人臭くていかん。と怒つたやうに云ふのであつた。平素の彼が、全く我儘無軌道ときてゐるので、こんな時、思ひがけなく彼の真の姿に触れ、たじたじとさぜられる事がよくあつた。
 来る日も来る日も重湯と牛乳を少量、それも飲んだり飲まなかつたりなので、体は日増に衰弱する一方であつた。食べる物とては他に何も無いのであつた。流動物以外の物を一寸でも食べようものなら、直ちに激しい痛みを覚え、下痢をするらしかつた。彼はよく、おれは今何もいらん。只麦飯が二杯づゝ食ひたい、そのやうになりたい、と云つた。創元社の小林さんからの見舞品も、殆ど手をつけなかつた。尤も、これはおれの全快祝ひに使ふんだ、と云つて、わざわざ私に蔵はせて置いたのである。
 それらの品々は悲しくも、お通夜の日、舎の人達や私達友人の淋しい茶菓となつた。彼はまた口癖のやうに、こん度元気になつたら附添夫を少しやらう。あれはなかなか体にいい、やつぱり運動しなけや駄目だ。まづ健康、小説を書くのは然る後だ、と云つて、よくなつてからの色々のプランを立ててゐた。そんな時の彼は恢復する日を只管待ち侘びてゐたらしく、また必ず恢復するものと信じてゐたやうであつた。小説はかなり書きたいやうだつた。君、代筆して呉れ。と云つたり、ああ小説が書きたいなあ…………と悲しげに咳く事などもあつた。じつと寝たなりで居るので色々な想念が雲のやうに湧いて来るのであらう、おれは今素晴しい事を考へてゐた。世界文学史上未だかつて誰も考へた事もなく、書いた者もない小説のテーマなんだと確信ありげに云ふ事もあつた。
 病気によいといふ事はたいていやつてみてみたらしいが、たいして効果は無かつたやうだつた。時には変つた療法を教へたりする人があると、真向から、そんなものは糞にもならん、あれがいいこれがいいと云ふものは凡てやつてみたが、却つておれは悪くした。結局、病人は医者にいのちを委せるより他ないんだ、と喰つて掛る事もあつた。
 死ぬ二三日前には、心もずつと平静になり私などの測り知れない高遠な世界に遊んでゐるやうに思はれた。おれは死など恐れはしない。もう準備は出来た。只おれが書かなければならないものを残す事で心残りだ。だがそれも愚痴かも知れん、と云つたのもその頃である。底光りのする眼をじつと何者かに集中させ、げつそり落ちこんだ頬に小暗い影を宿して静かに仰臥してゐる彼の姿は、何かいたいたしいものと、或る不思議な澄んだ力を私に感じさせた。私は時折り彼の顔を覗き込むやうにして、いま何を考へてゐる? と訊ねると何も考へてゐない、と答へる。何か、読んでやらうかと説くと、いや何も聞きたくない、と云ふ。静かな気持を壊されたくないのであらう。
 彼の死ぬ前の日。私は医師に頼んで、彼の隣寝台を開けて貰つた。夜もずつと宿つて何かと用事を足してやる為であつた。私が、こん晩から此処へ寝るからな、と云ふと、さうか、済まんなあ、と只一言。後はまた静かに仰向いてみた。補助寝台を開けると、たいていの病人が、急に力を落したり、極度に厭な顔を見せたりするのであるが、彼は既に、自分の死を予期してゐたのか、目の色一つ動かさなかつた。その夜の二時頃(十二月五日の暁前)看護疲れに不覚にも眠つてしまつた私は、不図私を呼ぶ彼の声にびつくりして飛起きた。彼は痩せた両手に枕を高く差上げ、頻りに打返しては眺めてゐた。何だかひどく昂奮してゐるやうであつた。どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んで呉れないか。と云ふ。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもは一寸触つても痛いと云ふのに、その晩に限つて、もつと強く、もつと強くと云ふ。どうしたのかと不思議に思つてゐると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いてゐた。こんな晩は素晴しく力が湧いて来る、何処からこんな力が出るのか分らない。手足がびんびん跳ね上る。君、原稿を書いて呉れ。と云ふのである。いつもの彼とは容子が違ふ。それが死の前の最後に燃え上つた生命の力であるとは私は気がつかなかつた。おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であつた。私は周章てふためいて、友人達に急を告げる一方、医局への長い廊下を走り乍ら、何者とも知れぬものに対して激しい怒りを覚えバカ、バカ、死ぬんぢやない、死ぬんぢやない、と咳いてゐた。涙が無性に頬を伝つてゐた。
 彼の息の絶える一瞬まで、哀れな程、実に意識がはつきりしてゐた。一瞬の後死ぬとは思へないほどしつかりしてゐて、川端さんにはお世話になりつぱなしで誠に申訳ない、と云ひ、私には色々済まなかつた、有難う、と何度も礼を云ふので、私が何だそんな事、それより早く元気になれよ、といふと、うん、元気になりたい、と答へ、葛が喰ひたい、といふのであつた。白頭土を入れて葛をかいてやるとそれをうまさうに喰べ、私にも喰へ、と薦めるので、私も一緒になつて喰べた。思へばそれが彼との最後の会食であつた。珍らしく葛をきれいに喰つてしまふと、彼の意識は、急にまるで煙のやうに消え失せて行つた。
 かうして彼が何の苦しみもなく、安らかに息を引き取つたのは、夜もほのぼのと明けかかつた午前五時三十五分であつた。もはや動かない瞼を静かに閉ぢ、最後の訣別を済ますと、急に突刺すやうな寒気が身に沁みた。彼の死顔は実に美しかつた。彼の冷たくなつた死顔を凝視めて、私は何か知らほつとしたものを感じた。その房々とした頭髪を撫で乍ら、小さく北條北條と咳くと、清浄なものが胸元をぐつと突上げ、眼頭が次第に曇つて来た。
 彼が死んではや二週間、その間お通夜、骨上げ、追悼と、慌しい中に過ぎ、いま彼の遺稿の整理をし乍ら、幾多の長篇の腹案に触れ、もうあとせめて五六年、私の生命と取替へてでも彼を生かしてやりたかつた、としみじみとした思ひがした。残り妙ない彼の日記を読んでみるうちに、ふと次の詩のやうな一章が眼についた。彼のぼうぼうとした寂蓼と孤独、その苦悩の様がほぼ窺はれるやうな気がするので、此処に引用する事を許して戴き、心から彼の冥福を祈りたい。

粗い壁
壁に白弄ぶちつけて
深夜、
虻が羽博いてゐる。
 (昭和十二年十二月記)
(創元社 合本北條民雄全集下巻)