駒鳥

                                東條耿一

 

いつかは和品三鳥揃へて飼ってみたいと思ってゐる。和品三鳥とは、うぐひす、.駒鳥、大瑠璃の三鳥を云ふのだきうである。 

 

うぐひすと駒鳥は、現在手許に置いてあるが、大瑠璃については、全然、経験がない。どのやうな姿態の鳥なのか、またその鳴聲のほども未だ聞いたことがない。瑠璃には、大瑠璃小瑠と二種類あるのださうだが、通の話に依ると、小瑠璃の方が鳴きも姿もよろしいとのことである。

 

 この三鳥を手許に揃えて置いたなら、私の嗜好も甚だ満足するのであるが、いづれも摺餌鳥なので、私のやうに病臥の日の多い身には、些か荷が大きすぎて手を出しかねる。

 

 うぐひすは二年あまり飼ってゐるが、素人飼には、まづ無難でおもしろい。うぐひすと云ってもこの中で捕獲したものであるから、勿論、藪ものである。それでも春にさきがけて鳴き出し、三段に鳴き分けるから妙である。一度は桐かなんかに唐彫をほどこした留子に、少しは高値なうぐひすを入れ、三光か文字口の鳴きを聞いてみたいものである。

 

 然し、そのやうな高値なうぐひすの鳴きは、私のやうな素人には、聞き分けやうもないであらうから、やはり、藪ものの歌を楽しんでゐる方が、自然であり、相當してゐるやうだ。

 

 駒鳥は昨年の秋、日向の友人に依頼してみつけてもらった。深山渓谷に棲んでゐる鳥で、一山に一双より棲んでゐないのだと云ふ。頸部と尻尾が茶褐色、羽はくろずんだ緑色で、下腹部は鼠色にぼけてゐる。足は精悍そのものを思はせて高く、眼は水晶のやうに張があってすずしい。總體に均勢のとれた美しさ、何處か気品のある姿は、到底うぐひすなどの比ではない。

 

 これが頸を伸ばし、尻尾を上下にピンピンと振ろさまは、朔風に嘶く若駒を彷彿させる。

 

 鳴きといひ、貴公了然たろ態度といひ、蓋し、鳴禽類の王であらう。

 

 しかし、何處か乙に取澄した恰好は、人に依っては、好めないところかも知れぬ。

 これは私の飼ってゐる駒鳥ばかりかも知れぬが、彼には妙な性癖がある。性癖と云ふよりも、むしろ、無氣味さと云った方がよいかも知れね。それは、時折り、一切の動作を中止して、呆然?と立ちつくしてしまふのである。

 

 短くて十分、長い時には小半時間も、ある一點を凝視して不動の姿勢を守り続ける。そのやうな時は、見知らぬ人が籠に近づいて覗きこんでも彼は微動だにしないのである。その姿は、時に傲岸に見え、奇癖に映り、無気味にさえ感じられる。

 

 ある日のこと。

 晝食後、私がいつものやうに縁先で駒鳥に水を使はせてゐると、其處へ、附添夫をしてゐる友人の一人がやって來た。

「相愛らすやってますね。」

 友人は笑ひながら私の傍へ寄って來た。すると、それまで水玉を飛ばしながら行水をしてゐた駒鳥が、どうしたのか、ピクリと動かなくなった。彼は凝つと友人も顔を見据えてゐる。

「オヤツ、おどろいたかな。」

友人はびつくりしたやうに云つて、急いで一間ばかり後にさがると、これも駒鳥の様子を窺ひ出した。鳥は水盤の中に兩足を踏張り、體の半ばを水に浸して微動だもしない。圓らな眼は眞面に友人の顔に對してうぃる。女字通り不動の姿勢である。

「なんだか気持の悪い鳥だね。」と友人。

「ときどきこんな風になるんだよ。」と私。

 暫くは三者相對した恰好で眺め合ってゐた。恐らく十分間もさうしてゐたであらうか、私も流石に呆れて、傍らの土瓶を取上げると、いきなり鳥の頭に水を注いだ。しかし、それでも彼は依然として動かない。

「これあいよいよ気持が悪い。あの眼、あの恰好、まるで腹の中まで見すかされるやうだ。」

 友人は如何にも不無味だといった形である。

「ほんとにへんな奴だよ。」

「これはおれが居てはいつまでもかうしてゐるよ。いよいよもつて気味が悪くなつた、退散、退散……。」

 友人は笑ひながら踵を返した。

「平家の軍勢は、水鳥の羽音に驚ひて逃げたさうだが、君のは駒鳥の睥睨に怖れをなしての方だね。敵に背後を見せるとは卑怯なり、だぜ。」

 倉皇として去って行く友人を見ながら私も笑った。鳥はまだ動かうともしない。

 

 駒鳥は何と云ってもその鳴きを愛づるものである。ヒュウと軽く口を切り、カラカラカラと音をころがすあたり、まことに美音奏楽の極致である。

 

 殊に、頭の毛を逆立て、尻尾を振って鳴立てる様はひとしほ見事である。

 

 就中、手振駒に至っては、飼主が手を振つて見せれば、それにつれて鳴出すと云ふ。まことに鳴禽の冴え、賞するに餘りありである。手振駒は私もいっかは飼ってみたい鳥のひとつである。

 

(「山桜」昭和15年3月号)

 

推薦

新庭雑感

 

                                    東條耿一

 

 ひとまたぎほどの小さな堤が、ゆるやかな線を描いて、私の住んでゐる舎の周圍をかこんでゐる。堤の上には、一間程の隔りを見せて、つゝじと玉ひばが交互に植ゑてある。堤の柴は青く芽ぶき、つゝじはいま花ざかりである。この堤は、つひ先頃、何もない素枯れた庭の淋しさに、少しばかりおもむきを添へようと、義弟と一緒に築いたものである。絶えず眼の痛みにおそはれてゐる私は、部厚な繃帯を顔に巻きかさねて、痛みをこらえながら、土盛りをしたり、柴を張ったりしたのであった。不自由な自分には、このやうな仕事は無理だなと思ひながらも、生来、庭いぢりが好きなのと、草々の深い緑のにほひ、やはらかな土のしめり香などに誘ひ込まれて、いつか眼の痛みも忘れてしまってゐる自分に気がつくのである。夜、床についてから、あれこれと庭の設計をする。あそこには何を植え、入口はこのやうにしたら、などと考へ始めると、もう凝り性の私には、眠られぬ夜になってしまふ。翌朝、夜の明けるのを待って庭に飛出し、昨夜の設計に從つて、こつこつと庭の装幀に取掛る。これは私の最も娯しいものゝ一つである。

 

 しかし、時折、私は庭つくりの手をやすめて考へることがある。亡くなった北條君はこれに類したことには凡そ手出さぬ男であつた。私はかつて彼のそのやうな姿を見たことがなかつた。そういへばBもやらない、CDも嫌ひのやうである。現在の友の誰彼にせよ、彼等は、私がこつこつとその第一義的な、創作や讀書や思索に耽ってゐる。それなのに私はこれで良かつたのだろうか、と。

 

 しかし、それがたとへどのやうな生活態度にせよ、不斷に娯しむことが出來たらそれで充分である。喜びに大小はあつてもその本質には何の變りもないであらう。さう思つては、また小さな庭師になり、花と土とにたはむれてるる自分である。

 

小堤に包まれた庭には、ほどよい自然木の問に、恰好な築山がある。私はこれを男体山と称んでゐる。故郷の山になぞらへて作ったからだ、築山に添へて、粗末な禽舎と、小さな花圃があろ。花圃にはグラヂオラスが一寸ほどに芽ぶき、築山には枯れかかつた小松と、北條君の形見の沈丁花が、緑の色褪せた幾枚かの固い葉をつけて、頂きを占めてゐる。禽舎には白文鳥がつがひで棲んで居り、雌はいま卵を抱いてゐる。雄はその雌の態度が、氣に掛るやうな、掛らぬやうな、ひどく手持無沙汰の態に見える。これが私のところの庭の全風物である。

 

 しかし、これらの貧しい眺めも、私には恒にまあたらしく愉しい景観なのだ。それら物自體の匂ひや、色や、形やは、それらの醸し出す気分と相侯って、不思議なほど、私の五官に妖しい働きを示すのである。殊に、その色彩が添へるどころの趣旨と味はひとには、また格別なものがある。色そのものを美學的に云々することは私には出來さうにもないが、色の持つ本質的な美しさ、と云った風なものを、最近、私は眼を悪くしてからいっそうしみじみ感じるやうになつた。おぼろげな視野のなかに入って來る、平凡な木の肌の色、名もない一茎の草の色、.一握の芥のはなつ地味な色、水の色、空の色土の色を、私は心しみじみ美しいと思ふ。いつまで娯しんでも足りぬ思ひだ有難いと思ふ。この私の気持には、あ、まだ物の色が判る、といふ眼病者のみの持つ一種の、喜びから來るものも手つだつてゐようがしかし、決してそればかりではない。

 色彩の有難さを、人は案外忘れがちなのではあるまいか。若し、距離といふものが無かったら、風景はあり得ない、とアランは云ってゐるが、色彩がなくても、風景は存在しないであらう。われわれは色彩を創造した榊に感謝すべきだ。

 

 庭の一隅にルルドの洞窟をつくっては、といふ義弟の言葉に、それは良からう、と私もすぐに賛意を表し、早速、その材料を揃へることにした。小さな庭の事であるし、それに怪しげな庭師の腕を以てしては、到底、大がかりなものは出來ないに定つてゐるが、手を染める前に、まづその材料調達に困惑した。私は、ふと、復生病院で見たルルドの洞窟を思ひ出した。それは二間程の高さの岩窟の内部に、等身大の見事なクリストの立像が、いかにも嚴かに生彩をはなつてゐた。.それに較べると、いま私の脳裡に描かれてゐるわれわれのルルドは、余りに貧しくさゝやかである。私は義弟と相談した結果、岩窟はそのほんの内部だけを石でつくり、その周囲を四五尺の高さに土と柴で築くことにした。それで洞窟は一應出来ることになつたが、扨て、困ったのはクリストの御像である。肝心の像がなくては物にならんし、といってわれわれの力ではどうにも出來さうがない。

 

 ひと思案の後、御像はK神父から戴いた八寸程の十字架を以て充てることにした。これは茶褐色の台に、銀製のクリストの裸像が、かつてのゴルゴダのイエスのごとく釘付にされてゐる。

 

 柴は直ぐ前の山に在るし、石も手頃の物が三個はど附近の草むらの中から見付け出した。何かの土台物に使用したらしく、半面にところどころセメントが附着してみる。私はこころみにその一つを持上げてみた。七八貫もあらうか、ずつしりとかなりの重さである。私はその重量の裡にふっと幼い頃の事を思った。それはまだ六七才頃の事であったやうに記憶する。どんな小さな石にも、石自体の生命があって、石は生きてゐるのだといふことを信じてゐた。從って、石は絶えず成長してゐるといふことも信じてゐた。河原などに遊んで、ふと小石を手にしたりすると、こんな小つぽけな石ころでも、やがて自分が年を取って、お爺さんになる頃には、この石も苔むしたお爺さん石になるんだな、などと考へる、すると、急にてのひらの小石がむくむくと動き出すやうに思はれて、ひどく気味わるがつたりしたもりである。門柱に鏤めた玉石や、或ひは土台石などの類ひを見ても,これがやがて大きくなって、門柱からぬけ落ちたり、家をひっくり返すやうになるかも知れない、と途方もないことを考へたものだ。石に對するこの考へは、小學校を卒へる頃まで、私の脳裡に棲んでゐた。今でも何かのはづみに當時の事をふつと思ひ出したりする。私には娯しい思ひ出の一つだ。

 

 この生きてゐる石をうまく利用して、恰好なルルドの洞窟をつくる喜びを前に、私はまた眠られぬ夜の中で、小さな庭師の頭脳を動員して、その設計をせねばならない。

(五月五日)

 

(「山桜」昭和15年8月号)