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『預言と福音』三百号に寄せて

 

松本馨

 

  「預言と福音」三百号は、先生の信仰の戦いの足跡である。その一号一号に先生の生命が篭っていると言えよう。その厳しい戦いに幾度襟を正したであろうか。然し、「預言と福音」は、先生一人の戦いではなく、私自身の戦いも「預言と福音」に関わっていたようである。

 私が「預言と福音」の購読者になったのは、一九五〇年の十月か十一月ではなかったかと記憶しているが、予め雑誌の内容を知って購読したわけではない。当時先生の名前さえ知らなかった私は、友人のNが先生の読者である事を知って、彼に依頼し取り寄せたのである。

 この年の春、私は一夜にして失明し、失意のどん底にあった。自分を打つ怒りの神が、同時に恵みの神である事が分らないで、地獄の苦しみを経験していた。暗い病棟の一隅で、この神が分らず幾度か呼吸難に陥り失神しかけた。そんな中で、藁にも縋る思いで闇雲に二、三の雑誌を取って見た。その中に「預言と福音」が入っていたのであるがこの様な状況の中で、雑誌を読んでも分る筈がなく、霧の中を彷徨う思いであった。然し、神は私を見捨て給わなかった。ロマ書三章二一節以下を通し、御自身を啓示されたのである。そして、約二年後の一九五二年に、始めて先生が全生園に見えられ、十字架を私に指し示して下さった。私にとって第二の回心とも言うべき出来事であった。私の長年求めていた師が、先生である事を知り、その時以来、先生の十字架信仰に集中した。

 雑誌購読は二年後の先生に会う為の準備であった様に思われるが、当時、先生の雑誌を読む事は許されなかった。先生の雑誌は難解であり読んでくれるものが居なかった。唯、教友のNが時折読んでくれる程度であった。私は毎月送られて来る雑誌を胸に抱き、印刷の香りをかぐだけで満足しなければならなかった。回心前、神が分らないで呼吸難に陥った事を書いたが、今度は神の言の乾きから呼吸難に陥った。暗黒の中で終日壁に向って坐っていると、魂が乾き呼吸難に陥ってしまうのである。それを癒す為に、教会の二人の兄姉の協力で、聖書を暗誦した。聖書を自ら読む事を禁じられた私は、脳裡に聖書の一語一語を刻印しようとしたのである。それにも拘らず、神の言に乾き呼吸難に陥った。毎月送られて来る雑誌のインクの香りが、魂の乾きを柔らげてくれた事もある。

 私が厳しい試練に立たされたのは、Nが先生と別れて独立する、と言い出し、先生か、自分か、どちらかを選ぶ様に二者択一を迫った時であった。私は独立するだけの勉強もしていないし、先生から十字架の信仰を学ぶ為にNと別れた。Nと別れる事は、私にとって自分に死ぬ事であった。私の為に聖書と雑誌を読んでくれる者はN以外に居なかったからである。この問題の起る前に、教会にとどまる事が良心を偽る事であり、神を試みる事であると知らされ教会を出た。教会を出る事は聖書暗誦の奉仕者である二人の兄姉に別れる事であり、聖書と訣別する事でもあった。この時も私は自己に死んだ。そして最後に残ったNとも別れる事になったのである。その後、Nは、私が購読している雑誌だけは読んで上げる、と申し出、何ケ月か続いたがある日、「預言と福音」を持って面会所の個室に行った時今後、「預言と福音」は読まない、と自分の用意して来た雑誌を読んだが、私の耳には何も聞えなかった。あまりにもその衝撃が大きかったからである。神は何故私だけをかく懲らしめ給うのか、私には分らなかった。そして、暗黒の中で幾日も祈り続けた。然し、神は試みに耐え得ないほどの苦しみに合わせ給わない。私から総べてを奪った神は、私の為に、.ある準備をしていて下さった。それは先生と、千代田集会の教友達が、私の為に目となるテープレコーダー購入の為の寄附を募っていて下さったのである。然し、テープレコーダーを手に入れるまでには大きな試練があった。ある事から全生園に居る事は最早出来ない。先生からも、千代田集会からも姿を消さねばならぬ、と思い悩んでいた時、先生の使いとして、ある姉妹が、テープレコーダー購入の一部に使う様にと、尊い献金を持って来て下さった。そして私は心の目を開かれた。如何なる困難、苦難に遭遇するとも逃避してはならず、戦わねばならぬ、という事を教えてくれたのである。それは、義の武器となって私をふるい立たせた。「預言と福音」の一号一号は、私にとって信仰の戦いとの関わりなしには、思い出す事が出来ない。それは、ある時は、雑誌の中の言葉が私をふるい立たせ、ある期間は雑誌のインクの香りが私の乾きを柔らげてくれた。

 失明後、私が始めて垣根の外に出たのは、「預言と福音」二百号の記念感謝会に出席した時だった。解放療養の時代を迎え、癩は不治の病気から、治癒する病気となり、所内には大きな変革が起っていたが、私はまだ、解放の気分を全身で受け取める事が出来なかった。長期に亘って、厳しい監視の許に置かれ、一歩も外に出る事が赦されず、理由の如何を問わず外出した者は監房にぶち込まれ、減食の刑を受けた。こうした厳しい監視の許で罪意識が生れ、健康な人を見ると、自分を捕えに来た警官の様な恐怖心に襲われた。それだけに、垣根の外に出る事に、物凄い圧迫と恐怖を受けた。戦後の日本は変り、療養所も変った。垣根の外に出たからと言って、自分をつかまえて監房に入れる者はいない。その事が分ってい乍らも、私はおびえた。そして、鴎友学園の会場に着き、先生を始め教友に迎えられた時、ほっとした。故郷に帰った様な安らぎを得たのである。思えば失明後、社会に出た最初であるが、神は予め今日の私の活動の為に、その日を準備し、招いて下さったのである。二百号記念に参加しなかったならば、今日の私はなかったであろう。鴎友学園に於ける感謝会は、私には来るべき神の国であり、後の世に住むべき故郷の様に思われ一年に一度でもよいから先生の集会に出席したい、と言う強い願望を持ち、そして一年に一回ではあるが、年の終りの集会に行く様になった。この事が私の自治活動を決定的にした、と言ってよい。私を世俗の中に送り出したのである。「預言と福音」二百号から三百号は、私にとって、世俗の中の福音に関わっていた、と言ってよい。そして、三百号以後の歩みはどの様な道であろうか。それは先生自身にとっても分らないし、私にも分らない。唯、後ろを振り向く事なく、十字架のイエスが指し示している神の国と、神の義を求めて前進するだけである。