「小さき声」 目次


 小さき声 No.11 1963713日発行

松本馨

<療養二十八年に思う>

イエスがある町におられたとき、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言つた。

「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですか」 (ルカ5・12)

旧約におけるらい病人は、神から切り離されている。神殿に入ることも、祭儀にあずかることも出来ない。人家から離れたところに住む。道を歩くときは、けがれた者と叫びながら通らなければならない。これほどつらい軽蔑はない。人からも切り離されているのである。聖書は病気を罪の結果とみている。らい病人は、そのまま罪人なのである。従ってらいが癒されることは、罪が赦されることであり、らいが癒されないことは、罪が赦されないことである。この問題を正面から取りあげているのがヨブであり、詩篇にも病気を罪としているものが多い。  

先に記した12節以下のイエスのらい病人の清めもそのまま罪の赦しである。らいが罪であることは異邦人である私にはなかなかわからないが、人間から切り離された経験はある。  

一九三五年七月五日のことである。この日は私の入園した日であるが、私を乗せた自動車は全生園の門をくぐると、病棟の風呂場に横づけになった。午後三時頃である。暑い日であった。太陽が油のように燃えてた。車から降りると、畳二枚くらいの板の間の脱衣室に案内され、いきなり裸にされた。そして入浴をしている間に、所持金を取り上げられてしまった。逃亡を防ぐために直接金は持たせなかったのである。浴室を出ると、足の先から頭の頂きまで白衣でくるんだ看護婦に病室へ案内された。当時は、特別に新入園患者用の病棟はなく、一般病棟を併用していた。病棟には、十八台くらいのベッドが入っていただろうか。収容があると一人の病人を転出させて入れるのである。私は自分の病気が、顔が崩れたり、手足の指が溶けたりする病気であることはわかっていたが、それがどのような姿になるのか想像もつかなかった。患者を見たことがなかったからである。  

病室へ一歩足を踏み入れたとき、強烈な薬品の匂いが鼻を打った。次に、ベッドの上から半身を起して、いっせいに私の姿に目をそそいでいる患者を見た。その瞬間、強い光に目がくらんだように、目の前がパッと明るくなり、一瞬何も見えなくなってしまった。軽い貧血を起したのである。人間ではない。恐ろしい醜悪な生き物「化け物だ!」と思った。私の生は、このとき糸が切れたように、人間から切り離されてしまったのである。  

それから十五年経って失明したとき、再び経験した。そのときは外からではなく、内から起こった。自己をもふくめて一切のものが切り離されてしまったのである。それは空中に出来た真空のようなものである。ものすごい圧力がかかり、渦巻きとなって暴れる。

「光は闇の中に輝いている」 (ヨハネ1・5)

しかし、闇は光を見ない限り、自己の暗黒性に気づかない。人間から切り離されていながら、それが罪だということが私にはわからなかった。らいが罪だとわかったのが、イエス・キリストを知ったときである。十字架のイエスは、神と人とから切り離されている。彼は神の一人子であるが、世の罪を背負って、神に捨てられ、世に捨てられて、私たちのところまで下って来られたのである。このイエスによって、初めて神なきところに落されている自分の位置を知った。つまり、らいが罪であるということがわかったのである。  

5章12節のらい病人は、イエスの足もとに伏し、顔を地に付けて、人の子イエスにメシヤを見たのである。神の子がらい病人のところまで下って来られたのである。このこと自体がすでに奇跡である。その大きな神の恵み、神の愛に圧倒されて平伏しているのである。二千年前、彼が目で見た救済者を、私は十字架のイエスに見る。らいにかかり隔離されて、すでに二十八年である。肉は破れ、二重三重に鎖につながれている。このような私のため、神の子は十字架にかかり、死にまで下り、私を肉の奴隷から解放して下さったのである。いかなる垣も、牢獄も、キリストにある自由を私から奪うことは出来ない。十字架を仰ぐとき、それがそのまま神の恵み、神の愛として私にせまって来る。

 <この病いは死に至らず 十一>

 渥美の少年時代

八月の初めだったと思います。渥美が私に会いたがっている、と病室から連絡がありました。渥美は盲目の青年です。一九四一年より四十五年まで、私は少年寮の寮父をしていましたが、渥美はその頃の子供です。

結核で入室し、医師から見はなされており、それからかなりの日時が経過していました。彼は死を恐れました。その恐れがただごとではなく、死を恐怖するあまり、死ぬばかりなのです。「あれでも信者か」、敬度な人たちの間から非難の声があがりました。

ある日、私は渥美を訪ねて、時が近づいていること、神の国の準備をせねばならぬことを告げました。自身は神なきところに落ちていたのですが、私の口は神の言を語ることが出来たのです。信仰と愛をもって語るのではなく、イエスを試みた悪魔の心をもって語ったのです。彼は黙して何も答えませんでしたが、もし誰かがその彼を見ていたなら、彼が口もきけない程恐怖に襲われ、中風病みのように全身を痙攣させているのを見たでしょう。  

渥美の生い立ちについて、少し記しておく必要があります。私が面倒を見た子供ですが、信仰に関する限り私の先輩であり、彼の歩んだ道を私が引き継いだからです。

渥美は農家の生まれで、両親と叔父、それに姉と弟がありました。渥美は母を知りません。弟が乳呑み児のとき、母は三人の幼児を残して家出をしてしまったのです。夜一つの提灯が、家からだんだん離れて行くのを見た、それが家出した夜の母の提灯に違いない、と渥美は言います。これが母に関する知識の全てなのです。  

父は、らいを病んでいました。夕方、畑仕事からあがると、父は明りの下で足の裏の傷から士をほじくり出していました。この父も、渥美が小学校へ入学して間もなく亡くなりました。その後は、叔父によって育てられたのですが、あいつぐ不幸のためか、叔父は気が少し変になっていました。朝、暗い中に起き出すと、雨戸を開け放って神々にお燈明を上げ、渥美にわからぬ言葉で熱心に祈りました。そして夜が明け始めると縁に立ち、東の地平線に一條二条と光を放ち、龍の如く昇ってくる太陽に向かって叫びました。「ひっこめ ! 出るな !」  

叔父は、三人の姉弟を虐待しました。食事もろくろく与えずに酷使したのです。叔父は渥美を小学校にやりもせずに、畑仕事に一緒につれて行きました。そして働きが悪いと叔父に打たれたときには、失神することもありました。

こうしたことから三姉弟は家出をし、夏は山野に、冬は農家の物置小屋に侵入し、わらや落ち葉の中にもぐりこみ、猫の仔のようにかたまって寝ました。そして昼は食物を求め、農家のお勝手に忍びこみ、あるいは畑の作物を荒らし、村に大恐慌をもたらしました。生きるためにはこれより他に道はなかったのです。渥美は特に怒られました。彼は神出鬼没であり、そのやることが大胆不敵でした。お勝手から主婦がちょっと目を離す隙に、炊きたてのご飯をおひつごと盗み出すことが出来たのです。

村では協議の結果、山狩りをして三姉弟を捕え、救護院、当時の感化院へ送ってしまったのです。そこで渥美は発病しました。十二才のときです。  私が渥美を知ったのはその翌年でしたが、初めて見たとき驚きました。丈が高く痩せていて、日陰の草のようにひょろひょろ伸びていました。そして頭だけ発達し、見るからに重そうでした。目はびっくりしたように大きく見開いていましたが、これには理由がありました。視力は0.1以下で、見えない目で見ようとするので大きくなったのです。栄養失調が原因でしたが、渥美の姿から、村を恐慌せしめたものを連想することは出来ませんでした。

渥美の死

一九四五年、私は結婚するために、渥美は成人したために、前後して少年寮を出ました。その翌年の夏だったと思いますが、渥美は帰省しました。入園以来家族の消息は全くわからなかったのです。家には姉と弟はおらず叔父が一人で暮らしていましたが、渥美を見るなり、なぜ帰って来たと叱りつけました。そして屋敷には上げず、その足で畑の草取りに出てしまいました。渥美は言われるままに草取りをし、昼に上がりましたが、叔父は渥美に食わせる米はないと、二本の胡瓜を与えてまた午後の草取りに出しました。渥美は畑に入りましたが、空腹と暑さのためにめまいがして働くことが出来ず、畑の胡瓜をもぎりとって食べ、小川で体の汗と土とを落とし、その場から家に帰らず帰園しました。  この日を境にして、渥美の目は涙が血ににじむほど真っ赤に充血し、急速に視力が衰えていきました。渥美は詩を作るのが好きで、少年寮を出てからも詩の勉強を続けていましたが、それも断念し、部屋の一隅に人を避けて終日黙して物言わず、空しく沈黙を守っていました。

私は活字の大きな聖書を求め、ある日渥美を訪ねました。そして聖書を読むよう勧めましたが、渥美は聖書を読めるほど幸福な境遇ではないと私を嘲りました。私は彼の膝元に聖書を置くと逃げ出しました。私の結婚をさして言ったのです。幸福な人は不幸な人に同情は出来ても、彼を立たせることは出来ません。そのことが可能なのは、誰よりも低いところにおられるイエスなのです。神の子イエスは、私たちの罪を背負って十字架にかけられ、死して葬られ、三日後に復活されたのです。神によって私は彼のものとなり、彼は私のものとなったのです。限界状況の中にあって私たちを根底から支えてくれるものは、十字架という唯一の事実です。  

渥美もまた、この神の愛に捕えられた一人です。二度目に会ったとき、私は渥美の口から驚くべきことを聞きました。拡大鏡で、ロマ書を暗記しているというのです。私はロマ書を暗記した人を知りません。私は目があっても満足に読んでいなかったのです。渥美は中途で失明し、その後は人から読んでもらって十六章暗記しました。この他にも多くの聖書を暗記しましたが、渥美は「聖書のダニ」というあだ名をつけられました。聖書にしがみついたが最後、離れないというのです。  

渥美はしかし、最後まで十字架による罪の赦しがわからなかったのです。自分には信仰の喜びはなく、あるものは罪の苦しみだけだと私に洩らしました。私は渥美ほど罪に苦しんだ人を知りません。多くの場合、罪の苦しみは、罪に苦しんでいながら罪がわからないという混沌たる形をとるものですが、渥美は罪を知っていました。罪を知っている者にとって、死ほど恐ろしいものはないでしょう。彼が死を恐れたのは、このためでしょう。

渥美の使いを受けた私が病室へ行ったのは、午後三時半の夕食時でした。渥美の友人と知人がベッドを囲んでいましたが、今すぐということもないというので夕食に帰ってもらい、私は一人で渥美の枕元についていました。白夜の中に渥美の姿は見えませんが、それらしいものは見えます。「どうした」と私が声をかけると、「ありがとう」と、思ったよりも元気な声で応えました。  

渥美はベッドの上で粗相をし、付添夫に迷惑をかけたから、私から礼を述べてくれと言います。それから知人の名をあげ、渥美が感謝していたと伝えてくれと言います。しばらく間をおいて、また言葉を続けました。「僕は十字架による罪の赦しを信じます。イエスの復活と神の国を信じます」。そしてその国で私との再会を約しました。また一足先に先生(義子)に会う、と言いました。渥美は義子の教え子なのです。

渥美はここまで語ると黙しました。語っているうちに感情が激しくなってきたのでしょう。息づかいが激しく、これ以上続けることが出来なかったのです。荒いその息づかいは、病室の他の病人を威嚇させました。渥美の告白にも関わらず、私はそれとは全く反対のことを感じていました。渥美は私に語ったのではなく、隠れたる神に告白していたのです。彼が信仰に全てを賭けて求めていたもの、臨終の際まで求めてやまなかったもの、その言がなければ死に身を委ねることが出来ないもの、「あなたの罪を赦す」の言のために告白していたのです。波のように激しい荒い息づかいは、神を呼ぶ魂の叫びだったのです。  

その息づかいも次第におさまり、静かになったと思ったとき、渥美は突然大きな声で、ゲッセマネのイエスの言を口にしました。

「わが父よ、もしできることでしたらどうかこの杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたくしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」。

この言が終るか終らないうちに、渥美は痙攣を起し息絶えました。Nが私に教えてくれなかったら、気付かなかったほどです。私は茫然とし、次の瞬間、深い悲しみに追われました。渥美を悼む悲しみではありません。後なる者は先に、先なる者は後にとのイエスの御言が私を打ったのです。(以下次号)

<ことば>

七月一日、米子の藤沢先生御来園。看護婦のTさんとお会いした。また、特別重不自由寮のSさんのもとに案内し、短いお祈りとお話をいただいた。

先生は長年の問、全国のらい療養所を伝道しておられることを知り、感謝であった。

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私たちの集会は、月に一回で二人で守っていると書いたことがある。最近沖縄より聖書知識の読者である若い兄弟が、一人入園して来た。そして毎週、テープによる集会を守っている。看護婦のKさんも参加している。

二人のみの集会が三人四人となると、ものすごく大きくなったような気がする。昔は三○人、四○人の集会が小さくて、後の数ばかり数えていた。教会にいた頃のことである。無教会者になって、一人二人の集会を守っていると、三人四人の集会がすごく大きな集会に思える。

小さき者の受くる恵みであろう。恵みを受くるときは、小さければ小さいほどよい。恵みが大きくなるからである。

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七月一日付をもって、園長林芳信先生が辞められた。

先生は、大正三年東京都より全生園の医官として任命された。五○年をらい患者のために捧げられた。

その労苦に対して深甚なる謝意を表する。後任は、草津の栗生楽泉園園長矢島先生である。

全生園の事務職員の官僚的なのは、全国的に有名である。

矢島先生にお願いすることは、療養所作りはまず職員の民主化から始めてもらいたいと思う。

社会の偏見をなくするためには、職員の啓蒙が急務である。社会の偏見と戦うためのこれくらいの気迫は持ってもらいたい。

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 梅雨は明けたようです。これからますます暑い日が続くものと思われます。皆様には暑さに負けず、この夏を過ごされるよう祈っております。この紙上より、暑中お見舞い申し上げます。