「小さき声」 目次


 小さき声 No.140 1974415日発行

松本馨 

隣人とは誰か

(1)

隣人とは誰か(ルカ10)の講義で、関根先生は、隣人となったのは、サマリヤ人でなく、強盗に襲われ、傷つき倒れている者「イエス」であると云うバルトの言葉を紹介しながら実に深い注解を行っている。 

社会的実践に関心をもつキリスト者、既に政治活動や、組合運動をしている者にとって隣人となった者が、サマリヤ人か、強盗に襲われた者かは、信仰の本質に触れる大きな問題のように思われる。 

しかし、バルトに依って始めて問題が提起され、それが日本でどれ程の重みをもって受け取られているか分らないが、私の知る限り政治活動や、組合活動あるいは平和運動をしている者で、百人のうち99人、否99.9人はサマリヤ人の位置に立って行動しているのではないだろうか。合理的でわかりやすく、自他に対して説得力があるからである。彼は信仰の名によって、自己に対して、隣人のために最大限の努力と、忍耐と服従と犠牲を命じるだろう。それに対して自己は喜んで隣人のために、自己を捧げ尽すのである。 

強盗に襲われた者の位置に立つことは、不可能に近い、それは、人間的な努力や、熱心では到達出来ない絶望的なものだからである。それは奇跡として受取らされるものだからであり、出来事として受取らされるものだからである。 

サマリヤ人の位置に立つ社会的実践は、その究極は律法である。社会的実践は信仰的決断であり、その意味では間違っていない。あくまでも信仰から出発したものだからである。しかし、その信仰は、自己の熱心や努力を通して表現されるために、長い年月の裡に信仰が律法に変質していくのである。政治活動や平和活動をしているキリスト者に、独善的、セクト的なもの、主義、主張を異にする者を裁く傾向があるのはそのためである。 

私の知っている或る人は、神話の上にたっている教会を否定し、史実に基づく教会を確立しなければならないと、教会の破壊を口にしている。これは極論であるが、永年活動しているうちに、信仰が律法に、神の義が自己の義に変質してしまった、極端な例である。 

もう一つの方向は、信仰と実践が分裂し、二重人格的生き方を始めることである。この二重の生き方に耐えられない者は、活動をやめて信仰のみ(観念)の生き方をするか、信仰を捨てこの世的な活動家に転落するかである。人は本質において不信仰であり、自己中心的な罪人であり、隣人になることは出来ないからである。 

これに反して強盗に襲われた者の位置に立つことは、自己に死ななければ出来ない。それはキリストに会わされて死ぬことだが、自己自身によって隣人となることは出来ない。相手が隣人となり始めてその隣人を愛することが可能となるのである。強盗に襲われた者、イエスによって、敵である私がその罪をゆるされ、隣人としての位置を与えられるのである。 

(2)

私は1968年より自治活動を始めた。自治会を再建したのは翌年の6月で、その時以来、自治会役員として現在に至っている。私の自治活動の根拠は、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」のイエスの聖言である。更にパウロの次の言もその一つである。「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自らすすんですべての人の奴隷になった」(第1コリント9の19)

近年、私を捕えて離さないのは、マタイ25章31節以下の終りの日の審判を告げるイエスの聖言である。私にとって終りの日は遠い将来のことではなく現在なのである。それ故に、イエスの聖言は、リアルで私を圧倒する。この記事は終りの日にイエス・キリストが、来臨し裁くことを記したものである。「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう。『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなた方のために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のとき食べさせ、渇いたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。』そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう。『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹のとき食物をめぐみ、渇いているのを見て飲ませましたか、いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか、また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所にまいりましたか』すると王は答えて言うであろう。『あなた方によく言っておく、わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。』(マタイ25・34〜40) 

これら最も小さい者のひとりにしたことは、わたしにしたことである、は律法ではない。私はこれ等小さい者に、十字架のイエスを見なければ、自治活動は出来なかった。病んでいる者や貧しい者、苦しんでいる者に、十字架を見ることによって、自治活動が可能になった。勿論このことは、終末的信仰に立って可能なのである。 

私が関根先生の講義にうたれたのは、強盗に襲われた者に、イエスを見、隣人となったのは、サマリヤ人でなく、強盗に襲われた者であるという信仰の源に触れているからである。それは私の自治活動を支えている信仰と同質のものだからである。 

或る友へ

  3月27日 

ソヴィエトの反体制作家として、国外に追放されたソルジェニツィンの「癌病棟」を読んだでしょうか。先程この書を読み、多くのことを考えさせられました。結論から言えば、人間の悲惨性、ソヴィエト社会にとどまらず世界の人間の悲惨性について、この書は教えているように思えてなりません。もし読んでいないのでしたら、是非読むようにおすすめいたします。 

私の記憶では、私が小説を読んだのは1950年の回心後「沈黙」に続いて2回目です。「癌病棟」を読む気になったのは、著者が反体制作家であり、ソヴィエト社会の実状を全部でなくても、断面的に知ることが出来ると考えたからです。 

世界が神によって造られ、終りの日に、キリストによって完全に支配されることが事実であるならば、神を否定し、共産主義を唯一の救いと考えているソヴィエトとその同盟国の存在をいかに考えたらよいのでしょうか、神を信じる者として、無関心ではいられないのです。 

私はロシヤ文学にある意味で日本文学よりも、親近感を覚えます。特にドストイェフスキーの描いている世界は、私の世界と同質のものと言ってよいでしょう。極限状況の中で、試みられている人達なのです。それは自由で独創的で、哲学的人間なのです。試みとは、そのような人達を指しています。試みのない人間は、不自由な人間、奴隷的人間といえましょう。しかし、革命以後のロシヤ文学に、私は興味がありません。そこには極限状況の中で試みられている人間、自由で独創的で、哲学的な人間はいないからです。 

一つの思想と、目的のためにすべての人間は同一化され、画一化されてしまったからです。 

「癌病棟」の患者の口を通して著者は、腫瘍に因って死ぬのだから、流刑と収容所の国は死ぬと言っています。これは同一化された社会を痛烈に批判したものです。スターリンが粛清した人間は1千万といわれています。これは同一化のための粛清でありましょう。極限状況の中で、試みを受けている人間も、この粛清の犠牲となりました。「癌病棟」はソヴィエト社会の縮図でありましょう。教条主義の共産党員、小官吏、収容所の人間や、流刑囚など雑多ですが、ソルジェニツィンはこれ等の患者の口を通して、スターリンとその体制に対して鋭い批判を下しています。この「癌病棟」の人間は、ドストイェフスキーの描いた系列に属すると言ってよいでしょう。試みの人間と言ってよいでしょう。革命後のソヴィエト社会に、こうした作家が生れたことに驚くとともに、その将来に一抹の光りを見る思いでしょう。 

それにしても、共産主義世界とカトリックの世界が、余りにも似ているのに驚きました。組織そのものが絶対であり、その上に立つ指導者は、神的存在であることも共通しています。法王は、キリストの代理者として無謬権を持ち、明らかに神の位置に立っています。共産主義の指導者、マルクス、レーニン、スターリンもまた同じ位置に立っていると言えましょう。一つの思想、一つの目的手段が絶対化するとき、こうした偶像が生れるでしょう。そしてカトリックでは異端狩りと称して、組織に対する反体制の絶滅を図り、血の粛清が行われました。記述したように、スターリンによって粛清された者は1千万と言われます。カトリックの場合は、神の名において行われ、共産主義の場合は、人民の名において行われました。両者とも、人間に自由と幸福を約束します。 

私が「癌病棟」を読んで人間の悲惨にうたれたのは、カトリックとの対比においてでした。私はカトリックを批難するつもりは毛頭ありません。キリスト者全体の責任だからです。私が指摘したいのは、救いのためと称し、神の名において、或いは人民の名において人間が殺し合うことです。平和のため人間は戦争し殺し合います。何故こうしたことが起きるのか、それは人間が絶対者の位置に立つことから起る神の審判なのです。人間は決して絶対者の位置に立つことは出来ません。絶対者は神のみであり、人間はその前に造られた者として謙虚でなければなりません。あくまでも相対的被造物なのです。神の前に人間が自己を意識し、立つとき、あの恐るべき錯覚、絶対者の位置に立つことをやめるでしょう。そして謙虚になり、その悲惨性に気づくでしょう。神を神とするとき、人間は自己の弱さ、無力さ、無価値さを知るでしょう。そのことを知るとき、相互に憎しみ合うこと、殺し合うことをやめるでしょう。何故なら神の前に立つことも、生きることも許されない不信の人間、罪の人間が生かされるのに驚きと喜びを知るからです。 

人の命は地球より重いと言われます。イエスは全世界をもうくるとも、己が命を失うならば、何の益があるか、と言われました。それは人の命そのものが、地球よりも重いことを言っているのでしょう。何故重いのか、人の命そのものに重さがあるのではなく、神の子イエスの血によって贖われた命だからでありましょう。世界を創造し、支配し給う神の子キリストの血によって贖われた命だからでありましょう。人の命はそれ故に地球よりも重く、何物にも換えることの出来ない重さを持っています。神の前に己れの無力、弱さ、不信仰を知る者は、自身の命が十字架の血によって贖われ、生きることが許されていることを知っています。神の位置に取って替わるもの、絶対者は、キリストの血によって贖われた者が人間であることを知りません。そこに殺人と憎しみが生れます。「癌病棟」は人間が絶対者の位置に立つとき、いかに恐るべきことが行われるかを示しています。また、人間はいつでも、絶対者の位置に取って替わる悲惨性を所有しています。そのことを私は「癌病棟」を通して考えさせられました。この恐るべき誘惑から私たちを守ってくれるものは、十字架のイエスに固着する以外ないでしょう。彼だけが、この恐るべき誘惑から私たちを守ってくれます。 

療養通信

  3月16日

前号で触れたように1974年の自治会長として、今年はその責任を負うことになりました。69年よりコンビとなって、会長をして来られたHが、今年は休ませてくれということで、私が後を引き受けることになりました。会長も、総務の仕事も、それ程変っていません。むしろ業務の面では総務の方がはるかに、量的に仕事が多いといえましょう。責任ということになると、会長の方がはるかに重いといえましょう。69年の自治会再建に当っては、Hが代表として執行の責に当り、私は自治会規約を作り、その後は自治会の企画や目標をたてる頭脳面の仕事を主にしてきました。Hが表面的に華やかな活動をする蔭で女房的な仕事をしてきました。

私は会長には不適任だと思っています。大衆の指導者として立つ人間には、二つの要素が必要だと信じています。その一つは、外交的であること、二つは誇張(L型)であることです。この二つを備えた人間を、私は大衆性と呼んでいます。大衆性の人間は理屈ぬきに、大衆に好かれ、その人間の天性とでもいうべきでしょうか、動きが華やかです。その代表的人物として、刺客に刺された社会党の浅沼稲次郎を挙げることができるでしょう。現代では総理大臣田中角栄を挙げることができます。Hはこうした二つの要素をもった活動家として、最適任者なのです。私にはこの二つのものが欠けています。内向的であること、L型でなく、真実型なのです。このタイプの人間は個性的で、大衆からは余り受けず、むしろ敬遠されます。己れを知っているが故に、先頭に立つことは避けねばなりませんが、事態は、自己を省みる余裕はありません。自治会を閉鎖するか、しないか二者択一だけが私に許された道だったからです。

会長になって責任の重さを新たに受けとらされていますが、はたで心配する程、重荷になっていません。会長は私にとって「カイザルのものはカイザルに」だからです。この点で私を拘束することはできないし、会長の重さで私をつぶすこともできません。私を縛ることも、奴隷にすることもできません。会長という役に縛られながらも、私は自由なのです。1950年の私の回心は、私をこの世界から解放しただけでなく、自己自身からも解放されました。古き自己に死に、キリストの命に甦らされたからです。回心は信仰のことだけでなく、この世に対しても決定的な意味をもっています。イエス・キリストの死と生に合わされたことは、思想でも、観念でもなく、事実なのです。それ故にこの世界は、私にとって相対的世界であり、カイザルの世界なのです。それは戒めにより仕える世界なのです。神の子イエスが、十字架の血をもって贖った世界なのです。私の名において小さき者の一人に、水一杯を与える者は私を受けたのである、と言われた世界なのです。マタイ25章31節以下の世界なのです。キリストの命をもって仕えるとき、この世界の奴隷となっても自由なのです。すべての人に対して自由であるが、すべての人の奴隷になる世界なのです。

こういうわけで私は、会長の役に就いても、それほど重荷になっていません。しかし、もし私に信仰がなく、イエスの死と生をこの身に受けていなかったならば、大変な重荷となり、会長の重責に押し潰されてしまうでしょう。失明と四肢の無感覚という不自由な身だからです。この不自由度だけでも、信仰がなければ、生きるに耐え難い思いであり、地獄の苦しみといえましょう。しかし私は、キリストにあってこの地獄の世界から解放され、この世からも解放されています。それ故に会長から解放されているといえましょう。信仰がいかにリアルで、この世に対して力を持っているか、私がそれを証明しているといえましょう。キリスト者には、不可能というものがなく、信仰を持ってこの山に、海に入れと言えばその如くなります。山が海に入るかと、と言う者がありますが、この言をそのように直接受け取っている者は、この世の奴隷であっても信仰的に自由であるという、信仰が理解出来ない人です。信仰を持ってみれば、山は海に移るのです。3月より新自治会は発足しましたが、読者の祈りを必要としますので、覚えて祈って下さい。すべては信仰によって処理してゆくつもりですが、私の体は、客観的には極限状況にあり、会長の任務に就くことが信仰の目をもって見れば奇蹟なのです。山と同じ意味をもつでしょう。今年は東北新生園、教友を訪問するつもりでしたが、不可能となりました。5月の支部長会議は、長島愛生園で開かれますが、それに出席しなければならないからです。