「小さき声」 目次


 小さき声 No.148 197412月15日発行

松本馨 

 平和ということ

 

 いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。(ルカ2の14)

 平和運動をしている人から「あなたは平和を愛しますか、絶対に」と意地の悪い質問を受けた。そこで私も意地の悪い答えをした。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に帰せよ」.

 彼は、イエスの言が理解出来なかったので、平和問答はこれ以上進展しなかった。

 私は、地上の平和と絶対は、厳密に使い分けなければいけないと考えている。絶対は神のみに帰すべきものだからである。絶対平和と言う時、それは神のもの、神の平和でなければいけない。そしてそれは、キリストに依る世界支配でなければならない。それ故、キリスト者の絶対平和運動は、内村が行ったように再臨運動である。

 絶対平和を唱えるキリスト者が、果して内村のように再臨運動をしているのだろうか。多くの場合、絶対平和を口にするキリスト者は、再臨を口にしない。というより問題にしない。然し、そのような絶対平和は、心の奥深い所で神を拒否していないだろうか。福音をはじき出していないだろうか。隠れた所を見給う神は、その絶対平和の陰に隠れている所を見ておられる。原理的にも終末を望まない絶対平和は、信仰とは程遠いように思われる。絶対平和は至上命令であり、神をもその犠牲に捧げてしまうからである。彼は、平和のため最も好戦的な者となるだろう。平和を妨害する者に対して戦わなければならないし、徹底的に排除して行かなければならないからである。假に私が絶対平和主義者になるならば、そのようになるだろう。平和の為に戦わないならば、それは観念であり、言葉の遊びにすぎない。

 この意味で、地上における平和運動で最も正しいと思われるのは共産主義者であろう。彼等は共産式社会が世界に実現する時、戦争の無い平和が来ると信じている。この平和を実現する為に、世界革命が肯定されるのである。平和の為には戦争も亦可能となるのである。私は、共産主義社会が実現しても、絶対平和が来るとは信じていない。人間は徹底的に破れており、悲惨だからである。イエスは人の子が来る時、地上に一人の信仰を観ることが出来るだろうか、と言われた。それ程に人間は破れているのである。

 私は、共産主義者の平和運動を正しいと言ったのは、信仰を抜きにした場合にそうだと言うのである。信仰の立場からは、そのような平和運動に、無条件に共鳴出来ない。むしろ警戒しなくてはならないが、再臨を望まないキリスト者の絶対平和は本質に於て共産主義者の唱える平和と同質なのである。

 処で無教会者は絶対平和とか、戦争絶対反対と言う言葉を、特に愛用しているように思われる。その為に神を信じない絶対平和主義者から不必要な誤解を受けるのである。行動の伴わない観念論者、日和見主義者、言葉をもて遊ぶ人達と言うことになるのである。

 私達にとって平和は、キリストを離れて無い、それが御心に叶う者に平和あれ、と言うことである。この平和は、総てが停止しているような静的なものなのでなく、動的なものなのである。

 私は、地に平和を投ずる為に来たのではなく、剣を投ずる為に来たのであると言われた平和である。この平和は、十字架にある平和で、敵の只中にある平和戦争のさ中にある平和なのであおる。そしてそれは、十字架にあって受け取らされるものである。そこから終末的な希望、神の国を待望することが出来るのである。

 私は「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と言ったのは、信仰を離れて唱える絶対平和はカイザルのものと信ずるからである。神のものはキリストの再臨を待望する絶対平和であり、それは神の国と神の義を求めることである。キリストは、過去にいまし、現在いまし未来にい給う。そのキリストに固着することが平和であり、生命なのである。

 平和は動的なものである。それは生命の満ち満ちたものである。そのような平和はこの世には決してない。この世の平和は見せかけのもの、生命のない枯れた、死んだものの平和である。

 

或る友へ

 

11月22日

 聖書の奇蹟について、信仰に依って病気が癒るのかと聞かれたことがありますが、その時、私は次のように答えたのを覚えております。

 地方の或る療養所から、全身潰瘍の重症患者が転じてきました。それは明らかにハンセン氏病の末期的症状で、化学治療の進んでいる現代では、見たくとも見られない症状でした。

 自治会では、何故ここまで症状が悪化したのか問題になりました。一人が専門医が居なかった為に適切な治療が出来なかったのではないかと発言しました。然し、それはすぐ否定されてしまいました。長期療養者は、化学薬品の使用法について、或る程度の知識を持っている筈だからである。そこでの結論は、ズルフォン系の薬品に対して強力な耐性菌が現れたのではないか、或いは、アレルギー体質の為に治療が出来なかったのではないか、とのことでした。然し、その後意外な事が判りました。病状進行の原因は、耐性菌が出来たからではなく、アレルギー体質の為でもなく、彼が或る宗教の熱心な信者だったからでした。布教師はハンセン氏病を癒すのは化学薬品ではなく、信仰の力であると彼に教えました。その後、彼は一切の治療を拒否し、朝に昼に夕に御題目を唱えていました。けれども、病気は快くなる代りに日毎に悪化して行きました。それに就いて布教師は、あなたの熱心が足りないのだと叱責し激励しました。彼は益々御題目に熱中して行きましたが、彼が熱心になればなる程、病気は悪化し、その病気と熱心が極限に達した時、彼は一切を放棄し、治療の為に全生園に転園して来たのです。

 これとは亦、対照的に或る若い青年は、神癒は迷信であると、信仰から切り離し、病気は医学に信仰は聖書にと二重の生き方をして居ました。そして病気が進行した時、彼はノイローゼになり、廃人のようになってしまいました。

 聖書の奇蹟は、信仰に依って病気を癒すことが出来るのか、と言う問いに対する私の答えですが、あなたはどう思いますか。私は、聖書の奇蹟は病気を癒すことに目的があるのではなく、ヨハネ福音記者が書いているように、イエスが神の子、キリストであることを證しする為のものでありましょう。それ以外に何かを奇蹟に求めることは邪道ではないでしょうか。これとは全く逆にあの青年のように、奇蹟を総て迷信と否定することも邪道でありましょう。何故なら、それはイエスがキリストであることを否定することだからです。極端に言えば、奇蹟を離れてイエスは存在しません。また奇蹟の中にイエスが居ないことも事実です。これは逆説ですが、奇蹟はそれ以上の意味を持たないと言うことです。

 聖書の中心は、イエス御自身が述べておられるように「神の国と神の義を求めよ」ということでしょう。これは私達人間の中心的な問題であります。そして神の中心的問題は、人間の罪であります。「神はその一人子を給う程に世を愛された」と、愛の故に罪を問題にします。何故かそれは、創世記のエデンの園のアダムとエバの背信が原因なのです。アダムとエバが禁断の木の実を食べ、エデンの園から追放された時から神の痛みが始まります。この痛みは、アダムとエバの背神に依って生れたものであり、それ以後、神は人間の罪を問題にして来ました。その罪を除かない限り、神は人間を御自身の許に返すことができないからです。

 パウロはロマ書4章で述べています。「主は私達の罪の為、死に渡され、私達の義の為に甦えらせられた」。私達の側で問題にする罪は、このような形でしか取り上げることが出来ないのではないでしょうか。そして私達が正面から問題にし、求めることの出来るものはイエスキリストとその十字架と復活でありましょう。神の国と神の義でありましょう。信仰を問題にする時、それ以外のことは、私には問題にならないのです。自己の罪すら問題にならないのです。それを問題にするのは神でありましょう。

 神癒について私はこのような考えで、今日まで歩んで来ました。恐らく、今後も変らないでしょう。そして具体的には、私は失明者であり、ハンセン氏病患者ですが、信仰との関係はどうなのか、と問われるならば、私は失明者ですが、信仰に依り、恵みに依りキリストイエスの贖いに依り、失明から解放され全くの自由人です。

 ハンセン氏病についても同じです。失明が更に悪化し、眼球を抉り出すとも、或いは肉体が朽ち蛆の住家になるとも、私をその奴隷にすることは出来ません。イエスキリストが、私の義、私の生、だからです。

 友よ、神を信ずると言うことはイエスの言われるように幼な子の如くならなければならないのでしょう。けれども、人間にとって不信と罪の塊である人間にとって、幼な子になる事程、難しいことはないでしょう。私は世界を征服するよりも、幼な子になることの方が至難であり、絶望的なことのように思われます。幼な子への唯一の可能な道は、イエスキリストを信ずることでありましょう。彼を知って始めて幼な子になり、幼な子になって彼の恵みと愛が判るのではないでしょうか。この意味で、幼な子になることは奇蹟であり、神の恵みでありましょう。多くの場合、幼な子になることが出来ず、奇蹟問題で躓くのが普通なのです。だからと言って、そこで絶望し諦めては、信仰は何時になっても解らないでしょう。

 神は求める者に必要なものを与え給う。そこに総ての望みをかけ、十字架に固着する以外にないでしょう。或る兄弟から私は信仰的に、もっと自由になれ、と言われました。自由とはこの世的世俗的人間になれと言うことなのです。然し、私にとって自由とは、神の律法である十字架の義に固着することであり、不自由になることは、この世的に自由になることなのです。つまり神の法から離れてこの世の人になることなのです。

 私は自治活動をしていますが、誰よりも自由に、そして大胆に決断し、行動に移します。それは私がこの世の人として自由だからではなく、神の律法である十字架に固く立っているからであります。 

 

療養通信 

11月29日

 11月は忙しい月でした。1日より5日迄は文化祭。11日は総務部長と共に駿河療養所に行って来ました。来年は全患協本部役員の交代期であり、この事で駿河支部長と協議するためでした。

 東名高速道路を利用すると、3時間と僅かで到着します。

 駿河療養所は1943年、ハンセン氏病の傷痍軍人の為に建てられたものです。時の軍部は、強制隔離収容所に一般患者と同じ扱いにすることを潔しとしなかったでしょう。一般患者も亦、特別に優遇されていた傷痍軍人と共に療養することは望みませんでした。まるで人種が違っているかの如き扱いなのです。然し、それも束の間でした。1945年の敗戦に依って両者の地位は転倒したのです。彼等傷痍軍人は、占領軍の目の届かぬ所でひっそりと療養しなければならなかったのです。然し、それも亦、長い年月ではありませんでした。自衛隊の発足と1950年の朝鮮動乱を境に再び日の目を見るようになったのです。そして自衛隊の強化と共に傷痍軍人は優遇され現在では視力障害の傷痍軍人の年金は、年収2百万を超えています。この外に福祉年金が支給されています。この人達はどこまで優遇されるのか、自衛隊の力を見るような思いです。そして自衛隊に対する不安を抱かずにはいられません。日本は何処へ行くのか、かつての軍国主義になるとは考えられませんが、その危険をはらんでいます。この機会に憲法第9条について、私の考えを多少述べておきます。

 日本沈没の小説がベストセラーになり、映画ともなって大きな反響を呼びましたが、私はその小説を読んでいませんけれど、日本沈没の根源は第9条に有るのではないかと思っております。戦争を放棄した第9条に依っても国を守る自衛隊を持つことが出来ると自民党は自衛隊を強化して来ました。之に対して社会党は自衛隊を第9条に違反するとして自衛隊を否定します。両者の全く相入れない第9条の解釈に、日本の悲劇があるように思われてなりません。現在の自衛隊が持てるとする自民党が政権を握っていますが、社会党が政権を握った場合、自衛隊はどうなるのか、社会党が考えているように自衛隊を解体しようとすれば、自衛隊は自己防衛の為に持っている武力を行使するでしょう。つまりクーデターが起ると言うことです。そして同国民が血で血を洗うことになるでしょう。

 そこまで決意して社会党は憲法を守ろうとするか疑問です。

 共産党は自衛隊に反対し、社会党と同様の事を唱えていますが、その目的をにしています。共産党は政権を取った場合、国土防衛の赤軍を作る事を明らかにしています。憲法第9条はこうして危険な震源地であると共に、保守政権が政権を握っている限り平和の女神としての役割を果しています。

 私は憲法第9条は守らなければいけないと思います。社会党の考えているような絶対平和、戦争放棄は考えていません。人間は根源的には罪深い悲惨な性質を持っています。絶対平和等、守れるものでは無く、絶えず戦争の危険にさらされている緊張した生を生きているのです。絶対平和は、神の支配以外に有りません。

 25日は、東部の5園長と支部長が、全生園で医療センターの利用に就いて懇談しました。この懇談で支部長は、多磨の医療センターに協力すると約しましたが、青森の松丘保養園のみは、多磨のセンター化に否定的な態度を取りました。センターには賛成であるが、今、成すべきではない。整備予算がセンターに喰われ、地方施設の整備が遅れるから、と言うのです。それにセンターが出来ても地理的に青森の場合、利用価値が無いと言うのです。何故日本のハンセン氏病の為に、亦世界のハンセン氏病の為にセンターが必要であると言う思想に立つことが出来ないのであろうか。武田園長も亦患者と同じような考えのもとに反対し、出席しませんでした。

 それ以外の園長は、多磨のセンター化に賛成の意思表示をしましたが、積極的に協力するとの態度は見られませんでした。

 27日には、日本医科大学講堂で開催されたらい学会の傍聴に、本部の事務局長と二人で行って来ました。そこで討議されたことは、ハンセン氏病を特殊扱いにしてはならないと言うこと、WHO国際らい学会の決議に副って意見が述べられました。従って、新鮮味がなく、観念的、抽象的なものでした。具体的な講演は、療養所課長のハンセン氏病療養所の現状と将来について語ったことと、大学関係の講師が外来診療に就て述べた程度です。

 最も失望したのは、所長連盟の高島会長の漫談とも取れる発言の要旨です。彼は日本のハンセン氏病療養所は世界一であり、先生も亦優秀であると自画自賛していました。医師不在に依る深刻な医療危機を迎えているハンセン氏病療養所について全く触れません。既に恍惚の人になっているのか、それとも現状分析する能力はないのか、そのどちらかでありましょう。また、学会で気が付いたことは、高島会長以外の所長もハンセン氏病療養所の現状について全く無理解であると言うことです。合併症患者は日本の国療国病を利用すればよいと、雲の上の人間のようなことを言います。深刻な医療危機を迎えているのは、国療国病への入院、通院治療が拒否されていることにあります。

 こうした現実を無視して合併症は、国療国病で治療を受ければよいとはどのような気持で言っているのであろうか。ハンセン氏病病療養所の現状を知らない人には気持よく聞えるが、私達には空しい叫びに聞えます。 

 良きクリスマスと新年を迎えられますよう心から祈ります。