「小さき声」 目次


 小さき声 No.17 1964117日発行

松本馨

地上に神の国を

昨年のはじめ、マタイ伝の暗誦の終わったSさんは、その後、ロマ書の暗誦をしている。ロマ書の文章はむずかしいために、一日一節は無理で、二日に一節ずつおぼえている。Sさんは暗誦するとき、聖句を頭で大腿部に書き、おぼえると消して、また次の聖句を書いておぼえる方法をとっていると紹介したことがある。ロマ書の暗誦を始めるにあたって、Sさんに問題になったのは、頭の中がマタイ伝28章で一杯になっていることである。ロマ書を入れる余地がどこにもないのである。Sさんは考えた末、マタイ伝を自分の故郷にうつすことにした。Sさんは故郷を追われて、三十年近くになる。その間に、家族は死ぬか散って、家はすたれ、Sさん自身も一度も訪れたことのない故郷に、神の言を立てはじめたのである。Sさんは東北の生まれである。いくつかの山と谷を越えたところに、故郷がある。Sさんは、はじめの山の入口に次のような聖言をたてた。 

「すべて重荷を負うて苦労しているのは、わたしのもとにきなさい。あなた方を休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書112830) 

そこからは、けわしい道を車は入らない。老若男女みな、故郷をのぞむものは、その道を登っていかねばならない。その道の要所、要所に道標のように聖言をたてた。一つの山を越えると、太陽の光の届かない谷底を通らなければならない。そこにも聖言をたてた。第二の山と谷、第三の山と谷にも、同じように立てた。そして、それを越えると突如として、はるかに遠くに望んでいた故郷が眼前に展開する。幼児の瞳のように澄んだ空、ガラスのように透明な空気、葉緑色のしたたりおちる草木、鮮烈な原色の野の花、その中に手のきれるような水が流れている。点在している家と池と生簀、この地方は観賞用の鯉を養殖している。汚れていない天と地と、光と空気と水の中で、はじめて金色の鯉が作られるのである。豪華な衣裳をした金色の鯉の遊泳する池を、Sさんは、ガリラヤ湖になぞらえ、イエスのガリラヤ伝道の聖言を立てた。樹木のはえていない岩石の丘には十字架の言をたてた。ゲッセマネの園に似たところにはゲッセマネの聖言を立てた。緑の繁茂するところ、小鳥のさえずり、野の百合が咲き、町の灯が見えるところに、山上の垂訓をもってきた。かくて、Sさんは故郷に、神の言をたてたのである。Sさんは盲目である。目には膿のような目やにがたまり、口はしまらず、一言語る毎によだれが流れる。せむしのように背中は曲がり、手足はなえ、物によりかからなければ立っていることもできない。外なるSさんはやぶれかぶれているが、内なるSさんは日々新たに自分を捨て、自分を追い出した故郷に神の国を建設している。暗誦がつづけばつづくほど、故郷は神の言で埋められていくのである。一九六四年を迎えて私は思う。神に召されているキリストは、神より無限に遠いところ、山間僻地の日本のいたるところに、いな世界のいたるところに神の言をたてる使命が負わされているのではないだろうか。 

この病いは死に至らず 十七

朝の祈り

「……よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書33)

神の現在を知ったとき、このことが私の身におこりました。一瞬にして私は新生したのです。しかし、このことを理解するのは、少し時間がかかりました。聖書に暗く、改心についての知識が全くなかったために、神を知ることと、ドストイエフスキーを知ることとどう違うのか理解できなかったのです。 

ドストイエフスキーは、この世界で知った唯一の私の先生であり、友でした。彼のみは私を失望させることはないと思っていましたが、罪の前では彼も無力でした。私は次の事実を見落としていたのです。彼の愛読者は世界に何万、何十万、あるいは何百万いることでしょう。病んでいる人、苦しんでいる魂が彼の文学によってどれだけ慰められたかわかりません。しかし、彼は彼自身を救うことができなかったのです。彼は一生、てんかんに悩み、橋の下でなくなった乞食と同じ死を、彼もまた死んだのです。 

「あなた方は知らないのか、あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは義に至る従順の僕ともなるのである」(ロマ書616) 

ゲーテ、ミルトン、ダンテ、シェクスピア、トルストイも、また死にました。罪の前には無力だからです。神を知るということは、こうしてすべての人を無力にしてしまう、罪を許すと宣言して下さる方を知ることであります。神を知ることと、ドストイエフスキーを知ることは異質のものでありますが、おろかにもそのことが理解できません。私は翌日も、習慣と惰性にしたがって朝を迎えました。絶望者には昨日が今日であり、今日が昨日であってもどうでもよいことです。そこには習慣と惰性があるのみです。だがベッドの上で目を覚ましたとき、きのうまでの朝と、朝が違っていることに気がつきました。いまだ経験したことのない驚きの朝なのです。若木の芽のような赤子のうぶ声のような新鮮でさわやかな山の頂きにあるような朝なのです。神の朝は何日も新しく、その日は常に新しいのです。しかし、私には理解できません。私は習慣と惰性にしたがって歯を磨くために洗面所に行き、いつものように窓を開けました。外の冷たい空気を入れると、呼吸が少し楽になりました。でも、もう窓を開ける必要はなかったのです。心の窓はすでに開かれていました。密閉した室内にとじこめられていても私は自由に神の息と、霊を吸うことができたのです。私を苦しめてきた腸の死臭はうそみたいになくなっています。食べ物に付着していた腐臭も消えています。神はパンを食べることを許して下さったのです。

「朝と共に喜びがくる」

そのままによろこびの感動が潮のように全身に満ち満ちてきます。この場合、人はどうずればよいのでしょう。何をしてよいのか私にはわかりません。わからないから、習慣と惰性に従って眠るほかありません。何分くらい横になっていたでしょうか。私は起きると、病室の中央にある火鉢のところへ行きイスに腰かけました。

「神は、生ける神で居給う」

私は、この秘密を知っているのです。なんのために寝ていなければいけないのでしょう。

「……あなた方は時を知っているのだから、特に、このことを励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちはやみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか」(ロマ書131112) 

私はM夫人を待ちました。「回心記」は、何を語っているのか、あの先生の身になにが起こったのか、知りたいと思いました。またロマ書三章二一節以下をもう一度、聞きたいと思いました。私は火鉢と玄関の間を何度か往復し、M夫人を空しく一日、待ちました。夜になると来ないとわかっていながら、夜更けまで待ちました。Nも。聖書は何を語っているのか、そこに何が起こったのか、また起こりつつあるのか知りたいと思いました。 

翌日も、二人を空しく一日待ちました。二、三日同じことを繰り返しているうち、ここで空しく待っていることはできない。聖書を学ぶために、ここを出ていかねばならぬと考えました。そして、手続きをとり、足もとから鳥が飛び立つように退室し、不自由舎に入りました。

夜の祈り 

私たちの生活は、健康舎と不自由舎に別れそのどちらにも独身舎と夫婦舎があります。健康舎は所内作業に従事できる軽症な人たちの住居であり、不自由舎は付添人の介助を必要とする重症者の住居です。治療薬のなかった時代は健康舎から不自由舎、病室、そして、墓場へとコースが決まっていましたが、人は健康舎から不自由舎を越えて、病室、墓場への道を望みました。もし、許されるのなら、健康舎から直接墓場への道も、開いておいてもらいたいと悪魔に願っていました。 

不自由舎の人たちは生と死の中間にいました。そのどちらからも拒否され、生きることも死ぬこともできずに、生きながら死を体験していたのです。それはヨブの世界であります。そこには、崩れゆく肉体と、それを食い、それを住み家とする蛆、噴出する濃汁と腐臭、それにたかる蝿、夜寝ている間に手足の指をかじり、顔にかけ上がり、目玉を食ってしまうねずみども、そして、それがすべての世界であります。何と暗い夜でありましょう。夜が凝固して壁となり。その夜の壁に人は化石したようにぬりこめられていきます。悲惨というにはあまりにも悲惨であり、残酷といえばあまりにも残酷であり、無情といえばあまりにも無情であります。だが、神はこの世界を知っておられます。私が神を知ったのではなく、神が私を知っているが故に、神を知っているのです。神が共にいます限り、いかに暗くともその暗さは絶望ではありません。神の夜は、太陽の光よりも明るく、月の輝きよりも明るいのです。 

「『やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ』と、わたしが言っても、あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光と異なることは ありません」(詩篇1391112) 

私の室は、四人の病人と一人の患者付添夫が同居していました。三人は盲目で、一人は目が見えますが両手の指はなく、両足は切断しています。四隅にそれぞれ席をとり、食事かお茶のとき以外には真ん中へきません。この人たちは終日、壁か柱によりかかっています。その衣服は注意してみると、そんなにくたびれていないのに、襟がすり切れているか、膝の辺りがぬけて、きれが当ててあります。一日中、こぶしで膝を叩いています。ある者は首を左右に振っているか体を前後左右にゆすっています。何年、何十年、じっと座っているのには時計の振り子のように、体の一部分を動かしているのが楽なのです。一点に立っているよりは、歩いている方が楽であるのと同じことです。

この人たちの会話は、ワイセツと、かげ口であります。露骨で息のつまるようなワイセツな会話を食事のさなかにします。私は食事の中途で逃出し、庭の片隅で祈ったことが度々あります。 

ことば

十二月二十九日、関根先住と千代田集会の教友がご来園になり、集会がもたれた。入園者は、Nさんと私の二人である。主にあって一つだということを強く感じた。ご講義は詩篇八四篇であったが、ご講義を直接聞いて感じたことがある。それはご講義と雑誌では、同じことを聞いても違うということである。雑誌では学ぶことができないことがある。無教会の特質は、弟子の人格継承である、といわれる。このことばの深い意味はわからないが、聖書の 講義は一般の学問と違って、聖書が聖書の権威と能力をもって、鉄のように、先生の人格によって魂が打ちこまれるときである。雑誌ではこの鋲のひびきはわからない。らい園の教会員の中には、無教会雑誌の読者がかなりいると聞いているが、独立している者はいない。その原因は先生の講義を、直接聞く機会がないためではないかという気がする。私自身、先生のご講義を聞かなかったならおそらく教会の読者で終わったであろう。今年は例年になく、多くの教友から年賀状を頂いた。そして、わかったことは、私が考えていたことよりも、本誌がよく読まれていることである。 一人一人に礼状を書きたい気持ちであるが、代筆の都合でそれもできない。誌上で心からお礼を申し上げます。 

これとは反対に、私は病友から感謝されたことはない。文章が固いとか、聖句の引用が適切でないとか、らいに対する感覚が前時代的であるとか、私にはどうでもよい枝葉末節のことが問題になる。正月にも退園した兄弟が見え、私の書いていることが、みなうそであるかのように、「きれいごとを書くのはやめろ」と、えらいけんまくである。兄弟はどこで見たのか、私は送ったおぼえはない。私が書くくらいのことは、見なくともわかっていて、言ったかもしれない。いずれにせよ奇妙な現象である。

私の姿かたちを見ると説教や、忠告がしたくなるのかもしれない。「きれいごとを書くのはやめろ」には、むしろ感謝している。自分の書くものが露悪的にならないか、常に心配している。恐れていたからである。私は、神の義を明らかにすることが目的であり、ほかには何の意図もない。神の聖さを書く場合、いくらきれいに書いてもきれいすぎることはない。むしろ私は、自分の筆のきたなさをなげく。私の筆の聖くなることと、私の神にしみがなくなるよう切に祈る。 

千代田教会をはじめ、多くの教友から多くのクリスマス献金を頂いた。昨年は少し苦しかったが、今年はその心配はなくなった。素読会より、関根先生のエレミヤのテープ二巻を頂いた。またある姉妹からヨハネ黙示録一巻を頂いた。Mご夫妻は、内村先生のロマ書の録音をして下さることになった。年賀状にその準備ができたので録音にかかると、うれしい便りである。最近、内村先生のものを読んでみたいという思いがしきりである。Mご夫妻のように、一巻ずつ録音して下さる方が二十人おれば、たちまち内村全集は録音できる。テープはこちらで負担するとして奉仕をして下さる方はいないものだろうか。 

賀状を沢山頂き有難うございました。いろいろな都合で一々返礼出来ません。この誌上でお詫びしお礼を申し上げます。