「小さき声」 目次


 小さき声 No.19 1964320日発行

松本馨

三つの手紙() 転換を計る友へ

あなたは、あなたをとりまいている人たちからのがれて、信仰のみに生きたといいます。あなたはそのための転換を計るために、あなたが計画した旅への準備をすすめているでしょうか。それとも、転地療養の可能性について考えているでしょうか。

あなたは若い頃、熱心なクリスチャンでした。あなたと私は兄弟よりも仲が良く、いつも一緒に机をならべて勉強しました。あなたは聖書と、それに関係する書物以外は目にもくれず、私は文学書もあさっていました。その後、あなたは結婚して、独身寮を出ました。その年に私も結婚しましたが、その年に、あなたは愛する妻を亡くしてしまいます。それから四年後に、あなたの後を追うように私も妻を亡くしました。 

妻の死は、二人の道を大きく変えました。私は文学を捨てて信仰に入り、あなたは信仰を捨てて、政治に入りました。そのあなたが聖書を読んでいると聞いて、私は十何年ぶりかに昔の友に会うような喜びをもって、あなたを訪ねました。しかし、あなたと話しているうちに喜びは消え、心が重くなるのをどうすることもできませんでした。 

転換を計ろうとするあなたの考えが、信仰を捨てたときと同じだからです。あのとき、あなたは転換を計るのだと言って、労組の大会やデモに参加しました。そして、あなたの言をかりて言えば、あなたは、プロレタリアートの洗礼を受けたのです。それ以来、あなたは今日まで自治会の役員をし、何回か代表にもえらばれ、らい予防法闘争を指導した一人でもあります。 

そのあなたが、神の否定を媒介にして政治に走ったように、今度は政治の否定を媒介にして神に帰ろうとしているのです。神は、二者択一の神なのでしょうか。否定を媒介にしなければ立つことのできない神なのでしょうか。私たちに許されている自由は父なる神と、主イエス・キリストを信ずるか、信じないかです。不信と不義の真ん中で、十字架による罪のゆるしを受けるか、拒否するかです。 

あなたの転換の場所は、十字架以外にはないはずです。十字架を仰ぐことが、転換であり、信仰のはじまりであり、終わりです。あなたはいかなる地に旅をし、何処の療養所に、イエスを訪ねようとするのでしょう。彼はあなたのすぐ後に立っています。あなたが、あなたをとりまいている人たちの中に埋没していたとき、愛する妻を亡くして悲嘆にくれていたとき、格子なき牢獄で、罪と死におののいていたとき、大会やデモに参加していた時、彼はあなたの十字架を負って、あなたの後に立っていたのです。あなたはまわれ右をして顔を上げればよかったのです。そこに、あなたの罪をご自身のものとして、ご自身の義をあなたのものとして下さっている彼が立っていたのです。 

「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。 

時は満ちた。神の国は近づいた、とは、あなたがまわれ右をし、顔を上げて、イエスと顔と顔とを合わせる時間と間隔であります。 

彼はあなたをすべてのものから解放してくれるでしょう。あなたは、あなたをとりまいているすべての人の中にうずもれていながら自由です。愛する妻の死に悲しんでいながら、悲しみから解放されています。らい病でありながら、らいからも解放されています。格子なき牢獄につながれていながら自由人であります。最後に、神の 前に人は如何にして如何に立つか、私の考えを述べさせていただきます。この事についての模範はイエスです。彼は万民の主でおられながら、万民につかえる僕です。 

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マタイ2028) 

彼の十字架は神の聖言です。そして、十字架です。パウロもすべての人に仕える僕でした。 

「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった」

 最後に彼も十字架の死をとげたと言われます。み前に彼も一人で立たされたのです。私たちが、神の前に一人で立つということは、山中にかくれたり、旅に出たり、未知の療養所に身をかくすことではなく、すべての人に仕える僕となることです。イエスと共に十字架を負い、彼と共に世にすてられることです。これが神のみ前に一人で立つことであり、私たちの自由です。 

この病いは死に至らず 十九

白痴 

私の毎日は、聖書に明けて聖書に暮れました。M夫人とKが一日交代に、一時間ずつ奉仕をしてくれました。私にとって、この一時間は貴重なものでした。私の生活は、この一時間を軸に回転したといってもよいでしょう。一時間を一日に拡大して生活したともいえます。 

この時間を私は聖書の暗記に使い、残りを聖書注解にあてました。福音書を暗記しているときは、塚本虎二先生の「イエス伝」に学び、ロマ書の暗記中は内村鑑三先生のfロマ書研究」に学びました。 

暗記は、マタイからで、一日に七節くらいでしたが、後には十節くらいになりました。暗記は二十分くらいですみましたがそれを心の扉に印す仕事が大変です。昼となく、夜となく、何十回でも、肉碑に刻印させるまで口の中で繰り返すのです。 

このために、直接の原因は、聖書を読ませたことにありますが、旧友はみな、私から離れていきました。友を相手に人生や文学を語る時間がなかったのです。私はまた世のことにおもいわずらったり、悩んだこともありません。そのようなことを一度でもすれば、おぼえた聖書をたちまち忘れてしまいます。三十代の年齢と生来の暗愚のため片手間の暗記はできなかったのであります。それこそ命がけでした。信仰は私に残った最後のものです。これをなくしたら、私は再び地獄の苦しみを受けねばなりません。バカと云われ、気ちがいと言われても、この信仰は守らねばなりません。終戦の翌年、私は神田にいったことがあります。そのとき、焼けただれた建物の下に、一見して白痴とわかる面のような顔をした女が、通行人に向かって「五十銭下さい。五十銭ください」とオウムのように繰り返していました。空襲のショックで思考と感情を表白する言葉を喪失してしまったのでしょう。それにあわれみを感じて、だれかが「五十銭下さい」のことばを教えたのでしょう。女は一旧中そこに立って「五十銭下さい」と機械のように繰り返しているのです。この女と同じように、生ける神を知ったショックで、白痴になってしまったのです。そして、一日中オウムのように、聖書をくり返していたのです。夜、床の中で目を覚ましたとき、私が最初に意識するのは、口の中の聖書でした。なぜこのように聖書に熱中したかといえば、理由は簡単です。それは、聖書によって神を知ったからです。 

もし義子が死んだ夜、突風の中で、あるいは霊安所で、自身の中に神を知ったなら、私はもっと違った道を歩いていたことでしょう。おそらく神秘家になり聖書の一言一言を、神の言とする逐語霊感説をうけいれ、ただもったいなくて、聖書を読まずに拝んでいたでしょう。また神の証をするのに、言によらないで、しるしと不思議をもってしたでしょう。異言を聖霊のしるしとし、病やいやしを聖霊のはたらきとし、火渡りを霊力とし、これを神の現在の唯一の根拠としたでしょう。 

私は、しかしこのようにならなかったことを、神に感謝します。神が私たちに分配した遺産は、イエス・キリストを信ずる信仰による神の義です。 

 

私は、神の言を食らうことによって、自分が病人であることを知りました。飢えは食うほど、飢えがわくのです。それによって、自分が病気であることを認めると共に、その病気が神の持続的欠乏であることを知りました。 

即ち、一方では神の言を食って生き、他方では持続的欠乏によって、一層病気が重くなり、私を死の俘虜としてしまうのです。パウロは愛によって働く信仰のみ益があると、ガラテヤ書で言っています。しかし、私は己の如く隣人を愛することも、また己の如く隣人のために祈ることもできません。M夫人は、私にとって世界に二人といない大切な人ですが、愛することができません。持続的欠乏によって、むさぼる心しかないのです。夫人が病に倒れたとき、私は神から見離されたのではないかと、悲しみました。夫人の病気を悲しんだのではなく、自己自身を悲しんだのです。私はなんどか病床の夫人に無理を云って、聖書を朗読させました。病熱と肉体の苦痛のため、声はかすれ呼吸は乱れていても、私は最後まで読ませました。 

そして一人になったとき、このような自己に絶望しました。こうまでして求める自己が、地獄の亡者のようなグロテスクなものに見えます。信仰は私に残った最後のものです。国にすてられ、家族にすてられ、われとわが身にすてられ、廃虚と化したわが家ののこった唯一の財宝です。愛人であり、命の友です。それなのに信仰は私をおしつぶそうとして、山のように、私の上にたおれかかってきました。 

不自由舎に入って、二度目の冬を迎えました。或る朝でした。所内の有線放送がモヒ患者のTがなくなったことを放送しました。それを聞いたとき、「まずいときに死んだ」と、思わずつぶやきました。霊安所におくる時間と、夫人のもとに行く時間と重なったからであります。不用心に口から出たとはいえ、石のような心におもわず慄然としました。Tと私は、約百日、眼科病棟で一緒にくらしました。

Tはモヒ患者であると共に、トバク者でした。国で発行していた金券偽造の首謀者です。同病者からはへびか毛虫のごとく嫌われ、彼もまたそのごとく接していました。だが、最後まで、私を信じてくれたのは彼のみです。彼は私の信仰をうたがうことなく、神の使いのごとく遇し、気分のよいときには、私をまくらもとに呼び、私に勧めと祈りをさせて、子供のごとくに喜んでいました。 

M夫人も、学園のNも、Tのごとく私を信じなかったでしょう。むしろ反対に、不信の真中にいる私を認め、祈りと聖言をもって見舞ってくれたと言ってよいでしょう。今日、私がかくあるのは、この兄妹の祈りによりますが、私を神の使者のごとく迎えたTに負うところも多いのです。このTの死にぎわに、その死に際して嘆いたのです。「まずいときに死んだ」 

私を生かすはずの信仰は律法となって、私の中に働き、私を死の俘虜としてしまったのです。罪は生き、私は死んでしまったのです。私は、Tを眼科病棟の玄関先でおくりました。霜柱をふみながら行きかう人の足音が雪の足音のように聞こえます。手の切れるようなつめたさは、わかりませんが、体の内側から寒さが迫ってき、全身にふるえがきます。Tを送って舎に帰り、表から付添夫に声をかけました。「いま何時ですか」その足で夫人のもとへ行くつもりでしたが、その場につえを落として、両手であわてて口を押さえました。セメントで固めたように、口と舌が動かないのです。両手で動かそうとしても、コンクリートのように固くなっているのです。全身の血が、一時に氷る思いでした。ザカリヤの名が私の脳裡をかすめました。御使いガブリエルに向かって「どうして、そんなことが私にわかるでしょうか」といったためにザカリヤは唖になってしまったのです。私は「まずいときに死んだ」といったために、唖になってしまったのです。先に失明し、今また唖になり、この先どうして生きていけるのだろう。 

「神よ、私の罪をゆるし、私をこらしめず、私を試練にあわせないでください。」 

地の塩

 「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味がとりもどされようか。もはや、なんの役にもたたず、ただ外にすてられて、人々にふみつけられるだけである。」 

塩は空気と水におとらず大切なものである。食生活に、かかすことはできない。甘くも、辛くもない食物は熱くも、つめたくもないぬるま湯の信仰とおなじで、口から吐きだされる。塩はまた、防腐剤の役もはたしている。ここには、二様の塩が記されている。塩本来の働きをなす塩と、それを喪失した塩である。「あなた方は地の塩である」は、一般には本来的なはたらきをなす塩と解されているが、はたしてそうであろうか。山上の垂訓が指示している神の国の人間像は、本来的な働きをなす塩ではなく、それを喪失した塩ではなかったろうか。

 幸福なる人は、貧しい者、悲しむ者、柔和なる者、義に飢え渇く者、心の清い者、義のためにせめられたる者等である。この中からどの一つを取り上げても、地の塩、世の光として、仰がれるような状況にはない。義のために泣いている者、苦しんでいる者、はずかしめられ、打たれ、傷つけられ、義にかわき義にうえ、またせめられている者たちである。このような状況は 

「最早なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである」。 

世にすてられた人と同じく、地の塩も外にすてられた塩である。幸福の後に、地の塩があるのは偶然とは思われない。山上の垂訓を、注意深く読むとき、この世ではみな捨てられた人達である。しかし、聖言の背後には、すてられた人達の原型である一人の人が立っている。神の子、イエス・キリストである。 

「キリストは、神のかたちではあられたが、神と等しくあることを固執すべき事と思わず、かえって、己をむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異らず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ268)

神の子の栄光を放棄し、人の子となって地上にこられたお方である。彼は言と業をもって、世を救わんとこころみた。しかし、これは失敗におわった。世は彼に助けを求めたが、霊魂の救出でなく、肉による救いをもとめたからである。 

イエスの受難の予言(マタイ1621)は、事業に失敗した悲壮な聖言である。しかし、失敗は、失敗のための失敗ではない。世界改造という大事業を完成するための失敗である。創世記一章一節より始まった天地創造と人間救出の大事業を完成するための失敗である。先には神の子の栄光を放棄し、ここにまた人であることを放棄するのである。人であって人でなく、獣か虫のごとく、殺されるのである。彼がとらえられてから十字架の死に至るまでの受けた苦しみと、はずかしめは、神がご計画した大業を完成するためのみ業なのである。彼の苦しみの前には、らい苦はきわめて軽き悩みにすぎない。かくれた義の神に向かって、哀泣 哀号するヨブの言葉も、梢の葉先をふるわす5月の微風にすぎない。 

「もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである」 

はイエスである。もし私たちが彼に結ばれて、彼と一体であるなら、彼と共にすてられ、彼と共に恥を受け、人にふみつけられるはずである。そして、さらにかれの復活にも等しくなるはずである。私たちの死ぬべき体は彼の死にのまれ、彼の命にあずかるのである。地の塩、世の光として仰がれ、とうとばれる人が神の国では、かならずしも地の塩、世の光ではない。むしろ、世に捨てられ、世に忘れられ、人々にふみつけられている人が、神の国では塩である。

ことば

最近このような内容のものを書くことが、はたして福音に役立っているのだろうかと、考えさせられることがある。福音のためと称しながらも、無意識のうちに自己宣伝に陥る危険があるからである。文書伝道の中心は、聖書の解釈と註解にあるようである。しかし、これは先生方のなさることで、私の力のおよぶところではない。聖書はパウロのごとき大学者を必要としたが、マルコ1章のらい病人や、ヨハネ9章の盲人をも必要としたのである。福音の証詞のために、私はこのらい病人や盲人の役をつとめたいと願っている。