「小さき声」 目次


 小さき声 No.20 1964412日発行

松本馨

三つの手紙() らいを恥じる友へ 

あなたは、先生が来園なさったとき云われました。「先生に会いたくない、自分のみにくい姿を見せたくないのだ」と。 

あなたの言葉はトゲのように私の胸につきささりました。それはなんといういたましい、絶望的なひびきを持った言葉でしょう。私は思いました。あなたの言葉は、全国一万の入所患者の声であると。 

昨年、来園された藤楓協会のH氏は、隔離を必要をする患者は、全国で五、六百人である。その他の者は、家族と社会が受け入れるなら、明日にも出ていってもよろしいと言われました。全国入所患者の中、七、八十は長期療養患者と思いますが、H氏の言葉を聞いて、はたしてその中の何人がよろこんだでしょう。おそらくみな絶望したのではないだろうか。その言葉が真実に近ければ近いほど、絶望は深かったと言えます。現代の療養所は「あなたのらいは治った」と、問われていることに対して絶望しているのです。らいの傷あとが深かったためでしょうか。否、であります。絶望とは、軽症になればなるほど深いのです。らいと過去のらい行政とによって、自覚的にうけとらされるからです。 

治らい薬のなかった時代にはらいを絶滅するためには、強制隔離より方法がありませんでした。そして、そのために必要ならい予防法と、刑務所を模倣した収容所ができました。所長は患者の生殺与奪の権が与えられ事務長は元警察署長であり、監督(警視員)は、もと警察官で構成されていました。そして、逃亡を企てた者、療養秩序をみだした者(これは無限に拡大された)は、監房に入れられ、減食の罰を受けました。家族面会には監督が立ち会い、小包、手紙類は検閲を受けて、お金、刃物、薬品、マッチ類は没収されました。職員は目だけ出して全身を白衣で武装していました。参観人も同じように武装し、高下駄か、長靴をはかされました。患者の住んでいる地区は、空気も土も汚れていると考えていたのでしょう。 

医学的には何らの根拠もありませんが、このような状況のもとで、私たちのうちに形成されていったものは、罪意識であります。神への罪意識でなく、らいを病んでいることが、人間に対して罪をおかしているのだという、罪意識であります。この罪意識は、獣のように人間を恐怖し、ついには自己が人間であることに自信をなくしてしまいます。「あなたのらいは治った」と、問われていることに対してあるのは人間を恐怖する自己喪失であります。このための絶望であり、人々が不用意に口にするレプラ・コンプレックスです。

私はしかし、一般的なことを論じるつもりはありません。ここで私が問題にするのは「自分のみにくい姿は見せたくないのだ」と言われたあなたの信仰です。あなたは十字架の信仰によって、罪と死から解放されています。キリスト・イエスの御盃をいただいているあなたは、すべてのものに対して自由です。このことと、「自分のみにくい姿は見せたくないのだ」ということと、どのような関係にあるのでしょう。信仰とは全然無関係だと言われるのでしょうか。むしろ、信仰はそのようなところで問われているのではないでしょうか。らいを恥じ、世をおそれつつ、罪を許され、自由だというなら、それは頭だけのことにならないでしょうか。

私もかつては、あなた以上にらいを恥じ、世をおそれ、政治権力を恐れました。しかし、十字架のイエスを知ったとき、それまで恥であったものが光栄となり、苦しみであったものがよろこびとなりました。神の御子イエスは、わたしたちのために、十字架にかけられ、死して葬られ、三日目に復活し、私たちの知恵となり、義となり、聖となり、購いとなられたのです。

もし、キリストにつながれて一体であるならば、彼の栄光と共に、彼の苦しみをも当然うくべきでしょう。キリストは、私たちの生命であり、私たちの愛人です。彼にあるもので、私たちに欠けているものはなく、私たちにあるもので、彼に欠けているものもありません。彼は、私たちのすべてだからです。彼のよろこびは私たちのよりこびであり、彼の苦しみは、私たちの苦しみです。もし、彼に愛の実を求めて、彼の受けた恥と、苦しみに顔をそむけるなら、わたしたちは彼を愛する資格はありません。もし、私が彼の栄光のみを求めて、彼の十字架をさけようとするなら、私は太陽か、月か、星を拝むでしょう。太陽は光のみを与えて、苦しみがないからです。月と星も、夜の光のみを与えて、苦しみがないからです。しかし、このような光は死んだものを生かすことはできないし、やがては亡びる光でもあります。

真の光は生命です。(ヨハネ19)「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」(ヨハネ1910)

肉の私はらい盲であることを苦しみますが、霊の私は十字架のイエスのみ姿に、少しでも似ていることを知り、よろこびであり、感謝です。私は三十年間、隔離され、自由を奪われてきました。そして、世からはいみきらわれ、おそれられ、はずかしめられ、いやしめられ、あなどられ、顔をそむけて通られる者となりました。これらが私の富であり、名誉であり、地位です。肉の私はこれらを悲しみますが、霊の私は、十字架のイエスの受けられた苦しみと恥とを、これによって少しでも知ることができ、よろこびであり、感謝です。

今、私は霊によってキリストを知っていますが、主が来たり給う終わりの日には、この目でキリストを見、この耳で声を聞くことができます。そのときの光栄にくらべるとき、いまの苦しみは軽き悩みに過ぎません。友よ、私はいつの日にかあなたが、心を広くして、福音宣教のために特別の使命を受けている先生を、よろこんで迎える日のくることを心から祈ります。

この病いは死に至らず 二十

罪の冠

口がきけるようになったのは、それから数時間後です。死者のように冷たくなった体内に、日のようなものがさしこむと、舌がゆるみ、ものが言えるようになりました。しかし、唖のあとは深く残りました。舌と口びるの表面に厚い膜のようなものが張ってしまったのです。何を食べても味がなく、熱くも冷たくもなく、私の口であって私のものではないようなのです。このことは直ちに、日常生活にひびきました。

一日は朝ではじまりますが、それを私に教えてくれるのは耳です。耳は柱時計の音を聞いて、私に朝を告げます。そして、床からぬけだした私に衣類の世話をしてくれるのは口です。口は肌着から順々に手にもたせて着せてくれます。たとえば、着物を着るとき、襟をさがしてくわえ、片手がとおれば、一方の手は簡単に袖にとおすことができます。口はまた、洗顔のときの歯ブラシ、食事のときのフォークを手にもたせてくれます。

杖たてには、何本かの杖が立ててありますが、その中から私の杖を探してくれるのも口です。杖の切り口にはのこぎりの目のあとがついていました。その中には、針の頭くらいの点がありますが、口はそれをおぼえていて、私にとってくれるのです。口は幼児の私の世話をする保母です。その保母が倒れたのですから、私の不自由は想像以上でした。衣類を着替えるのに、三十分はかかりました。口でなめても、くわえても、裏か表か、襟がどこにあるのか解らないのです。

私は食事の度毎に、知覚のない指の爪で舌の膜をはがそうとしました。指のきく手なら、つかんではがすことができそうな気がするのです。このために舌はやぶれて、そこから血がふきだすこともありましたが、日がたつにしたがって、膜は自然になくなり、知覚と味覚が少しずつ回復してきました。事実は膜がとれたのではなく、なれて意識しなくなっただけのことなのです。膜を意識しないために膜の下の神経は、膜の外側のものを間接ではなく、直接的に感じたのです。

また、衣類を着るとき、それが簡単にできるようになったのは、感覚がもどったのではなく訓練と工夫のたまものでした。口が前のように、杖をさがせるようになったのは手に握るところに、指が一本入るくらいの穴をあけたからであります。この事実が、頭で理解できても、体でうけとることができません。そのために何度もにがい経験を重ねました。

お茶のとき、熱くないと思って飲んだお茶が、のどに入る瞬間、熱湯に変わってしまうのです。食道から胃に入る数秒間は、熱さのため息が止まり、体がくの字になってしまいます。このようなとき、舌は焼けて白くなるか、水泡ができてやぶれるかして、のどと胃が数日いたみます。こうしたことを、何回か重ねているうちに、私の口は本当ではないことを、体でうけとらされました。

かくて、神は下界と私との壁をますます厚くし、私を俘虜にしてしまったのです。ヨブの神はサタンに言われました。

「主はサタンに言われた。見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」

神は命の言をきく耳だけを私に残したのです。私はこれをよろこんでよいのか、かなしんでよいのかわかりません。なぜなら魂は死ぬほど神をしたったためにその結果、罪をおかすことになったからであります。「まずいときに死んだ」は、私の熱心が云わせた言葉であります。神を知らなかったら、口はかかる罪をおかさなかったでありましょう。また、魂は飢えがかわくことなく、狼のようにむさぼることをしなかたでしょう。神の言は、食えば食うほど、それに応じて空腹は一層はげしくなり、私は魂の飢餓を満たすためには、隣人を捨て、友人を食い物にし、愛するものを死に渡すことさえ辞さないでしょう。世界をほろびにわたすことも、あえて辞さなかったでしょう。

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」(ロマ書117)

私の家の唯一の星、財産である信仰は、私を生かすかわりに私を殺してしまったのです。信仰によって受くるはずの、義の栄冠は、私の信仰によって、罪の魂、悪の角となってしまったのです。パウロは告白します。

「罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働き、あらゆるむさぼりを起こさせた」

と。私はかつて信仰なしに生きていたが、信仰がくるにおよんで、罪は生き、私は死んでしまったのです。そして、命にみちびく言の信仰はかえって私を死に至らせたのです。神を求むることが、今は私にとって罪となったのです。罪のゆるしを求むることが罪であるとすれば、求めないことはなおさら罪であります。生きることが罪であり、死ぬことも罪であります。この矛盾の中から、私を解放してくれるのは誰か、私たちの主イエス・キリストです。彼の十字架が、これに正しい解答を与え、私をこの死の中から解放してくれるでしょう。

十字架

求めることが罪であり、求めないことも罪であるという矛盾の真中で、第二の回心ともいえる決定的なことが「預言と福音」の主事、関根正雄先生を迎えて、私の、身におこりました。 

一九五二年、六月のある日のことです。場所は図書館の読書室、時は夕暮れです。当時、私は一方では教会の集いをまもり、他方では学園のNと、教会の外で集まりをもちました。先生はこの小さな群れを訪問されたのです。そして、魂がうめきながら待ち望んでいたことが起こったのです。

そこには、神の義が講じられイエスの十字架がさし示めされ信仰がもとめられるかわりに、信仰がとりさられることが求められました。そして、それは私をおどろかせました。はなはだしい逆説に思えたからです。

私は自分の信仰を貴婦人にたとえることができます。貴婦人は、世のまずしい人達、「私」にあわれみを施すことを好みますが、城に迎えいれようとはしません。門はかたく閉されています。門の外には、聾唖者、らい病人、盲人、手足の萎えたる者、孤児、貧しい人たちが、飢えと寒さと、病気と、貧困におののきながら、施しを受けるために集まっています。貴婦人は朝、昼、夜の三回、門の外に現われて、己々にパンを恵んでやります。このパンは神の言であり、城は教会であります。貴婦人をとり去られて日々糧を、誰から私は受けたらよいのでしょう。それは私に死ねというのと同じです。しかし、先生は次のようなことを言われました。

「様々な試みをへて、最後に残るのは信仰であるが、それをもっている限りはだめである。それを取り去られて十字架のイエスの足もとに身を投げ出すときが来る。否、そうせねばならない。自己自身に絶望して彼に死ぬことである。このことがなされて、はじめて魂に十字架を刻印されるのである」

と。先生の口より出ずる十字架の言は、火よりも熱く私の魂に焼きつけられ、きざみつけられました。そして、このとき私の目からウロコが落ちたのです。私は一瞬にしてすべてを理解しました。死のベッドの妻に、なぜ罪を告白することができなかったか、霊安所の妻の遺体に、なぜ罪を告白することができなかったのか、このことがなされなかったために、私の目に神は隠れ、私は失明し、地獄の苦しみをうけたのですが、それは罪に沈んでいる私の上に、神の義があらわれるためでした。神は私のために、あらかじめ時をそなえておいて下さったのです。時とは何か、時いたって、魂に十字架を刻印されることであります。

「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」(ロマ書325)

罪の赦しの十字架と、それを信ずる信仰を魂に刻印されるためです。十字架の主イエス・キリスト、贖罪の主イエス・キリスト、神はあなたのみ体に私の罪の釘をうちこみました。あなたの流された血と、受けられた苦しみは私の罪の業です。

十字架、十字架、十字架、主イエス・キリスト、私は何百回、何千回あるいは一生よばわっていても、それをもって足りるということを知りません。十字架の三語を口にすることは、私の罪の告白です。神のゆるしの言葉です。義とされることであり、聖められることであり、栄化されることです。信仰にはじまって、信仰に終わる永遠の生命です。私の骨の骨、肉の肉、血の血すべてのすべてです。

私の魂を壁からひき上げられた父なる神と、主イエス・キリストを、私はいかなる地に求めていたであろう。ぼうぼうたる宇宙の一角か、パン屑のような星の一つか、燦々たる雲の中か、それとも、天のこなたより、天のかなたにひらめく稲妻の彼方か。

私は恥じることなく、怖れることなく、繰り返しいいます。十字架の主イエス・キリスト、神はあなたのみ体に私の罪の釘をうちこみました。あなたの流された血と、受けられたみ苦しみは私の罪の結果です。十字架、十字架、十字架、主イエス・キリスト、あなたの十字架を口にすることは、私の罪の告白です。神の許しの言であり、栄光であります。平安であり、希望であり、歓喜であり、感謝です。信仰にはじまって、信仰に終わる永遠の生命です。もし、私の心が狂っているならば、十字架のためです。もし、私の心が確かであるならば十字架のためです。

==================

※ 四月一日より、東村山町は、市に昇格しました。私の住所は、町が市になっただけで変更はありません。