松本馨
4月29日の、NHK朝のニュースは、北海道で中学2年の女子生徒が、同級生を刺殺したことを報じていた。このニュースを聞いて、私が、心を暗くしたのは、返り血を浴びた衣服を 着替えて、平然と授業を受けていたと言うことで、罪の意識を全くもっていないことであったが、これは最近のニュースで聞かれる殺人事件の特徴と言ってよい。
大阪の銀行で起った事件も、犯人は警官2人と銀行員2人を射殺し、そのほかに、 重傷を負わせた銀行員の耳朶を、人質の1人に切り取らせて、それをしゃぶったと言う。この犯人は、少年時代に殺人を犯していたが、これをたんに、異常な性格として片づけることは出来ないように思う。
最近の殺人の傾向として、罪意識が全くないことであろう。過激派学生の内ゲバによる殺人にしても、罪の意識はない。これは、ただ、日本だけの傾向ではなく、アメリカでは、更に大規模な殺人事件が報じられているが、ヨーロッパでも、同じようなことが起っているのではないだろうか。こうした殺人事件に対して、専門家はそれぞれの立場から、青少年の教育問題を論じているが、私には、大事なことがひとつ欠落しているように思われてならない。
科学の進歩によって、若い人達が唯物的な世界観のとりことなって、神を信じなくなったことである。人間は被造物であり、それ故に、自己は自己自身のものではなく神のものである。従って、自己に対して自ら手を下すことは出来ない。それは、創造者への反逆であり罪だからである。他人の殺害についても同様のことが言われる。聖書はこのことを明確に教えているが、人間が神を見失う時、両者の関係は破れ、そこから、無軌道な自殺と殺人が起る。
人間と動物の相違は、事物を総括する能力が人間にあるのに対して、動物にはないと言うことであるが、私の知る限りでは、人間と動物の相違は、神を知っているか、いないかにあるように思う。
人間は、神によって作られたことを知っているが、他の動物は神を知ることが出来ない。科学の進歩によって、神がないと思いこむ時、人間は、他の動物と同じ位置に立つことになるのではないだろうか。そして、そこに動物の世界に起っているような、弱肉強食の闘争が始まる。殺人に対して罪の意識をもたないことは、そのさきぶれであり、人類全体が神を全く否定し去る時、マタイによる福音書24章に見られるような、世の終りが来るのであろう。現在、既にその方向に向って進行していることは疑うことが出来ない。
これに対して、キリスト者は警告し、悔い改めを求めることが出来ないのだろうか。世界には幾億万のキリスト信徒がいるが、それにも抱らず、破局への進行をくいとめることが出来ないのだろうか。
唯物的な若者たちに、神を指し示すことが出来ないのだろうか。イエスの宣教活動は、言と行為(癒しと、海上歩行のような奇跡)からなっているが、現代の宣教活動は、イエスの言が中心であり、行為(癒し)は、あまり重視されていないように思われる。然し、宣教活動の中では、言と共に行為(癒し)は重要な意味をもっている。ヨハネが獄中から、イエスの許に弟子を遣わして、「きたるべきかたはあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」、と問わせた時、イエスは答えて言われた。
「行って、あなたがたが見聞きしていることを、ヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである」。(マタイによる福音書11章)
イエスが、ここで宣教の第一にあげているのは、盲人や足なえ、らい病人らであった。言による宣教の対象は、貧しい人々であるが、この貧しい人々とは心のやまいをもった人達であろう。これらの人達に対する癒しと、言による宣教は、イエスがキリストであることのあかしであった。更に、もうひとつ重要なことは律法からの解放であった。
「……この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか」。(ヨハネによる福音書9・2)
「…・この女は姦淫の場でつかまえられました。モーゼは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。(ヨハネによる福音書8・4、5)
イエスと中央の祭司長、長老、律法学者らとの、決定的な対立となったのは、イエスが安息日を破って、片手の萎えた者や、足腰の立たない病人を癒したことにあった。彼らにとって、安息日を厳格に守ることが、神に対する服従であり、安息日を破った者を死に追いやることが神への忠誠であった。そして、イエスを十字架にかけたのであるが、それは、決定的な律法廃棄の宣言であった。イエスの言とわざによる安息日違反の宣教は、十字架においてひとつとなり全人類に福音が及んだ。即ち、律法からの解放が全人類にのぞんだのである。
十字架は、神の国とこの世との接点であり、十字架をはなれて、私たちは神を知ることが出来ない。ロマ書3章21節以下の、イエスの贖罪による義認の信仰を啓示されたことによって、パウロの異邦人伝道は可能になった。
ルターが、パウロの義認の信仰「人が義とされるのは律法の行ないによるのではなく、信仰による」を啓示された時、宗教革命が起った。日本においては、内村が、イエス・キリストとその十字架の信仰に立った時、無教会が起った。
三者による宗教改革に共通していることは説明するまでもなく、律法からの解放である。パウロはユダヤ律法からの解放であり、ルターはカトリックからの解放であり、内村は、教会からの 解放であった。現代の若者たちに福音を伝えることが出来ないのは、若者の側に問題があるのではなく、教会側、無教会をも含めてあるのではないだろうか。それは、パリサイ人や、祭司長らと同じ位置に立っていないか、と言うことである。義認の信仰が律法になっていないか。 行ないがなくても、イエス・キリストを信ずれば救われるとして、あらたな神の戒めの許に立とうとしないだけではなく、立とうとする者を律法主義として非難していないか。 このような信仰は、信仰による義を律法として受取っているのである。それは、安息日に病人や、手足の萎えた者を癒したとして責めるパリサイ人や祭司長と、同じ位置に立っているのである。こうした律法を克服する道は、十字架への集中以外にない。彼だけが律法から解放してくれるし、2千年前のイエスと同じように、この世の病める者、貧しい者、悩んでいる者と、関わりをもつことが出来る。殺人を犯しても罪意識をもたない人達と、関わりをもつことが出来るのではないだろうか。十字架と言っても、教義としての十字架では、どうにもならない。聖霊によって、イエス・キリストと、その十字架の前に立たされることである。
イエスの死と生をこの世にもち運ぶことである。このことが可能になるのは、祈り以外にないが、現代、キリスト教がこの世に対して無力になっているのは、聖霊によるイエス・キリストと、その十字架を受取らされていないためではないだろうか。聖霊が働く時、そこに十字架を示され、あらたな世界が展開するであろう。
藤田サク18才は、1909年11月15日に、目黒慰廢園から集団で収容された。浮浪患者を収容する施設が東京に出来ると聞いた浮浪者は、開所の日が待ち切れずに、東京へと集まってきた。その患者たちを一時預かったのが、目黒慰廢園であった。
目黒慰廢園はキリスト教のらい病院であったが、この時を境に、全生病院に収容する患者を一時預かる仮収容所の機能を果すことになった。
サクの父親、作蔵は神経らいで、手足が不自由であったが、労働に差支える程ではなく農業に従事していた。サクは12才の時に発病したが、サクの母親は、病気の夫と娘を捨てて行方をくらましてしまった。
父作蔵は、その後家をたたみ、サクを連れて、当もない放浪の旅に出た。冬は南国、夏は北国へと、流浪の旅を続けた。その間に、作蔵の病気は進行し、足の裏に傷(患者は、裏傷ず、または万年傷とよんだ)を作り、歩行が困難になった。サクは、その父を乳母車に乗せて犬に引かせ、浮浪患者の仲間と旅を続けたのであったが、作蔵は、きずのほかに肝臓を悪くして黄疸になった。
作蔵は、酒、賭博、モルヒネなど、浮浪者がおちいる悪の道を歩いたが、サクには、自分と同じ道を歩かせまいとして、折をみては読み書きを教え、悪の世界から遠ざけようとつとめた。然し、サクは父親の目の届かないところで、酒、タバコ、賭博、モルヒネと、浮浪者が経験するすべてを知った。サクは、父親と同じ神経らいで、数本の大風子油注射をしただけであった。大風子油は、腕や大腿部に行なう筋肉注射であるが、油性で濃厚なために注射針は太く、サクは痛がって打たせなかったからである。それにも拘わらず、サクは、左手の薬指と小指が内側に少し曲っただけの後遺症で、自然治癒してしまった。本人から、手が悪いと言わなければ気がつかない程であった。
東京にらい病院が出来るという噂をきいて、作蔵親娘は仲間から分かれて東京に向つた。作蔵の身体が弱っていたことと、娘の将来を考えてのことであった。病院に入れば、注射で殺されると言う仲間の反対を押しきって、東京に向つたのであるが、その途中で作蔵は亡くなり、サクだけが、目黒慰廢園に辿りついたのであった。サクの収容された時は、開所して間もないこともあって、病棟は鍵形の病舎をあてていた。患者はこの舎を曲り舎と呼んだ。
畳敷きの病室であるが、床を敷いたまま一ヶ月も寝ていると、疊は蒸れて便用出来ない程になった。それに、医師や看護婦が長靴で入って来るために掃除が大へんであった。こうしたことから、疊がはがされて、病室にはベッドが入るようになった。
サクと一緒に収容された重症な患者は、病室に入り、サクは女子の一般舎に入った。女舎は5棟で、周囲を板塀で囲み、男患者との交際は禁じられていた。昼間のうちは門をあけてあったが、夜になると固く閉ざして、見張所の監視員が、一時間から二時間おきに巡回して来た。
サクの入った部屋は、梅舎の4号室で、12畳半に4人であったが、数ヶ月後には8人になった。サクが舎に入って間もなく、厳重な監視の目を盗んでは男患者が遊びに来るようになった。監視員の気配がすると、女たちは、男をそれぞれ押入に隠したり、裏からこっそり逃がした。監視員達は、男患者が女患者のところに来ていることをうすうす感じていたが、証拠を掴むことが出来なかった。そのうち、監視員達を驚愕させるような事態が起った。
見張所の監督日誌に、当時の慌て振りが次のように記されている。「妊娠中の女患者4名、疑がわしき者1名、云々」
生まれた子供については、家族のある者には引き取らせたが、家族のない者は、孤児院に預けたり、里子に出した。それでもなお、生れてくる子供の処置に困り、男患者が子供を背負って駅の待合室や、人通りの多い所にこっそりと捨てて来た。
女舎の監視は、日を追うに従って厳しくなって行った。そして、深夜に女舎の一斉点呼が行なわれるようになった。数人の監督が、玄関から長靴で侵入し、一部屋毎に、眠っている女達を叩き起し、一人一人の身体検査をしたのであった。初めての検査の時、サクは布団にしがみつき、「何もしていません。勘忍して下さい」と言って泣いた。監督は、そのサクを猫でもつまみ上げるように吊し上げた。…
監督が出て行くと、女達はたたみの泥を拭きとっていたが、屈辱と、悲しみと、憤りに打ちのめされていたのであった。そのうち一人が言った 。「助ベエー野郎」 女2.「シッ、壁に耳ありよ」。 女3.「聞こえたって、かまうもんか」。 女1.「私たちは人間じゃないんだから、どんなことをされても仕様がないんだ」 。 女4.「人間でなければ、私たちは何さ」。 女1.「ブタだよ」。(周辺の農民は、全生園の患者を山のブタと呼んでいた)。女たちはもう何も言わず、布団の中にもぐりこんでしまった。その静けさの中に、サクのむせび泣きが何時までも続いていた。
夜の点呼はその後も定期的に行なわれた。そして、その度に屈辱的な検査を受けたが、サクは、何時の頃からか泣かなくなっていた。大胆に積極的に監督の前に立ったのであった。1914年、暴動の責任を負って失脚した池内に代って、光田が所長に就任した。そして、その翌年には生れてくる子供の処置に窮した光田は、男患者に優生手術を行なった。らい患者に優生手術を行なうことは違法であるが、光田は敢えて法律に違反し、ワゼクトミーを奨励したのであった。それから33年後の1948年に、治らい薬「プロミン」の出現によって療養所が湧き立っている中で、それを否定するかのように、らい患者の優生手術が合法化されたのであった。
ワゼクトミーの実施と共に、女舎を囲っていた板塀は取毀された。光田は、浮浪患者を全生病院に落着かせるためには、結婚を認めた方がよいと言う考えに変っていった。それは、あくまでも政略的な承認で、患者の人間性を認めた結婚ではなかった。それ故に、結婚は容認したが夫婦が同居することは認めなかった。男患者が女舎にしのびこんだのをそのまま制度化し、結婚の届け出をした男が、夜だけ妻の許に泊りに行くのを認めたのであった。患者は、これを通い婚と呼んだ。通い舎は、結婚した女が12畳半に8人住み、夫は夜だけ妻の許に行くことが許されたのであった。
第一区府県立全生病院が開院された時、蔦舎と言う夫婦舎が一棟建った。夫婦で収容された患者が6畳一間に2組ずつ住んだが、所内で結婚した者は通い婚を強いられたのであった。のちに、入籍した者は夫婦舎に入れるようになったが、夫婦舎が少ないために、少数の者に限られていた。
宮本は、らい予防法の矛盾について、次のように批判する。らいは、ペストと同じ伝染病であり、隔離しなければならないと言うのが、為政者を始め、関係者の思想であった。それにも拘わらず、第三条で次のように規定している。
「癩患者ニシテ扶養ノ道ヲ有セズ且救護者ナキモノハ行政官庁二於テ命令ノ定ムル所二従ヒ療養所ニ人ラシメ之ヲ救護スベシ。但シ適当ト認ムルトキハ扶養義務者ヲシテ患者ヲ引取ラシムベシ…………」。
扶養の道を有せず、救護者なきとは、浮浪患者対象の収容を意味する。但し、適当と認める時は扶養義務者に引取らせるとは、患者を養う能力のある者は、収容からは外すということであり、自宅患者は対象とならない。このような隔離政策は、医学よりも政治が優先している。らいは 文明国の恥であると言う思想が生れたのも、これがためであった。
5月29日より12日までの4日間、岡山県、邑久光明園で、第26回定期支部長会議が開催されました。私は、本部に同行し、7日の午後4時すぎに光明園に着きました。着いた岬は雨で、その晩は嵐を思わせるような激しい風と雨でしたが、会議の期間中は好天気に恵まれました。会議は、例年と同じような医療の充実と、施設整備が中心で、10年1日の如き感がありました。
26回定期支部長会議の新議題は、らい療養所の将来構想の研究委員会を設置し、2年後の28支部長会議で決定すると言うものでしたが、職員と、患者による委員構成について紛糾しました。職員と患者の将来構想は、基本的に違うと言うのが各支部の意見でした。
前者は、ハンセン病なきあと、如何にして自分達の職場を守るか、患者は、5年10年後の医療と、生活を如何にして守るかと言うことでした。
委員会の構成は患者だけで作り、職員からは、意見を聞く程度にとどめる方がよいと言うのでしたが、奄美和光園のように、併設が問題になっているところでは、患者と職員による委員会でなければならないと言う、切実な意見もありました。これがために、各支部の事情によって委員会構成は弾力性のあるものに落着きました。
将来構想で更に問題になったのは、「らい予防法」改正の是非について、来年の27支部長会議で決定することになっておりましたが、将来構想との絡みで一年延期したことでした。
多磨支部は、らい予防法の改正は、将来構想とは関係がないとして、延期には反対しましたが、大勢は延期に賛成でした。
多磨を除く支部会員は、予防法改正には消極的か、又は反対であり、将来構想研究会を口実に、延期してしまったと言うのが、本音のように思われます。
恐らく、全患協には、らい予防法の改正は困難でしょう。会員の老齢化によって、1953年のらい予防法闘争に見せたエネルギーはないし、療養所の改革をのぞむだけの進歩性も失われています。老齢化が進むに従って、人間は保守的になっていくからです。
この問題については、機関誌「多磨」8月号に書くことにして省略致しますが、らい予防法と将来構想とを絡ませることは、間違いであることだけは明記しておきたいと思います。
らい予防法は、患者の終身隔離撲滅を目的にして作られたものであり、その基調をなしているものは医療差別です。一度らいの宣告をうけた者は、社会復帰をしても健康保険を使うことが出来ません。もと患者であったと分れば、診療を拒否されてしまうからです。このような予防法は廃止し、国民に与えられている医療の自由を、らい患者にも与えるべきです。そして、自由を獲得したのちに、らい療養所の将来は如何にあるべきかを考えるべきでしょう。
併設のために、らい予防法を改正しなければならないと言う思想は、本末転倒です。
この会議で、多磨にとって重要議案は、多磨支所が提出した多磨全生園と多磨研究所の、機構の一本化による医療協力の問題です。ハンセン病療養所の医療危機は年毎に深刻になって行きますが、この問題の解決は、地域の医療機関との協力以外に解決の道はありません。
青森県の松丘保養園では、近接医療機関との協力が進み入院が可能になりました。時間的にはかかるかもしれませんが、他の園でも将来は入院の道が開けて来ることでしょう。それによって地方施設の医療問題は或る程度解決すると思いますが、地域の医療協力を以ってしても解決の出来ないものに、ハンセン病基本治療の問題があります。現在と将来に向って、基本治療の専門医を養成する必要があり、そのためには、臨床と基礎の協力がなければなりません。多磨研と多磨全生園との協力によって研修センターを作り、ここで専門医を養成すると共に、地方の医師、看護婦が研修をうけられるようにすること、外国との医療協力もセンターを通して行わなければならないし、難治らいを始め、治療薬についての医学的な治療体系を確立して欲しいことなど、両者の一本化については、多くの希望があります。
数年前までは、このような問題について地方支部は反対でしたが、この度は感謝されました。
地方支部は、基本治療の専門医に対して危機感をもっており、多磨全生園と多磨研究所の機構の一本化によって、専門医の養成と医学的な治療方法の確立を強くのぞんでいたからです。
ハンセン病の治療は、各自の経験に委ねられ、学問的な裏付けがないのではないか、と言うのが各支部長の発言でした。こうした発言が聞かれたのは、ある支部では、リハンピシンが大量に使われて患者が身体をこわしてしまったこと、プラ6の治療方法にしても、ある施設では少量使うことによって皮膚は黒くならず、然も、効果が高いのに対して、皮膚が黒くなるまで使用していると言う施設もあり問題になりました。以上のようなことから、学問的に基礎づけられた治療方法が強くのぞまれたのです。