「小さき声」 目次


 小さき声 No.204 197987日発行

松本馨 

十字架 

関根先生著作集の出版に寄せて

 関根先生著作集の出版にあたって先生がその全生涯をかけて述べ伝えられている「世俗の中の福音」イエス・キリストによるあがないによって義とされる十字架について私の理解する範囲内で記してみたいと思う。

本来であれば先生の著作集から引用し論証して行かなければならないのであるが失明と言う決定的な障害があるために不可能でありそれ故に私が先生から学んだ十字架を語ることになるがこのことについては先生の著作集を読んで読者自らが学んでいただきたいと思う。先生の十字架について語る前に注意しなければならないことは先生の聖書講義に書かれるものは学問的で難しいと言うのが一般の定説になっているがこれには多少の誤解があるように思う。私の経験からすれば先生の著書を読む時十字架を欠落させては理解が困難であると言うことである。

十字架が解れば難解に思える先生の著書が極めて平易で非常によく理解出来るのであるが何故であろうか。このことに関しては先生の責任ではなく主イエスの十字架そのものにある。十字架は神の審判と赦しなのであり十字架による罪の赦しを受入れる者にとっては恵みであるが拒否する者には審きなのである。それ故に十字架の言を語ることは必然的に審判と赦しの言となり或る者には恵みの言であるが或る者には不可解な言としか聞こえないのである。

先生の十字架については「予言と福音」の中で言われていると思うがルターの絶望的信頼に最も近いものであろう。私は先生のこの教えに心の目を開かれ今日まで先生の語られる十字架を信仰の中心において来た。

絶望的信頼とは何かより多くの人に理解していただくために先生と私との出合いについて触れておきたい。このことについては今までも何回か書いている。

先生が多磨全生園に始めて伝道に見えたのは、1952年の夏であった。私はその2年前1950年に回心し烈しく燃えていた。昼も夜も霊にみたされ夢の中にまで天使の讃美の歌が聞こえてくる程であったが同時に厳しく試みられている時でもあった。

回心は失明と四肢の無感覚によって歩行も困難な状況の中で起った。そして信仰だけが最後ののぞみとなったのであるが暗黒の中でくる日もくる日も壁に向って坐っていると私は石のように無感覚になった。

唯一ののぞみである信仰を守るためには祈りと聖言を聞く必要がありその聖言を奪われる時石のように無感覚になってしまうのであった。私は如何にしてか信仰を守ろうとしそして絶望した。世界を売ってでも自分の信仰を守りたいと烈しく希求したからである。

世界のすべての人間を売ってでも自分が救われたいと言う心の奥底に潜んでいる罪エゴイズムに突き当ったからである。私を生かす筈の信仰が却って私を罪の虜として苦しめたのであった。

関根先生の聖書講義を聞いたのはこうした状態の時であったがその御講義の中で私の魂をゆさぶり震撼させたのは次の言葉であった。「人間が試練に会わされる時最後に残るのは信仰だけであるがその信仰をも放棄し十字架のもとに身を投げ出し絶望せよ」と。これが絶望的信頼でありルターの地獄への放棄であった。そしてこれは私にとって第二の回心であった。

霊と肉に十字架を刻印されたのである。別の言葉を借りて言えばイエスの死と生に合わされたのであった。然し十字架にある神の義 が恵みであることを自覚するまでにはそれからなお何年か試みに合わされた。

先生はその後「絶望的信頼」から無信仰を説かれるようになった。先生の無信仰とは信仰と表裏をなすもので聖書は人間の信仰のなさを徹底的に教えている。それが十字架である。そして私たちは十字架の一点において自己の無信仰を知らされるのである。神の子が世の罪のために十字架にかけられその身体を引き裂かれているからである。この十字架を欠落させて私たちは神を知ることは出来ない。ヨハネによる福音書記者はイエスの言として次のように記している 。

「…わたしを見た者は父を見たのである」(149)。

私たちはこの父なる神を十字架上のイエスに見るのである。そして次のようなことが言われる。「神なくして神を見る」。十字架は信仰を有としてもっている者を拒否するのである。先生はまたキリスト者の社会的実践については日毎に十字架に合わされることによって聖とされると言われる。十字架への集中なしにはキリスト者の実践は考えられないからである。先生はキリスト者のこの世との関わり方について「主婦が一日家事に追われていてもそのまま聖である」と言われた。私はこれについて次のように理解している。日々十字架に合わされている者にとっては主婦業も、サラリーマンも政治活動もそして平和運動もすべて聖であり職業に貴賎の差別はない。ある運動が義である運動がそうではてないと言うような差別は十字架にあっては考えられない。100%この世に生きながら100%神に生きるのである。キリスト者の信仰的実践についてはさまざまである先生は十字架による罪の赦しの信仰のみにとどまっていたならば、キリスト教は地中海地方の一宗教で終ったであろう。キリスト教が世界宗教となったのは王としてのイエスによる世界支配の信仰に原始教団が立っていたからである。王としてのイエスの信仰に立つ時世界が自身の問題になると言われているがこのような考えはイエスによる代罰を否定することにならないだろうか? 王としてのイエスによる世界支配とは義の支配であって十字架を欠落させた支配は空想的支配にすぎない。空想的支配はイエスではなくても太郎でも次郎であってもよいことになりはしないか。

新旧約聖書が私たちに約束しているものはイエス・キリストによる十字架のあがないを信ずる者を義とされると言うことであり義とはイエスのあがないによって神の支配に移されることで終りの日に神の国が約束されているのである。

十字架による義とは罪からの解放であり罪の問題を欠落させた約束は何処にもない。それ故に十字架による罪の赦しは信仰の根源的問題でありこの一事の解決がすべての解決なのである。日毎に十字架に会わされると先生が言われるのはそのためであろう。十字架に合わされている者は自由かつ大胆にこの世と関わることが出来る。十字架は神の現在であり世俗のただ中にあってこの世界を根底から支えているからである。

キリスト者がこの世と関わる時は一方的に与えるもので受くるものは何もない。それ故に霊的酸欠症が起るのである。イエスが病人を癒したあとで弟子たちと別れて一人淋しい所で祈られたのは霊的酸欠症を癒すための祈りであったと思われる。この意味からしてキリスト者の社会的実践は十字架を負うことなのである。十字架を負わない社会的実践は律法主義におちいるか信仰そのものを見失ってしまうであろう。そうした例は少くないように思われる。

ペテロ

 12使徒の中で最も大衆的なのはペテロではないだろうか。彼は人間的には弱く他人の顔色が気になりパウロのように信仰の原則を押し通すことが出来ない。そのよい例がガラテヤ書2章11節以下のアンティオケに於けるペテロである。彼は人が義とされるのは律法の行ないによるものではなく信仰によるとパウロと同じ信仰に立っていた。そして割礼なき異邦人と食事を共にしていたのであるが中央のヤコブのもとよりある人々が来た時割礼ある者を恐れ次第に身をひき離れて行った。ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をしバルナバまでがそのような偽善に引きずりこまれた。パウロはこれを見て面と向って彼をなじったのである。

パウロは、ロマ書に見られるように、イエスの福音を神学的に体系づけた神学者であると同時にその信仰に生きた人である。これに反してペテロはその信ずる信仰に忠実に生きることの出来ない人であった。アンティオケに於ける行動がそれをよく現わしている。

世間の目が気になって信仰に忠実に生きられないのはペテロに限らず何時の時代にも同じであり多くの者がペテロと同じ位置に立っている。ペテロが大衆的であると言ったのはこれがためである。

ペテロの失敗はただこれだけにとどまらない。彼が決定的とも言えるつまずきをしたのはイエスが弟子のユダに裏切られて逮捕された時であった。

「そのときイエスは弟子たちに言われた『あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。わたしは羊飼を打つ。そして羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。『しかしわたしはよみがえってからあなたがたより先にガリラヤへ行くであろう』。するとペテロはイエスに言った。『たとえみんなの者がつまずいてもわたしはつまずきません』。イエスは言われた『あなたによく言っておく。きょう今夜にわとりが二度鳴く前にそう言うあなたが三度わたしを知らないと言うだろう』。ペテロは力をこめて言った。『たとえあなたと一緒に死なねばならなくなってもあなたを知らないなどとは決して申しません』。みんなの者もまた同じようなことを言った。(マルコによる福音書1427-31)

イエスが捕えられ大祭司によって裁かれていたときペテロは中庭にいたがにわとりが二度鳴く前に三度イエスを否定した。アンティオケと大祭司の中庭のペテロに共通していることは前者は割礼ある者を恐れて異邦人を裏切り後者は大祭司を恐れて師を裏切ったことである。このようなペテロであるがイエスからよろこばれたことがあった。イエスがピリポカイザリヤの地方に行かれたとき「あなたがたはわたしをだれと言うか」。と尋ねられた。ペテロは答えて「あなたこそ生ける神の子キリストです」。ペテロの言動からは考えられないような素晴しい信仰告白であるがその秘密についててイエスは次節で次のように言われた。

「バルヨナ・シモンあなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは血肉ではなく天にいますわたしの父である」。(マタイによる福音書1613節以下)

このところでわたしたちが教えられるのは人間的にはイエスがキリストであることを理解するのは不可能であると言うことであった。ペテロの告白はペテロ自身から出たのではなく「わたしの父」神からであった。

聖霊の働きなしにはイエスをキリストとして告白することは出来ないのである。ペテロは人間的には何処にも見られる平凡な漁師であった。彼は常に世間の目を恐れ権威ある者を恐れ自己に忠実に生きることの出来ないごく当り前の人間であった。そのペテロが復活のイエスとの出会いによって使徒として生けるキリストの証人となり最後にはさかさ磔にされ殉教の死を遂げたと言われる。

ペテロについて私たちが親しみを覚えるのはイエスと行動を共にしていた頃の失敗と挫折の彼である。殉教の死を遂げるペテロはもはや私たちとは同一の人物ではない。人として特別に選ばれた器である。そして私たちは使徒時代のペテロを想い自己の不信さを嘆かざるを得ないが同時にペテロは私たちにひとつの希望を与えてくれる。人は一生のうちには必ず一度位は自己に死ななければならないような苦難に遭遇するであろう。事業の失敗病気親や妻子との死別或いは迫害であるがそのとき聖霊が働きペテロと同じように十字架のあとに従うことが出来るであろう。

普段は失敗と挫折の生であっても試練に立たされた時主イエス・キリストは必ず救いの御手を差しのべてくれることをペテロは私達に教えている。

 愛による絶対隔離

 第4章 手紙 ()

 飯野重吉先生 191442 

 北海道より1ケ月以上早いと思いますが庭の桜が咲き始めました。全生病院の開院は1909928日ですが目黒慰廃園より集団で収容された第1陣の患者の一人が記念に植えた桜です。幹は直径10p位でこれを植えた患者は既に亡くなっていますが季節がくると毎年花を咲かせて私たちを楽しませてくれます。始めて花をつけた時寮の患者ばかりでなく園全体に大きな感動を呼びました。

全生園の建っている土地は火山灰質で近くに川はなく掘っても水は出ず不毛の地として農民から見捨てられていました。季節風が吹く2・3月頃になると空は黄塵で覆われ太陽が見えなくなってしまいます。その黄塵の中を烏の群がねぐらを求めて夕方になると東から西へと帰っていくのが見られますが力つきて落ちることも珍しくありません。

ここは砂漠のような死の地死の影のような場所です。このため農民は土地を提供したものと思われますがそれでも賛成派と反対派の間に激しい対立が起り血が流されました。

全生病院が開院して翌年には約200人の患者が収容されましたがそのうちの60人近くが亡くなっています。亡くなった患者は人間の背丈程の 縦穴を掘り其処から更に横穴を掘ってそれぞれ棺におさめられたふたつの遺体を土葬にしてその上に墓標の松を植えましたがこのまま土葬を続けて行くと全生病院は数年後に墓地と化す恐れが出てきたので火葬に切替えられました。

先生お分かりでしょうか一人の患者が何気なしに植えた桜の木が無事に成長して花をつけたのです。その時の患者の驚き歓声をお察し下さい。天刑病遺伝病業病として世から忌み嫌われ住む家もなくあてもなく地をさまよっていた浮浪者です。この浮浪者のために建てられた収容所は農民からは死の地、不毛の土地として捨てられた場所です。そこは浮浪者の墓場であり二度と社会に出ることは出来ません。その土地が彼らに応え見事に花を咲かせたのです。天からも地からも捨てられた患者たちを自然は受入れたのです。患者たちは競って各自の庭に梅や柿椿などを植えまた一部を耕して野菜を作り始めました。

水が湧かない筈の地を掘り下げて行くうちに水晶のような水脈を発見しました。それは砂漠の中のオアシスのように全生病院を潤したのです。今日は先生に報告したいことがあります。それは私の部屋を寺小屋にして数人の者が読み書きの勉強を始めたことです。ことの起りは藤田サクさんが10才になる少女を連れて私を尋ねてきました。少女は宮田ユキと言って盲人の母親と放浪の旅を仲間達と一緒にしていました。サクさんはその少女に読み書きを教えて欲しいと言うのです。私にはその資格も能力もありませんので辞退しましたが自己流でよいから教えて欲しいことそして自分も一緒に習いたいと言う熱心な頼みを断り切れず引き受けました。ところがこの話が院内に伝わると自分達にも教えて欲しいと5人の男性が申し出て来ました。年令は10代から30代で文字を全く知らない者ばかりです。同室の者達の協力を得て午後の1時間を当てることにしましたが皆熱心で覚えるのが早く私が追越されそうです。

教科書は新約聖書で「マタイによる福音書」1章1節からの朗読と書き取りです。数節ずつ皆が読めるようになると次に書き取りをし完全に読み書きが出来るようになると次節へ移ることにしています。この勉強中に「マリヤが聖霊によって身重になった」。1章18節について山田と言う生徒が聖霊によって身重になったとはどう言うことなのかと尋ねたのです。私にはその意味が解りませんので神の霊がマリヤに宿り身ごもったと言う意味ではないだろうかと答えたところ男たちは一せいにそんなことは考えられないと否定しました。その時サクさんが質問した山田に強い口調で尋ねたのです。「山田さんは自分を産んでくれた両親を信じますか?」 それに対して山田は「当たり前だ信ずるとも」と答えました。

「それならば神の霊によってマリヤがイエスをお産みになったことを信じなさい。イエスさまは神の子であると共に人の子なのです」と何の疑いをはさむ余地もない程毅然として答えたのです。私はその態度に圧倒されマリヤが聖霊によって身ごもったことは真実なのだと一瞬思った程でした。あとで分かったことですがサクさんは洗礼を受けるために10数人の求道者と共に勉強をしていたのです。 好善社より派遣された「ハナフォード」と言う米国宣教師より導かれていたのでした。この人達が洗礼を受けると同時に教会を設立し土地の名をとって「秋津教会」と呼ぶことになっていたのです。

寺小屋の学習は一方では歓迎されながら他方では厳しい批判を受けています。その理由は簡単です 。「お前たち勉強などしてあと何年生きられると思っているのか?」  これに対してそれなればこそ勉強をするのだと私は自分に言い聞かせています。寺小屋については院長先生もその必要性を認められ近く教科書を下さることになっていますが私は教科書と共に今後も聖書を併用していくつもりです。聖書の中に私の求めているものが隠されているように思われるからです。

 療養通信

 7月24日今月はふたつの委員会を設置しました。そのひとつは全生園史「倶会一処」が8月下旬に刊行されることになり出版委員会を発足させました。「倶会一処」は所内の共同墓地(納骨堂)の墓碑名をとったものです。自治会を再建した時から患者の手になる全生園史を編纂しておかなければならないと考えていたもので2年前に全患協の「患者運動史」を編纂した5人の療友にお願いしました。

全生園について書いたものは光田健輔著「回春病室」が唯一のものでほかにありません。施設で50年60年と節目の記念史を発行していますがそれは簡単なもので市販されていません。

「回春病室」のほかに歴史ではありませんが北條民雄の小説があります。「倶会一処」は70年の全生園を知るうえで貴重な資料となるでしょう。

我が国に公立のハンセン病収容所が出来たのは1909年で全国に5ケ所でしたがそのひとつが第一区府県立全生病院でした。我が国のハンセン病隔離撲滅の思想は光田健輔によって医学と行政の面から体系づけられたと言っても過言ではありません。

光田は医長として全生病院の開院と同時に赴任し、5年後には初代所長の池内に代って所長となり.、隔離撲滅の政策を遂行しました。そして1930年には瀬戸内海の孤島に国立の長島愛生園が設立され初代所長として転任して行きました。

光田が全生病院長の時代はハンセン病のメッカとしての機能を果たしますが光田が愛生園に転任すると同時に医療のメッカは愛生園へ移り全生病院は久しい間忘れられてしまいました。長島愛生園は光田と共に小川正子の「小島の春」明石海人の「白描」などで有名になりました。然し光田亡きのち全生病院は医療のメッカとしての機能を再び快復し現在に至っています。それ故に全生園史は我が国のハンセン病の歴史と言ってよいでしょう。これは患者の手で綴ったもので被害者の立場からの歴史でありそれだけに片寄った一面もあると思いますが「回春病室」や「小島の春」と照合し多くの人に読んでいただきたいと思います。そしてハンセン病療養所に対する正しい評価が下されることを期待します。「倶会一処」はA5判400頁の大著で定価は2500円です。出版社は一光社で一般の書店でも求めることが出来ますが患者自治会でも受けつけます。

もうひとつは創立70周年記念行事の実行委員会で構成メンバーは自治会と施設側から成っていますが内容については紙数の都合で割愛させていただきます。