松本馨
関根先生著作集の出版にあたって、先生がその全生涯をかけて述べ伝えられている「世俗の中の福音」、イエス・キリストによるあがないによって義とされる十字架について、私の理解する範囲内で記してみたいと思う。
本来であれば先生の著作集から引用し、論証して行かなければならないのであるが、失明と言う決定的な障害があるために不可能であり、それ故に、私が先生から学んだ十字架を語ることになるが、このことについては、先生の著作集を読んで、読者自らが学んでいただきたいと思う。先生の十字架について語る前に、注意しなければならないことは、先生の聖書講義に書かれるものは、学問的で難しいと言うのが一般の定説になっているが、これには多少の誤解があるように思う。私の経験からすれば、先生の著書を読む時、十字架を欠落させては理解が困難であると言うことである。
十字架が解れば、難解に思える先生の著書が極めて平易で、非常によく理解出来るのであるが、何故であろうか。このことに関しては先生の責任ではなく、主イエスの十字架そのものにある。十字架は、神の審判と赦しなのであり、十字架による罪の赦しを受入れる者にとっては恵みであるが、拒否する者には審きなのである。それ故に、十字架の言を語ることは必然的に審判と赦しの言となり、或る者には恵みの言であるが、或る者には不可解な言としか聞こえないのである。
先生の十字架については「予言と福音」の中で言われていると思うが、ルターの絶望的信頼に最も近いものであろう。私は、先生のこの教えに心の目を開かれ、今日まで先生の語られる十字架を信仰の中心において来た。
絶望的信頼とは何か、より多くの人に理解していただくために、先生と私との出合いについて触れておきたい。このことについては今までも何回か書いている。
先生が多磨全生園に始めて伝道に見えたのは、1952年の夏であった。私はその2年前1950年に回心し、烈しく燃えていた。昼も夜も霊にみたされ、夢の中にまで天使の讃美の歌が聞こえてくる程であったが、同時に厳しく試みられている時でもあった。
回心は、失明と四肢の無感覚によって歩行も困難な状況の中で起った。そして、信仰だけが最後ののぞみとなったのであるが、暗黒の中で、くる日もくる日も壁に向って坐っていると、私は石のように無感覚になった。
唯一ののぞみである信仰を守るためには、祈りと聖言を聞く必要があり、その聖言を奪われる時、石のように無感覚になってしまうのであった。私は、如何にしてか信仰を守ろうとし、そして絶望した。世界を売ってでも自分の信仰を守りたいと、烈しく希求したからである。
世界のすべての人間を売ってでも、自分が救われたいと言う心の奥底に潜んでいる罪、エゴイズムに突き当ったからである。私を生かす筈の信仰が、却って私を罪の虜として苦しめたのであった。
関根先生の聖書講義を聞いたのは、こうした状態の時であったが、その御講義の中で私の魂をゆさぶり震撼させたのは次の言葉であった。「人間が試練に会わされる時、最後に残るのは信仰だけであるが、その信仰をも放棄し、十字架のもとに身を投げ出し絶望せよ」と。これが絶望的信頼であり、ルターの地獄への放棄であった。そして、これは私にとって第二の回心であった。
霊と肉に十字架を刻印されたのである。別の言葉を借りて言えば、イエスの死と生に合わされたのであった。然し、十字架にある神の義 が恵みであることを自覚するまでには、それからなお何年か試みに合わされた。
先生はその後「絶望的信頼」から無信仰を説かれるようになった。先生の無信仰とは信仰と表裏をなすもので、聖書は、人間の信仰のなさを徹底的に教えている。それが十字架である。そして、私たちは十字架の一点において自己の無信仰を知らされるのである。神の子が世の罪のために十字架にかけられ、その身体を引き裂かれているからである。この十字架を欠落させて私たちは神を知ることは出来ない。ヨハネによる福音書記者は、イエスの言として次のように記している 。
「…わたしを見た者は父を見たのである」(14・9)。
私たちはこの父なる神を十字架上のイエスに見るのである。そして次のようなことが言われる。「神なくして神を見る」。十字架は、信仰を有としてもっている者を拒否するのである。先生はまた、キリスト者の社会的実践については、日毎に十字架に合わされることによって聖とされると言われる。十字架への集中なしにはキリスト者の実践は考えられないからである。先生は、キリスト者のこの世との関わり方について、「主婦が一日家事に追われていてもそのまま聖である」と言われた。私はこれについて次のように理解している。日々十字架に合わされている者にとっては、主婦業も、サラリーマンも政治活動も、そして平和運動も、すべて聖であり職業に貴賎の差別はない。ある運動が義で、ある運動がそうではてないと言うような差別は、十字架にあっては考えられない。100%この世に生きながら100%神に生きるのである。キリスト者の信仰的実践についてはさまざまで、ある先生は、十字架による罪の赦しの信仰のみにとどまっていたならば、キリスト教は地中海地方の一宗教で終ったであろう。キリスト教が世界宗教となったのは、王としてのイエスによる世界支配の信仰に原始教団が立っていたからである。王としてのイエスの信仰に立つ時、世界が自身の問題になると言われているが、このような考えはイエスによる代罰を否定することにならないだろうか? 王としてのイエスによる世界支配とは、義の支配であって、十字架を欠落させた支配は空想的支配にすぎない。空想的支配はイエスではなくても、太郎でも、次郎であってもよいことになりはしないか。
新旧約聖書が私たちに約束しているものは、イエス・キリストによる十字架のあがないを信ずる者を義とされる、と言うことであり、義とは、イエスのあがないによって神の支配に移されることで、終りの日に神の国が約束されているのである。
十字架による義とは、罪からの解放であり、罪の問題を欠落させた約束は何処にもない。それ故に、十字架による罪の赦しは信仰の根源的問題であり、この一事の解決がすべての解決なのである。日毎に十字架に会わされると先生が言われるのはそのためであろう。十字架に合わされている者は、自由かつ大胆にこの世と関わることが出来る。十字架は神の現在であり、世俗のただ中にあって、この世界を根底から支えているからである。
キリスト者がこの世と関わる時は、一方的に与えるもので、受くるものは何もない。それ故に、霊的酸欠症が起るのである。イエスが病人を癒したあとで、弟子たちと別れて一人淋しい所で祈られたのは、霊的酸欠症を癒すための祈りであったと思われる。この意味からして、キリスト者の社会的実践は十字架を負うことなのである。十字架を負わない社会的実践は、律法主義におちいるか、信仰そのものを見失ってしまうであろう。そうした例は少くないように思われる。
12使徒の中で、最も大衆的なのはペテロではないだろうか。彼は、人間的には弱く、他人の顔色が気になり、パウロのように信仰の原則を押し通すことが出来ない。そのよい例が、ガラテヤ書2章11節以下の、アンティオケに於けるペテロである。彼は、人が義とされるのは、律法の行ないによるものではなく信仰によると、パウロと同じ信仰に立っていた。そして、割礼なき異邦人と食事を共にしていたのであるが、中央のヤコブのもとよりある人々が来た時、割礼ある者を恐れ、次第に身をひき離れて行った。ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずりこまれた。パウロは、これを見て、面と向って彼をなじったのである。
パウロは、ロマ書に見られるように、イエスの福音を神学的に体系づけた神学者であると同時に、その信仰に生きた人である。これに反してペテロは、その信ずる信仰に忠実に生きることの出来ない人であった。アンティオケに於ける行動がそれをよく現わしている。
世間の目が気になって信仰に忠実に生きられないのはペテロに限らず、何時の時代にも同じであり、多くの者がペテロと同じ位置に立っている。ペテロが大衆的であると言ったのは、これがためである。
ペテロの失敗は、ただこれだけにとどまらない。彼が、決定的とも言えるつまずきをしたのは、イエスが、弟子のユダに裏切られて逮捕された時であった。
「そのとき、イエスは弟子たちに言われた、『あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。『しかし、わたしはよみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう』。すると、ペテロはイエスに言った。『たとえ、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません』。イエスは言われた、『あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』。ペテロは力をこめて言った。『たとえ、あなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません』。みんなの者もまた、同じようなことを言った。(マルコによる福音書14・27-31)
イエスが捕えられ、大祭司によって裁かれていたとき、ペテロは中庭にいたが、にわとりが二度鳴く前に、三度イエスを否定した。アンティオケと、大祭司の中庭のペテロに共通していることは、前者は割礼ある者を恐れて異邦人を裏切り、後者は大祭司を恐れて師を裏切ったことである。このようなペテロであるが、イエスからよろこばれたことがあった。イエスが、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、「あなたがたは、わたしをだれと言うか」。と尋ねられた。ペテロは答えて「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。ペテロの言動からは考えられないような、素晴しい信仰告白であるが、その秘密について、てイエスは次節で次のように言われた。
「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。(マタイによる福音書16・13節以下)
このところでわたしたちが教えられるのは、人間的には、イエスがキリストであることを理解するのは、不可能であると言うことであった。ペテロの告白はペテロ自身から出たのではなく、「わたしの父」神からであった。
聖霊の働きなしには、イエスをキリストとして告白することは出来ないのである。ペテロは、人間的には何処にも見られる平凡な漁師であった。彼は、常に世間の目を恐れ、権威ある者を恐れ、自己に忠実に生きることの出来ないごく当り前の人間であった。そのペテロが、復活のイエスとの出会いによって、使徒として生けるキリストの証人となり、最後には、さかさ磔にされ、殉教の死を遂げたと言われる。
ペテロについて私たちが親しみを覚えるのは、イエスと行動を共にしていた頃の、失敗と挫折の彼である。殉教の死を遂げるペテロは、もはや、私たちとは同一の人物ではない。人として特別に選ばれた器である。そして、私たちは使徒時代のペテロを想い、自己の不信さを嘆かざるを得ないが、同時に、ペテロは私たちにひとつの希望を与えてくれる。人は一生のうちには、必ず、一度位は自己に死ななければならないような苦難に遭遇するであろう。事業の失敗、病気、親や妻子との死別、或いは迫害であるが、そのとき、聖霊が働き、ペテロと同じように、十字架のあとに従うことが出来るであろう。
普段は失敗と挫折の生であっても、試練に立たされた時、主イエス・キリストは、必ず、救いの御手を差しのべてくれることを、ペテロは私達に教えている。
北海道より1ケ月以上早いと思いますが、庭の桜が咲き始めました。全生病院の開院は1909年9月28日ですが、目黒慰廃園より集団で収容された第1陣の患者の一人が記念に植えた桜です。幹は直径10p位で、これを植えた患者は既に亡くなっていますが、季節がくると毎年花を咲かせて、私たちを楽しませてくれます。始めて花をつけた時、寮の患者ばかりでなく園全体に大きな感動を呼びました。
全生園の建っている土地は火山灰質で、近くに川はなく掘っても水は出ず、不毛の地として農民から見捨てられていました。季節風が吹く2・3月頃になると、空は黄塵で覆われ太陽が見えなくなってしまいます。その黄塵の中を、烏の群がねぐらを求めて夕方になると東から西へと帰っていくのが見られますが、力つきて落ちることも珍しくありません。
ここは、砂漠のような死の地、死の影のような場所です。このため農民は土地を提供したものと思われますが、それでも賛成派と反対派の間に激しい対立が起り、血が流されました。
全生病院が開院して翌年には、約200人の患者が収容されましたが、そのうちの60人近くが亡くなっています。亡くなった患者は、人間の背丈程の 縦穴を掘り其処から更に横穴を掘って、それぞれ棺におさめられたふたつの遺体を土葬にして、その上に墓標の松を植えましたが、このまま土葬を続けて行くと、全生病院は数年後に墓地と化す恐れが出てきたので、火葬に切替えられました。
先生、お分かりでしょうか、一人の患者が何気なしに植えた桜の木が無事に成長して花をつけたのです。その時の患者の驚き、歓声をお察し下さい。天刑病、遺伝病、業病として世から忌み嫌われ、住む家もなくあてもなく地をさまよっていた浮浪者です。この浮浪者のために建てられた収容所は、農民からは死の地、不毛の土地として捨てられた場所です。そこは浮浪者の墓場であり二度と社会に出ることは出来ません。その土地が彼らに応え、見事に花を咲かせたのです。天からも地からも捨てられた患者たちを自然は受入れたのです。患者たちは競って各自の庭に、梅や柿、椿などを植え、また一部を耕して野菜を作り始めました。
水が湧かない筈の地を掘り下げて行くうちに、水晶のような水脈を発見しました。それは、砂漠の中のオアシスのように全生病院を潤したのです。今日は先生に報告したいことがあります。それは、私の部屋を寺小屋にして数人の者が読み書きの勉強を始めたことです。ことの起りは、藤田サクさんが10才になる少女を連れて私を尋ねてきました。少女は宮田ユキと言って、盲人の母親と放浪の旅を仲間達と一緒にしていました。サクさんは、その少女に読み書きを教えて欲しいと言うのです。私にはその資格も能力もありませんので辞退しましたが、自己流でよいから教えて欲しいこと、そして、自分も一緒に習いたいと言う熱心な頼みを断り切れず引き受けました。ところが、この話が院内に伝わると、自分達にも教えて欲しいと5人の男性が申し出て来ました。年令は10代から30代で文字を全く知らない者ばかりです。同室の者達の協力を得て、午後の1時間を当てることにしましたが、皆熱心で覚えるのが早く、私が追越されそうです。
教科書は新約聖書で「マタイによる福音書」1章1節からの朗読と書き取りです。数節ずつ皆が読めるようになると次に書き取りをし、完全に読み書きが出来るようになると、次節へ移ることにしています。この勉強中に、「マリヤが聖霊によって身重になった」。1章18節について、山田と言う生徒が、聖霊によって身重になったとはどう言うことなのかと尋ねたのです。私にはその意味が解りませんので、神の霊がマリヤに宿り、身ごもったと言う意味ではないだろうかと答えたところ、男たちは一せいに、そんなことは考えられないと否定しました。その時サクさんが、質問した山田に強い口調で尋ねたのです。「山田さんは自分を産んでくれた両親を信じますか?」 それに対して山田は、「当たり前だ、信ずるとも」と答えました。
「それならば、神の霊によってマリヤがイエスをお産みになったことを信じなさい。イエスさまは神の子であると共に人の子なのです」と、何の疑いをはさむ余地もない程、毅然として答えたのです。私はその態度に圧倒され、マリヤが聖霊によって身ごもったことは真実なのだ、と一瞬、思った程でした。あとで分かったことですが、サクさんは洗礼を受けるために、10数人の求道者と共に勉強をしていたのです。 好善社より派遣された「ハナフォード」と言う米国宣教師より導かれていたのでした。この人達が洗礼を受けると同時に教会を設立し、土地の名をとって「秋津教会」と呼ぶことになっていたのです。
寺小屋の学習は、一方では歓迎されながら他方では厳しい批判を受けています。その理由は簡単です 。「お前たち勉強などして、あと何年生きられると思っているのか?」 これに対して、それなればこそ勉強をするのだと、私は自分に言い聞かせています。寺小屋については、院長先生もその必要性を認められ、近く教科書を下さることになっていますが、私は教科書と共に今後も聖書を併用していくつもりです。聖書の中に、私の求めているものが隠されているように思われるからです。
7月24日、今月はふたつの委員会を設置しました。そのひとつは、全生園史「倶会一処」が、8月下旬に刊行されることになり出版委員会を発足させました。「倶会一処」は、所内の共同墓地(納骨堂)の墓碑名をとったものです。自治会を再建した時から、患者の手になる全生園史を編纂しておかなければならないと考えていたもので、2年前に全患協の「患者運動史」を編纂した5人の療友にお願いしました。
全生園について書いたものは、光田健輔著「回春病室」が唯一のものでほかにありません。施設で、50年60年と節目の記念史を発行していますが、それは簡単なもので市販されていません。
「回春病室」のほかに、歴史ではありませんが北條民雄の小説があります。「倶会一処」は、70年の全生園を知るうえで貴重な資料となるでしょう。
我が国に、公立のハンセン病収容所が出来たのは1909年で、全国に5ケ所でしたが、そのひとつが第一区府県立全生病院でした。我が国のハンセン病隔離撲滅の思想は光田健輔によって、医学と行政の面から体系づけられたと言っても過言ではありません。
光田は医長として、全生病院の開院と同時に赴任し、5年後には初代所長の池内に代って所長となり.、隔離撲滅の政策を遂行しました。そして、1930年には瀬戸内海の孤島に、国立の長島愛生園が設立され、初代所長として転任して行きました。
光田が全生病院長の時代はハンセン病のメッカとしての機能を果たしますが、光田が愛生園に転任すると同時に、医療のメッカは愛生園へ移り、全生病院は久しい間忘れられてしまいました。長島愛生園は光田と共に、小川正子の「小島の春」、明石海人の「白描」などで有名になりました。然し、光田亡きのち、全生病院は医療のメッカとしての機能を再び快復し現在に至っています。それ故に、全生園史は我が国のハンセン病の歴史と言ってよいでしょう。これは患者の手で綴ったもので被害者の立場からの歴史であり、それだけに片寄った一面もあると思いますが、「回春病室」や「小島の春」と照合し、多くの人に読んでいただきたいと思います。そして、ハンセン病療養所に対する正しい評価が下されることを期待します。「倶会一処」はA5判400頁の大著で、定価は2500円です。出版社は一光社で、一般の書店でも求めることが出来ますが、患者自治会でも受けつけます。
もうひとつは、創立70周年記念行事の実行委員会で、構成メンバーは自治会と施設側から成っていますが、内容については紙数の都合で割愛させていただきます。