「小さき声」 目次


 小さき声 No.206 1979107日発行

松本馨 

 十字架を負って我に従え 

イエスは己れを捨て、己が十字架を負って我に従えと言われた。己れを捨てて十字架を負うとは、具体的に何を指すのであろうか。第一に思い出されるのはキレネ人シモンである。彼は無理やりに十字架を負わされ、イエスのあとに従ってゴルゴタヘと行った。キリスト者にとって彼ほど幸せな人はいない。それは、刑場に向うイエスに代って十字架を負い、イエスの肉体的疲労を少しでもやわらげることが出来たからである。しかし、このことは、シモン以外に誰も代って負うことはできない一回的な出来事である。次に、十字架を負うことで想起するのは、ペテロによって代表される使徒達である。彼らはイエスの十字架につまずいたが、復活のイエスにあわされて立ちあがり、イエスがキリストであることの生き証人となった。ゴルゴタで殺されて墓に葬られたイエスが三日目に復活し、天にあげられたこと、それが使徒達の伝道であった。そしてそのために、使徒達の多くは殉教の死を遂げた。ペテロは逆さ磔にされたという伝説があるが、これが己れを捨て、十字架を負ってイエスに従ったことであろう。その後のキリスト教史は迫害の歴史であり、聖職者だけにとどまらず、平信徒までが殺されて多くの血が流された。その血によって福音は世界に広まっていったのであるが、これら殉教者の死は全て、十字架を負って我に従えと言われたイエスに従ったのである。

 では、近代のキリスト教徒はどうなのであろうか。十字架を負ってイエスに従っているのであろうか。イエスのために血を流しているのであろうか。文化の進むにしたがって、キリスト教徒を迫害するということは、近代国家では起っていない。信仰の自由を認めているからである。ソビエトでは、約半世紀前のロシア革命では恐るべきキリスト教徒の大殺戮が行われたが、現在では信仰の自由を認めている。全ての共産圏がその方向に向っていると言えよう。二千年の歴史をもつキリスト教は真実であり、キリストは昔も今も働いてい給う。この事実を軍事力でもって滅ぼすことは不可能だからである。第二次大戦以後の日本では、外圧によってもたらされたものであるが、民主々義国家として信仰は自由であり、迫害は存在しない。では、如何にして私達は十字架を負うことが出来るのだろうか。十字架を負いたくとも迫害は起らないし、むしろ、この世から歓迎されている程で、十字架を負うこととは程遠い世界である。修道院か山の中にこもって苦行する以外に十字架を負うことは出来ないのだろうか。無教会は、そのような十字架は否定する。

では、十字架を負うとは具体的に現代ではどのように受けとればよいのであろうか。神の言として、あるいは観念として受けとるべきものであろうか。私は、十字架を負うとは宗教性を否定し、徹底的にこの世の人になることだと思う。なぜなら、神の子イエスが完全にこの世の人となったのは、十字架の死においてだからである。この世の根元は死であり、イエスは十字架の死において、この世の根元となられたのである。しかし、同時に十字架は神とこの世との接点でもある。それ故に、この世の人となるということは、十字架のイエスに固着することであり、キリスト者のこの世性とは、十字架を離れては無い。また、神の支配も十字架を離れては無い。この世の人になりきると言うことは、十字架にあって初めて現実となる。神の支配もまた、十字架を離れてはない。

具体的に私の場合、この世の人となりきるということは自治活動である。自治会の世界には神はない。それ故に自治活動をしていると、霊の酸欠症にかかる。イエスが十字架上において「わが神、わが神、なぜ私を捨てられるのですか」と叫ばれたとき、イエスは霊の酸欠症の極限に立たれていたのである。それがこの世の根元なのである。私は、この十字架に固着することによって、自治活動の只中に立たされるし、霊的酸欠症に苦しむのである。私個人の願いとしては、この世界から逃亡し、信仰のみの世界に生きたいと願う。けれども、それはゆるされない。神の子イエスは、ご自身を捨てて十字架の死にまで下だり、この世の人となり、私達のために義となられたのである。あくまでも、この世にとどまり、世の人のために労苦しなければならない。それが己れを捨て、十字架を負ってイエスに従うことであろう。年を取るにしたがって、私の負わされている十字架は重くなるが、それだけまた、希望も大きくなっていくようである。この希望とは、終りの日の希望である。

愛による絶対隔離

第四章手紙()

飯野重吉先生

1915910

先生、私達らい患者は人間なのでしょうか、それとも、人間から最も忌み嫌われる他の生物なのでしょうか。らいに罹ったときから私達は野のけもののように人間を恐れ、人間の姿を見ると逃げかくれました。そして、発見されなかったときは九死に一生を得たような、ほっとした安堵感をおぼえるのです。

全生病院に収容されている患者は、家族や親戚を守るために、故郷を捨て旅に出た者たちですが、家を捨てたときから、彼らは国籍のない無名の浮浪者として当てもなく地をさ迷っていたのです。人間を恐れながらも、人間から離れることができず、生きていくために、恐れと恥と絶望を抱きながら、野良犬よりも惨めな生を生きてきたのです。これら浮浪者を強制隔離収容したのが全生病院です。らい予防法によれば、患者の救護と国民をらいから守るための予防上の理由から建てられたものです。しかし、収容所は患者にとって決して住みよいものではありません。罪人として、また、俘虜として厳しい監視の下に置かれました。

私達を襲ってくるものは、このほかにらいという病魔と貧困と寒さです。いま収容所に何が進行しているか先生に想像できますか。比較的健康で若い男子に施す断種の手術の呼び出しなのです。監督に呼び出された者は医局手術場に連行され、そこで私達にとって最も忌わしい屈辱的な断種が強制的に強行されるのです。そこでは反対することは許されません。手術するのは、患者の生命を握っている所長だからです。

所長は、昨年医長から所長になられた光田健輔先生です。先生は、患者の間に生れてくる子供の処置に困り、男子の優生手術を思い立ったのです。そして、手術をした者は女のところに泊りに行くことを認めたのです。正式に結婚して夫婦が同居することは許されず、ただ、夜だけの結婚を認めたのです。これによって、あとを絶たない逃亡を防ぐことができると判断したためでしょう。つまり、夜の結婚を認めることによって、患者が収容所に落ち着くことを願ったのです。

手術の対象となる者は、見張所の調査によって情夫に限られていた筈なのですが、その数が少ないためにニセの情夫をつくり、手術場に送り込んでいたのです。所長の命令によって、監督は手術に必要な数だけの患者を手術場に送り込まなければならなかったからです。こうして男子は、いつ呼び出しが来るかと恐れたのです。私は両足を切断し髪の毛は無く、老人であるか青年であるか、姿かたちからはとらえようのない肢体不自由者になっています。私に呼び出しが来るなどとは想像もできませんでしたが現実に起ったのです。先生、私は手術台の模様を書く勇気はありませんが、ただ一言、私が経験したのは、私は虫であって人ではないということです。深い屈辱と悲しみと私の心の何処かに人間としてのプライドがあったように思いますが、今はその最後のものをも奪われてしまいました。人間を完全に失格してしまったのです。手術場から腰をかがめ、ガニ股でゆっくりゆっくりと歩いていく私を、途中で待っていたのが藤田サクさんでした。サクさんは私の姿を見ると駆け寄って来て、地にひれ伏して泣きながら叫んだのです。「ゆるして下さい!」それは血を吐くような呻きともとれる絶句でした。私は手術の衝撃で意識が混乱し、幻覚に襲われているのではないかと思いました。しかし、事情は次のようなものでした。数日前の夜のことでした。例によって、サクさんの舎に深夜の点検があったのです。寝ているところを襲われたために、泊りに来ていた男はハダシで裏から逃げました。サクさんは、そのときまで知りませんでしたが、隣りに寝ていた女の処に男が泊っていたのです。男はうまく監督の目をのがれて逃げることができましたが、裏から逃げ出すうしろ姿を見られ、その疑いをサクさんにかけたのです。その晩、遅くまでサクさんは二人の監督から情夫の名前を白状するようにと責められましたが、白状するにも実際になかったことであり「知りません」と最後までその一言で押し通しました。しかし、翌日になると見張所から呼び出しがあり、外来面会室で改めて三人の監督から厳しい尋問と拷問を受けたのでした。逃亡した者に加える鞭がサクさんの身体に加えられたのです。その拷問は鞭だけではなく、女の口からは言えないようなことまでされたようです。その拷問の中で、私をふと思い出し、つい苦しさの余り私の名を言ったというのです。私はそのとき初めて呼び出された理由を理解しましたが、サクさんを怒る気になれませんでした。怒ることよりも、むしろ自分のような人間がサクさんを救ったことを知って慰められました。

割礼は神の選びの民のしるしとして、ユダヤ人の間に行われていますが、断種は何のしるしなのでしょうか。腰をかがめ、股を広げて手術室からヨタヨタと出て来る患者は、サルから分かれて、立って歩きはじめたときの人間の姿にも似ていますが、患者は人間ではなく、別の生物、天刑病、遺伝病、ペストと同じような伝染病を持った人間の生存権を脅かす危険な生物として歩き始めたのです。サクさんは、全生病院では生きられないと熊本県の回春病院々長ハンナ・リデルを慕って逃亡しました。放浪時代サクさんは少女でしたが、父と二人で本妙寺の境内で物乞いをしていました。その親子のもとにハンナ・リデルが現われ、病院に入院することを勧めましたが、サクさんの父親は頑として、それに応じませんでした。ヤソの病院に入ると殺されると思いこんでいたのです。ハンナ・リデルは説得をあきらめて、別れ際に少女のサクさんを抱きあげて額に接吻して「困ったときはいつでもいらっしゃい、手紙を下さればいつでも迎えに跳んでゆきます」と言いました。六尺もある大女に抱きあげられたとき、サクさんは恐ろしさのあまり、泣きだすところでしたが、額に接吻されたとき恐怖とは全く別な感情に襲われ泣き出しました。その接吻は野良犬のように追われ苛められ、やさしい言葉をかけられた事のなかったサクさんに、鮮烈な印象を植えつけました。サクさんは旅で苦しいとき、悲しいとき、いつも思い出したのはハンナ・リデルの接吻とその言葉でした。すると不思議に悲しみや苦しみがやわらげられたと言います。サクさんの父親は亡くなるとき、ヤソの病院に入ってはいけない、全生病院に行くのだ、と言って息をひきとりました。サクさんは父親の言葉に従って全生病院に収容されたのでした。

私はサクさんのために、ハンナ・リデル宛に次のような手紙を書きました。
「……サクさんはらいに一度は感染したかも知れませんが、放浪中に自然治癒し、治療したことはありません。大楓子油注射を皮下に打っても、化膿して受けつけないのです。私達の間では、健康な者の皮膚は大楓子油を受けつけないと信じこんでいる程です。サクさんを病院ではなく、社会復帰させてほしいのです。日本では、一度らいの宣告を受けた者は、前科と同じように一生をらい患者として隔離されます。何とぞ、サクさんを収容所から救出し、社会人として世に送り出すよう、就職の道を考えて下さるようお願いします。」
私は、出来ることであればサクさんが日本ではなく、ハンナ・リデルの故郷イギリスで教育を受け、医療か福祉関係の職業を身につけることを希望しました。日本だと、身元が分かれば収容所に送られることがハッキリしているからです。サクさんの逃亡は、夜半の一時ごろ行われました。堀を越えて林の中に逃げ込み、それから東に向って歩き始め、埼玉に入り、明け方までに大宮駅に行き、そこから品川駅まで乗り、品川駅から東海道線に乗り換えることになっていました。品川駅を選んだのは、東京駅は危ないためでした。

脱走が判れば近県の警察署に指名手配され、警戒の網が張りめぐらされます。その警戒網の外の安全駅として品川駅が選ばれたのでした。サクさんは、場合によっては品川まで歩いていくと言うことでした。全生病院の東部は何里あるかわからない深い林でした。若い女が、その夜の林の中を一人で歩いて行ったのです。男でもためらうような山道を、サクさんは馴れているから平気だと出て行きました。サクさんが逃亡して数日が過ぎましたが、捕まったという情報が入っていませんので、無事に脱走できたのでしょう。私は、サクさんのために心からハンナ・リデルのもとに無事着くようにと祈っています。サクさんが去ってから、私はハンナ・リデルとサクさんとの出合いのことを考えています。サクさんにとって、ハンナ・リデルとの出合いはどんな意味をもっていたのでしょうか。サクという個人の歴史を決定的にしたものは、ハンナ・リデルとの出合いではなかったでしょうか。これから、どのような歴史がつくられていくのか分かりませんが、その歴史の一頁々々は、サクさんの額に刻みつけられたハンナ・リデルの接吻によってつくられていくように思われてなりません。サクさんが洗礼を受ける気になったのも、そのためであり、監督の拷問をジッとこらえ、自暴自棄に陥らなかったのも、それがためでしょう。そして、サクさんとの出合いは私にとっても、これからの生活に大きな重みを持ってくるように思われてなりません。しかし、私にとっての出合いは、先生との出合いでありましょう。座敷牢から私を解き放ち、熱いニギリめしを下さった先生との出合いは、年を経るにしたがって大きな重みをもってくるように思われてなりません。不信仰の私が、聖書を手放さないのもそのためでしょう。最近、私は自分でも気がつかないうちに、神に祈っていることがあります。私の心のどこかに神の霊が働いているものと思います。どうぞ、この不信の私のために、そしてまた、サクさんのために祈って下さい。お願いします。

 療養通信

91日、一光社より「倶会一処」を出版しました。多磨全生園70年の歴史を患者の手で綴ったものです。70年の歴史を持ちながら、患者側からの全生園の運営について書いたものが無いということは不思議ですが、これには理由があります。個人が自由に運営に関して批判できるようになったのは、1953年のらい予防法闘争以後であり、その後も約10年ぐらいは厳しい監視体制がとられていました。まして、予防法闘争以前では、その厳しさは絶対です。管理に関して、また、その運営方法について園長を批判することは、栗生楽泉園にあった特別病室(重監房)行きを覚悟しなければなりません。1940年だったでしょうか、洗濯場の親方をしていた山田は、長ぐつの支給がなければ仕事ができないと作業放棄をしたが、これがために彼は夫人と共に特別病室に送られ、そこで亡くなりました。「倶会一処」の中に詳しく出てきます。この事からも分かるように、運営については、如何に不合理であっても服従以外にはなかったのです。その中で比較的自由だったのは宗教と文学でした。北条民雄の小説を読んで、鋭い感覚の読者であるならば気がつく筈ですが、作品の中に全生園を批判したり政治的発言はありません。それは許されていなかったからです。こうした収容所の実情については外部の人には全く知らされず、ただ、管理者の書いたもの、講演を通してハンセン氏病療養所を知っているに過ぎません。それが如何に片手落ちであるかは説明するまでもありません。小川正子の「小島の春」の背後にある権力による患者抑圧があったことを知って読んだ者が、果たして何人いたでしょうか。70年の年月を経過して、初めて収容所の実態を明らかにしたのが「倶会一処」です。これは、患者の告発の書とも言うべきものですが、本書は告発を目的にしたものではなく、発刊の終りの言葉にも書いているように、医療と福祉の名によって如何に悪性な病気であっても、あるいは心身重障害者であっても、私達が経験したような絶対隔離撲滅政策は、二度と繰り返されることのないように、心からの願いを込めて出版したものです。7日に、内輪だけの出版記念会を持ちました。その挨拶の中で、私は「倶会一処」の出版の目的と意義について、次のようなことを話しました。ハンセン氏病は既に終息に向っており、現在、療養している私達が地上を去るとき、ハンセン氏病は日本から姿を消すでありましょう。最後の療養者として、現在と将来に対して私達は如何なる責任を果たせばよいのか。それは今もなお、私達を苦しめているハンセン氏病に対する偏見への啓蒙であり、もう一つは、後の世の人のためにハンセン氏病関係の文献を収集しておくことと、患者の手で全生園史を編纂しておくことです。

ハンセン氏病に対する偏見は、戦後生れの者にはありません。40代の後半から50歳以上とみてよいでしょう。つまり、化学治療薬の無かった時代、第二次大戦前のらいの悲惨と政府が強行した隔離撲滅政策を知っている年齢層に限られていることです。これらの階層に向って、現代の療養所が大きく変革したこと、入所患者の80%は無菌者で、わが国の新発患者がゼロになろうとしていると説いても、理解してもらうことは困難です。いちばん良い方法は、この年代層が知っているらいの世界にまでさかのぼり、天刑病、遺伝病、ペストと同じ伝染病として恐怖された時代、明治を出発点に今日に至るまで年代を追って、如何に変ったかを知らせることにあります。そしてそれが「倶会一処」です。「倶会一処」を読んだ人は必ず、ハンセン氏病に対する誤った考えに気がつくと同時に、意識変革が起ることと信じます。また、起ってほしいと願うものですが、偏見をもつτている年代層が40代以上となると簡単に意識変革が起るとは思いません。

資料として残す目的は、偏見と差別は何時の時代にも無くなることはないからです。後世の人がこの問題を歴史的に調べていけば、ハンセン氏病に突き当る筈です。らいは偏見と差別の原点とも言うべきものがあります。資料として残しておきたいと考えたもう一つの理由は、私はキリスト者であり、聖書の中に出て来るらいのためです。仏教では仏罰として、らいを扱っていますが、聖書でも、らいを単に悲惨な病気として登場させてはいません。ヨブ記に見られるように、らいは根元的に扱われています。神の義の問題であり、罪の問題なのです。つまり、福音書で明確になってくるように、救いの問題なのです。この聖書があるかぎり、らいの文献と全生園史は残しておかなければと考えていました。

「倶会一処」は35百部出版し、このうちの2千部は自治会が売ることにし、千5百部は一光社で市販しています。部数が少ないために、一光社か大きな書店でないと販売していません、自治会では既に、地元を中心に千百部売れました。このままだと再版も夢ではない気がしていますが、問題は、新聞か雑誌で取り上げて批評を書いてくれるような機会があれば、広く読まれるのではないかと考えています。「倶会一処」は特殊なものであるだけに、再版は難しいと思いますが、一人でも多くの人に読んで貰い、ハンセン氏病に対する正しい知識を広めることが目的であり、本誌読者の中に読んでみたいと思う方は私宛に申し込めば発送いたします。価格は送料共25百円です。「倶会一処」の出版記念会は1013日、池袋の八方閣で行うことにしています。これは外部の関係者を招き、啓蒙のために開くものです。