「小さき声」 目次


 小さき声 No.207 1979117日発行

松本馨 

挫折

全生園を見学する学生は、医学と福祉関係のものが多いが、私が質問した学生の殆どは神を信じてはいない。宗教は非科学的でアヘンのようなものだと言う考えを持っているためであろう。世界的に若い人は神を信じていないと言われるが、日本においても、その傾向は強いと思われる。

キリスト教は非科学的でもアヘン的なものでもない。より現実的、歴史的なものである。イエスは、ナザレの大工ヨセフの妻マリアから生れた実在の人である。聖書の福音書はイエスの言行録を記した伝記であるが、世の偉人伝に見られるような、その生涯を記録したものではない。イエス晩年の公生涯に入られた3年間の宣教活動と、その最期を記したものである。公生涯に入る迄のイエスについては、マタイとマルコに、誕生の記事と少年時代のことが簡単に触れられているだけで、あとは何も記されていない。おそらく、大工のヨセフを助けて、その家業に専念したのではないだろうか。このイエスを非科学的と否定することは出来ないであろう。歴史的実在の人物だからである。では、何が非科学的なのであろうか。

イエスの宣教活動は地方にあって、中央集権と真っ向から対立した。対立の焦点となったものは安息日厳守の問題である。イエスは安息日に、片手の萎えた者(マルコ3)足腰の立たない者(ヨハネ5)を癒した。祭司長、長老、律法学者がイエスを殺す決定的要因となったものは、この安息日違反だったと思う。このほかに律法によって禁じられていた取税人や罪人と飲み食いしたり、らい病人のシモンの家に宿泊をしたりしている。ユダヤ教では、これらの人達は罪人としてユダヤ社会から放逐し、祭儀にあずかることが出来なかった。ユダヤは神の民として、その中心にあるものは世俗的な国家ではなく、神殿である。取税人、罪人、らい病人は神殿にお参りすることも出来ないし、祭儀にあずかることも出来ない。社会的に村八分にされただけではなく、信仰的にも救いの道を絶たれた。それがどんなに辛いものであったか、想像を絶したものがあろう。イエスは、こうした人達の側に立って福音を説いたのであり、中央集権との対決は必然的であった。現代的に言えば、イエスは抑圧されている者、搾取されている者、病んでいる者や貧乏人の側に立って中央に闘いを挑んだのである。そしてその結果、弟子のユダに裏切られて中央集権の官憲に捕えられ、裁判によって死刑が宣告された。ヨハネ福音書によれば、イエスに死の宣告を下したのは、祭司長や長老、律法学者に煽動された民衆であった。福音書の中で、最も劇的で高潮に達した記事と言えば、イエス受難の記事であろう。福音書のイエス語録の 信憑性について批判する者はあっても、イエスの十字架を否定する者はいないであろう。

では、聖書の何が非科学的でアヘン的と言われるのであろうか。それは、イエスとその十字架を如何に受けとるかにかかっているかに思われる。イエスを神の子として何の抵抗もなく、信じられる人は幸いであるが、同時に大きな罠が 隠されていることも事実である。その罠に気づかない者は神を信じない者から見れば、非科学的に見られるのであろう。聖書は、イエスは神の子であると共に、人の子であるという矛盾した命題を提出しているのである。その矛盾の極限が十字架であろう。神の子が神に捨てられ、十字架刑にかけられたのである。理性的な人であれば、神の子の最後の姿を見てつまずかない者があるだろうか。挫折しない者があるだろうか。このイエスは墓に葬られ3日目に復活し、天にあげられた。ユダを除く11弟子は、イエスの十字架にいったんは挫折したが、復活のイエスとの出会いによって回心し、イエスが神の子キリストであることの証人となった。私達キリスト者は、さまざまな方法で復活のイエスに会わされている。しかし、その前に、十字架への挫折があった。このことを抜きにして復活はないからである。とすれば、神を信じない者にも救いの道は十字架によって開かれていると言えよう。十字架のイエスが神の子であるということに、誰よりも反抗的で激しく抵抗する者は、神を信じている者よりも真実だからである。それ故に、神を信じている者がイエスの十字架のつまずきによって救われるとすれば、神を信じていない者の救いは、もっと確実で大きいと言えないだろうか。

イエスの十字架につまずくことは非科学的ではなく、最も科学的であり、アヘン的ではなく、最も理知的、合理的な出来事なのである。創世記1章のはじめに天地創造の物語りがある。ここだけ採れば非科学的であり神話に過ぎない。ヨハネ黙示録もヨハネの幻であるから、科学的か非科学的かで論じることは、問題設定が誤っていると言われるであろうが、この黙示録の神の仔羊に十字架を見ることができれば、それは最もリアルな出来事として読みとることが出来はしないか。創世記の天地創造の神に十字架を見ることが出来るならば、創世記は神話ではなく、出来事なのである。

キリスト教が非科学的、神話的、あるいは迷信、あるいはアヘンと言われるのは、神の子イエスの十字架が欠落しているからではないだろうか。イエスを神の子キリスト、また、世界を支配し給う王として敬し遠ざけるとき、前記のような批判が出てくるのではないだろうか。イエスは今もなお、取税人や罪人、この世の最も不幸な人達、病んでいる者や苦しんでいる者、貧しい者のために十字架上に血を流してい給う、その十字架の下に行くことの出来る者は、信仰のないこれらの人達なのである。私は、それ故に主イエスと十字架以外に、何をも知りたいと思わないし、何をも望まない。イエスの十字架につまずき、イエスの死にまで落ちていくことが私の希いである。現実の問題としては、この世的に抑圧されている者、搾取されている者、苦しんでいる者、己が罪のために泣いている者と共に生きることであり、それ以外の処に安住の地を求めるつもりはない。私の希望、喜びは十字架に在る神の義だからである。

愛による絶対隔離

5章 虹 (1)

原兵太18歳は、19181026日強制収容された。原は中学2年のとき発病した。右腕にピンポン玉ぐらいの紅斑点ができていたのを校医に発見され、専門医によってらいと診断されたのである。原は中学を退学すると上京して或る病人宿に下宿し、宿の主人から大風子油の治療を受けていたのであるが、らいの病人宿は認可されたものではなく、神経らいの患者がひそかに経営していたものであった。これがために、周辺の住民から警察に密告され、強制送還されたものであった。

1918年は、患者の手で初めて「山桜」が 謄写版で発行される前の年に当る。その前年は行燈に替って電燈が点り、次第に全生病院は創世時代から復興の時代へと入っていった。定員も400床から600床へと拡張された。ワゼクトミーによる通い婚制度を認めたことが、心理的に患者を落ち着かせたのであろう。全生病院に骨を埋めようとする者の数が次第に増えていくと同時に、環境づくりが始まったのである。全生病院を第二の故郷として、厳しい監視の下で、少しでも住みよい病院を作ろうと、各自がそれぞれの置かれた立場で考え働き始めた。収容所は、基本的には患者の労働力によって運営された。 600人の患者に10人足らずの看護婦では治療も看護も出来ない。軽症な患者が看護婦に代って、病棟の患者の看護にあたり、肢体不自由者の付添夫をした。治療棟の各科、特に外科場には女患者が包帯交換に当っていた。600人の患者のうち、包帯をしない者は珍らしい程で、それだけに外科治療日は大変であった。

このほかに包帯ガーゼの洗濯、病人の衣類の洗濯は皆患者であった。日常生活の中で必要に迫られたものから、順次、作業化していったのである。

原兵太が収容された翌年には、貨幣に替って病院券が発行された。1銭と5銭は真ちゅうで造られた円型のもので、5銭は中央に穴があいていた。10銭は柿のタネと患者は呼んでいたが、それに似た形をしていた。50銭は正方形であった。真ちゅうの通用券には1銭、5銭という数字のほかに、第1区府県立全生病院の文字が焼きつけられてあった。1円は正方形の厚手の紙に墨で印刷してあった。5円はなぜか荷札が使用された。5円の需要者が少ないために荷札で間に合わせたのであろうか。病院券の発行は患者にとって大きな出来事であった。収容所では現金の所持は禁じられていた。所持金を記入した保管通帳が渡され、物品を購入する場合は、交付所(患者に物品を支給する所で買物係もいた)で買物係に購入の品名を告げて保管帳を提出するのである。買物係は購入した金額を保管通帳から引き出すのである。これは購入する者も買物係も大変に不便であった。患者の数が増えるに従って、その不便さは増大し、病院券発行へと発展していったのである。

原は病人宿で治療したこともあって、収容されたときは斑点は殆ど消えていて、専門医でないとその痕跡が判らない程であった。麻痺した処はなく、彼は健康人と変らなかった。収容所にいることが、かえって不自然なくらいであった。彼は高い処に登るクセがあったが、全生病院は平地で山も丘もない。そのために彼は大きな松に登ったり、屋根にあがった。木登りは彼の得意とするところであった。そのためもあって、彼は図書館で働いた。図書館は2階で階下はラジオ室になっていた。図書室は校舎のような建物の中央にあった。建物は南向きで、西から床屋、中央浴場、外来外科場(入浴後、外科治療を受ける)、次がラジオ室と図書室、そして娯楽室、映画や患者の歌舞伎等、劇場を兼ねた娯楽室になっていた。

図書室は数百冊の書籍があったが、文学書と宗教書によって占められていた。読みたい者は自由に借りて読むことができた。原はその係りをしていたのである。或る日、彼は2階の窓から放尿していた。階下に降りるのが面倒臭いと放尿していたのであるが、院長に見られてしまった。

「こら、やめんか」と雷のような声が下から聞こえた。原が見ると、包みを持った院長が原を見上げていたのである。彼が慌ててやめると「下へ降りて来い」と2回目の雷が落ちた。同僚の牧田は「監房だゾ」と自分が当事者であるかのように青くなって震えていた。「こんなことで監房に入れるようなオヤジさんではない」と原は別に恐れている様子も見えなかった。階段を降りると玄関に院長が立っていた。光田は堂々たる体格をした偉丈夫であった。肩巾が広く、顔は四角張って眼光は鋭く、全体に山のような感じを受けた。それは、意志の強い信念に生きる人の姿であった。彼からは迷いのようなものは微塵もみられない。彼に会った者は、その姿に圧倒されると共に、迷いもカゲリもない確信に満ちた言葉に魅了され、その虜になってしまった。収容所を見学した若い医師の中に光田の虜となって生涯を患者のために働いた者は少なくない。

光田は原に向って「2階の窓から小便する奴があるか、ここは目抜き通りだゾ、参観人に見られたらどうする」「かまいません」「お前はかまわなくとも、わしが困る」光田は原の顔をジッと見て言葉を続けた。「お前は高いとこへ登って小便をするが、なぜか」「理由はありません、やりたくなるから、するのです」
「汚いではないか」
「汚くはありません、虹のできることもあります」
「虹……お前、それが面白くて木に登るのか」そして高笑したが、突然、話題を変えるように、包みを原に差し出して言った。「辞典だ」
「どっからか寄贈があったんですか」
「寄贈ではない」
「院長先生が買って下さったんですか、安月給なのにムリをしましたネ」
「生意気を言うな、本を借りに来る者は多いか、なるべく多くの者が読むように勧めてくれ、どういう本が良いのかも、読書カードを作って調べてくれ」。

全生病院も、原によって代表されるように10年を経過し、浮浪者でない階層が収容されるようになった。自宅治療患者と家族からの仕送りで病人宿で療養していた者が、全生病院の実態が判るに従って、進んで入院を希望するようになっていったのである。つまり、入院すれば殺されるという風評が虚偽であることが患者間に知られていったのである。入院の条件は、患者にとって注射や薬で殺されないということであった。療養所の待遇と治療がどういうものであるかが、彼らにとっては入院の条件ではなかった。住む家も無く、町から村へ、村から町へと野良犬のように追われ、物乞いによって生きていかなければならない者にとって、どんなに貧しくとも、家と食物の保障されている場所は彼らにとっては、この世における唯一の安息所、隠れ家であった。

開院以来の10年が創世時代であるならば、10年以後は建設の時代であり、人間復興の時代とも言えよう。創世時代の患者は浮浪者によって占められ、浮浪時代の生活環境をそのまま収容所に持ち込んだ時代である。ただ一つ放浪時代と違うのは、収容所という限られた地域内で生きていかなければならぬという制約を受けたことであった。これがために患者の脱走は絶えなかった。病気であっても症状が軽く、健康の人と何ら変らない患者にとっては窮屈な収容所暮しよりも、自由な放浪生活の方が遥かに好ましいものに思われたのである。逃走しない者でも、監視の下に自由を奪われ、生きていかなければならない不自由さから来る不満が、いろいろな形で爆発をした。門を破って、集団で東京府や内務省に陳情をし ようとしたのも、それがためであろう。しかし、こうした混乱の中にも10年の歳月によって全生病院は収容所としての制度を確立していった。法による取締りが先ず第一に確立していくのである。1916年には、所長が懲戒検束権を持ち、患者の生殺与奪の権が所長に与えられた。そして逃亡への罰則が厳しくなった。初代の池内所長が内務省と協議の結果、部下の質問、患者の地位と処遇についての文書による質問に対して「罪一等を減じた扱いをせよ」は法的に保障されたのである。見張所の監視員をはじめ、所長の指揮下にある職員は全て、患者を逮捕することが出来るようになったのである。こうした厳しい監視の下で、浮浪患者の生きるための模索が続いたが、最初に形をとったものが、仲間の弱い者達、ベッドに寝たままの患者と失明や手足切断によって介護なしには生きていけない者達に対する患者による看護体制が確立した。それに関連した作業として洗濯作業が生まれた。これは、患者の衣類の洗濯と使用した包帯やガーゼの洗濯業である。更にまた、看護婦の絶対数が不足していることから、各治療科に軽症な患者が助手として働いた。この助手作業で大きな比重を占めたのは外科であった。患者の多くは手か足、または顔に潰瘍があり、2日か3日置きに包帯交換と治療をしなければならない。特に、夏の間は1日置きに交換しなければならなかった。1日でも遅れると潰瘍に蛆が湧き、包帯のすき間から外へ這い出し、異様な臭気を発した。収容人員300人に対して、7人の看護婦と2人の助手では、外科場に全員を投入しても1日置きの包帯交換と治療は絶望的であった。この人手不足を補うために軽症な患者を20人から多いときは30人以上を使った。それでも十分とは言えない。手足の潰瘍について自分で包帯交換のできる者には、治療薬と包帯ガーゼを渡して、自力で治療させたのである。こうして必要に迫られて、患者作業が次々と生まれ、形をとっていった。

作業と共に、必要に迫られて生まれたものが各宗派であろう。すべての自由を奪われた者が生きていくために求めたものが宗教である。外的なものから内的なものへと生きがいを求めていったのであるが、各宗派の生まれた理由のもう一つの要因は葬式であった。創世時代の患者は浮浪者であり、従って重症な患者が多く、初期の時代は年間収容者の1割から2割が亡くなった。当初は、亡くなった患者は葬儀もしないで、病室から墓場へと送られた。それは事務的に遺体処理がなされたのである。こうした事は浮浪時代にも無かったことである。小集団で放浪しているとき、仲間が亡くなると丁重に人目のつかぬ処に葬り、その上に墓標の代りに松を植えたり、河原から一抱えもある石を拾って来て置いた。土葬の際、松の苗木を植えたのも、その放浪時代の習慣であったが、収容所の遺体処理は余りにも機械的であり、見るに忍びなかった。

これがために同室の者が中心となり、知人を呼んで葬式のかわりに、故人の霊を慰める追悼会をもった。浮浪者の中には、お寺の墓守をしていた者や、ニセ坊主になって、お布施を集めていた者もいる。ニセ坊主は一派にとらわれず、各宗派の教本を持ち、読経も出来た。真宗の壇家に行って日蓮宗の経本を読んだのでは、お布施を受けることは出来ないからである。こうしてニセ坊主が追悼会に招かれ、お経をあげた。そして、各宗派に分かれて形をとっていった。ニセ坊主から本職の坊さんになっていったのである。外部からも各宗派の布教師が来園し指導をした。

全生病院のプロテスタントが生まれたのは1914年で、好善社から派遣された牧師によって教会が形成されていったのである。宗派別の宗団が形成されていくに従って、遺体処理は職員から患者の手に移された。各宗派に属する者の死者に対して葬式を行うようになったのである。この場合の僧侶はもちろん患者である。土葬から火葬場へと遺体処理工場が造られたが、それも職員から患者へと移った。10年経過して、浮浪者の群にその経験の全くない者が収容されるようになって、所内に文化のタネが播かれていった。その根元を成したものが宗教であるが、精神の復興は文化の面にも大きく影響していった。自我の意識の目ざめと共に、俳句、短歌、詩、小説(大正期は小説というよりも生活記録や随筆のようなものである)等の創作活動が患者間に起こったのである。このほかに、浮浪者の中に元歌舞伎役者や田舎回りの芸人もいて、全生歌舞伎座が生まれた。娯楽機関の全く無かった時代であり、春と秋2回の歌舞伎は療養者にとって大きな慰安であった。この歌舞伎は地域の住民を招待し、年ごとに盛大になっていった。 

療養通信 

910日、センター病棟として工事中であった病棟511棟のテープカットと、センターの記念式を午後2時より、これも工事中の機能訓練棟で行いました。厚生省からは、療養所課の北川課長と佐藤補佐、それに地方医務局、近接の国病、国療の所長十余名が参加しました。 全生関係では施設と自治会のほかに全患協本部、多摩研究所、栗生楽泉園と駿河療養所の所長が出席し、ささやかな式典を行いましたが、感慨無量でした。センター運動を進めて10年になりますが、初めから運動を進めて来たのは自治会関係では私1人であり、園長は矢嶋、新井、大西と3代、療養所課長は野津、大谷、吉崎、北川と4代も替っています。10年は余りにも永く、センターは5年遅れたような気がいたします。928日午後2時より、公会堂で創立70周年の記念式が挙行されました。橋本厚生大臣の祝辞を日下部次長が代読しましたが、誰が書いたのか最低の祝辞であったという感じを受けました。今日の全生園を築いた基礎は歴代の園長と職員であると讃え、患者には全く触れていません。らい療養所の歴史を知らない者が書いたと思うが、それにもしてはお粗末すぎたと言ってよいでしょう。

1013日は「倶会一処」の出版記念会を池袋の八峯閣で、午後6時より約50人の招待者と、患者側は17名で行いました。この記念会は、らいの啓蒙のために開いたものですが、自己紹介を兼ねて招待者全員が感話を述べ、内容的にも充実したものでした。私の挨拶は97日の公会堂で行った記念会の時と大体同じものです。概要を簡単に記すと「倶会一処」の出版の目的は2つあります。1つは啓蒙のためで、40代後半から50代以上の者はらいに対して偏見と差別をもっていること、この人達に意識変革を求めるためには、らいが天刑病、遺伝病、不治の病気として忌み嫌われていた時代に遡り、全生園70年の歴史を知って貰う以外にないと言うことです。70年の歴史は、これらの人達が生きた時代であり、私達の生きた時代でもあります。この歴史を理解して貰うことによって意識変革を求めたものです。戦後生まれの若い世代はらいを知らず、従って偏見もないと聞きますが、わが国には約1万の患者とその家族が偏見と差別に苦しんでいます。それを知らないことは無知であり、無知は偏見と差別であり、読んでほしいと思います。二つめは、資料として後世に残しておくこと、偏見と差別の鉱脈を掘り起こして行けば、らいにぶつかります。宗教的にも、らいはヨブ記に見られるように、根元的な問題として問われています。

101日の朝日新聞の天声人語に、「倶会一処」が取り上げられたために全国的に反響を呼び、北は北海道、南は九州から電話や手紙で購入の申し込みがあり、啓蒙のために喜んでいます。