「小さき声」 目次


 小さき声 No.24 1964830日発行

松本馨 

 トマス

 ヨハネ202429

 トマスは自分の指と手で、イエスのわきと手の傷あとをたしかめないかぎり、復活のイエスを信ずることはできないと言った。トマスの疑いは、誰の心にもある。そのような疑いは過去にも現在にも抱いていたことがないと言う人がいるなら、その人はそう思いこんでいるか、信じこんでいるかで、神にもっとも遠い人である。「見ないで信ずる者はさいわいである」とイエスが言われたのは、そのような人にむかってではなく、復活のイエスに、十字架を見なければ信じられないといった者にむかってである。自己の不信と罪に泣いている者にむかって、語られているのである。 

トマスの疑いはリアルである。そのリアルは十字架にあった。トマスは「あなたは生ける神の手、キリストです」と告白した十二使徒の一人である。主イエスと、その十字架は歴史的事実である。使徒たちも、トマスもその歴史的事実につまづいた。トマスの疑いは、彼自身の内にあったのではなく、神の子の死という事実にあった。復活は超自然的できごとである。トマスは復活のイエスに十字架を望んだ。復活のイエスが歴史的イエスであるしるしは、十字架である。十字架を離れては復活のイエスを知ることはできない。また、神を知ることもできない。彼のつまづきの石である十字架が、彼の救いの石なのである。主イエスは、彼に答えられた。

 「わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネ2027)

 トマスは復活のイエスに十字架を発見し、悲しみは歓喜に、絶望は希望に、暗黒は光と化した。彼は告白した。「わが主よ、わが神よ」(2028)。それに対してイエスは答えられた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者はさいわいである」。

 「見ないで信ずる者は、さいわいである」とは、復活をイワシの頭も信心からと言ったふうに、ただ、何もわからずに信ずればよいと言ったものではない。信仰により、復活のイエスに十字架を見ることである。私たちの知恵となり、義となり、聖となり、贖いとなられた主イエスと私たちの交換は十字架においてなされたのである。十字架をはなれては、復活し、天にあげられた栄光のキリストを知ることはできない。また、神を知ることもできない。十字架は神の現在の場所である。地上に立っている十字架は、また、天上に立っている。だから、その十字架を受くるとき、この世にいてすでに神の国と神の義を得ているのである。

 この病いは死に至らず 二十四

 天国と地獄

壁は、私の荒野であります。荒野の生活は長年つづきましたが、その年月中、聖言から切り離されていたわけではありません。二、三人の兄弟と聖日の集まりは守っておりましたから、一週に一度は聞くことが許されていたわけです。しかし、それは火に油を注ぐ結果となり、翌日は一層はげしい飢餓におそわれました。神は焼きつくす火であります。たえず油を注いでいないと火は私の体を焼きつくし、亡くしてしまいます。神の言は、一週に一度喰えば後の六日間は喰わなくても良いと言ったものではありません。毎日の朝々に、時々刻々にたえず新たに受けていないと、私は無感覚になり、創造の世界から脱落してしまいます。石になることもこのためであり、 土を喰うのもこのためです。

私のこの様を見て、集会の兄弟達も、最後には疑い、私の十字架による罪の赦しは、真実でないと、面とむかって私に言うようになりました。私もまた、その様に考えました。キリスト・イエスの命の聖霊は、罪と死との法則から私を解放したのです。いかなる壁も、いかなる困難欠乏も、鉄の鎖も、牢獄も、私を彼から引きはなすことはできないでしょう。引きはなされると考えること自体がおかしいのであり、それはつぶやきであり、神への不信を告白しているにすぎません。パウロは罪の 増すところには、恵も増し加わると云っています。(ロマ書520)私は恵を受けるために罪にとどまっていたのでしょうか、断じて違います。

「罪に対して死んだ私達が、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか」(ロマ書62)

では、何が原因なのだろうか。私は十字架にある神の義を、律法によって受けていたのでしょうか。私の熱心、努力、知識、罪の深さ重さ、苦しみの大きさ、その他もろもろの行為によって十字架の義を買いとろうとしていたのでしょうか。私は次の聖言を知っていました。

「律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げてくださった。すなわち、御子を、罪の肉の様で、罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(ロマ書834)

では、何が原因なのだろうか。問題の所在が皆目わかりません。ただ、はっきりしていることは終日、壁に向かって座していると、壁は生き、私が死んでしまうことである。主イエスが私に見えなくなり、原始の混沌に帰ってしまうことです。夜、私は床の中で幾度か呼吸逼塞におちいりました。私の体が真空になり、大気の圧力に押しつぶされて、呼吸ができなくなってしまうのです。地球の重みを感ずるのです。この地獄の苦しみからのがれる道は、十字架の中に逃亡することです。魂が十字架のイエスを仰ぎ見ることであります。彼を見るまでは、苦しみは何時間でも続きます。そして、彼を十字架上に見るとき、彼と私との苦しみの交換が行われます。 凄烈な血潮を流し給うイエスのみ苦しみは、私の苦しみであり、彼の復活と自由、彼の義は私のものであります。これは教養でもなく観念でもなく、事実です。現実の出来事であります。十字架のイエスを仰ぐとき、壁に閉ざされた私の皮膚は聖霊を呼吸します。私は聖霊が風のように体内に出入りするのを感じます。神を知ると云うことは、同時に地獄を知ることなのでしょうか。

神の恵

この頃、私は原稿用紙二百枚にあまる告白を著しました。それまで、私は自分の罪を人に証したことはありません。かえって、主イエスから切り離されるのはこの様な恐れがあるからではないかと思いました。つまり、私は本当に裸になって神の前に立っているか、神を 偽り、世を欺き、自分を誤魔化そうとしているのではないか、という疑念が告白を書かせたのです。しかし、生まれながら罪人である私は、たとえ、天の高さに達するまで告白を積み重ねても、それによって、自らを義とすることは出来ないでしょう。この事をなしとげて、私達の義となられたのは主イエスです。

「主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(ロマ書425)

彼の十字架以外のいかなる罪を告白し、いかなる審判を受けようとしたのでしょう。主イエスの十字架はわたしの罪であり審判であります。義であり、聖であり、贖いであります。わたしのくだけた悔いた魂であり、生命の生命です。

告白は、わたしが思ってもみなかった結果を生みました。口述を代筆したのは、昔、私が寮父をしていた頃の子供で教会のK青年でしたが、代筆が終わったとき、彼は会堂で服毒自殺をとげてしまったのです。彼もまた、私が若い頃おかした罪、妻の死を知ったとき、私を震撼させた罪と同じ罪をおかしていたのです。事前に知っていたら私は代筆をさせなかったでしょう。彼は、口述が終わる直前に、私にうちあけて、そして、その解決を死に求めたのです。彼の死を知ったとき、私は人をさけて、所内のはずれに行き、口に手を当てました。そして、その時以来、寮よりも外にいるときの方が多くなりました。草むらの中に虫のようにうずくまっていたのです。

「まことにわれらの魂はかがんで、塵に伏し、我等のからだは土につきました。起きて、我等をお助けください。あなたの慈しみのゆえに、我等を贖ってください」(詩篇442526)

こうした或る日のことです。塵についていた私の魂は生ける神の聖声を聞いたのです。そして、十字架の義が恵み()であることを知ったのです。それまで、私の信仰に欠けたものがありましたが、それが神の恵み()だったのです。実に人の救われるのは、恵みにより、信仰により、キリスト・イエスにある 贖いによって義とされることです。信仰は神のあわれみによる恵みの賜物です。

「わたしは自分の憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しむ。ゆえに、それは人間の思考や努力によるのではなく、ただ神の憐れみによるのである」(ロマ書91516)

恵みの光によって、ロマ書321節以下を読むとき、キリスト・イエスの贖いにある神の義が、神の恵みであることを知らせます。各節の一語一語は、その恵みのベール(キリストの義の衣)におおわれています。

「私達は、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるものではなく(恵みの)信仰によるのである」(28)

暗黒と欠乏と苦難の中で、生ける神の聖声に接したのは、これで三度目であります。第一回は眼科病棟の一室で、生ける神の聖声に接して、信仰を与えられました。第二回は私たちの小さな集会に関根正雄先生をはじめて迎えたときです。そのとき、私は十字架による罪の赦しを実験し、復活とキリスト再臨の希望を与えられました。第三回は今回で、生ける神の聖声に接して、創造の神が、恵みの神、愛の神であることを知らされました。信仰と希望と愛とはそれぞれ別個の物ではなく、この三つは主イエスの十字架にあります。彼を受くることはこの三つを受くることです。私はそれを段階的に実験したにすぎません。実験はあくまでも実験であり、救いそのものではありません。私 達の救いは父なる神と主イエス・キリストにあります。十字架による罪の赦しを信ずる信仰にあります。

結びの言葉

 最後に、私が少年の頃 罹った病気について、らいに罹って死の前に立たされたとき、心の奥底から発した言葉 「私は何の為に生まれて来たのか」 の問に答えねばなりません。いままで書いて来た中に、すでに答えは出ていると思いますが、この章を閉ずるにあたり、一言述べさせて頂きます。  それは私自身が答えるのではなく、今日まで私を生かし、今も生かし、後も生かして下さるであろう、私たちの主イエス・キリストに答えて頂きます。

 「この病気は死ぬほどのものでない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」 (ヨハネ114)

 私には社会的地位も、名誉も、目的もありません。私の心の病気、私は 何の為に生まれてきたのかは 「神はこれらの石ころからアブラハムの子らをおこすことができる」の石になることでした。石をおこすのも、おこさないのも神です。おこすのは神の義、神のみ栄えのためであり、 おこさないのも神の義、神のみ栄えのためです。私は石であることに絶望しません。主イエス・キリストご自身が、世に捨てられた隅の親石であるからです。 

義の衣 

私の心には空洞がある。そこから氷のような冷たい風が絶えず吹き込んで来る。噫、死人の体を抱いているような孤独よ。願わくはキリストの衣をもて内側より私の魂を包んで下さい。 

恵の雨 

聖書を読む機会に恵まれぬ日が幾日も続くと、祈ることも瞑想することも出来なくなることがある。旱魃で枯れかかった草木のように呼吸している。こうした後で聴く聖書(神の言)は恵みの雨である。骨々節々までしみ通るのがわかる。喜びの涙、歓喜の涙である。

抱負

今年のご抱負は政治を若返らし、政界に新風を吹き込むことじゃ、そして、国民に希望を与えることそれから……それから……

只今は昨夜遅く亡くなりました○○氏の「朝の訪問」の録音の一部でありました。 

ことば

ある人から、無教会の信仰は復活信仰で、十字架信仰ではないと云われた。十字架による罪の赦しの信仰はあくまで個人が対象で、複雑な現代社会には無力である。それを説く無教会の先生は、時代からとりのこされている、と。その人は、無教会の名をかりて私を批判したのであるが、復活信仰の内容については一言もふれなかった。十字架のない復活信仰とは何か。霊的信仰におちいる危険はないだろうか。

私は十字架を離れて、復活のイエスを知ることはできない。神の子羊に十字架を見なければ、私たちの罪のために死まで下っていかれた主イエスなのか、み使いなのか、サタンなのかわからない。サタンも神の前に立つことがあるのである。(ヨブ記1,2)  ダマスコ途上で、復活のイエスに出会って回心したパウロは、宣教に十字架の言葉をもってした。コリント一15章は、パウロの復活論であるが、はじめに

「私が最も大事なこととして、あなたがたに伝えたのは、私自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、私達の罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」(コリント一1534)

は注意を要する。この短い数語が、超自然的出来事を論述しているにもかかわらず、それをリアルにしている。神は主イエスの十字架にご自身を顕現された。私達は十字架を通してのみ神を知ることができる。十字架は、神と人との出会いの場所である。神の国とこの世を結ぶ結合点である。「トマス」は批判に答えたものだが、答えになっているかどうか・・・・

「この病いは死に至らず」は、今回で終わった。満二年、掲載したことになるが、その間、加筆や削除したいと思いながら、代筆者の都合でそれができずに発表したもの、口述しただけで一度も聞かずに印刷にまわしたものもある。発表した当時は気になったが、今は不備な点は不備なままで、欠けたものは、欠けたままで良いと思っている。今年になってからは推敲できるようになった。沖縄から来た若い兄弟が代筆をひき受けてくれたからである。それでも、不備な点や欠けた所があるとすれば、私の能力の限界である。いずれにしろ、今日まで私を導いて下さった諸先生を始め、教友に心から感謝申し上げます。

次号から「死の家覚え書き」を掲載するつもりである。治らい薬のなかった時代の人達が、いかにらいと闘い、いかに生きたかを覚え書き形式で綴ってみたい。

今月は、印刷の藤田さんが手の整形手術をしたため、発行が遅れましたことをお詫び致します。九月号は予定通り出せると思います。