「小さき声」 目次


 小さき声 No.6 1963210日発行

松本馨
 

く聖書と私

 聖書は退屈な書だ、と聞かされることがある。失明してからの私は、聖書を退屈に感じたことはない。 失明したとき、私が最初に祈ったのは「 一本の指を与えて下さい」と言うことであった。私には十本の指があるが、知覚はない。体の約八十の末梢神経は麻痺していて、それが自己閉鎖的な役を果たしているのであるつまり、外界と、私とを切り離しているのである。 一本の指は、外界と私との掛け橋である。通路である。衣服の着替えに、食事に、歩行に、私の日常に革命が起こるであろう。だが、私が一本の指に求めているのは、そのようなものではなく、聖書なのである。指で聖書を探ることなのである。しかし、神は第三者を通してよりほかに、私に聖書を与えなかった。

 その後、指に知覚のないものにも、唇読、舌読の道が開け、私もまた舌読を始めた。半年くらい練習したであろうか。舌にも知覚のないことを知って断念した。が、また翌年の春始めた。聖書が手の届<ほど近くにあるために、あきらめきれないのである。私は顔と足に知覚が残されているところを探した。舌で読めるのなら、額でも、顎でも、足の指でも読めるはずである。私の求めるところには知覚はなかったが、最後に、舌の裏に発見した。舌先は 麻痺しているが、奥になるほど知覚は鮮明である。私は、神が私をあわれみつつこの日のために、僅かばかりの知覚を隠しておいて下さったのだと思った。かくて春から、その年の暮までかかり、母音の「アイウ」を読むことが出来た。点字を読んだのである。でも、それ以上は、つまり三点以上で組み合わされている点字は、どうしても探ることは出来なかった。舌裏もまた、知覚は確かでなかったのである。こうして、.私は点字習得を完全に断念しなければならなかった。私は魂の空腹に悩まされながら、来る日も来る日も壁に向かって座した。「私は石であって人でない」私の心に石の感情が生まれたのは、この頃からである。

 一九五〇年の暮から、一九六〇年まで(テープレコーダーを入手するまで)の十年を壁に向かって座していた。これは独り私のみでなく、らい盲患者の負わねばならぬ宿命である。壁に 寄りかかって、或る者は頭を振り或る者は身体を前後左右に揺すっている。.また、或る者は手で膝を叩いている。こうしていることが、何十年と座しているにはもっとも楽な姿勢なのである。神と人との関係を、この世界ほどはっきり表しているところはない。創造前の、原始のアダムの罪を、鋭角的に露呈しているのである。私は壁に 寄りかかることも、体を揺することも出来なかった。壁に向かって座し、神を呼ぶ、それだけがその試練に耐える道であった。

 以上の理由で、私は聖書に退屈しない。逆に喜びのあまり、心で泣くことがあった。暗黒の中に聾者となり、唖 者となり、いざりとなって、幾十日も座している。そのようなとき受くる聖書の一節は、十字架に見えることがある。私に代わり、罪を負って十字架にかけられているイエスに見えるのである。いかに暗くとも、いかに苦しくとも、十字架を仰ぐとき、そこに私の救いは完成し、すでに勝利している私を見る。どうして心に泣かずにいられよう。 

<この病いは死に至らず 六

お前の信じていたものはなにか

 一九五○年は、私には暗い年でした。その暗い思い出のなかで、絶望的な告白をしようとした一齣を、カットしてしまいたいと思うことが時々あります。旅に立つ愛する者への贈り物としては、余りにも冷酷非情な仕打ちでした。神に祝福されなかった結婚を知ったときの、彼女の苦しみに充ちた絶望的なまなざしは、今も私の心に突き刺さっています。

 しかし、私の口を封じた義子を、神は憐れみ、十字架のイエスをお示しになったのです。彼女は終日、天の一角を見つめていました。びっくりしたように大きく目を見開き、まばたきを忘れて見つめているのです。その目は、イエスの額にある神の光に照らされて、喜びと希望に溢れていました。その顔には、死を知ったときの険しさはなく、無心に見つめている幼児のようでした。

 痙攣が彼女をキリストから引き離すことがありましたが、目をつぶりじっと忍耐し、最期の時を待っているようでした。ただ一度はげしい痙攣の直後、「イエス様の十字架のお苦しみに比べるとき、私の苦しみは小さい」と言って泣きました。

 彼女が死のベッドで、イエスの御名を口にしたのは、このときが最初であり、最後でした。

 しかし、私は彼女の心が私から離れて、キリストのものとなったことを知りました。そして、私のものでなく、キリストのものとなったことに絶望しました。私が絶望的な告白を敢えてし ようとしたのは、腐敗した魂の回復を図るためでしたが、心の奥には、彼女を失いたくはないとの希いが秘められていたのです。肉体は朽ちても、魂は永遠に私のものにしておきたかったのです。

 信徒としてこのことを口外することを恥じ、今日まで私は黙していました。しかし、神の恵みが罪と汚れに満ちた私に如何に現れたかを証するために、記さねばなりません。義子は世界で私が怖れることなく、愛することの出来た唯一人の人です。彼女によって、人間にまで引き上げられ、彼女を愛することによって、私は人間としての自信を持つことが出来たのです。彼女は私の全てでしたが、いまは私は彼女の全てではなく、キリストが彼女の全てとなったのです。そのために私は絶望したのです。

 人は私の言葉にあきれ、かつ怪しみ、問うであろう。「一体、お前の信じていたものはなにか」と。私自身、私が信じていたのは神ではなく、自己であり、義子であることに全く気付かなかったのです。

 私の知る神は愛の神であり、罪を見ず、愛のみを一面的に示す神でありました。 信と不信を裁く、義の神を夢想することも出来なかったのです。それ故、神の怒りが私に及んだとき、それを認めることが出来ませんでした。罪を犯した者が、法廷に立つことを怖れるように、神の裁きを受け入れようとしなかったのです。義子の死は、神の怒りの第一弾です。義の神の審判を受け入れるまで、世に代わり、御子イエスを十字架に架けた神の審判を受け入れるまで、義の神は私を打ちつづけました。そしてその前に、私は 悶え苦しんだのです。 

キリストを嫉妬する 

 霊と肉との闘いの後、霊が勝利を得たとき、義子の肉体は己れを破壊し始めました。腸が破裂するような鋭い音と、腹水の泡立ち渦巻く音が、私の耳にもはっきり聞こえてきたのです。

 三日朝、ブドウ糖の注射に来た看護婦は、注射の代わりに讃美歌を唱って出て行きました。鶏の足のように細くなった義子の腕の、その皮膚は萎び、その下に驚くほど硬い骨がありました。骨を包む肉らしいものはもうないのです。その腕の静脈に注射針を刺したのですが、血が逆流しているためにブドウ糖は入らず、かえって注射器に血液が流れ込んで、打つことが出来な かったのです。生命の放出が始まっていたのでした。最後の診察をした医師は、腹膜炎のほかに、咽喉結核の診断を下しました。うがいのみで十四日間を生きてきた彼女の、声もまた水に晒されたように、骨のみになってしまったのです。

 午後五時少し前、ひどい痙攣を起して病人は気を失いました。カンフルで意識を回復しましたが、最期の時が迫っていました。心臓が急に弱っていったのです。全てのものが破壊しつくされてしまったのか、お腹の鳴動も止んでいます。

 午後八時、再びカンフル注射を打っていただきました。夜になって痙攣は止み、病人は一度まどろみました。十時頃でしたかその間を利用して、看護の応援に来てくれていた二人の友人に勧められて、片隅の空きベッドで体を少し休めることにしました。発熱し、悪寒に悩まされていたのです。身も心も凍りつくような寒い夜でした。私はベッドの上で全神経を、病人の吐く息と、吸う息に集中していました。そしてそれに、自身の呼吸を合わせていました。呼吸の数は、健康な人よりも少なく、そのために私は軽い呼吸難に陥りましたが、その苦しみが、病人の苦しみにつながっていることにかえって希望のようなものを見い出しました。神に祈ることの出来ない私が、義子にしてあげることの出来る唯一の道であり、病人と一つになることの出来る方法だったのです。

 どのくらい時間がたったでしょうか。ローソクが燃えつきるとき炎がゆらぐように、病人の呼吸がかすかにゆれました。しかしそれが私にはベッドから振り落とされるようなショックでした。私ははね起きると、病人の顔を覗き込んでいた二人の友に、医局に、知人に連絡するように依頼しました。二人は私の言葉に半信半疑でしたが、.説明を要しませんでした。病人の呼吸は見る間に乱れていったのです。

 「僕がわかるか」私は病人の手を握り、咳き込んで言いました。彼女は天の一角を見つめたまま、口で大きく息をしながら大きくうなずきました。その荒い息づかいがどのくらい続いたでしょうか。静まるにしたがって呼吸の間隔がのびていきました。「義子」と私は病人の肩をゆすり、叫びつづけました。それから呼吸と呼吸との間隔を「一、二」と数えました。次第にその数が多くなり 、ついに数えても、呼吸は返って来ませんでした。午後十時五十五分、私は百まで数えて止めました。義子は天の一角を見つめたまま、魂を神の御手にゆだねたのです。その顔にはなんの苦痛もなく、小さな口を少し開けて、今にも話しかけるのではないかと思われました。

 百まで数えて、妻義子の死が確かとなったとき、私は激しい嫉妬をキリストに感じました。嫉妬をキリストが見たのか、キリストを嫉妬したのか、私にはわかりません。全身の血が一時に頭にのぼり、身も心も焼きつくす嫉妬の炎に、全身包まれてしまったのです怒りと絶望が義子を奪ったものに向かい、絞め殺してしまいたいような、八ツ裂きにしてしまいたいような、衝動に駆られたのです。

「神よ、私の罪をお許し下さい。私の罪は大きいのです。私の罪はいつも私の前にあります」

 私は予知しなかったキリストヘの嫉妬に、一時は呆然としました。そして恐ろしさのあまり、嫉妬を否定しました。

「キリストは二千年も前のお方ではないか。なにを血迷っているのか」

私の言葉が自己の嫉妬と心を否定したのではなく、キリストを否定したことに気付かなかったのです。

<バルテマイ(マルコ、10章46節以下)> 

 バルテマイは盲目の乞食である。パレスチナは砂漠的と言われるが、バルテマイその人は砂漠的状況である。はげしい光と熱の下に木の杖に身を支えている。目も鼻も口もない影のような存在がバルテマイである。

ダビデの子イエスよ、わたくしをあわれんで下さい」

の叫びに、彼の人間像がはっきりしてくる。彼自身、イエスとの出会いによって、はじめて口をきいたのではなかろうか。群集の制止を受けるほど、低いところに落ちていたのである。彼の叫びは悲痛であり必死だ。彼の生涯に、ただ一度おとずれた救いの機会であって、群集を恐れて口を閉じていることは出来ないのである。49節の「彼を呼べ」と、群衆に命じられるイエスには威厳がある。 癒しを行うときのイエスは、イザヤ五十三章の僕のお姿ではない。祭司長、長老たちの目には、悪鬼につかれたものと映り、身内の者には、狂気した者と見えた。

 それがはっきりと現れて来るのが十字架である。盲人や、らい病人ほど低いところへ落ちた者はいないが、イエスはそれよりも低い底の底で、私たちを支えている。だから恐れることはなく、御前に立つことが出来るのである。神の子が、私たちのうちに来たと確信がもてるのは十字架の事実だけである。

 先年、私はテープで関根先生のヨハネ黙示録の御講義を聞いたことがあるが、その際、神の国のイエスの十字架を指摘されて愕然としたことがある。そのとき以来、神の国と、現実の世界(私の場合らい盲を指す)とは、イエスの十字架により、信仰により一つになった。これはあくまでも信仰によってであって、信仰なき現実は墓場でしかない。終わりの日、キリストが来たり給うとき、私の望みは、栄光のキリストに、十字架の印を見ることである。これが終わりの日にかけるすべての望みである。

「そこで彼は上衣を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのもとに来た」。

五十節は、私が盲目のためかよくわかる。彼は上衣を天に向かって投げ捨て「万歳」と叫び、それから両手をぐるぐると空中にふりまわしながら、足で地をけるようにして、イエスのもとへ飛んでいったのである。彼の単純直情を笑うことは出来ない。苦しみは人間を単純にするのである。

 五十一節の「わたくしに何をしてほしいのか」は、諭しが直接的でない。「先生、見えるようになることです」は、それに対する答えである。なんでもない言葉のようであるが、ダビデの子への信頼にあふれている。聖書は今でも「わたくしに何をしてほいか」と問うているが、現代の病める者、悩める者は彼のように答えない。その問いに腹をたてるか、恥じるか、軽蔑するだけである。普段信仰に熱心であっても、 一度重い病にかかると、病気の苦しさと、死の恐怖から一時信仰を休み、医者よ、薬よと騒ぐ。そして危険を脱すると共に信仰を回復し、信仰の賜物だと感激するのである。私の知る限り、百人のうち、九十九人はこの形の信仰者である。迷わぬ九十九人よりも、迷える一匹の羊をよろこぶと言われたイエスは、こうした人間の根底にある不信を見ていたのだろう。バルテマイに危険がないわけではない。だから、イエスは最後に必ずと言ってよいほど次の言葉を言った。

「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ1052)

イエスが求めているのは、肉眼ではなく、信仰なのである。 

<ことば>

 不自由者の看護職員化にともなうことで、昨年五月新築の寮に移った。寮には食堂がある。食堂には冷暖房の設備があるが、今のところ敬遠されて誰も使用していない。私の祈りの場所となっている雑居生活をしていると、一日に一度は、一人になりたいときがある。そのようなときは寮を抜け出すのであるが、冬は道がぬかるむため、散歩が出来ず困った。しかし、この冬からはその心配はなくなった。雑居の喧騒から逃れて、冬の庭に立つことはもうないであろう。 

○○○ 

 最近になって親しい者が次々と病室に入った。らいは治っても私たちの位置、死の前に立たされている私たちの位置は変更しない。病気を治したい熱心を、何故、死の問題にぶつけないのか。病気のもとは死なのである。