「小さき声」 目次


 小さき声 No.86 19691020日発行

松本馨 

放蕩息子(ルカ15:1132より)

放蕩息子の記事を読んで、異常な感じを受けるのは私だけだろうか。身代を食いつぶして次男が帰ってきたとき、「死んでいた息子が生き返り、居なくなっていたのが見つかったのだから」と父はいって、僕に命じて上等の着物を着せ、手に指輪を、足に履物を履かせ、肥えた子牛をほふり、宴会を催しました。兄は全く無視されて、畑仕事をしています。そして仕事から帰ってきて家に近づき、ドンチャン騒ぎをしているさまをいぶかり、出迎えの僕に聞いて、初めて事の真相を知ります。

怒って家に入ろうとしない兄の気持が私にはよく分ります。これで怒らないような兄ならば、余程の変人か馬鹿でしょう。ではこの譬の意味はどこにあるのでしょうか。

譬の発端は、イエスが取税人、罪人を相手に話しているとき、パリサイ人や律法学者たちがつぶやいていった、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」から、始まっています。この後に迷わぬ九十九匹の羊よりも迷える一匹の羊をさがし出した時の喜びが天では大きい事を説いています。同じ意味の譬を銀貨に例えていっています。そして三ツ目の例えとして放蕩息子が出てきますが、いずれも同じ意味を持ったものといえましょう。天では一人の罪人の悔い改めが如何に大きいかということであります。

「人の子が来たのは仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人の贖いとして己が生命を与えるためである。」 (マタイ20:28)

一人の罪人を見出すという意味はこの言葉の中に含まれています。悔改めるという事は、ではどういうことなのでしょうか、神の側から見れば、罪人を探し出すことであり、人間の側からいえば悔い改めて神にかえることでありましょう。

「むすこは父にいった、「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向っても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』」(21)

 放蕩息子は人間の側の告白であり、父は神の側の告白であります。

 「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(24)

 神と人間とこの両者が一体となっているもの、探すものと、探されるものとが一体となっているもの、それが十字架でありましよう。そしてこの十字架が約束しているものは永遠の生命であります。聖書全体が問題にしているのは、「永遠の生命を得るためには何をなすべきか」とイエスに問うた富める青年の言葉に尽きます。「むすこが死んでいたのに生き返った」は死者の復活であり、永遠の生命を意味しましょう。それ故に父の歓迎は異常なほど熱狂的であります。

永遠の生命をぬきにしては政治活動も平和運動も無意味であります。

私は小学校五年生のとき、二階で首を縊っている兄を発見しました。そのとき以来、「人生とは何か、何のために自分は生きているのか」という一生のテーマを与えられました。癩の宣告を受けたときより、観念ではなく現実の問題として、一日としてこの問題から離れて生きることが許されませんでした。それほどに私にとっては切実な問題であります。現在、私は自治活動をし、毎日あわただしい日を送っていますが、この問題は私から離れません。そしてこの問題の解決を十字架上に見ています。

十字架は人生とは何かの問いであり、何のために自分は生きているかの問いであります。同じくまたその答えでもあります。十字架を仰ぐとき、終末の希みが迫ってきて私を圧倒します。終りの日にキリストに再び会えるということが最初のそして最後の希みであり、私の疑問に対する最初の問いであり、最後の答えでもあります。罪と死のどん底で魂に十字架を刻印されたとき以来、終末への希みは強くなるばかりです。

その前には自治活動も、政治活動も平和運動も、ものの数ではありません。資本主義国家がよいか、社会主義国家がよいかも数に足らぬ程の小さな問題であります。私が自治会活動をしているのも、肉にては罪の法則に仕えるということであり、カイザルのものはカイザルにということであります。パウロ的にいえば私は総てのものに対して自由であるが、総てのものに仕えるということであります。自治会活動家に対しては自治会活動家の如く仕え、政治家に対しては政治家の如く、平和運動家に対しては平和運動家の如く仕えることであります。十字架にあって自由であり、永遠の生命を与えられているからであります。放蕩息子の譬の中で、中心的な問題は永遠の生命ということではないでしようか。そしてそれは罪人が悔い改めて神に返るということであり、神は十字架を通して今も尚、迷える一匹の羊を探しているということでありましょう。 

死の家覚え書  No.62

(つづき)

君は経験したことがあるか、ないかわかりませんが、僕はときどき母が信じられなくなります。兄弟中で病気に罹ったのは僕だけで果して僕は父と母の間に生れた子なのか、という疑問が入道雲のように生れ、苦しめるのです。そんな時の僕は、形容のできない程みじめな気持になります。母だけではなく、一切が信じられなくなるのです。君たちと夕子との関係について、そのようなとき、僕を苦しめます。夕子の言葉を僕は信じませんが、疑惑のベールに包まれてしまうのです。けれども心配しないで下さい。かりに事実であったとしても、君たちを責める気持はありません。誘惑したのは夕子で、君たちはその犠牲者だからです。逃亡した後で分ったことですが、あれの言った事で、本当の事は何一つありません。皆うそなのです。それにも関わらず、僕はあれの存在を否定することができません。僕自身の肉体は死んでいるのに、情慾だけは生きて働き、肉感的なあれを求めます。僕が人間不信におち入ったのは、夕子のためです。というより、夕子によって露呈した自己の欺瞞のためです。余りにも弱く、誘惑に負け、そして不義を働くそれが僕をも含めた人間の姿です。

人間のどこに信頼し、交わりをしてゆけばよいのか、総ての人間が僕にはいつわりに見えます。不信と不義を働く者に見えます。田代君は、だからイエスは十字架の死を遂げられたのである。弱さの故に不信と不義なるが故に十字架の義に固着し、そこにのみ最初の、そして最後の望みを置くのだといいます。彼はまた、不信と不義の只中で、弱さと罪の只中で義とされることが十字架に縋る意味だ、十字架に於いてのみ人間を信じることができるともいゝました。教義として、観念としては分りますが、僕らはどこで十字架を知るのだろうか。信仰はキリストとの出会い、出来事だといわれます。パウロにはダマスコ途上に於る経験がありました。キリストによって新たに造られなければ人は救われない、という彼の教えはダマスコの経験を基にしていっているのでしょう。ヨハネ伝に於けるイエスもまた、人は新たに生れなければ神の国に入ることができない、といっています。

君たちの信仰による義は、カトリックの儀式に依る形式を通してキリストを知ることと、本質に於て変っているとは思われません。主観客観といっても厳密に分析すれば観念的なものでありましょう。

現在の僕にとって必要なのは主観か客観かということではなく、目で見、手で触れることのできるリアルなキリストを知ることです。具体的にはイエスによって癩病人が癒やされたように、咽喉切開と肉体の崩壊からキリストによって解放されることです。この苦しみから救われるということです。亡霊のように夕子のまぼろしを追い求める慾情から解放され、聖別されることです。このことが起らない限り、僕は神を信じることができません。僕が望んでいるのは全面的な神の支配を受けることです。そしてその世界は悪魔の誘惑にも動かされることはないでしょう。肉感的な夕子を見ても慾情は働くということも無いでしょう。敵を見ても憎む気にはなれないでしょう。田代君のいわれる世界、不信と不義と罪の只中に在って、義であり聖であり、希望である世界です。一口に言って聖人の世界なのです。聖人にとっては咽喉切開も、肉体の腐敗も苦しみも、喜びであり感謝であります。聖人の心は総てに向って開かれています。

現在の僕は、聖人の世界から落ち、肥溜の蛆の生活をしています。地獄で悪魔と同居して居ます。僕自身どうしてよいのか、生きることも死ぬこともできない世界に居ます。友よ、この世界にも神は居るのだろうか、キリストはこの世界の人たちのためにも死なれたのだろうか。この一点が分れば、或いは新たな世界が展開するのかも知れません。僕は田代君が、日夜僕のために祈っていることを知っています。僕は神を信じません。けれども彼の祈る神は否定できません。それは僕の神ではなく彼の神であり、僕の求めている神でなく、彼の神だからです。いつか彼の神が僕の神となり、僕の求めている神が彼の神となる時が来るかも知れません。そしてそのときの来ることを心から待望しています。その神は恐らく僕や田代君を越えた予想できない神でありましょう。

○月○日

花岡健より南条秋雄へ

君に誰よりも近く、誰よりも君を理解していると思っていた僕でしたが、お手紙を拝見して、僕は唯の傍観者に過ぎないことを知らされました。苦難に対して、人は誰でも傍観者に過ぎないのだろうか、愛する人の苦難を代理することができない限り、矢張り傍観者ということになるでしょう。唯一人の人だけが傍観者でないことも事実です。彼だけが人の苦しみを苦しみ、呻きを呻くことができます。彼だけがそれ故に其実の友となることができるとともに、彼だけは真実の愛の人です。僕たちはこのような人を知っています。そしてその限りに於て、僕たちは傍観者であり、孤立者ですが、同時にまた、傍観者ではな<、真実の友を持っていることになります。極限状況の中で僕たちは彼だけを最後の拠り処にしています。そしてそれが十字架上のイエスです。十字架の一点に於て僕たちは限りなく遠い傍観者であると同時に、限りなく近い変らざる友を見出すことができます。現実がどのように破れていても、そして君から僕が限りなく遠い傍観者であっても、十字架の一点に於て、君と僕とは矢張り結ばれています。他人でなく、真実の友情によって結ばれていることを信じます。前置きが少し長くなりましたが、君の友としてお手紙に対する感想を少し書かせて頂きます。

先ず最初に、僕は君に弁解しなければなりません。僕と岩淵はあの女と何の関係もありません。もし関係があったとすれば、友人の妻というだけの関係です。君が疑いを持っているようなことは、あの女のでたらめです。一体、君は不貞の限りを尽した女の言葉と、君の友である岩淵と僕とをどちらを信じるのだろうか。これ以上僕は弁解するつもりはありません。僕が君の手紙を拝見して、奇異に感じたことは淫行の限りを尽した揚句、君を捨てて逃亡した女に対して、少しも怒りを抱いていないことです。逆に君の言葉をかりていえば身体は死んでいるのに、心で女を恋い慕っていることです。僕は結婚の経験がありません。母以外に女の肌に触れたこともありません。それ故に夫婦の愛情を理解することもできません。君の淫行の女を慕う感情は僕の理解を越えた世界です。信仰とどのような関係があるのだろうか…。トルストイからカトリックヘと転向し、律法無くしては救われないと、誰よりも律法に忠実であった君と、女との関係はどう理解したらよいのだろう。君は女の乱行について長々と書いていますがそれに対する怒りがありません。何故、妻の淫行に対して怒らないのだろうか、女の罪を憎まないのだろうか、不義に対して激怒しないのだろうか。君の義認と聖化と、どのような関係があるのだろうか。君は女の不義を憎むかわりに、女を慕う慾情に悩まされていることを書いていますが、その言葉の背後に不倫の女の醜行を楽しんでいるのではないかと疑いが起るほど、君は、姦淫について、でたらめな事を平気でいう女に対して怒りません。なぜだろうか、なぜ君はそのような悪を喜び、不義を慕う自己と、きびしく対決しないのだろうか。律法に忠実であったパウロは、「われはかって戒めなくして生きたけれども、戒めがきたとき、罪は生き、われは死んだ」といっています。また律法によって罪を知ったともいっています。そしてあの有名な言葉を吐いています。「ああ、われ悩める人なるかな、この死の身体よりわれを救わん者は誰ぞ」。律法に忠実であったパウロと君との相違がこの辺にあるのではないだろうか。信仰の相違といってよいでしょう。パウロは律法の下に生れ、律法の下に育ったユダヤ教徒です。僕たちは無律法の下で生れ、無律法の下で育った異邦人です。律法が無いからといって責めることはできません。また律法があるからといって誇ることもできないでしょう。本質に於ては異邦人であり、無律法者です。神が無くとも生きられる民です。血を流すほどの罪との斗いを理解することはできないのです。というのは、ユダヤ人のように、という意味です。神の民である彼らにとっては、律法を守る守らないは死活の問題であります。神があるか無いかは彼等の民族の興亡に関わる問題なのです。異邦人である僕たちには理解できない世界です。僕らにとって問題なのは、たかだか自己の救いに関わる程度のものでしょう。こうした両者の相違が律法を守るといっても質的に違ってくるのではないだろうか。パウロにとって律法は神のリアリティであり、僕らにとって律法は観念に過ぎません。それ故に罪に対する感覚が鈍いのです。或いは罪との格闘ができないのです。神の義が問題なのではなく、心の平安が問題なのです。神の支配と神の義が問題なのではなく、自己の救いと幸せが問題なのです。 

僕らはどこで神の義と、自己の罪を知らされるのだろうか。律法によってであろうか。異邦人である僕らには、律法を通して神のリァリテイを知ることは不可能です。異邦人である僕らが律法を守るとき、神は観念に過ぎなくなってしまうでしょう。罪に就ても同じことです。それが君の歩いてきた世界ではなかったろうか。僕たちは十字架以外では神の義を知ることことも、自己の罪を知ることもできないでしょう。十字架にだけ神の義と罪のゆるしがあります。そして律法を知ることができます。十字架に於て律法を守るといった方がよいでしょう。十字架だけが神のリアルであり、律法なのです。僕らの信仰は十字架によって始まり、十字架によって終るといってよいでしょう。十字架の義を魂に刻印されるとき、彼に死に彼に生きるということが起ります。きびしい自己との対決、罪との斗いが起ります。

 療養通信

 民族、又は国家が契約による共同体であることは説明を要しないでしょう。全生園は特殊な社会を形成していますが、管理者と患者代表である自治会との契約によって成立していることも基本的には民族国家と変りません。管理者と自治会との約束が、どちらかによって破られれば全生園は混乱し、収拾つかぬ状態に陥入ります。

最近不自由者第一センターの在り方について、この問題で強く考えさせられました。第一センターには身障者が二百五十人居ます。それを介助する看護助手が六十三人、ほかに主任看護婦が三人です。これを掌握し運営しているのが婦長ですが、施設側では管理を容易にするため、第一センターの二分案を寮長会に提出しました。第一ブロック寮長会は、分割によって患者勢力を分散させて、力による管理をしようとする園首脳部による策動であると反対しました。自治会は寮長会の決定にもとずき、園主脳と第一センターを二分化しないという約束をとりかわしました。その後、分ったことですが主脳部は二分化を決めて二人の医師を第一、第二センター長に任命し、事務員も二人採用し、配食所と事務所の建設もひそかに進めていました。配食置場の建設は二分化に関係がないとのことなので寮長会に計り承認して頂きました。寮長会では二分化を前提とした配食置場であるという理由で反対され、私が攻撃の的になりました。配食置場の建設は二分化の前提であることは明らかでありますが、センター長となるべき医師と総婦長が二分化でないと断言する限り、反対の根拠がありません。二人が嘘をついているのだと分っていても、施設側を代表するお二人を信じなければなりません。もし信じられないとすれば、両者の関係は破れ、どちらかが退陣するほかはないでしょう。

ところで配食所の建設が始まると同時に、センター長となるべき先生より、事務分室を配食所のわきに作りたいという意図が私に示されました。分室は二分化ではないと言われましたが、明らかに詭弁であり、私の態度は決定しました。事務所を建設するならば、第一ブロックの中央委員は責任をとって辞職すること、同時に約束違反の責任者を徹底的に追求するということです。それまで、寮長会からは園の手先だと批難されていた私です。施設側は事務所建設は断念しましたが、自治会と首脳部との懇談の中で繰り返し言いました。「患者さんの幸せになることがなぜいけないのですか、先生たちの善意をなぜ拒否されるのですか。」それに対して約束違反だからと答えましたが、相手にはなかなか理解されません。私が問題にしたのは、分割する事が良いか悪いかではなく、それによって患者が幸福になるか不幸になるかということでもありません。約束は守らなければいけないという単純な理由なのです。自治会と園首脳との約束は全生園の憲法ともいうべきものでしょう。この契約が守られることによって全生園の秩序が維持されます。良いことのためには約束を侵してもよいのだという考えは善ではなく悪でありましよう。もし一人の医者の考えが善であるとすれば高慢であります。神以外に善はなく、神の義もありません。(以下次号に)