松本馨さんの手記より


原田嘉悦さんを悼む

松本馨

(1987年5月)

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 原田嘉悦さんは一九〇〇年生まれで年齢を数えるのに大変便利である。召されたのは一九八六年十一月八日であるから八十六歳で死因は肺ガンであった。集団検診で発見されてからわずか四ヶ月という短い期間であわただしく旅立っていった。原田さんの愛称は"お父っあん"で園内にその計報が伝わると誰いうともなく原田さんは全生園みんなの"お父っあん"だという声があった。それほどにみんなから親しまれていたのだ。自分には松本と山下以外に友達はいないと園長の成田先生に話したという。そのなかで松本は私の子飼いだといった。成田先生は電話で私にその理由をたずねたことがあるが、私は原田さんから子飼いといわれたことに誇りを感じている。原田さんは私を息子のように思ってくれたのであろう。そして、山下は私が寮父をしていたときの子供で原田さんのことを私はよく子供たちに話した。そんなことから原田さんは子供たちのあこがれの一人になっていた。大きくなったならば、原田さんの部屋に入ってともに生活をしたいという考えをもった子どもも少なくはなかった。山下君もその一人で希望がかなって少年舎から原田さんの部屋に入れたのだ。私が原田さんの息子であるならば山下君はその孫にあたる。この孫は大変おじいさん思いであった。毎年、どこかの支部で支部長会議が開催されその会議に私は支部長としと出席したが付き添いはいつも山下君であった。十八年間、私はその会議に出席し多い支部には二〜三回出席しているが、山下君はその度ごとに土地の名物の土産品を原田さんに買って届けた。私はどちらというと忘れてしまうほうで、山下君が熱心に何がよいかと求めているのをみて自分も買ってあげなければと思う程度であった。要するに私は原田さんからみればできの悪い 不肖の息子であった。原田さんはこのできの悪い息子とじいさん思いの孫に葬儀を託して世を去ったのである。 

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 原田さんは一九一九年(大正八年)強制収容の洗礼を受けた。二回目は、二年後の二十一年に目黒の慰廃園の政府患者(委託患者)として送られてきた。原田さんは病型はT型で、外国では自然治癒者として患者としては扱わないが、我国では一度ハンセン病の宣告を受けた者は終身患者なのである。原田さんは八十六歳になるまで「俺は大楓子油注射一本を打っただけである」と折にふれていっていた。つまり治療の必要はなかったのである。十九歳の若さで隔離されることに耐えられなくなり一回は逃走したのであるが、神はこの若者をとらえて目黒慰廃 園に送り、米国宣教師オルトマン氏より洗礼を受けて収容所に再度送りこまれたのである。この二度目の収容は重要であった。キリスト者としての明確な目的意識をもって入ってきた原田さんは、周囲の人達を驚かすような猛烈な勉強をした。そして、教会の指導者となって求道者に聖書を教え、また、寮父となって少年の指導教育にあたった。

 一九三五年、原田さんは学園の先生であった原田フミさんと結婚するためにに寮父をやめ、もと居た桔梗舎の一号室に帰ってきた。その部室には七月に収容された十七歳の少年がいた。少年は一生隔離されることを嫌って自殺しようとしたが、死の一歩手前で  「俺はなんのために生まれてきたのだ?」  という疑問がおこり、死ぬことはいつでもできるこの疑問をといてから死んでも遅くはないと自殺を思いとどまって、収容された。少年は辞典を片手に難解な哲学書を昼となく夜となく目を充血させて読んでいた。原田さんはこの変った少年に興味をもち特別に目をかけるようになった。少年もまた丈が一八○センチもあるような大男で目が鋭くほりの深い日本人ばなれした顔に魅かれた。

 部屋には正方形の火ばちがあり、二リットル入りの鉄瓶がかかっていた。原田さんはお湯がわくと日に何度でもお茶を飲んだ。お茶がそれほどあるわけでもなく、一度入れるとお茶の色がなくなるまで飲んだ。そして、少年に哲学・宗教・文学多方面にわたって話した。

 「ヨブの妻は夫に向かって神を呪って死んだ方がよい」 といったために、世界の三大悪妻の一人になった、という話や、もう一人の悪妻はソクラテスの妻であることや、ソクラ テスは弟子に独房からの脱走を勧められるが、それをしりぞけて自ら作った法には従わなければならんといって毒杯を飲んだことの話など少年は驚きと感嘆をもって聞いた。内村鑑三には多くの弟子がいたが、頭の良い弟子は内村に反抗し背教者になったこと、有島武郎、小山内薫のことなども話した。その他にキェルケゴールやニイチェ 、ミルトン、ゲーテなど、逸話を交えてその人となりと思想を語った。日本人では、夏目漱石、芥川竜之介、西田幾多郎、道元、芭蕉など数えきれないほど次から次へと名前がでてきた。そして、そのような毎日が五年間続いたのであるが、少年は聞き飽きるということは一度もなかった。まるで原田さんの口からでるひとつひとつの言葉が少年には目の暗む宝石のように思えた。この少年が実は私である。

 原田さんが帰ってきたことから、もうひとつ大きな変化がおこった。それまで部屋に出入りしていた人達はまったく姿を消し、代りに全生園を代表する文学青年が原田さんのところに来るようになった。「いのちの初夜」で有名になった北条民雄 、詩人の東条耿一、歌人の光岡良二その他学園の教師をしていた者など、原田さんとの話題は宗教・文学・哲学であった。 私は片隅でこの人達の話をひと言も洩らすまいとして聞いていた。また、原田さんに代ってお茶の接待などをしていたのである。北条の言葉で今でも私が忘れることのできないのは、人間が不幸なのは恐怖の感情をもっているためで、それを克服することによって不幸から解放されるという話から、「北条はピストルの銃口を自分の脳天に突きつけて笑うことができれば、そのとき俺は自己を克服したのだ。」  私はこの突飛な北条の言葉に仰天したが、後にドフトエフスキーの作品に親しむようになったとき、悪霊の中のキリーロフに影響された言葉であることを知った。北条は若かったのである。私は原田さんに誘われて北条の書齋に何度か行ったことがあるが長くは読かなかった。北条の命はあまりにも短かった。北条ひとりだけでなく、東条耿一と四〜五年の間に次々と亡くなり、一九四一年にはそのグループは光岡良二ひとりになってしまった。 

(三) 

 一九四一年、施設の補助機関としての全生常会が発足し、原田さんはその役員となった。全生常会は戦後患者自治会に発展し、原田さんはそれに深く関っていった。それとともに原田さんのところに集まってくる人達は政治に関心の深い者に変っていった。全生常会をいかに運営し、会員の福祉を向上していくか、熱っぽい議論が毎日のように続いた。この年私は寮父となって少年舎に移った。

原田さんの六十五年の療養歴は三期に分けることができる。前期は一九二一年の再入園から四十年頃である。この時期は教会を中心とした活動期であるといえよう。中期は四十一年から六十年頃までである。自治会に専念した時期である。後期はそれ以後になるが、戦後の患者自治会時代に原田さんは会長を六度勤めたが、改革者として先頭にたって強力に指導力を発揮するタイプではない。戦後の自治会は収容所からの脱出と改革をめぐって保守革新の対立が激化し、一年の任期を無事に勤めるということは、ほとんどまれであった。途中で役員が総辞職し選出が暗礁に乗り上げてしまうことがしばしばおこった。そのようなとき、左右両派からかつがれて原田さんは会長になった。原田さんの会長としての役割は、左右両派の対立を和解させる中保者的なところにあった。いかにもキリスト者としての原田さんの役割であり、原田さんの全人格に左右両派はもちろんのこと、全入園者がついたのである。原田さんは自治会に出勤する前は必ず聖書を読み祈った。それが原田さんの和解者としての使命を果たさせたのである 。

六十年以後の後期は自治会を引退し活動家としての原田さんの使命は終ったかのように見えたが、一九七三年、患者の誰もが考えてもみなかった世界のハンセン病患者に救援の手を差しのべる「世界ハンセン病友の会」をつくったのである。私は、この構想を聞かされたとき、その規模の壮大なのに驚くとともに協力を約束した。以後、友の会については私が原田さんの相談役になった。  原田さんが「世界ハンセン病友の会」をつくる決意をしたのは、JLMの後藤会長の急逝にあった。後藤会長と原田さんは若い頃からの 親友であった。会長は今後のJLMの活動としては、世界のハンセン病患者が対象にならなければならないという構想の下に準備をすすめていたのであるが、 心不全で倒れた。原田さんはその意志を継いで、友の会を結成したのである。この会に全面的に協力してくれたのが日本赤十字社であった。友の会は会員制度である。一口百円で、一人何口をもってもよい。その集めた金は、発展途上国のハンセン病の友人に送るというもので、インド・ネパール・ フィリッピン・バングラデシュなどに、日本赤十字社を通して救援金が送られたが、各国の赤十字社社長は、ハンセン病患者が他国の患者のために救援金を送ることをしているユニークな活動に感動し、大きな反響があった。韓国には、JLMを通して救援金が送られたが、その救援金を資金にして定着村の子供たちの育英資金に使 う「世友」という組織がつくられた。原田さんは、その会長に推されたが、その育英資金を使って大学を卒業し社会人となっている者もいると聞いている。「ハンセン病友の会」は十年続いて解散した。理由は、原田さんが高年齢者になったからである。

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六十五年の原田さんの歴史を簡単にふりかえってみたが、原田さんには不可能というものはなかったのではないかと思うほどに、その信ずるところ思うところを実行に移していった 稀にみるしあわせな人であったように思う。患者として隔離はされたが、原田さんは一度も大病らしい大病はしていない。病気といえばカゼをひいた程度である。そして、最後にかかったのは"ガン"という死病であった。私は、内科の先生から原田さんのガンのことを打ちあけてよいか相談をうけたとき、ためらうことなく話してあげてほしいといった。キリスト者としての心の準備はして頂きたいと思ったからである。原田さんにとってそれは大変な衝撃であった。自転車に乗って買い物をしており自覚症状はまったくなかったからである。原田さんは病棟に入ることを最後まで拒みつづけた。死を予感したためであろう。病棟に入ってからの原田さんは急速に衰え弱っていった。

 化学療法に年齢的に耐えられなかったことが最大の原因であると思うが、これは私の主観で、医師の立場からいえば、まったく違ったことをいうであろう。しかし、私個人の考えというより 、原田さん自身が最後まで化学療法に耐えつつも不信をもっていたことだけは言っておかなければならない。そういうなかで、園長の成田先生だけは信頼していた。終りの頃は幼児のように成田先生が見舞いに来るのを待っていたのが印象的であった。原田さんはいよいよ最後とわかったとき、私と山下君に葬儀は自治会の申し会わせに従ってやること、追悼会は一切しないことを遺言とし、人生は 儚いものだ、と私に言って八十六歳の生涯を閉じた。四か月の病床生活のなかで、肉体的に徹底的にさいなまされ、弱くされ、無力にされ、最後に十字架の主イエスにすべてを委ね生涯を終ったのである。終りに、原田嘉悦さんの霊魂の平穏を折る。()