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 無教会 

「小さき声 1982年11月−1983年1月

松本馨

 (一) 

無教会は、イエス・キリストを信ずる契約共同体であるが、教会のようにサクラメントを制度として持たず、教会維持のための規則もない。聖日毎に行われる集会はできごととして生起し、奇跡として継続されていくのである。このような信仰はできごとであり奇跡だからである。その信仰は上から下へ、下から上へと直線的であって横の線がない。これがために、無教会は主観的、客観的と批判をうけている。我が国に無教会が興つたのは、内村の信仰の受容方法に原因していた。私はさきに。ハウロと内村の共通性について書いたが、。ハウロが異邦伝道をしたのはそれなりの歴史的背景があった。彼はサウロ時代に、「わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた」(ガラテヤ1−13)

 パウロはガマリエル門下の律法学者で、「「……律法の義については落ち度のない者である。」(ピリピ3−6)と、熱心なパリサイ教徒で、キリスト教徒を異端として迫害したのであった。そのパウロがダマスコ途上で、復活のイエスによって回心し、召命をうけた。中央では、イエスの兄弟ヤコブとペテロをはじめ、十二使徒が中心となって宣教活動をすすめ、大きな成果をあげていた。。パウロの教会迫害は、中央のペテロたちの耳にはいらないわけはなく、召命をうけたからとて、ただちに中央に上り宣教に加わることは不可能に近いことであったろう。パウロの異邦伝道は必然であった。 

 内村のキリスト教との出合いは札幌農学校にはいった時であった。農学校では既にクラークによって信仰の種が蒔かれ、学生たちが自主的に集会を守っていた。自主的ということは重要である。集会は牧師や伝道師、あるいは長年教会生活をした者が教えに当たるのであるが、ここではアメリカの教会制度も、教会の礼拝形式も知らない者たちが、クラークから寄贈された聖書をもとに集会を守ったのであった。それがいかに自由で、青春にあふれたものであったかは理解できよう。二期生たちは、入学と同時に一期生から強引に信仰をすすめられた。内村は日本の神々を信じていたので強く抵抗したが、最後に名誉の屈伏をした。米国教会も日本の教会制度も知らず、青春らしく純粋に真理を聖書から学んだ。内村の無教会の種はこの時に蒔かれたのではなかろうか。 

 内村はアメリカに渡り異郷の地で回心し、帰国後は教鞭をとったが、同僚や学校の管理者との意見が対立し長くは続かなかった。札幌農学校で学んだ自由な魂と、彼の性格にもよるのであろうが、真理に対する妥協をゆるさなかったようで、教会との協力については尚更のことであった。内村の魂は教会の中にとどめておくことのできるようなものではなかった。私は、ハンセン病の宣告を受けて自殺しようとした時、「俺は何のために生まれてきたのだ……」という一大疑問が起こった。十六才の時であったが、この疑問を解いてから死んでも遅くはないと、自殺を思いとどまり全生園に入園した。収容所にはいったのちは、わからないままに哲学書や文学書を手当たり次第に読んだが、文学書を読んでいるうちに聖書を知った。特にドストエフスキーによって聖書の大切なことを教えられ、読むようになったのであった。

  「俺は何者だ……」というひとつのテーマを抱えて聖書を読むとき、生きた書物として私の心をとらえたのであった。ところが、教会で洗礼をうけてからは、聖書は最も遠いものになってしまった。教会の枠の中で読むことは困難で、集会の人たちと当番で聖書を語ることもあり、私の話は、文学的であると批判をうけたが、それは最も身近に聖書を感じるときであった。このように主体的な読み方をすることが、のちの回心につながっていったように思う。 

 内村は札幌農学校で、何よりも自由に日本人の心で聖書を学んだことと、彼の伝道が教会からの派遣ではなく、回心というできごとを通して起こったことが、のちの無教会に関連しているとみるのが自然であろう。無教会は日本に興つたが、無教会とは何であろうか。無教会の信仰は縦の線で神と結ばれているが、横の線がない。つまり、組織とか制度というものがない。これは地上の勢力となることを厳しく拒否しているからである。このような集団は終末的集団といえないだろうか。内村はその生涯に三度戦争を経験した。はじめの日清戦争の時は義戦を唱え戦争を支持したが、それが義戦ではなく大陸への侵略であったことを知り、以来戦争に反対し、平和主義に徹した。 

 第一次世界大戦のとき、内村は平和への最後ののぞみをアメリカにかけたが、アメリカ参戦によって、地上の平和に絶望した。これは彼の戦争反対の受けとめ方が律法的であったためであろう。第一次世界大戦が終ったのち、内村は再臨運動を起こした。キリストの再臨以外に地上から戦争はやむことなく、恒久平和のないことを示されたからであろう。この再臨運動は無教会の終末性を示すものであるが、より根源的には地上の勢力をのぞまず組織や制度をもたず、ただひたすらに神の言により頼むことが、終末的エクレシヤなのである。これは非歴史的、非現実的にみえるが、苦悩にみちた現実世界の十字架を負っているのである。またこのようなエクレシヤからは預言者的クリスチャンの現れるのが特質である。 

 内村鑑三は明治、大正にかけて、わが国の思想界に大きな影響を与えた預言者的クリスチャンであった。第二次世界大戦に反対し、預言者的役割を果たした矢内原忠雄先生は内村の二代目の弟子である。関根先生は、塚本先生を黙示の人であると言われたが、先生自身、現代を黙示の時代として宣教をすすめられている。 

 無教会者がすべて終末的信仰に立っているとは言えない。むしろその数は少ないかも知れないが、地上の勢力となることを断っている無教会は終末的と言えないだろうか。これには多くの人が反対すると思うが、私は無教会を終末的とみたい。そして、無教会のもうひとつの特質は、学者、無学者の区別もなく、富んでいる者も貧しい者も、健康な者も病んでいる者も、男も女もみな平等であり、十字架の前に立つこと.かできることであろう。 

 終末的エクレシヤはこの世のすべてを相対化し、イエスが中央集権とたたかって取税人や罪人、盲人、手足の萎えた者、病んでいる者の側に立ち救いの手をさしのべたように、無教会もそうしたイエスの位置に立っているのである。(1982年11月

(二) 

無教会は三代目から四代目へと移行しつつあるが、無教会の危機を訴える声が起こった。理由は後継者が出てこないということであろうか。 

 無教会の宣教域は、二代目までは中央とその周辺に限られていたが、地方の小都市においても集会が開かれるようになり、宣教域も日本全体に広がった。集会にはそれを司る指導者がおり、その数は二代目の頃とは比較にならないほど多い。後継者が現れないという言葉は奇異に感じられるが、それは二代目に見られるような預言者的指導者が現れないことを指しているのであろうか。 

 私はさきに、無教会は組織や制度はもたず、地上の勢力となることを欲しない終末的契約集団であることと、預言者的指導者がその中から現れるのが特質であると書いたが、第二次世界大戦を契機に、無教会は質的に変化し、預言者的指導者が現れる要素がなくなったのではないだろうか。 

 第二次世界大戦の反省として、教会、無教会を問わず、宣教と併行して社会的実践が重視されるようになった。若い人たちは、戦前の聖書講義を中心とした集会を敬遠し、行動的な集会へと集まっているようだが、これは時の流れであり、こうした風潮は今後ますます広がっていくものと思われる。反対に、しるしとしての契約共同体はかえりみられなくなっていくのではないだろうか。このことについての象徴的なできごとは、矢内原忠雄の系列に属する人たちによって著わされた「敗戦の神義論」であった。これは、二代目が十五年戦争といかに関わったかを明らかにし、戦争に反対しなかった二代目を批判したもので、その頂点に立たされたのが塚本虎二であった。塚本と対照的なのは、戦争に反対した矢内原忠雄であった。塚本は聖書の言に従って忠実に福音を説き、矢内原は社会的実践を重んじた。無教会は内村以後この二人によって代表される方向を辿った。 

 二代目は、無教会の受容の方法に違いはあっても内村の弟子という点で一致し、無教会宣教の戦いを進めることができた。三代目になると、二代目のように同じ師のもとに一致するという共通の場がなくなったこともあって、教義上の相違が表面化してきた。四代目になると無教会の危機説がいわれるほどに、各様、各説で、大きな転機に立たされているように思われる。それは、キリスト教世界史の中に歴史的役割を果たしていくのか、それとも、一九〇〇年代日本に現れたキリスト教精神主義運動として消えてしまうのか、ということである。

 私は、無教会は地上の勢力となることを断固として排斥し、組織も制度ももたず、ただ十字架の言のみに立つ終末的エクレシヤが、世界史の中に位置つけられることであると信じている。 

 地上の勢力とは、神のみが支配し給う救いのわざ、イエスの贖いによって義とされるめぐみを、神のみ名において集団が所有することである。プロテスタントは、ルターが「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ロマ3-28)を発掘したとき起こった。 

 内村が発掘した無教会は、ルターが発掘した28節を、より根源的にうけとめ徹底させたものであると、一般的には理解されているが、それが上記のエクレシヤである。

 内村はまた、死の病床で「宇宙の完成を祈る」と祈った。このような祈りは終末的視点に立ってはじめて祈ることのできる、預言者的祈りではないだろうか。 

 終末的エクレシヤは、キリストの再臨運動を進めている再臨派とは異質のものであるが、無教会の危機を憂える者が現れたのは、組織のない組織をもちはじめたためではないだろうか。組織のない組織については次のようなことが考えられる。「敗戦の神義論」に見られるように、反核、反戦の平和運動はキリスト者の立場からも参加しなければならないが、その場合終末的視点を明確にしておく必要がある。終末的視点とは、神のみを絶対とし、世界のすべてを相対化してみることである。それによって、平和運動に参加しながら拘束されることなく、自由なのである。しかし、反核、反戦運動に参加しない者は無教会者に非ずというとき、それは信仰ではなく律法であり、地上の勢力となることではなかろうか。すなわち、組織のない組織をもつことであり、内村が提唱した無教会とは本質的に異なっているように思われる。 

 この問題は、私にとって一生の課題であり、今後共研鑽を重ねていかなければならないであろう。(1982年12月)

 (三) 

プロテスタントは、ルターが、「・・・・・人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ロマ3-28)を発掘したときおこったといわれる。 

 内村はルターが発掘した義認の信仰をより徹底させた。それが無教会という形をとった。徹底させたとは、カトリックの修道僧であったルターは、制度としてサクラメントを教会に残したが、内村は制度としてそれを残さなかったことである。ルターの時代を考えるとき、サクラメントの問題はそれほど簡単なことではないように思われる。ルターは一五〇〇年代に生きた人であり、その時代を考慮しなければならないであろう。プロテスタントが世界に広がった要因の一つはサクラメントにあったといえないだろうか、ヨーロッパの文化は比較的進んでいたとしても、世界全体からみれば文字の読める人は少数であり、特に未開発国では文盲が多数を占めていたであろう。聖書は職業層の手中にあったが、ルターによってはじめて民衆の手に渡った。印刷技術なども未熟であったことを考えるとき、サクラメントは福音宣教にとって重要な役割を果たしたであろうことが想像される。

 文字が読めず自己を表現することさえ満足にできないような民衆にとって、サクラメントは信仰告白であり、信仰的決断であった。各自がさまざまな誘惑や試練に耐えることができたのは、洗礼を刻印されていたためであった。現代においても洗礼によって苦難を克服した例は珍しくない。按手礼は牧師になるための聖礼典であるが、福音の伝道が牧会以外になかったことを考えるとき、職業的な宣教者が必要であったことは容易に理解できよう。 

 内村は二十世紀に生きた人間であり、ボンヘッファーの神なくして生きられる成人した時代の人である。わが国には文字の読めない人は皆無に近い。印刷技術も発達しており、聖書をはじめ哲学書や文学書などにおいても、入手は容易である。科学的合理主義の現代ではルターの時代のように宗教領域の中に民衆を封じこむことはできない。 

 第二次世界大戦以後、若い人たちの宗教ばなれが世界的な傾向にあるのもこうしたことが原因ではないだろうか。とりわけ科学の進歩はとどまるところを知らず、植物の細胞融合や動物の遺伝子組替えによる新しい生命が作られつつある。わが国では人間の遺伝子と猿の遺伝子組替による実験が始められ、聖域とされていた生命にまでも科学のメスははいりつつある。内村が提示している問題はこの科学の時代に、自己の罪を認め十字架にある神の義を信ずるか否かということである。これが内村の「仰瞻」十字架信仰である。 

 内村はアメリカで回心し、帰国後は教師となったが不敬事件をおこし、国賊として教職を追われてさまざまな試みをうけた。それは伝道に立つための荒野の試みであった。こうして彼を伝道に派遣したのは、パウロの言葉を借りていえば「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒。パウロ」(ガラテヤ1-1)であった。 

 内村の宣教方法は、牧会はなく聖書を講義することであったが、聴講者に対しては厳しい態度でのぞんだ。発刊していた伝道誌を一年以上にわたって購読した者に限って、聴講をゆるしたといわれる。これは内村が聖書講義に命をかけたためであり、聴講者に対してもそれだけの真剣さを要求したものであろう。講義を聞いてよかったならば信仰にはいるが、よくなければやめるというようなものではなかった。このような集会は、集会にはいることが信仰告白であり、決断であった。そして、集会そのものがサクラメントといってもよいであろう。こうした集会が無教会とよばれた。 

 ある人が無教会研究のため内村の著書の中から無教会に関する言葉を集め、内村語録を作りこれを無教会であると考えるならそれは誤解であり、内村自身も迷惑であろう。何故ならば、それは内村語録の法的解釈であり、無教会とは異質のものと思われる。人類は自らの作り出した核の前に震えおののいている。遺伝子の組替や細胞融合によって創造の秩序は破れつつある。その結果、原始のような混沌と生の無意味性に、現代人はニヒルにおちいっているといえないだろうか。それは創造と救済のときを失っているからである。 

 聖書には三つの時がある。その一つは「はじめに神は天と地とを創造された(創世記1-1)のときである。 その二は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1-15)のイエスの時代である。その三は「その日、その時は誰も知らない。天の御使たちもまた子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイ24-36)の終わりの日のキリスト来臨のときである。 

 現代はイエスの時代と終りの日の中間時であるが、始めと終りの時を喪失するとき、この中間時は混沌となり、生の無意味性におちいってしまうのである。無教会は世俗のただ中にあって世の勢力たるをのぞまず、組織も制度ももたない終末的エクレシヤであり、中間時のしるしではないだろうか。(1983年1月)