松本馨著作集目次


最後の一人のために

「多磨」 1968年11月号
松本馨(本園入所者)

 

人権宣言

本年の全患協七月行動に当って、多磨は二年ぶりに支部活動を起した。そして、多磨支部が七月行動に果した役割は極めて大きい。自治会再建を訴え続けてきた私にとって、多磨の支部活動は大きな喜びである。これが直ちに自治会再建につながるとは考えられないが、こうした行動の中から自治会が生れることは断言できよう。

さて、多磨支部実行委員会が、中央の交渉をバックアップするために地方医務局交渉と、施設交渉に取あげた重点項目は四つあった。

一、は強制隔離政策による損失補償。
二、は身体障害者−老令者をも含む−に、拠出年金に替る特別措置を考慮してもらうことと日用品費の増額である。
三、は作業賃の増額。
四、は居住様式の改善である。これに
五 として治療棟と病棟の改築

を加えると、全生園が抱えている問題は、全部出たと云ってよい。尤も一から四までは、多磨固有の問題ではない。全患協が本年度運動の重点項目として掲げたもので、全国療養所の共通した問題である。多磨固有の問題は五であるが、これとても全国療養所に無関係ではない。多磨にできる治療棟と病棟の改築は、ただ古いから建て直すと云うだけでは済まされない。後でふれるつもりであるが、全生園に出来る治療棟如何によっては、全国一万療友の医療体系が前時代的なものとなるであろう。全患協が本年度運動の項目の中に掲げている高度の治療が受けられる医療センターとしての性格を持ったものであれば、大きく我々の治療は進展するであろう。更にまた今後予想される医師不在の療養所に、最少限度必要な医師を確保することができよう。らい療養所に医師が来ないのは、らいが斜陽だからと単純に断定することはできない。高度な治療を施すことのできる綜合医療センターができれば、学校出の若い医師が技術を身につけるために喜こんで入って来るであろう。

以下、五項目について私の考えを少し書くことにする。不勉強な私は全患協ニュースを読んだことがない。私の知っているのは運動の項目程度で、その内容については殆ど読んでいない。従ってこれから書くことは、全患協が既に云い古したことを繰り返すような愚かさを演じるかも知れないが、読者のお赦しを乞う。全患協が毎年の運動のトップに掲げているのは、強制隔離政策による損失補償である。識者の間で、しばしば論議を呼ぶ問題である。結論から云えば、全患協のこの問題に対する姿勢は正しい。あらゆる諸要求、運動の基礎をなすものは、強制隔離政策による損失補償でなければならない。

施設交渉のとき、損失補償の説明に立つた委員より、隔離収容時代に行なわれていた患者に対する拷問の一部が明らかにされた。逃亡を企てた患者をつかまえて、お金の入手経路と、逃亡を助けた患者を白状させるために青竹でなぐったと云うのである。

私は昭和十年に入所した者であるが、当時はそのような拷問は行なわれていなかった。そのかわりに監房が利用されて、何かと云えば監房にぶちこまれた。私の知っているOは危篤の母に逢うために脱走し、つかまって監房に入った。最初の柵はうまく越えたのであるが、警戒網に引つかかってしまったのである。出房後の話であるが、或る夜、Oは洗濯婆さんの部屋に遊びに行った。すると洗濯婆さんは、お腹が空くだろうと云って麦ご飯のにぎり飯を掌に乗せてくれた。Oはすぐには食べようとはせずに、それをじっと見つめていたが、その内に目から豆粒のような涙がボロボロと膝の上にこぼれ落ちた。洗濯婆さんは、にぎり飯がなぜ悲しいのか、たまげてしまった。Oは飢えと寒さと、母に逢えぬ悲しみから逃亡しようとして首を縊くって死のうとしたが死ねなかった監房の生活を思い出したのである。

草津には重監房があった。その名を聞いただけで患者の顔色は変った。死を意味したからである。重監房に送られたYの話は余りにも有名である。洗濯場の親方をしていたYは従業員に長靴を支給してくれない限り、仕事は出来ないと洗濯場を放棄した罪で草津へ送られたのである。暁の護送だつた。まだ人達が眠っている内に、Yは監督に叩き起された。事務本館裏に連行され、国賊の汚名を着せられて重監房行が宣告されたのである。ここでは裁判も無ければ、異議を申し立てる機会も与えられない。所長の判断で総ては決定し、実行に移された。Yは看視の目の前で大急ぎで荷物をまとめ護送車に押しこめられてしまった。急を聞いて友人知人が各舎からそれに向って走って行った。別れを告げるためである。私の記憶では、風の強い嵐のような朝だつた。或いはその朝が嵐に思われたのかも知れない。こうした非人間的なやり方は、強制収容にも見られた。

或る患者は、野良仕事をしている処へ、村の駐在巡査に案内された係員が来て、その場から収容車で収容所に運んでしまった。或る女患者は、炊事をしている処へ現われて同じ方法で収容された。エプロンを脱ぐひまも無かったと云うことである。こうした強制収容の結果、発狂した者や自殺した者があった。ショックが余りにも大きかったためである。

これらは氷山の一角であるが海中にかくれている氷山全体を知ることはできない。大部分の人達は、すでにこの世に居ないからである。然しその氷山がどのようなものであったか、当時の隔離収容所の実態をさぐることによって想像することができよう。損失補償を要求する際、隔離収容所を如何に評価するか重要なポイントになるであろう。損失補償の説明に立つた委員は、病院のために患者が如何に尽したか詳しい説明を行なった。私も患者が病院のためにいかに尽したか知っている。だが問題は、患者が自発的に病院のために尽したのか、それとも強制的に働かされたか、冷静に観察しなければならない。

当時、病棟、不自由舎の附添夫は皆患者であった。病室には看護帰は居なかったのである。看護婦は医局各科に配属されているだけで、病室には検温と異常注射、それに診察の際先生のお伴をしてくるだけである。患者を直接看護することは無かった。末期的症状を呈した患者を看護婦か直接看護すると云うことは考えられなかったのである。患者が看る以外に方法が無かったのである。

不自由舎の附添夫は一室七人の病人を住込みで一人で面倒を見た。昼も夜もなく、週休も有休も祭日もなく、一年を通して働いたのである。薬配、洗濯場、大工、左官、土方、鍛治屋、所内に必要なものは全部患者が行なっていた。炊事の野菜は院内産で賄っていたが、患者が生産していたのである。

本論から少し横道にそれるが、肉類と魚類はぜいたく品として購入して食べることが禁じられていた。

衣類は毛織物はぜいたく品と見なされて、大正時代は家から送られてきても、虫が食うまでは渡さなかったと云う事である。手紙は読まれたし、荷物の中味は一つ一つ調べられた。

本論に戻って、昭和十年の作業賃は附添夫が最高で、最初の一年が一日十銭で二年以上は十二銭である。その他の作業は一日八銭で二年以上が十銭である。病院のために患者は低賃金で甘んじて働いた。また患者が患者を看護した理由として、相愛互助があげられている。だが果して相愛互助の精神で働いたのだろうか。総ての人が相愛互助によるものと信じている。最近まで私もそう思いこんできたが患者が働いたのは相愛互助以前の問題であることに、近頃になって気がつき始めている。相愛互助と云う美しいべールで覆う前に患者は働かなければ一銭の収入もなかったと云う事実を指摘しておかなければならぬであろう。下品な一例をあげて恐縮であるが、施設が支給していたパンツは一年に夏バンツ一枚と冬バンツ一枚である。如何に患者でも二枚で一年を越すことはできない。着物はゆかたが二枚と袷せが二枚、それに半纏が一枚である。この数は何年療養しても変らない。新しい衣服が支給される場合、二枚のうちの一枚は返納しなければならないからである。返納したものは切れた時の交換と新患者に支給される。一枚はふだん着、一枚は寝間着であるが、如何に大切に使っても、永くもたせても、少しも増えないのである。このことはどん底生活をしている者が、そこから這い出すことができない制度なのである。つまり少しでも楽な生活をするためには働く以外にはなかった。働いて冬を越すための肌着類を買わねばならぬ。食物の補食をとらなければ栄養失調に陥入ってしまうのである。熱コブ、神経痛、傷に苦しみ乍ら倒れるまで働いたのは、相愛互助の精神ではなく、生きるためだったのである。地を這う虫のようなどん底から少しでも這い出したいと願ったからである。こう云う制度は強制労働と本質に於て変らない。

昭和二十八年のらい予防法斗争は人間を失格していた患者が人間を宣言した斗争であった。損失補償要求の運動は人権宣言にまで高めて行かなければならない。人間を宣言しても生保患者の二分の一の待遇しか受けていない、らい患者はどこの国の国籍か分らない。損失補償要求は日本人としての権利を要求することである。もしそのことができないとすれば、真の意味で人間を回復しては居ない。そしてその原因が隔離収容所に対する理論的評価がなされていないためである。私たちは相愛互助の理念を決定的に捨て、もう一度過去に対する評価を新たにしなければならない。相愛互助の理念をふり廻す者は、厳しい看視の下で重労働に服している囚人たちを見て、彼らは相愛互助の精神で働いているのだと云つているのと同じである。田畑を耕している牛馬を見て、彼らは相愛互助の精神で働いているのだと云っているのと同じである。背後に鞭を持つた持主を見ては居ないのである。

無実の罪で服役した者に対しては、国は服役中の損害を補償する義務がある。私達が要求することは決して不当ではない。只この問題で旧悪を暴露するに急な余り、当時の職員を責めることはつつしまね ばならない。大部分の職員は世の人が誰もかえり見なかった時代に、らい患者のために一生を捧げてくれた人達なのである。患者を苦しめたのは少数の職員であるが、彼らもまた患者と共に患者の生殺与奪の権を所長に与えたらい予防法の犠牲者なのである。

特別措置と個室の問題

強制隔離による損失補償について、疑問を持っている人達の居ることを私は知っている、.その疑問は素朴な形で人達の間で囁かれているが、次の様な事である。

「強制隔離収容によって、私も家族も損失を受けたおぼえは無い、かえって助かったのだ。もし、隔離収容所が無かったならば、家族は私の一生の面倒を見なければならず、それによって受ける家族の犠牲は、金銭で量ることはできない。もし又、私の病気が世間に知れれば私は家を出て、生命の尽きるまで、あてもなく地をさ迷わなければならなかったであろう。強制隔離は、私にとって救いだったのである。」

 もし隔離収容所がなかったらと云う前提のもとに、強制隔離を肯定することは、強制隔離の是非とは無関係である。現実の悲惨を、それよりも更に重い悲惨を過去に想像して、美化することもありうるからてある。私が問題にしているのは、半世紀の歴史を持つ隔離収容所で、何が行なわれ何が起つたかと云うことである。このことに就ては前の項で詳述しているので再び繰返すことをさけるが、別の観点から疑問に答えることにしよう。

私は隔離収容所時代の私達と、アメリカの黒人と共通したものを感じる。人間を剥奪されていたことと、自由を奪われていたことである。白人がアジヤアフリカで行なった略奪のうちで、最大なものは黒人から人間を奪ったことであろう。黒人から人間を剥奪して、物として所有し、市場の商品として扱ったことである。この結果、黒人は自己が人間であることを意識する時に罪悪のようなものを抱くまでになったと云う。人間を恐怖する獣の感情なのである。黒人のこの感情は、隔離収容所時代を経験している私達にはよく分る。近村の人達は私達を山の豚と呼んだものである。恐ろしくグロテスクな山の豚として人達の目に 映ったのであろう。この人達を私達が恐れたのは獣の感情なのである。人間ではなく物となった黒人が主人である白人に向かって「私はあなたに買われたことを感謝します。あなたが買ってくれなかったならば私は食べるものもなく、住む家もなく死ぬほかは無かったでしょう」と告白したらどういうことになるだろう。もし隔離収容所が無かったならばという前提に立って、強制隔離を肯定することに本質は変らない。黒人の白人に対する感謝とは関わりなしに白人の行為は悪なのである。その罪は消えるものではない。むしろ感謝している黒人に、人間を喪失している悲惨を見なければならない。

こうした黒人に、黒人もまた人間であることを自覚的に受取らせたのがキングの黒人解放運動である。キングの人間意識の教育はアメリカ社会から黒人を締め出している諸制度に対して、抗議するデモに黒人を参加させることだった。キングが計画した最初の抗議デモは、黒人のバス乗車拒否に対するバーヒンガムに於るデモである。繰返し行なわれた抗議デモを通して肌で もって人間を感じ取って行ったのである。これは貴重な経験である。昭和二十八年のらい予防法斗争のとき、一切の自由を奪われて、半世紀の間、隔離されていた患者が自らの手で門を開き、国会に向って田無街道を行進した時とよく似ている。あの行進を通して、らい患者もまた肌で人間を感じ取ったのである。黒人指導者キングは兇弾に斃れて既にこの世には居ないが、黒人の抗議デモは今後も継続されるであろう。それの止む時は死か、白人と平等の自由を獲得した時である。キングは私達にもまた、如何にして人間を回復するか、国民と平等の自由を確保するか、を教えている。それは諸要求に対する運動を通してのみ受取らされるのである。損失補償要求が出来るか出来ないかは、その人が人間性を回復しているか、回復していないか位、私にとっては重要なことに思われる。

損失補償と共に、強く要望しているのは拠出年金に替る特別措置である。所得格差の問題は、いま急に持ちあがった問題ではない。数年前からの問題であるが、内容が変ってきている。昨年までは働く者と働けない者との格差であった。不自由舎対健康舎という階層別の格差であったが、拠出年金受給者の出現によって個人別格差に変って行った。偶然か、故意か、その辺の処はよく分らないが夫婦の拠出年金受給者は月額一万二千円である。これに対して福祉年金夫婦は月額五千円である。健康度、不自由度に大きな差があるわけではなく、同じ条件のもとで療養しているのに、一方が他方の二倍以上の生活をしているのである。これでは福祉年金夫婦が絶望するのは極めて自然の成りゆきなのである。独身舎では拠出年金六千円の所得者と、福祉年金二千五百円の所得者が、一つの部屋で所得に応じた生活をしている。福祉年金を受けている患者が、福祉年金受給者である自己に絶望している。拠出年金から洩れた患者が一時的に精神に異常を来した例もある。このような所得格差が、人間疎外であることは云うまでもない。拠出年金に替る特別措置と個室を要望する声が同時にあがったのは以上の理由によるのである。今後この運動は益々激しく、そして過激なものになっていくであろう。人間疎外がからんでいるからである。当局は事態の深刻さを正確にキャッチし患者の要望に答えるよう要望して止まない。

作業

作業問題に就ては、紙数の都合でページを多く割くことができなくなったので作業に対する私の基本的な考えについて書くことにしよう。

私は今日の作業制度は、前時代的な遺物だと考えている。働かなければ生活できなかった隔離収容所時代の患者作業を、私は強制労働と定義をした。その遺物だと考えるのである。遺物だからと云 って、ただちに放棄できない客観的な事情はあったが・・・。私のこの考えに対して、自分は強制されて働いているのではないと、反駁する人もあろう。私は問う。「では、あなたは働かないで、月額九百五十円の療養慰安金で生活できますか。」  郷里からの仕送りが無い限り、一人として生活できない筈である。恐らく、タバコ銭にも足りないであろう。好むと好まざるに関わらず、働かなければ生活できないのである。作業に従事する事は至上命令なのである。

施設の管理者は患者の労力を利用するために、療養慰安金は低くおさえておけばおさえておく程利用しやすくなる。患者は生活が苦しいから低賃金で働くのである。これを極限に利用したものが療養慰安金ゼロの隔離収容所政策であった。そこでは、働ける患者は、一日五銭か十銭の低賃金で働いたのである。盲人は口でガーゼをのばし、月額三、四十銭のガーゼのばしをした。こう云うやり方は資本家が労働者を搾取するのと本質に於て変らない。この辺で、作業従事者は作業制度の性格に就て、それが患者の労力を搾取するものであることを明確に理解すべきではないだろうか。そして政府に対して完全なる生活保障を要求すべきではないだろうか。全患協の日用品費五千円は、こうした裏付けのもとに出されていると聞いているが、果してどれだけの作業従事者が理解しているだろうか。更に厚生省を説得させる力があるだろうか。私は日用品費とは関係なく、作業従事者も特別措置と同じように、生活保障要求を出すべきと考える。そして生活保障された上で、作業制度の根本的な改革を計ったらよい。現在の作業賃は生活を保障された人達が、慰安作業として働く程度のものである。そしてこの時点で管理作業、プレス、労外に就て規制措置をとるべきであると考える。

車の両輪

以上は一万療友が切望している諸問題であるが、総てではない。療養所を第二の故郷とする私達にとって、療養所は治療の場であると共に生活の場である。車の両輪のように、どちらか一方であることはできない。今まで取上げて来た問題は、生活の場に於ける諸要求であったが、最後に治療の場である問題に就いて書くことにする。全患協は高度の治療か受けられる医療センターを運動項目の一つに掲げているが当然である。項目だけに終らず、その実現に努力されるよう期待する。私は療養所の運命は、この医療センターができるかできないかに、かかっているとさえ考えている。つまり、身体障害者として、或いは老人として扱われるか、或いは私達の最後の一人まで政府が医療の責任を負うか、と云うことである。

昨年、私は本紙十二月号に「世界医療センター」の構想を明らかにした。その目的は三つある。

一は全患協が取上げているように、総ての患者が高度の治療が受けられるようにすること、
二は医師の確保であり、
三はアジヤアフリカのらい患者に医療の手をさしのべるためである。

一年後の今日、医師の不足と医療の後退は次第に深刻化しつつある。戦後、治らい薬の出現と共に、らい療養所の医療は発展の一途をたどって来たが、ここ数年は足踏み状態をしていたような気がするが、最近は明らかに後退を始めている。その理由は過去十年の間に、新しい技術を身につけた若い医師が入って来なかった事と、医師の老令化をあげることができよう。若い医師が入って来ない理由としては療養所の斜陽化が考えられる。然し理由としては稀薄で真の原因は厚生省の姿勢にあると見るべきであろう。全生園の治療棟の各科をつぶさに見学すればすぐ分る。医学の進歩は各科の細分科と専門化しつつある。それに伴って医療器械も近代化しているが、そのような痕跡はどこにも見られない。私は全生園で心臓移植が行なわれても少しも不思議とは思わない。また脳外科や放射能によるガン治療が行なわれても少しも不思議とは思わない。病棟で病んでいる病人は、らいを病んでいる者は極て少数で大部分の病人は、内科、外科患者なのである。らいは斜陽だと云って厚生省はこの事実に目をつむっていないだろうか。

私は昭和十年に入所した者であるが、その頃の病棟が今もなお使われているのである。ただ一棟だけが使われていると云うのではない。精神病棟を除いた全病棟が、三十三年前に私が収容された頃の、当時すでに古ぼけた汚い病棟なのである。

お隣りの清瀬町には第二次大戦中に出来た結核の国立療養所がある。私達は東療と呼んでいるか、数年前に高層建築物に建て直されて全生園を見下している。矢嶋園長の説明によると、ガン細胞を破壊する放射能による治療設備がある。恐らくこの他にも私達を驚かすような医療器械があるに違いない。私が厚生省の姿勢を問題にするのはこの事なのである。厚生省直轄の国立療養所であるらいと結核になぜ、かくも差別するのか、既に論じた日用品費にしても千六百円の差額をつけている。結核患者は無償で生活が補償されているのに、らい患者は働かなければ生活できない、、その上に結核患者は現金で支給されているのに、らい患者はいりもしない現品で支給されるのである。隔離収容所時代の習慣と惰性で、らい行政が行なわれているとすれば、私達は強く反省を求めなければならない。

最後に私は、全国療養所の職員と患者が団結して医療センター設立運動に立ちあがることを期待する。医療センター設立は、現代に生きる私達が、後に生きる人達のために残しておかねばならぬものであり、現代に生きる私達の使命である。一万人の内の二十分の一、三十分の一、或いは最後の一人のために医療センターは設立しておかねばならない。生活の諸要求の声に消されてしまっている病棟の奥深くに、医療センターの設立を望む人達が居るのである。死と斗っている人達である。この人達のためにも、医療セン ターは設立させなければならないし、その責任が療養所に関係する総ての人にある。その声は弱く細く、小さければ小さいほど、関係者は謙虚に耳を傾けなければならない。私達もまた謙虚に病友の細き声に聞かなければならない。人の生命は世界よりも重い、それはキリストの教えなのである。