療養日記

爪を剪る

                            東條耿一

日向に出て爪を剪る

ホータイの中からわずかに覗いた指

そを ひとつひとつ

いとほしみつゝ爪を剪る

おほかたはくろずんで

あぶら気も艶もない

ぼろぼろの爪ではあるが

それでもわたしの血が通つてゐる

ちちやははや

兄弟の血が通つてゐる

思へば療養幾とせ

かうして爪を剪るのさへ

夢のやうである

あの友よ

この友よ

不自由なおん身らの様を偲べば

ひとり爪を剪ることの

不思議さ ありがたさ・・・・

ポキリポキリとこぼれ散る

ひざのへの

ひとひらの爪取上げて

ひがげに翳し

ひるがへし

しみじみとおろがみ見る

ああ わたしには

爪がある、爪がある、と・・・・・

 

(「山桜」昭和15月号)

 

 

閑雅な食欲

療養日記その三

                        東條耿一

 

 

食卓の上に朝日が流れてゐる

どこかで木魚の音がする

読経の聲も微かに聞える

わたくしは食卓の前に

平らな胡座をくんで

暫くはホータイの白い

八ツ手の葉のやうな自分の手をながめる

いつの間にこんなに曲つてしまつたらう

何か不思議な物でも見る心地である

わたくしはその指に

器用に(フォー)()をつかませる

扨て、と云つた恰好で

食卓の上に眼をそそぐ

今朝の汁の実は茗荷かな

それとも千六本かな

わたくしはまづ野菜のスープをすする

それから色の良いおしん香をつまむ

熱い湯気のほくほく立ちのぼる

麦のご飯を頬ばりこむ

粒数にして今のひと口は

どのくらゐあつたらうかと考える

わたくしは療養を全たうした

  友のことを考へる

療養を全たうしようとしてゐる

  自分の行末について考へる

生きることは何がなし

  嬉しいことだと考へる

死ぬことは生きることだと考へる

食事が済んだら故郷の母へ

  手紙を書かうと考へる

考へながらもわたくしの肉又は

まんべんなく食物の上を歩きまわる

「有り難う」とわたくしは心の中で呟く

誰にともなくおろがみたい気持ちで・・・・・

九月某日

(「山桜」昭和15月号)

 

 

 

東條耿一

 

われ一つの器を持つ

朱き下繪と

黒き配色

ほのぼのと

白を浮べて

はかなしや

もろく貧しき器を蔵む

われ この器もて

卒然と

酒くみしことあり

をみなと臥して

肌のぬくみ

ぬすみしことあり

はた思ひなかば

すぎるものあり

おのれ投げうちて

こばたむと思ひしことあり

そのありし日の

名残をとゞめて

染に濁れる

底はくぢけ

縁は歪みて

あなおもしろき姿かな

さはれ いつの日か

年古りし色もち添へて

わびしらに

光をはなち

かけがひのなき

器なりせば

三十路の今ぞ

しみじみいとほしみつ

 

(「山桜」昭和15月号)

 

 

 

 

 

 奥の細道

            東條耿一

 

むなしとて険しきに怖ぢ

迷ひては深きに()らふ

若くして旅は哀しや

日 暮れて 道なほ遠し

泣くもまたせんなしなどゝ

ひとり道化て笑ひやまねど

忽ちに谺と返し

そくそくと胸に衝き来る

わびしらよ はかなさよ

いよよ行くほど

鹿の音あはれ

降りしきる落葉の音の深くして

「むなし」

  「むなし」

と、()め行きぬ

古木のきしむ日ぞかなし・・・

そのかみの日の

在りし日の

旅のなりはひ いつしかに

わが胸底にしるしたる

憂ひの層ののあつけれど

世慣れ 旅慣れ

あはれを知るぞ悟りなれ

戒名おのれに唱ふれば

結ぶわらぢの紐かろく

われもひとりのをきなかな

しまらくは険しきをうなづき

しまらくは深きを愛でつ

今ひそやかにのぼりゆく

 

(「山桜」昭和15月号)

 

 望郷台

                            小杉不二(東條耿一)

―このつたなき詩編を北條民雄君の靈にささぐ

 

望郷台の宵なりき

遠き茜は照りはえて

蜩しぐれ 夏たけぬ

 

あはれ かなしく めづらかに

たまきをなせるめわらべの

われをかこみてあそぶらし

 

やまひふりたるいたつきの

われはなにをかこつべき
小さき手のうち歌のうち
お道化てあればなぐさみぬ

お道化てあればめわらべの
繃帯あつく巻きそへし
われの姿のおかしとて
白き達磨とはやすなり
歌ひめぐりてはやすなり

白き達磨とめわらべと
あそびてあれば遠き日の
うなゐのわれのかへりきて
流離のうれひのあつきなる

ふるさと 夢にゑがくとも
行くことがたきやまひ子の
こはつれづれのしぐさなれ
かくなぐさみてあそぶるを

噫 望郷のあえかなる
かはたれふかく 風立ちて
蜩のこゑさびれたり

おん幸うすきわらべらも
ほのかに明日を慕へつゝ
望郷台に散らかひぬ

われはもなににかいのりつゝ
わらべのうへに幸よあれ
雲のうえゆく 幸よあれ

 

(「山桜」昭和15年10月特輯号)

 

散華 

    詩心迷ふ

東條耿一

 

 

言にいひてさびしきかな

もだしゐてなぐさまぬかな

いづれ劣らぬまごころなれば

あはれわが筆に水ふくませて

鉢の萬年青を洗ふかな

 

自信

 

つゆふかき

あらくさなかに

まよひいりて

はつきりとさける

このあさがほよ

 

           うつつ

 

湯のたぎり

心よろしも

こもりゐて

しるしばかりの

爪を剪りつゝ

 

 又

ほとほとに

かたちくずれし

わが手はも

しるしばかりの

しこのこの爪

 

自責

―老父死の床にあれば

 

ふたたびは

あれることなし

うつしよに

つかへるときよ

つひにあらぬかも

 

 

つれづれに

はこぶ筆なれ

みそ路のいまぞ

なほ書きなやむ

「孝行」の

文字のさびしさ・・・・

 

(「山桜」昭和1511月号)

 

 

 

 

 義父房州の果實をたまふ

 

義父(ちち)の心こもれる思ふ房州ゆ今日はるばると着きし枇杷の實

 

房州の強き日射しに熟れたるか大き李のまろまろ赤し

 

義父のたびし大き李の赤々と灯に照れる見れば喰ふには惜しき

 

年々を送り来し枇杷この年もわが手にするよ黄なるつぶら實

 

ここにして見ることもなき枇杷李今日の机に山と盛られし

 

(「山桜」昭和15月号)

 

 

 

 静秋譜

 

凭りてをる老松の幹ひえびえと向つ杉原片日照りせり

 

()()(さき)端に小鈴をつけむ小禽来て宿らば忽ち呼鈴(べる)とならむか

 

わが眼はや十尺(とさか)前方(あまり)はおぼつかな()()の小鈴の鳴りをし思ほゆ

 

一枚の木の葉の如くぶらさがり繍眼兒は()に驚かずをり

 

眼の縁に白きテープを巻きてをるこの小禽はも掌に()

 

(「山桜」昭和1511月号)

 

 

短歌

蜻蛉譜

 

白菜のやは葉に溜る日のうらら蜻蛉の影のうつらひやまぬ

 

秋晴れのやは陽い照らふ栗穂立蜻蛉を止めて末枯れにけり

 

移り来て踏む庭土に蝉殻の一つ止まりし松毬を拾ふ

 

靄低く下枝を這へる桑の秀に頬白一つ鳴きしきる見ゆ

 

(「山桜」昭和1512月号)