癩者の父

                            東條耿一



 私が癩の宣告を受けたのは十六歳の時である。併しもう其れより二三年前、癩性斑紋が私の顔に出てゐたし、右足には炬燵で焼いた水泡の疵があつた。父は私の顔の斑紋を氣にして、私の顔さえ見れば、むつつりと、しげしげ見つめる。私が學校から歸つて、まだ鞄も下ろさないうちに、私を日向に連れて行つて、斑紋の出てゐる所を手で押してみたり、抓つてみたりする。時には針で突ついて痛くないかと訊いたりする。客が來てゐる時でも、食事の時でも、父は何氣なさそうに注意深く私の顔に視線を注ぐ。床についてからでも、ふと眼を覺ました時など、じつと覗き込んでゐる父の眼にぶつかつて、ぞつとした事も度々であつた。母は、私の斑紋が背や臀の方へ移るようにと神頼みをして、私にも信心を起こす様にとすすめた。この間、塗布薬を用ゐたり生姜湯で罨法したりしてゐたが、何の効果もなかつた。私は家から二里ばかり離れた社に、寒い頃であつたが二十一日間、夜の明け切らぬうちに二里の道を往復し始め、寒寒と星の耀ふ社頭に霜の凍りついた土に両手をつかえ、斑紋の快癒を泣いて祈願したのであつた。が高等小學校を卒業した時、私は癩の宣告をされたのである。
 その頃、父は五十何歳かの職工であつた。私に高等小學校を修了させるのは並大抵の事ではなかつたに違いない。県立病院で診斷を濟ませて歸ると、父は声を顫はせて慟哭した。私も泣き、母も泣いた。父は私を斬つて自分も腹を切ると云つてきかなかつた。若し母と姉が居合せてくれなかつたら、どういふ羽目になつてゐたであらうか。

 

   ふたりめの癩者とわれの知りしとき声にいだして哭きし人はも
   父の棄てし刀つめたく冴え返る燈小暗き畳の上に


 次男の兄の發病したのは、私がまだ幼少の頃であつたらしい。私が七八歳の頃には、兄の病勢は大分進行して、頭髪も眉毛も殆ど脱落し、その上潰瘍しきつた顔は、どす黒く光つてゐた。手足にも繃帯を巻いてゐた。終日隠れて住んでゐたやうである。それも長屋住居の二間しかない家のことである。兄はいつも三畳間の方に居た。板の間にうすべりを敷いたきりの細長い室で、父が兄の爲に設けた小さな炉が切つてあつた。奥に一間の戸棚があり、客のある場合には、眞夏でも兄は溲瓶替りの徳利を抱え込んで、この戸棚の中にひそんでゐた。長居の客や、飯時になつても歸らない客があると、兄はよく戸棚の中で咳ばらひをしたり、羽目板をどんどん足で蹴つたりした。母はおろおろして、わざと咳を二つ三つしては、もう少し辛抱してくれと合図をするのであつた。時には、どうも鼠が騒いで困るんですよと、などと立上り、戸棚の兄を小声で宥めすかすのであつた。
 母が一番氣をつかふのは兄の便の事であつた。便所が隣家と共同なので、母がまず先に行つて、人の居ないのを確かめ便所の入口に母が見張りに立つ。それでも母の留守の間に便所へ立つて、うつかり隣家の子供に見つかつたこともあつたのであらう、或時、隣家の子供が私に、おめえンちには變な人が居るんだなア、あれや誰だい? と訊くのであつた。その時、私は眞赤になつて否定した事だけは覺えてゐる。當時の私は兄がどんな訳で隠れてゐるのか判らなかつた。勿論癩など判ろう筈もない。兄は十日に一度位行水をした。裏庭に板や筵に囲つた小屋の様な中で、母と姉が人目を憚りながら、兄を盥に入れて洗つてやるのを折々見かけた。兄の身體は異様な臭氣がし、體にはいつも虱がわいてゐた。うつかり姉や他の兄達が、家の中が臭くてやりきれないなどと愚痴をこぼそうものなら、兄はすさまじい剣幕で怒鳴り散らした。そんな時、母は泣いて兄にあやまるのであつた。又兄はよく私に内密で買い物を頼んだ。私はこの兄を憐れに思つてゐたらしく、兄の云ふ事は何でもよく聞いてやつた。私が菓子を買つて來ると、兄は其の中の幾つかを、にやにや笑ひながら私に呉れた。私は平氣でそれらの菓子を喰ひ、又兄の相手にもなつて遊んだ。その頃、家では泥棒を飼つて置く様なもんだ、其處いらにうつかり物も置けやしないと、姉や小さい兄達が騒いだ。私は、斯の様な兄との交渉のうちに、兄の病氣を感染してゐたのであらう。
 その頃の父はよく酒を呑んだ。仕事の歸りに定つて居酒屋で呑んで來る。兄や姉が仕事から歸つて來ても、みんなが夕飯を濟ませても、父の膳だけがいつも炉の傍に据ゑられてあつた。七時になり、八時になつても父の姿が見えないと、母はぶつぶつ云い乍ら門口まで何度も行つたり來たりする。兄達はさつさと遊びに出掛けて了い、残るのは母と姉と私、それに小さい妹と隠れてゐる兄の五人だけである。こんな晩に私と母で父を迎えに出掛けると、父は寄りつけの居酒屋にゐるか、路傍に呑んだくれて倒れてゐるか、誰かに連れられて來る途中であつたりして、小さい私と母が両脇から五體の自由を失つてゐる父を背負ふやうにして歸つて來るのである。父は家に歸ると、すぐ又酒を所望するので、母がたしなめると、父は激しい語氣で怒り出すのである。はては掴み合ひとなり、若い頃から苦労ばかりの母は、すぐ逆上してヒイヒイと云ふ騒ぎに、小さい私と妹が、泣きながら必死になつて、父の足や母の袖に取り縋つて、右にもまれ、左に転がされながら、何とかして二人の争ひをやめさせやうとする。これは殆ど毎夜のように續いた。隣同士の人達も、始めのうちこそ、飛んで來て仲裁もしたが・・・・。こんな騒ぎの後で、父は定つて三畳間へ行き兄に毒舌を吐いた。


「お前みたいな業さらしが居るから、家中してこんな苦労をせにやならん、さつさと早く死んでしまわんかい」


 兄は黙つて頭を垂れてゐるだけであつた。
 ある年の秋清潔法施行が濟んで間もない頃の事であつた。大掃除の日には、兄も家に潜んでゐられないので、結飯を持つてまだ夜の明けぬうちに、四五里奥の深山に隠れる。そして掃除が濟み、とつぷり日が暮れてから歸つてくるのである。或日、學校から歸つて來ると、父が小さな裏庭にせつせと穴を掘つてゐる。穴はかなり大きく深いもので、スコツプで土を揚げてゐる父の頭が、地面とすれすれのところに動いてゐる。こんな大きな穴を掘つてどうするの? と私が穴の縁から覗き込んで尋ねると、父は私を見上げ、一瞬恐ろしい眼をして睨んだ。

「がきの知つたこちやない。あつちへ行つてゐろ!」
私は驚いてこそこそと離れた。この穴は四五日の間そのままにしてあつた。
 或夜、物音に私はふつと眼をさました。周囲が何となく騒がしい。布團の中からそつと覗くと、ほの暗い十燭燈の光りの中に、父は炉端に拳をつくつて黙座してゐる。傍に母が背をまるめ、袖を噛んで忍び泣いてゐる。そしてその向ふ側の三畳の方では小さい方の兄と姉が、病氣の兄のどす黒い二の腕に繃帯を巻いてやつてゐる。私は背すじがぞくぞくして布團の中にそつともぐり込んだ。
 翌日私が學校から歸つてくると、裏の穴はきれいに埋められ、新しい土の匂ひがしてゐた。後になつて父母の話を盗み聞きしたところから想像すると、あの夜、父は兄の合意の上、金棒で兄を殺害し、死體は裏の穴にこつそり埋葬する段取りになつてゐたらしい。ところが父の一撃を受けると、兄が急に悲鳴を上げたので、隣家の人が駈けつけて來た。この一件があつてから、父は押黙つて暮す日が多くなり、一層酒の量を増して云つた。
 之に類した事件は、これだけではなかつた。或時は兄の首に石を結びつけてやり、山中の沼に投じさせようとした。投身はしたが死にきれず、他の兄達が見かねて沼に入り、溺れかけてゐる兄を助け上げたのださうである。或時は首をくくろうとし、或時は鉄路に飛込んだが跳ねとばされて目的を達しなかつた。
 父の焦燥と懊悩が日毎に増してきた。私が十歳頃、或日兄は突然姿をくらました。その後、兄からの消息で、身延山の療養所に居るのが判つた。私の家にかすかな光りがさしそめたのはそれから四五年の間であらうか。併し私の發病となつた。父は十六歳の私によく言つた。人間に生まれ人並の身體を持てず人並の生活も出來ない者は、生きてゐても本當に詰らぬ、生きてゐる資格がない、長く生恥を晒すよりは、一思ひに死んだ方がましだ。死ぬには一分とはいらない、剃刀で一寸咽喉を切れば萬事が解決される、お前にやる勇氣がなければ、父が咽喉を切つて手本を示そう。さういふ時の父は、静かな口調で、しげしげと私を視凝めながら云ふのである。私は腹の底まで胴震いするほど怖ろしかつた。夜もゆつくり落ち着いて寝てゐられなかつた。
 私には何の希望も張もなかつた。といつて自殺するほどつきつめない。私に唯一の救手は、町に別居して映画館の音楽手をしてゐた直ぐ上の兄で、時々町へ連れて行つては御馳走を食はせ、映画を見せてくれた。時には山や野に連れて行つて慰めてくれた。私は別れになると、いつも泣きながら、早く家へ歸つて來てと頼んだ。
 このような日々が三月、半年と續く間に、身延から神山の復生病院に移つてゐた兄から便りがあつて、病氣ならすぐ來る様にと云つて來た。その年の秋に私は父につれられて復生病院に入院したのである。途中も父は死を決意し、私を道伴にしようとしたが、思ひ餘つて諦めた、と後で退院して、母から聞かされた時、私はひやりとした。御殿場と復生病院の間の道程がもつと長いか、私達の神山行きが夜間ででもあつたら、どうであつたらう。
 復生病院に於ける私の生活については、私がドルワル・ド・レゼー師から受洗した事と日常生活が私の生涯に消えぬ印象を與へた事だけ記して置かう。然し私は、斑紋のすつかり取れた顔を是非見たいと云ふ父母の願いで、一年足らずで復生病院を去らなければならなかつた。顔の斑紋さえ消えればもう癩はなほつたつもりで喜んでゐる單純な父母。私は内心淋しく人並の労働仕事に從事することになつた。それに私にとつて最も苦痛であつたのは、仕事が濟んでくたくたに疲れ切つてゐる身體に大楓子油の注射を打つ事であつた。日曜と特別の差支えがない限り、定つて打ねばならぬ事は、餘程強い意志の力が必要であつた。まして長屋住居の小つぽけな家に、人眼を避けてやるのである。大楓子油を湯に溶かしてゐる所へ不意に客があつたり注射してゐる最中に隣家の人が入つて來たりして、隨分とあわてふためく事もあつた。又仕事の最中に、注射のしこりが痛かつたり、時には化膿したりして、同僚の者達にも變に思はれた事が少なくなかつた。それでも三年ほどはどうやら續けたが、病氣も別に變わりがなかつたし、それに自分一人だけ痛い思ひをして注射しながら生きる事に倦いて來た。教會にも行かなくなつた。こんな疲れた氣持は私を自棄にし、刹那享楽主義者に仕立てて云つた。私は酒を呑み、女と遊ぶ事を覺えた。
 そして二三年ばかり經過した。私の顔には又斑紋が浮いて來た。私の怖れてゐた來るべき時が遂に來たのであつた。私は密かに死を決してゐた。復生病院の思ひ出も、洗礼の日の感激も、私の中からいつか消え失せ、世を疎み自嘲する心がそれらに替わつてゐた。
 その頃、妹が發病したのであつた。又しても父の苦悶、母の悲嘆。私はただ酒を求めて巷をさまよつた。そして徴兵検査の濟んだ春、誰にも黙つて自殺行に出たのである。
 私と妹が現在の療養所に落着いてはや八年に近い。主はいつ如何なる場合にも、いと深き罪人をも棄て給ふことはない。主は私の中にも人並みの孝心と云ふ温かいものを育み給ふた。
 私は嘗て父に改宗を勧めたことがある。復生病院から歸つた當時にも折に觸れては救霊のことを、基督のこと、教會のこと等について、わかりやすく説いたが、うんあの耶蘇のことか、と云つたきりだつたし、母も亦、私が持つてゐる十字架やメダイユを見て、家には先祖からの神仏が祭つてあるのに、と云ふ始末であつた。その後、私自身教會を離れて了つた。
 こちらに來て、私もカトリツクに復歸してみると、又老いた父母のことが氣になつてならない。恵まれなかつた生涯だけに、救霊の方法を是非講じてやらなければならぬと思つた。私は又父に對して長文の手紙をかいた。父からは何の返信もなかつた。私は重ねて手紙を書いた。その父も胃癌で今は重湯も飲めない。医師は既に餘命幾何もないと宣してゐる。若し神の存在が考へられず永世と云ふものが我々に約束されていないとしたら、私は父を思ふに忍びないであらう。私は主の御前に額づいて祈るばかりである。それだけが私に與へられた唯一の道であり孝心である。


神は眞實にて在せば、汝等の力以上に試みられることを許し給はず、却つて、堪ふる事を得させん爲に、試みと共に勝つべき方法をも賜ふべし。(コリント前・十ノ十三)

 

三人の癩者の父と生れまして心むなしく病みたまひけむ

ふたたびは生まれることなしうつし世に仕へる時よつひにあらぬかも

 

(「聲」1月号) 

ルルドの引越

                            東條耿一

 

 この間、私は未知の人からマリア様の御像を戴いた。象牙色をした一尺程のなかなか見事な御像を受取つた時、私は恰度中耳炎を病んで臥床してゐたので、其の喜びひとしほ深いものであつた。私は早速御像を机上に安置し、聖心の深い御配慮を思ひ乍ら心から贈主の平安を祈つた。

 私は豫て復生病院のルルドに眞似て、義弟と一緒に庭先にルルドの洞窟を造つてゐた。小さな柴山に圍まれた洞の中には、マリア様がなかつたので、御主キリストの十字架の御像を安置した。朝夕この前に額づいてロザリオを誦へることは、私の深い喜びの一つであつたが、この洞の中にマリア様の御像が飾られたら、どんなに良いだらう、と思つてゐた。ところがマリア様の御像がまだ來ないうちに私はこのルルドの在る庭を残して、轉室せねばならなくなつた。どういふ理由かは知らぬが、直ちに轉室すべしといふ事務所からの命令である。私は直ちに引越の準備に取掛つた。私は庭に出てルルドの前に額づいた。そして親しみなれた庭の堤や花圃や樹木を眺めた。

私がこの病舎に移り住んで來た時、廣いこの庭には雑草が生繁り、雨が降れば直ちにごつた返して歩行も不自由な程荒果てゝゐた。部屋の中も、先住の人が居たとはいへ、殆ど手入が行届いてゐなかつた。私は義弟と一緒に毎日毎日棚を造つたり勝手や洗面所の修理をしたりしなければならなかつた。こんな大工仕事は、依頼すれば院の方で本職の大工を廻して寄越すが、それは戸障子の建附けなどが主で、そのほかの細々とした事は結局自分達でやらなければならない。部屋の中が大體片附くと、私達は庭の整理に取り掛かつた。山林を開いて建てた舎であつたから、赭土のまじつた庭土には、一面に小笹が根を張つてゐるので、徹底的に土を掘返して根を取拂つた。低い所には土を盛つて炭殻を敷き、周圍には小さな堤を築いて、玉檜や躑躅を植ゑ、中央にはルルドを造り、その傍には禽舎をしつらへた。かうして花圃には草花がとりどりの花を開くやうになつた。

 私はこれらの仕事を非常な楽しみと期待を以てこつこつと少しづつやつた。しかし癩者の身、それも私のやうに病氣が古くなつて、絶えず眼の痛みに襲はれてゐる者は、一寸過勞な仕事をすると、直ぐ熱を出して寝付いて了ふ。兩手兩足には厚ぼつたく繃帯を巻いてゐるので、細い仕事は暇が掛るし、眼が悪いので疲は人の二倍である。眼は充血して疼き出し、兩眼帯をして俄盲の幾日かが續く。一本の釘を打つにも見當が外れて、よく指を金鎚で叩いたり、鋸で曳いたりする。ぶよぶよの手は一寸固い物を握つてをれば直ぐ疵をつくる。この疵がまた仲々治りにくい。

 私の手はもう二三年繃帯のとれた事がないので、朝起きて顔を洗ふことも、もう二三年この方ない。週三回の治療日の入浴にも、繃帯を巻いたり絆創膏を貼つたりしてをれば思ふ様に身體も洗はれず、顔なども手拭いでそつとふいて置くだけにする。私は時折、洗面器になみなみと清水を充し、とつぷりと兩手を浸けて心ゆくまで顔を洗つてみたいと思ふ。毎朝でなくとも十日に一邊でいい。顔ばかりではない。癩になつて五體の自由を失ひ、膿汁が滴る様になつた現在私は始めて肉體の有難さを知つた。殊に急激な顔面神経痛で盲目になり暫く暗黒の世界に住んでから、意外に視力が恢復して物の形が朧げに見えるやうになつた時など、その喜びは到底筆舌につくし難かつた。

 庭は苦痛と努力を傾けてしつらへたただけに、私の喜びは一層深いものであつた。私はこの庭を愛で、読書や思索に疲れると、よくそこを歩いた。枝から枝へ鳴き移る小禽の聲に耳を傾け、やはら陽の一杯に澪れてゐる土を一歩一歩踏みながら、一木一草の色や匂やそれらの形が作る趣に、どんなに胸をときめかせたことか。眩しいほど陽の中に繃帯の手をさしのべて、再び生れる事のない此の地上に深く息づくものの命の不思議さ、その恩恵を私はどんなにしみじみと識り得たことか。

 こんどの轉室はこれで今年二度目、入院してから八度目である。そのうち自分の意志に依るもの二三を除けば、他は凡て事務所の命に依るものである。同じ院内の動きであつても、住み慣れた室を移るのは餘り良いものではない。癩院を墳墓の地と定めてゐる者は、あてがはれた室をわが家として安住してゐるのである。だから不自由な身體をおして苦痛と闘ひながらも、室の清掃に心がけ、庭を美しく整へる。たとへ三日でも住めば自分の室で、綺麗にしたいのは人情である。不自由になつて毎日の生活に粗相をしながらも、不自由舎に行くことを思ひ渋り、軽症舎に留つてゐる人々の氣持ちは私にもよく判る。患者の引越しだからといつて膳箱と蒲團と風呂敷包一箇だけの持運びで濟むものではない。それに今度の私達の轉室にしても、出たあと直ぐ誰を入れるといふのでもなく空屋にして放つて置かれ、手入れしたあとも忽ち汚れ、庭も荒果てて顧みられないのである。院當局者はもつと我々の愛居愛庭の心情を掬すべきである。

 今度移つて來た舎は、六疊二間から成つてゐるこぢんまりした造りであるが、樹木は鬱蒼と空を覆ひ、暗い室の中は荒れ放題である。鴨居には毛蟲が這つてをり、埃と芥で息も詰るばかり、唐紙や疊の類はぼろぼろに傷み、戸障子は敷居にくつ附いたまま動かうともしない。また羽目板や廊下は先住者がよく手入れをしなかつたのであらう、ひどく汚れてゐて洗ふと、ぽろぽろと垢がよれる。私は手をつけることも忘れて暫く呆然としてゐた。

 鴨居や柱には夥しく釘が打込んであつて、私は拭き掃除しながら手に幾箇所となく裂き傷をつくつた。庭先には附近の山林を伐採した小枝が山と積まれてゐて、その片附や何やかと一通り掃除を濟ませるのに三四日も掛つた。それからまた棚作や修理や、戸棚の目貼・・・・。なかでも戸棚の目貼がなかなかの大仕事で、内部を全部貼て了ふのに二三人がかりでたつぷり一日掛る。病舎は隙間だらけで外の明が透いて見えるが、そこから二三月になると吹きまくる砂風が吹込んで部屋の中はおろか、戸棚の中まで砂だらけになつて了ふので是非目貼が必要になるのだ。

 荒れた庭は取片附けて低い所には土盛をし周圍に檜を植ゑた。家の横手は林になつてゐて、庭は前のより狭いが山添に住んでゐるやうでよい。初霜の庭には急拵への花圃が出來、今を盛りの菊が移し植ゑられた。

 

  移り來て踏む庭土に蝉殻の

  一つとまりし松毬を拾ふ

 

 北窓に被つてゐる松の枝を祓つて書架や机を据ゑると、ひとまづほつとした。マリア様の御像が來たら何處に祭壇を拵へようかと、義弟と相談したりしてゐるうち、私は中耳炎で臥床しなければならなくなつた。耳の中が抉られるやうに痛んで顔半分が綿でも詰めてある様に思はれてくる。自分の聲も他人の聲も何處か遠い所から聞こえてくるような氣がする。私は床の中で夢とも現ともなくロザリオの祈りを誦へてゐた。爲さねばならぬ事は積つてゐるし、折悪しく耳鼻科の醫師が風邪で休んでゐたので醫師の恢復するまで、苛々しながら忍ばねばならなかつた。

 

 実際私達癩者には苦痛のない日は殆どない。譬へば、秋光るといふやうな良い日和が果して幾日我々の氣分の上にあるだろうか。病氣が古くなれば誰もが失明するか手足を切るか、喉を切開してカニューレで呼吸をするやうになる。その上なほ肺を犯され、胃腸を害ねたりする。癩者は信仰に依らなければ心の秋日和を迎へることは不可能である。私達は苦痛につぐ苦痛を、カルワリオの御主の御苦難に併せ獻げるとき、始めて苦痛の意義を識り、苦痛の喜びを覺えるのである。主は愛するが故に我等に苦痛を與へ給ふ。我々の苦痛が大きければ、それだけ主の愛も大きい。主の愛は惜しみなく奪ふところにある。奪ふことに依つて更に大いなる恩恵を約束する。

 私が世の人の最も忌み嫌ふ癩になつたのも、主の愛の限りない現れであると思ふ。私が若し人並みの健康者であつたなら、私は恐らく主の救いに與り得なかつたのであらう。私は俗世の幸福を握り、肉體は腐らないにしても、私の霊魂は永遠に腐敗し去らねばならなかつたのであらう。

 

汝等己の爲に寶を地に蓄ふる事なかれ、此處には錆と蠧と喰ひ破り、盗人穿ちて盗むなり。汝等己の寶を天に蓄へよ。彼處には錆も蠧も破らず、盗人穿たず盗まざるなり。其は汝の寶の在る處に心も亦在ればなり。(マテオ六ノ一九ノ二一)

 

今私の肉體は生きながら腐りつつある。併し私のこの汚れた肉體を支配するところの霊魂は、現在より未來へ、地より天へ、死より生へと羽ばたいてゐるのだ。

 

 (「聲」2月号)

 

子羊日記  

東條耿一

 

火曜―

 

 私は何一つとして自力では生きられない人間である。私の毎日の療養生活には、一碗の飯、一本の繃帯にも、何と深い愛の心が秘められてゐる事であらう。それらの恩恵を私はこれまで驚く程感ぜずに過ごしてきた。余りに多くの恩恵の裡に生活してゐると、とかく慣れてしまつて、心の眼まで眠り勝ちになる。私は、はや十年、人々の恩恵を喰ひ盡して來た、これから先きも亦さうなのである。しかも、それらに報いる事ができない。自分には生き長らへていく価値があるのだろうか。

 病める者は病む事の中に生存の資格があり、生甲斐があるのであらう。天主様は私達を決して無爲に造りはしない。病み甲斐ある人生を私は其處に見出さう。國家や社會が私達癩者の生涯を安らかに養つてくれるから、私達は療養を全うしなければならない。そして人々の愛に応えて祈ること、それが私の報恩の道である。

 

水曜―

 

 射祷の数を毎日増してゆかう。少しづゝ増して、一つ一つに誠心をこめて祈らう。―主よ貴方は私が祈らうとする前に私の心を悉くみそなはし給ふ故に、冀はくは私の祈らんとする人々に特別の恵みを與へたまへ。

 

木曜―

 

 便所の朝顔が毀れたので修繕をする。腐つた板を張替へ、朝顔の筒がうまく嵌るやうにするのは素人大工にはなかなかの大仕事。イエズス様はこんなお仕事をなさつたかしら。と取掛つたのだが、手許が暗いところへ眼が悪いので釘がうまく打ち込めない。それに曇天でか釘の頭が見えない。音を頼りに打つのだけれど、使ひ古した錆釘はぐにやりと曲つて了ふし苛々して力まかせに叩くと自分の指を打つ。三十分たつても一本の釘が打てない。私は悲しくなつて仕事をなげすてた。部屋に入つて、主の御前に額づいてゐると、やくざな自分が思はれてきた。だが、私の心の悪い眼が、毎日どれほど天主を仰げぬやうにしてゐることか。焦燥、立腹、不遜の態度が、私の魂を眞直ぐ主の御胸に打込む事を、どんなに妨げてゐる事か。

 主よ、どうぞ貴方の愛の釘を私の魂に奥深く打込んで下さい。

 

金曜―

 

 今日から摂食。三割減。うまくてもまづくても必ず実行。間食は慎むこと。

 不自由になつて終日籠居の生活をしてゐると、兎角口がさもしくなつて、あれやこれやと喰ふ事ばかりを考へ、又それが大きな楽しみになる。美味ければ過食し、不味ければ愚痴をこぼす。日に三度熱き飯を食し、この上何の不平があるのか。報恩感謝せよ。

 また、宥されてゐるとはいへ、大齋小齋も守らう。減食、斷食によつて神への愛を増してゆかう。

 

土曜―

 

 明日御ミサがあるので、朝食後外科風呂に出掛けた。浴場は盲人や外科の多い重症者でごつた返し汚れた繃帯やガーゼが散亂して、湯の中には膿汁の滲みついた膏薬が幾つも浮てゐる。入院當初は變色しくずれ切つた裸形の同病者に混つて、入浴する事がどうしても出來なかつた。

 私は朝日が溜つてゐる乳白色の湯づらを眺めながら、何とはない心の平安を覺えた。隠れ住んでゐる者や浮浪中の病者は、こんなにのびのびと入浴する事など思ひもよるまい。支那の癩者は船もろとも海底に沈められたといふのに私達は本當に恵まれてゐる。

 盲人達は互に背中を流し合つたり、肩を叩き合つたりしてゐる。足の疵を濡らさぬ様に持上げ湯槽につかつてゐる者、義足の手入をしてゐる者。浪花節をうなつてゐる者もあり「水ぬるむ、水ぬるむ」と頻りに苦吟する者もある。傍で頭の禿げた盲人が、膏薬のとれた額に柘榴のやうに口をあけた傷から血膿のしたたるのもかまはず、手拭で傷口を擦つてゐる。私はぞつとして盲人の側から離れた。

 盲の友よ許し給へ。自分のものなら汚物でも意味ありげに見るくせに、君の膿汁を身ぶるひしてゐるとは―私は自分の魂から流れ出てゐる膿汁に氣づかぬ心の盲人です。

 

日曜―

 

 神父様に告解しながら、ふと私の鼻の臭氣が氣にかゝる。神父様に御迷惑ではないかしら。

 だが限りなき愛でいらせられる天主様の前に在つては、癩者も乞食もない、みな一様に愛子である。天主様は肉體から發する悪臭よりも魂の悪臭を最も忌み嫌はれる。病氣の事など考へて、どうして完全な痛悔が出來よう。

 天主様、私を愛してイエズス様の御體をお授け下さいました事を永遠に覚え、貴方に私の凡てを獻げ、生涯そのお恵みにお報いする事をお約束いたします。

 

月曜―

 

 ロザリオを繰りつゝ踏みゆく萱原やうぐひす寒く笹鳴きにけり

蝋涙のひそやかにしてサンタマリア机に落す影のしづかさ

 

火曜―

 

晝食後、義弟と一緒に祭壇をつくる。六畳間一つが私達家族の寝室、茶の間、書齋、外科室でもあるので恰好の場所がない。結局、北窓の上部に造る事にした、

 中央にコッサール神父様から戴いた十字架を掲げ、その下に聖心の御繪、両側にマリア様とピエタの額、手前に岩下神父様御母堂から戴いた聖母の御像を納めた。祈の時には窓にカーテンを引く事にする。私が技師で義弟が大工で飾師の役である。祭壇はできた。私達の部屋は燦たる御堂になつたのだ。義弟よ、妻よ、心を盡して祈らう、今こそ。

 

金曜―

 コツサール神父様より來信、公教神學校の皆様が私の『癩者の父』を読んで、不幸な父の爲に御ミサを獻て下さつた由。何たる恩恵、感激。

 天主様、父に賜れるこの大いなる恵みを感謝し奉る。冀はくは御受難のイエズス様に依りて、父の罪が贖はれんことを!

 

土曜―

 

朝食後、入浴を濟ませ、暫く頬白を掌にのせてたはむれてゐると長兄より速達。父死亡の報知である。妹に手紙を読んで貰ひながら私の心は激しくわなゝく。手が震へるためであらう、頬白が頻りに繃帯の指にたはむれ掛る。無心の小鳥よ。

 

月曜―

 

人は死を持つて生れ、死を棄ててとこしへの生命に至る。

死は天主と一致するその日まで私の生命を大切に保管してくれる倉庫である。

又、死とは産湯のやうなものだ。これに浴して人は始めて御父天主の御手に抱かれる。

死とは何と親切な同居人、善良な友であらう。日々の慰めの力、爽かなその蔭の憩ひよ。死の裡にのみ恒に、眞の安息は在る。

 

(「聲」3月号)

 

 

種まく人達



                            東條耿一


―日

 朝靄が深い。冷氣がシーンと身にしみる。踏む土のやはらかさ。
 太陽の光はまだ地に届かない。林の梢だけが乳白色の中にほの黒く連なつてゐる。私のまはりを飛交ふ小鳥。朝の静かさを裂くものは、それらの歌聲だけだ。掌に覺えるロザリオの冷さ

―私はふと立止る、この愉しさは何故だらう。
―私の裡に住み給ふ天主、主の懐に憩ひ、主の息吹きの裡に休らふ私。私という癩者の存在は、これなくしては解決され得ない。幸ひなる者、主の住家なる私よ。
 
 私はまた歩を移す。太陽が靄を縫つてさつと光を落す。林の中が急に明るく、生々と耀き渡る。
―イエズスが復活し給ふたのは或ひは斯のやうな朝であつたかも知れない。
 私はいつか林をぬけ、葡萄園の下の小径を歩いてゐる。靄は次第にうすれてゆき、緑の下草が點々と青い。私は清浄な生命のふくらみを覺える。

 死の桎梏(かせ)くだきて御墓ひらき
 主はよみがへりぬ
 アレルヤ、アレルヤ、 アレルヤ・・・・

Kさんであらうか、綺麗なソプラノだ。納骨堂の境内らしい。頬白が足下の草叢から幾つも舞立つ。私は路傍に佇む。

―日

 愛の深い天主様。あなただけ見奉ることの出來る私を盲にしてください。あなたの御聲だけ聞える私を聾にしてください。あなたとだけ語ることのできる私を唖にしてください。

―日

 朝から周囲が何となく騒がしい。また逃走患者でもあつたのだらう、と私は別に氣にとめなかつたが、朝食後、隣室のMさんが、いやあ凄い凄いと奇聲を上げながら、入つて來て、×舎の盲人が昨夜便所で縊死を遂げた事を告げた。窓の金棒に帯をかけ、窓から外にぶらさがつたのだ、まだ検死が濟んでゐないから、今なら見られる、と云ふMさんの聲に應じて、居合せた人々は、そらいけ、とばかり、どつと歡聲をあげて飛び出して行つた。

 私は曾て下水堀に入水患者があつた時の光景を思ひ出す。それは或夏、散歩がへりに其の場に來合はせたのであつたが、警防團員に依つて引上げられた投身者は、荒莚の上に寝かされ、医師や看護手が頻りに人工呼吸を施してゐた。近くの高い岡の上に集つた見物人は、弥次を飛したり、煙草を吸つてゐた。
「うまく助かればいいな」
「折角死なうと思つて、飛込んだのだ、何も本人の意志に逆つてまで、蘇生させなくてもよささうなものだ」

 議論はまちまちであつた。私は投身の理由が何であれ、うまく助かつてくれればいゝと思つた。本人は蘇つた場合、或ひは人々の行爲を呪ふかもしれない。然し、死なうとする者に生を冀ふのは温い人情であり、人間愛の發露である。我々人間が心をつなぎ、家庭や社會を形成してゐるのも皆この眞情故にである。

 こゝでは、人が變つた死にかたをすると、すぐ皆が見物に出掛けて行く。それは死者に對する大きな辱めであり、良心的に見ても甚だ不遜不徳の戒むべき事である。不思議なことに此の見物人の中から往々次の自殺病患者が出る。これは癩院のみの特殊な現象かどうかは別として、これには深い意味があるやうに思ふ。
―皆が出払つた後、私はなす事もなく、ひとりぼんやりしてゐた。

 癩院には何故自殺者が多いのであらうか。我々癩者が一日生き長らへれば、それだけ國家や社曾の負擔を重くするのは事實であるが然し、自殺はこれにも増して國家や社會の恩恵に對する大きな侮辱である。眞に恩恵を知るならば、却つて療養を全うしなければならぬ筈である。死ぬほど苦しかつたら、なぜ生きないのだらうか。耐へられぬ苦みといふやうなものは有り得ない。また理性的に自殺といふやうな事も詭辯に過ぎない。私も入院以前に、私の生存は意義なしと斷定し、縷々自殺を企てたが、後になつて考へると、そんな場合の理性といふものは一人道化の感傷に過ぎなかつたことに氣がつく。

 苦悩は力となり得ても決して自殺の對象となり得ない。石の上にも三年といふ句があるが、たとへ三年を三十倍したとて有限の苦痛ではないか。パスカルを引合にだすまでもなく、有限の苦悩を賭けて無限の幸を贏る爲に少しばかり苦むのは當然である。どんな場合にも苦悩を避けてはならない。苦悩の中にこそ身を留むべきである。聖書にも「神は眞實にて在せば汝等の力以上に試みらるゝ事を許し給はず、却て堪ふることを得させん爲に、試と共に勝つべき方法をも賜ふべし」とある如くである。

―日

 晝食後、重病室にHさんを見舞ふ。Hさんは半年程前、腹膜炎を併發して入室したが、最近は殊に重態に陥り、夜間は友人達が交替で附添つてゐる。重病室はいつ來ても重々しい氣分にさせられる。二十箇餘りの寝臺には、癩といふ大きな疾患の上に、更に結核や肋膜、胃腸病を併發した人達が呻吟してゐる。恰度Hさんの寝臺では受持の醫師と看護手が、尿の排泄に取掛つてゐた。友人達が四五人沈痛な面持でその枕頭を取巻いてゐる。醫師は手なれたものやはらかさでゴム管を差込むのであるが、尿道が刺戟されるのであらう、Hさんの口から苦しげな呻きが洩れる。Hさんの身體は氣昧悪く浮腫み、殊に腹は物凄くふくらんで、みるからに痛々しい。尿はでない。醫師は看護手に何か私語いてゐたが、看護手はうなづいて出て行き、すぐまた醫療器の箱やフラスコを抱へて戻つた。最後の手段らしい。Hさんの横腹に太い針が刺された、針の頭にはゴム管が附いてゐて、その口はフラスコにあてがはれた。人々は息を呑んで見守つてゐると、やがてゴム管の口からフラスコの中にたらたら雫が落ち始めた。私はほつとした。これでいくらでもHさんの苦痛がやはらいでくれゝばいゝ。
―ひつそりと静まり返つた病室に、フラスコに落ちる尿の音だけがちよろちよろと響いた。

 私にHさんの、枕頭を離れた。隣ベッドにはKさんがゐる。彼は盲で聾で唖である。そのうへ、全身が麻痺してゐるので、肌に文字を書いて應答することさへ出來ない。苦痛を訴へることも出來ず、喜びを告げる術もない、それは生涯石の様に黙しつづける息づく屍に等しい。

 何が故に斯く苦み、何の罪あつて斯く病まねばならないのか。或者は、親の罪が子に報いたといひ、前世の罪の罰、因果應報だといふ。或者は現世は公平であるから來世の要なしと嘯き、永生を信ずるのは神秘家か詩人の夢想に過ぎないといふ。愚論を吐く者は癩院に來て一度この現實を見るがいゝ。罪業輪廻の臆説や有限の物質で、この現實がどう割切れるといふのか。どんな高遠な哲學も、萬能を自負する科學も、曾て一人の癩者すら救ひ得なかつた。救ひ得るものはただ宗教あるのみ。キリストの贖罪これである。復活と永世なくして、癩者の人生とその存在は解決されない。われわれが勇氣と力を以て苦悩のなかに止まり得るのも、血を以てこれを感ずればこそである。

―日

 Hさんの遺骸を火葬場に送りて詠める歌

   軋り音も寒く柩のすべりいり大き竈の扉今は閉ざされぬ。

―日

 朝からいい天氣だ。茶を飲んでゐる私の耳に雲雀の聲が聞えてくる。軒端の籠の頬白も頻りに高音を張つてゐる。朝食後、ロザリオを持つてぶらりと散歩に出る。風もない。一足毎に踏む土のやはらかさ。草は萌え、樹々は芽吹き、麥畑からは雲雀が幾つも舞立つては天へ鳴きのぼる。あゝこれら厳しい冬の殻を破つて躍り出た季節の聲―。

 二間ばかり前の麥畑から雲雀が一羽、勢よく舞立つた。それは弾み上つた鞠のやうに、私の眼にも朧に見えた。忽ち空いつぱいにひろがる歌。こんなのどかな日に私も昇天したいものだ。あの雲雀のやうに、御父天主の榮光を高らかに謳歌しながら―。

 



―日

 苦みが増してゆくことは、それだけ主の愛が自分に對して深まつたことを意味する。故に苦しみを真珠のやうに一つ一つ愛さなければならない。

―日

 慰安畑を作ることは私達病者の大きな喜びの一つである。午後から義弟と馬鈴薯を播く。珍しく季節風もなく、空に囀る雲雀の聲がのどかだ。あちらこちらに種をおろしてゐる友達の姿が見える。
 彼等は繃帯の手に鍬を取り義足をいたはりながら肥桶を擔ふ。そして春は馬鈴薯、夏期にはトマトや胡瓜、茄子、西瓜など、秋季には白菜や大根などを作る。患者達は種をおろすと、もう芽生える事を胸躍らせて待ち、黒土を破つて、萌え出る生命の可憐な姿を見るとき、彼等は涙を流さんばかりに喜ぶのだ。さうして朝な夕な畑に下立ち、草を引き、肥料を添へて、その成育をいたはり愛する。土に親しみ生きるこれら病友の姿を見るとき、此處にも遍在せる神の限りない慈愛の御手を思ふ。私達は既に心癒されたナアマンでありシモンである。義弟が畝を切つてゆくあとから私は種をおろしてゆく。眼の悪い私は、このうつむき仕事に直ぐぼうつとして何も見えなくなつてしまふけれど、一畝の中に二三度腰を伸し、眼をつぶつて又とりかかる。おろした種の上に堆肥を置き、その上に下肥を施して土を被せ、鍬で叩いてゆく。

 種を播くといふことは、何と愉しい仕事だらう。後には少々の手入れと喜びの収穫を待つばかりだ。悪しき種は芽生えず、良き種は死して何倍もの實を結んでくれる。一つの種をおろすにも、何と多くの教訓と、愛と神秘的な啓示が隠されてゐることだらう。何と多くの教訓と、愛と神秘的な啓示が隠されてゐることだらう。

 

(「聲」4月号)

 

 

金券物語

                            東條耿一

 

 院内は金券制度になつてゐて、入院した者は凡て金券を使用する。金券は、壹銭、五銭、拾銭、五十銭の四種はブリキ製、壹圓、五圓の二種は荷札に金額、病院名等を印刷捺印したものである。ブリキ製の方は、壹銭、五銭が圓形、拾銭は楕圓形で、いづれも中央に穴が開いてをり、金券何銭の文字が浮出しになつてゐる。拾銭券を患者達は柿の種と称してゐる。五拾銭券は角形で厚みもあり、稍々威厳がある。これらの中で最も金券らしい感じのするのは五圓券である。最高の物だけに、全體のおもむきがどつしりしてゐて、上部の札の穴にはこよりが通してある。入院した當時私はこれらの金券に對しどうしても銭と云ふ観念が持てなかつた。何だか子供の手すさび品のやうで、つひその價値を軽んじ、浪費しがちであつた。壹圓を渡して、それに相當する品物を買へるのが何となく不思議な氣がしてならなかつた。これは私ばかりの感じでなく、入院當初は誰もが経験するらしい。

 金券については色々な思ひ出がある。私が入院してまだ間もない頃、病院始つて以來の不幸な珍事が生じた。それは一患者の壹圓金券偽造事件である。事が發見されたのは偽造金券がバラ撒かれて、一年も経過してからであつたから、被害も相當大きな物であつた。偽造した男は社會からの大工職で、なかなか腕もいいと定評があり、院内でもその方面の仕事に従事してゐた。私と同縣の者であつたから、當時は私ばかりでなく、他の同縣人達は大いに肩身を狭くしたものであつた。その男は歸省した時に地方の印刷所に依頼して二千枚程作造して來、折目のついてゐない新しい金券を持つて行つては、賣店や人々から釣銭を貰ひ、作つただけの金券を全部取替へてしまふつもりであつたらしい。然し、こんな事が幾ら細心の注意と奸智の働きの下に行はれたとしても、何時まで人々の眼を隠し通せるものではない。ある時、不圖した事から事務員の一人が、壹圓券の券の字の右下に伸びる一線に差違のあるのを發見した。どうも怪しいと云ふ事になり、他の方面を調べてみると、果せるかな、あちらから三枚、こちらにも五枚と云ふ様に偽造金券が發見された。事の意外に驚いた院當局では直ちに賣店その他と極秘裡に連絡して、犯人の捜査に努めた。そんな折だつたので、急に郷里の妻子に對して送金を始めた彼が怪しいと云ふ事になつた。送金の場合、彼はたいてい本物の金券を依託したが、賣店に對しては定つて壹園券を使用した。それは見たところ違つた様にも見受けられぬが、仔細に調べてみると、故意に皺くちやにしたり、汚したりした痕跡があつた。彼は釣銭を取るのが目的なので、買物も拾銭そこそこのものであつた。

 捜査員が彼の居室の戸棚を調べ上げると、蜜柑箱にぎつしり詰つた、まだ印刷の匂の生々しい壹圓金券が發見された。彼は即時監房に繋がれ、間もなく退院處分にされた。彼一個人の始末はついたが、後には偽造と本物の整理、被害の調査等をしなければならないので、院内は蜂の巣を突いた様な騒ぎ様であつた。二千枚も使用したのであるから、たいていの者の手許に一枚や二枚の偽造券が紛れ込んである事は確かである。よもやこんな事件が起きようとは夢想だにしなかつた人々の驚きと感嘆は意外に大きいものであつた。中には偽造者を素晴らしい天才肌の男だと感嘆する者もあつた。然し、考へてみれば、荷札に壹園と印刷するだけの至極簡單な物であるから、この位偽造し易いものもない。正貨さへ偽造する者があるのだ。人々が餘り善良すぎた故、驚き、感嘆するのだが、要するにかの男の才智があらぬ方向に伸びすぎただけの事である。

 事件後、これまでの壹園金券は全部院當局の新製に依る金券と交換された。新しい壹圓金券は荷札を改め、體裁もよく、印刷も鮮明に細密で、舊金券に比して遙かに風格を備へてゐた。當時、私は不自由者の附添夫をしてゐたので、病人の金券を全部取揃へて交換して來たが、どうしたわけか、交換期間後になつて、ある盲人の風呂敷から舊金券が一枚出て來た。何分期間後であつたから、私は事務分室に出掛けて事情を話し、病人の物であるから何とか交換して貰ひたいと依頼した。その結果、願書と共に提出せよと云ふ事になり、私は早速願書を作成し、金券と一緒に差出したが、願書の書方が悪いと云ふ理由で却下された。仕方がないのでそのまま持帰り、私は何時ものやうに封書毎掌の中にまるめ火鉢に投込んでしまつた。私は其の頃紙片は一切火鉢にくべる悪い癖があつた。病人達からよく注意されたが、なかなか改まらなかつた。その時もつひうつかり投込んだのだが、封書がばつと青い焔を上げて燃上り、半ば燃えた頃になつてから、私ははつとして思はず色を失つた。願書の文句ばかり練つてゐた私は、封書の中の金券を出す事をすつかり忘れてゐたのだ。しまつたと思ひ、慌てて火の中から封書を拾ひ上げ揉消したが時既に遅かつた。荷札の穴を少し残したのみで、金券は燃えてしまつてゐた。不注意と悪癖の報いである。不自由な病人の、それも乏しい金であるから、私は心よく赦してくれた病人の寛大さを有難く思つたが、償ひをして深謝した。以來、火鉢に物を投げ入れる私の悪癖は改まつた。自分の不注意とは云へ、金券偽造事件の飛ばつちりはその終末に於て、到頭私の所にまで廻つて來た。七八年前の話である。

 

 これは金券についてのエピソードである。不自由舎に權と云ふ朝鮮生れの男がゐた。彼は兩義足であつたが、構内掃除と云ふ作業を一つ持つてゐた。煙草も吸はず、間食もせず、不自由舎に來て二十年近い歳月を黙々と働いて、貯へた金券は密柑箱にぎつしり一ぱいあつた。それは文字通り箒一つで掃溜めた貴い金であつた。金箱は戸棚の奥へ仕舞ひ込み、小出しの金は別に出して使つてゐた。ある年の秋季清掃デーに、彼はこのいのちの蜜柑箱を開けて仰天した。箱の中に鼠が巣を造り、赤裸の仔鼠が五六匹むくむくと蠢めいてゐたのである。金券は大半ぼろぼろに喰盡くされ、残りの物も尿が泌みて、すつかり汚れ切つてゐた。人々は非常に同情し、氣の毒がつたが、然し、彼は案外力を落さなかつた。唯仔鼠とその後苦心して捕へた親鼠は、鐵器の上で綺麗に炙り、醤油をからんで喰つてしまつた。後になつて聞いた事だが、彼は以前から青大將や蟇の類を平氣で食べてゐたのだと云ふ。彼は二年程前に病名の判らぬ病で死んだ。

 

 これも金券が産んだ悲喜劇である。半年程前にひどいかなつんぼのお婆さんが収容された。眼もかなり悪かつた。自分の意見は述べられるが、人の話は全然聞えぬし、手眞似も餘り解せないので、同室の人々はすつかりお婆さんを敬遠してゐた。何分音と云ふものが一切聞えないのであるから、従つて立居振舞もつひ荒々しくなるのであらう。食器やバケツなどもどしんと凄まじい音を立てて置くので、たいていの器物が十日もすると底がぬけたり壊れたりしてしまふ。同室の人々が最も困らされたのは、お婆さんが物事に對して非常に僻む事であつた。眼が悪く、つんぼで雑居生活をするのであるから、お婆さんの身になつてみれは無理からぬ事だが、人の言葉がまつたく判らないお婆さんには、自分の思ひや感じだけが強く内心に響き、誰それのみを盲信する以外に手はないのであらう。私もお婆さんには度々閉口させられた。と云ふのは、私達が月一度しか與り得ない御ミサの朝にお婆さんはよくやつてくる。さうして私達が神父様に告解を聞いて戴いてゐる所に來ては、何かと話しかけたり、そこらに在る太鼓や鉦を誰に憚るところもなく、ドンチャンドンチャンと叩き出すのである。さうかと思ふと、御ミサを拜してゐる最中に何かわけの判らぬ事を怒鳴り乍ら、供物の菓子などを、私達の膝や手にのせて廻る。何にせよ自分では何も聞えないのであるからやる事凡てが非常に騒々しい。

 お婆さんの僻心は益々昂じて、お婆さんは到頭精神病院へ移された。

 ある日、お婆さんは大きな風呂敷包みを背負込んで、そつと病院を逃走した。附近の山林や村落を散々歩き廻つて、お婆さんはやつと××驛に通ふバスに乗込んだ。扨て、乗込んだまでは良かつたが、いざ下車と云ふ時になつて、お婆さんは病院の金券を出した、金券には明らかに病院名が記されてある。運轉手君は黙つて病院へ電話を掛けた。病院からは早速収容車がお婆さんを迎へに走つた。収容車に乗つてからもお婆さんはまだ氣付かず、故郷へ近づいてゐるものと信じてゐた。お婆さんは金券に對しては、こん度社會でもかういふ銭になつたんだと固く思ひ込んでゐたのである。やがて車が収容門に着き、白い消毒衣の事務員に迎へられると、お婆さんは始めて総てを理解した。さうして驚きの餘り、大きな風呂敷包みを抱へたままへたへたと腰を抜かしてしまつた。

 

 金券についてもう一つ忘れ得ぬ思ひ出がある。それはつい先頃の事である。

その日は朝から武蔵野名物の砂風が吹きまくつてゐた。雨戸を下し、障子を締切つてゐても、赤い砂挨が間斷なく舞込み、疊と云はず、座布團と云はず、何もかも砂だらけ、マスクを掛けてゐてさへ息苦しく、氣分の悪い事ひと通りではない。それが春先になると毎日のやうに続くのであるから、實際殺人的な風である。この赤い風が雨戸を叩き始めると、誰もがさうであるやうに、私は何をする氣にもなれない。終日、火鉢の前に坐つたきりで、少しも心は落着かない。午後から映畫會があつたので、義弟や妹達もみんな出掛けて、残つたのは私と頬白ばかりであつた。私は所在なさに頬白を部屋の中に放してたはむれなどしてゐたが、それにも飽いて、不圖、机の上の教會史の一冊を取上げた。手にしたとて自分で讀めるわけではないのだが、もう長い事本に親しみ慣れてゐる私には、唯木の匂ひや感觸だけでも心愉しいのである。私が何氣なく本を取上げた時、ことん、と軽い音を立てて疊の上にころげ落ちた物がある。何であらうと私は音のしたあたりへ、腹這ふやうにして眼を近づけた。明り窓から差込む光だけではどうにも判らないので、立つて窓の戸を一枚開けた。元の場所へ戻つて周囲を丹念に調べて見た。それは壹銭金券であつた。私は拾はうとしてそれをつまみかけたが、然し、ぼつてりと厚ぼつたく指先まで繃帯に包まれてゐるのでどうにも拾へない。私は何度も何度も試みた。やつばり駄目であつた。右手左手と交互にやつてみたが、かの壹銭は私の無能を嘲ふ様に、平然と構へてゐる。私はナイフを出して、その尖で壹銭を起し、其處をすかさず捉へようとしたが、何分薄い上に小指の頭位しかないので繃帯が邪魔してどうしても掴めない。私の癇癪はそろそろ起り始めた。こんな物が拾へないなんて何て意氣地がないんだらう、少々情けなくなりながら、私はなほも懸命の努力を唯この壹銭に集中した。然し、結果は依然として同じであるばかりでなく、却つてむきになればなる程、こんどは眼先がぼうとかすんで、果はぐらぐらと眩暈までして來る。このまま無理をすれば卒倒するに定つてみる。私はこれまでにも何度かさういふ経験がある。眼が悪くなると、何か根つめ仕事をすると直ぐ眼が充血して何もかも見えなくなり、頭がふらふらして來るのだ。まるで大の男が壹銭と角力を取つてゐる恰好であるし壹銭を笑ふ者は壹銭に泣くと云ふが、私の場合拾ひ得ずして壹銭に泣く方である。私はいよいよ最後の手段を取る事にした。私は疊の上に四ん這ひになり、口で拾ひ取る事にした。壹銭に狙ひをつけ口を持つて行くと、何處でどう距離の見當が狂ふのか、彼の姿は判らない。私は舌の先で疊の上をあちこち捜した。砂がじやり、じやりと舌の先に溜り、口ばたまでべつたりくつつく。私は何度目にか、漸く舌の先に壹銭を尋ねあてたが、こん度は疊にぴつたり張附いてゐて、いつかな動かない。私は頭痛を覺えて中止し、洗面所へ行つて含嗽をして來ると、そのまま暫く黙坐してゐた。私はぐつたり疲れてゐた。悲しみと腹立たしさと情なさで胸の中はくすぶつてゐた。私はこんな詰らぬ事に貴重な時間を潰してゐる自分がひどく惨めな馬鹿らしい者に思はれた。落ちたら落ちたでいいではないか、みんなが歸つて來れば拾つてくれるだらう。何もこんな思ひまでして壹銭と角力取るにもあたるまい。私には詰らぬ意地がある。どうしても出來ない事だと知ると、その問題や對象も考へず、がむしやら粘り強く喰ひついてゐたい變な性癖がある。私は壹銭を諦めやうと思ひながら、然し、たつた今までの凡そ滑稽至極な恰好で、しかも躍起になつて努力してゐた自分の姿を思ひ描くと、どうにも壹銭が忌々しくてならなかつた。

しかし私はまた斯うも思つた。これは決して無駄な努力、詰らぬ仕業ではなく、このやうな努力、このやうな苦業を積む事も、主イエズスに捧げる日々の小さな犠牲として、今の私には當然必要な事であり、癇癪や自我の強さを矯正する最もよい試煉である、と。確かにこれはよい苦業よい教訓である。罪業深い自分にはこんなごく僅かの事にも苦しみを積まなければ、天國へ昇れないのである。人並の事は何一つ出來ぬ無力の自分であるから、やはり人並ならぬ苦しみをするのは當り前である。「天に昇るの道は十字架の道にて、即ち、苦しみの道」とあるが、私の十字架は一見無意味に思はれるこんな努力、こんな苦しみの中に在るのだ、また閑つぶしと見えるこんな苦業を、ひとつ一つ丹念にいたはり、大いなる忍耐と努力を傾けて、こつこつとやり遂げゆくことそれ自體が、療養を完うする事にもなるのだ、壹銭に對する努力、忍耐の裡にこそ、千金にいや勝る貴いものの心が秘められてゐるのだ。私は心が軽くなり、晴々とした氣持ちになつた。私はまた四ん這ひになり、舌と唇を動かし乍ら、じやりじやりする疊の上を舐め廻した。「主よ、この罪人を憐れみ給へ」と心の中で祈りながら・・・・。

―終―

 

(「聲」5月号)

 

鶯の歌

東條耿一

 

×月×日

 

「ほゝう、鶯を飼つてゐるば、うむ、なかなかいゝ聲だな」

義父はさういつて吸付けた煙草をロへ持つて行き乍ら、長押に掛けてある籠へ眼をやつた。お天氣のいゝせいか今日は實によく鳴く。締切つた障子に鳴き聲がピンピン響く。

「よく馴れてゐますよ、私が口笛を吹くと、それにつれて鳴くんです」と私は立つて行つて籠を下し、机の上に載せた。戸を開くと小鳥はさつと飛出して繃帯だらけの私の掌に乗つた。

「うんこれはよく馴れたね」義父は感嘆して頷いた。

「まだ感心するのは早いですよ。本藝はこれからですからね」さう前置きして私は手をそつと口へ近づけ「ホホー」と軽く口笛を吹いた。掌の鶯はそれにつれて頸を伸ばし、冴えた高音を一聲響かせると、忽ち反轉して籠の中に舞戻り、ケキョキョキョと餘韻を轉ばせ乍らゆつくりはねまはつてゐる。

「これはたいしたもんだな」義父は大きく呻つた。小鳥はまた私の掌に乗つた。私はまた口笛を吹いた。吹き乍ら私はふと義父の熱い眼を感じてはつとした。義父が感嘆して眺めてゐるのは私の掌の小鳥ではなく、顔や手足に厚ぼつたく繃帯を巻き重ねた私の變つた姿だらう。耳を澄ませて聞いてゐるのは鶯の冴えた聲ではなく、喉を犯され始めた妻の細々と苦しげな聲であらう。

 義父と義母とは殆ど毎月のやうに替る替る訪れてくれる。私は隨分我儘も云へば無理も願つたが、實父以上に深い愛情と敬慕を覚えてゐる。健康體だつたら、と淋しく思ふが、それにもまして悲しいのは、義父が訪ねて來る度に私達の病が重くなつてゐることだ。

「鶯は三段に鳴きわけるといふが、どうだ鳴きはわかるかな」と義父はまた煙草を吸付けて云つた。

「どんな風に鳴くのが良いのか、さつぱり解らないんです。ただ鳴き聲を聞いてゐれば楽しい方なので」

「それでいゝんだよ。小鳥を飼ふ心はなかなかいゝもんだよ。然し小鳥に飼はれてはいかんし、小鳥を飼ふのでもいかんね。そのどちらでもあつて、どちらでも無い心、この心を會得する事は、人の道、人生の妙味を會得する事にもなるんだ」

 私は一語一語を深く味つた。義父は急に思ひ出したやうに傍のスーツケースを引寄せ、さあお土産だ、と一つ一つ包みをとり出して私達の前に置いた。

「これは母が作つた粟漬、これは里芋を撞合せた粉餅、これはチョコレート、これは水飴やうやく尋ねあてて買つて來たよ。お前の喉の薬にでもと思つて・・・」

 義父は、妻の手に瓶詰を渡した。ひと時なきやんでゐた鶯がまた冴えた高音を張つて歌ひつぐ。

 義父は帰りの道々、私と妻に細々と身體の注意をした。

「療養しても甲斐なしと思つてはいかんよ。命を大切にしてな」

 義父の聲はうるんでゐた。昇汞水の河を渡り、見返り乍ら事務所の方へ消えてゆく父の姿を、私は妻と共に、涙の粒をそつと繃帯の手に消し乍ら何時までも見送つてゐた。

 

×月×日

 

重病室や不自由舎の病友に較べたら、私の苦しみなどまだ甘い。ほんの闘病の序に過ぎない。これからの五年十年十五年が眞に苦悩の裡にとどまり、ヨブの如く神の栄光を現す時なのである。そんな行末の事を考へると私は云ひ知れぬ力が湧いてくるのを覚える。きつと闘つてみせる。きつと勝つてみせる。何か逞しいものが内から盛上つて來る。これが主イエズスに依る信仰の力とでもいふのか、主よ、力と愛とを私に添へ給へ。

 

×月×日

 

 死よ、そんなに私がかわゆいといふなら、さあ、お前の腕に力をこめて、もつとしつかり私を抱いておくれ。お前は親切な同居人、善良な友、さうして私の忠実な僕。お前がいつも傍に居てくれるゆゑ、愚者の私も、だうやら怠者にならずに濟んでゐる。

やがて、私の生涯が終る時、私はお前の媒介で、御父の前に、輝く花婿となるのです。

 

×月×日

 

居留守する大きな子供われにとて妻が出掛けに呉れし菓子かも

 

 午後六時から映画會があるので、義弟たちは夕食もそこそこに出掛けて行つた。眼の悪い私のために茶器や菓子を火鉢の側に用意して妻が出て行つたあと、急にひつそりと静まりかへつた部屋の中に、私は暫くぽつんと座つてゐた。隣室の者も近くの舎の者もみな出掛けたとみえ、聞こえるものは時計の振子の音だけである。私は手探りでマッチを擦り、家庭祭壇に灯をともした。

 祭壇の聖心の御繪を看つめながらロザリオを繰る物静かな喜び―

「ラボニ・・・」私は小さく呼んだ。

「主よ、愛の火を以つてわが心を焼き盡し給へ―」

チンチンと湯がたぎつてゐた。私は茶を入れた。

 

 病める眼の光りになじみこの宵はまさぐりつつも茶をたてにけり

 

 私は立つて窓を開くと、ひんやりといい風だ。裏手の寮の灯が點々と淡く瞬いてゐる。

 

近くの禮拜堂からトーキーの砲聲が聞えた。私は妻たちや夥しい病友の姿を思ひ描いた。私はのびのびと心の膨らむのを覚え、窓の外に向かつて「ラボニ」と呼んだ。

 

×月×日

 

 夕食後、縁先で萬年青の葉を洗つてゐると、小父さん、と三郎君がやつてきた。

 三郎君は今年七つの癩者の孤児である。入院してまだ半年にみたないが父親は十年ほど前に入院し、盲で咽喉を切開し、つい先頃重病室で死んだ。三郎が入院してまもない或日収容病室の付添夫をしてゐる友がつれてきた時、梨かなにかを與へたのが縁で、私と三郎はすつかり仲良しになり、それから少年は毎日のやうに來て、食事も一緒にするやうになつた。三郎は額にちょつぴり赤斑紋があるきりだが、繃帯だらけの私を少しも嫌はず平氣で抱きついたり、肩車に乗つたりした。

 私は水筆を捨てて早速三郎君とつれだつて散歩にでかけた。垣ぞひの道まで來ると、私は少年を肩車にのせた。

「望郷臺に登らうよ。だけど、あたいを肩車にのせて、小父さん登れるかい。小父さんはのつぽだけど、ひよろひよろしてゐるからな」

 少年は頭の上から私の顔を覗き込むやうにして云ふ。私は桃畑を突切り、椎の並木を望郷臺へ向つた。

「さあ、小父さん、しつかりしつかり」爪先き上りの細道を喘ぎ喘ぎ登る私に、少年は足をばたばたさせながら云ふ。どうやら頂上に出た私は思はずほつと大きく息をした。冷い風が汗ばんだ肌に快い。一望に開けた眼界を見、少年はバンザーイと叫んだ。私の眼には近くの寮舎の屋根だけが朧に見えた。遠く夕陽がもえ、あたりには早や黄昏の色が立ちこめてゐた。折柄ベトレヘムの園で打鳴らすアンジェラスの鐘が冴々と大空に響き渡つた。

「サブちやん、一寸の間静かにしてゐるんだよ」と私は十字を印した。少年は祈が濟むまでおとなしくしてゐた。

「小父さん、今の鐘は何處で鳴らすの」

「あれかい、天のお家で鳴らすのさ」

「天にもお家があるの」

「あるとも、とても良い所で、綺麗なお國さ、良い人ばかりゆけるところさ。サブちやんも行きたいかい」

「うん何時ゆくの」

「死んでからさ」

「ぢや、つまんないなあ」

「つまんなくないさ、サブちやんは死んでから本當のサブちやんになれるんだよ。それに天のお家には、サブちやんのお父さんやお母さんもゐるんだよ」

「みんな天のお家知つてるの、正ちやんや牧ちやんは?」

「忘れてしまつたお馬鹿さん」

「あたい家に帰つたら天のお家のこと正ちやんや牧ちやんに知らせてあげよう」

 さういつて少年は暫く黙つてゐたが、小父さんと又言つた。

「天のお家はあの赤いところ?」

 少年は眞赤に燃えた夕雲を指して見せた。そして私が肯くと、肩の上に立上がるやうにしてバンザーイと叫んだ。私も大きく胸を張つて「ラボニ」と叫んだ。

 

 (「聲」6月号)

 


柿の木

                            東條耿一


 こないだ知人から貰つて庭の隅に植ゑて置いた柿の苗木が、今朝みるともう五分程にやはらかな芽をつけてゐる。私は根づいた事を確めて思はずほつとした。

 一木一草の類にも神に與へられた生命がある。それを枯らしてしまふのはすまなく惜しまれる。

 この柿は知人が丹精して接ぎ木したもので、まだ私の背丈にも足らぬが、成長した曉には見事な實を結んでくれることであらう。これを植ゑる時、この木に實がなつたところを見て死にたいわね、と妻がいつた。根下に水をやつてゐた妹は、―ほんとね、切角植ゑたんだから私は一つ位味をみなくちやつまんないわと相槌をうつた。

まあ此の柿がなる頃には君達の方が納骨堂に納つてゐるよ、その時には俺がさんざん食つてから残つたのを供へてやるよ、まあそれを楽しみにしてるんだね。と恰度來合せてゐた友人が笑ひながら言つた。

さうかもしれん。然しそれでもいいよ。と私も笑い乍ら答へた。すると友人はまたいつた。

だが何だつて柿なんか植ゑる氣になつたんだい。そんな先の長い物よりトマトや西瓜でも作つた方が、勝負が早くていゝぢやないか。

いや勝負は遅くつても勝つた方がいゝよ。今これを植ゑて置けば、俺達が食へなくても、次の人達が食へるからね。

 然しこの友の眼には、この小つぼけな苗木と、もう見る影もなく繃帯に包まれてゐる私や妻の姿を見較べて、憐れな事ともつまらぬ植樹とも映るのであらう。

 昨日まで讀書して居た者が今日ははや眼帯をして暗黒の世界に呻吟しなければならない。かと思へば夕方まで元氣に働いてゐた者が一夜の疾患に足を切断し、咽喉を切開しなければならない。

 まことに癩者の病状は今日あつて明日を知らぬ激しい變り様を示すが、それかといつて唯目前の事のみを追求し刹那刹那に生きるのは余りにも蕪雑でありすぎる。

 明日の生命は誰も知らぬ。目前に迫つてゐる死すら感知する事は出來ぬ。それ故にこそ却つて生きる事が貴く愉しいのである。

 遠大な計畫も樹てられ、希望も持てるのである。明日を望み得ないなら、尚のこと今日を生きる事はむづかしい。十年二十年先が考へられぬなら、目前五分間の事も考へられぬ筈である。五分間も十年二十年の歳月も所詮は五十歩百歩である。明日の生命は知らずとも、明日のために今日を備へて生きるのは、人の踏むべき道であり、正しい心であつて明日を思ひ煩ふ心では決してない。

 

明日の爲に思ひ煩ふこと勿れ、明日は明日、自己の爲に思ひ煩はん、その日はその日の勞苦にて足れり。


 私は柿の芽をあかず眺めた。この芽の一つ一つが愛の心の現れである。私が飽かずに眺めるのもまた愛の心からである。このひと時の私の生を、私はしみじみ貴く思ふ。


(「聲」8月号)

 

癩者への布教

                            東條耿一

 

 癩院にも各派の宗團があつて少年少女に至るまで何れかの宗團に加盟するしきたりになつて居ます。これは一つの風習に過ぎず、人々も葬ひを出して貰はねばならぬ關係上仕方なく加入してゐるに過ぎません。無宗教の者が死んだ場合、葬儀は各宗團の籤引に依つて営まれ、當つた宗派の人々は勿論同室や友人達が大變迷惑する。また新患者が収容された場合、各宗團では競つて勧誘に出掛け時には醜い争ひまで惹き起す始末であります。勧誘された者も家は代々何宗だがあの宗團から見舞品を貰つてしまつたから、どうしても加入しなければ悪いだらうと厭々屬してゐる者も少くありません。

 癩者が眞に明るい人生を營み、その究極に於て救ひを見出し得るものは、宗教以外ない事は勿論でありますが大半の者が宗教に對し、存外無關心であります。概して癩者は苦しむ事や物事をつきつめて考へる事を好まぬ様です。だから苦しんでまで、己の人生の解明や眞理探求などは致しません。絶えず肉體の苦痛に虐げられてゐる彼等にとつては、それ自體既に十分な十字架でありますので、その上精神的にまで苦しんで自己解明や眞理の把握など大して必要とも重要とも認めないのであります。一日が苦痛なく大過なく暮せたらそれで十分なので、これは目前の快樂を追ひ求める心理とも些か異る様です。癩者は苦痛故に最も現實を忌避しますが現實以外肯定も致しません。この世の癩の生涯をどうにか切抜ける事が出來たら自分は勿論家族一同の負擔が消滅する、それでもう十分なのです。これらの心理をよく裏書してゐる事實として、浪曲や芝居、映畫の會には病室の病人までが無理をしてまで出かけますが心の糧となるべき僧侶や牧師の説教には事務員が鈴を鳴らし會毎に集め歩いても會衆は二十人甚しい時には五指に滿たぬ有様です。昔の患者達は坊さんや牧師が來ると我先に集ひその説教に隨喜の涙を流したさうでありますが現在では凡そ正反對であります。癩者に布教するならその都度パンを一袋づつ與へなければ駄目だと友人の一人が笑ひ乍ら云ひました。

 私立療養所や宗教病院などには院としての立派な指導精神があり、それに依つて患者を一つの方向に導く事が出來ますが、官公立の病院にはその指導精神が缺如して居り、宗教も多種多様で、一つの精神に向つて歩調を整へる事など到底期しがたい所です。本院などもその點では甚だ放任的態度を取つて居ります。何等かの目的方法で患者を育成指導するのが當然ではないかと思ひます。

 私共もお米の配給制ですが、靈的パンの配給制は私共の魂を枯渇させます。牧者と小羊はもつと縷々相接しないなら茨の中に播かれた私共の信仰を保持して行く事は到底不可能であります。癩者の前に長い説教は無用です。彼等の琴線に直接感受される一片の眞の愛、血の一言が必要です。また苦痛や煩瑣を最も忌避する癩者の布教には精神的慰藉と同時に、肉體的慰藉が必要であらうと思ひます。

 

(「聲」8月号)