草平庵雑筆

−舊作ー

 

東條耿一

 

 雨戸を繰ると窓下の菖蒲がぷんと匂ふ、この頃の朝の眼覺めは四季を通じて最も心たのしい。楓のやはらかな緑、燕子花の花のむらさき、ホワイトやそれらは朧な私の眼をも充分たのしませてくれる。恙なく昨日も在り、かくしてまた今日を眼覺め、今日を迎へる。この恵み、この幸、しみじみ有難いと思はずには居られない。

 

 朝の祈りをすませて、番茶を愉しんでゐる耳に垣外の雲雀の聲が流れて來る。雲雀はなかなか稼ぎ者だ。この頃では四時と云ふともうさかんに鳴揚る。床の中でうつらうつらし乍ら彼の噂りを聞いてゐる時位、季節と云ふものを深く感じる事はない。

 

 今朝は珍しく横手の林で三光鳥が鳴いてゐる。縁側で萬年青の葉を洗ひ乍ら、私はしみじみこの鳥の鳴聲に耳を傾けた。

 

 月日星と鳴くのださうだが、私には何だかよくわからない。野鳩やヒタキも鳴いてゐる。瑠璃鳥の聲もする。彼等の鳴聲を聞いてゐると、如何にも喜びに溢れてゐる様だ。おのづからなるいのちの膨らみに歌はずにはゐられないのであらう。それらは彼等の朝毎の希望の合圖なのだ。さうしてそれはまた彼等林の音楽師が捧げる神への讃歌である。水筆に水を含ませ萬年青の葉を丹念に洗ひ乍ら、何時か私の心も彼等の歌に合せておほどかな呼吸を始める。彼等の歌に溢れるもの、私の心にたゆとふもの、それは等しく今日を息づく者の喜びである。不具であれ、病身であれ、今日を斯く生かされて在り、生きてゐるのは、理窟をぬきにして有難い事である。

 

 私は癩になって二十年のこん日、どうやらこの大いなる恵みを思ひ生きる事の愉しさを思ふ。少年の頃は家の貧しさを嘆いた。飲んだくれの父を憎んで慰さまなかった。癩の宣告を受けた時には、如何なれば膝ありて承けしや、如何なれば乳房ありて我を養ひしや、と父母を呪ひ生を憎んだ。それからの数年は生をもて余し、酒と女と享楽に憑かれて暮した。常に死を思ひ、また幾度となく自らの生命を断たうとした。癩院に來てからも依然生をうとみ、囚人の心で自棄に生きた。眼が悪くなった時にはワナに掛つた鼠の様に足掻き續けた。

 

 然し、これらの人生嫌悪や生を呪ふ心は、所詮、自己中心に憑きすぎた傲慢の所産であった事に氣付く。人生の日蔭を歩む者のひがみに過ぎなかった。神を知らず、自然を忘れ、自己を世の眞ん中に据ゑて、あれこれと慾望の糸を手繰ってゐる間は到底、人生の意義は解せず、まして生の喜びなど判らう筈もない。唯物の念を棄た時、人は始めて神を知り、自已の無力を意識する時信仰が生れる。

 

 私は自分を最も卑しいもの、貧しい存在と知った時、始めて心の黎明を感じ、喜びの心を知った。自分の意志でこの世に生れて來たのではない以上、その存在も自分一個の意志で勝手に是非する事は出來ない。と言ふ事を知った時、私は被造物の責務を思った。私は道を知った。道を歩むことの力強さと歓喜を知った。生と言ふものが此の世の外にも在る事が、私をして無限至愛の御者の、攝理の妙を感得させた。癩と云ふ悲惨な疾患が、私にとって愛の示現となったのもそれからであった。

 

 疫くづれる肉體をもつてゐる私は現在、週三回五グラムの大風子油注射をしなければ保つてゆかない。而もこれは私の生ある間續くのである。その他疵の手當、不治の疾患もある。間もなく杖もつかねばならぬだらう。咽を抉る様になるかも知れない。その他有形無形の苦痛が走馬燈の様に私を包んでめぐるであらう。然し、どんなにくづれても腐つても、與ヘられた境遇に從つて生きるは貴い心であり、無上の喜びであると思ふ。この心には癩もなければ健康もない。在るものは生かす者の心であり、生かされる者の感謝である。

 

 私は萬年青の鉢を火鉢の縁にのせ、また番茶を啜る。葉を洗ってもらってさつぱりしたのか、じっと見てゐると、何か物言ひたげな萬年青の風情である。微風にたゆとふ菖蒲の匂ひがまた一頻り鼻をうつ。明日のいのちを私は知らない。否一時間先、一分先のいのちを知らない。然し、私の人生途上二度とは相見る事のない、この朝、この時を、かく在り、かく生きてゐると云ふ事はしみじみ有難く尊いと思ふ。

 

(「山桜」昭和17年3月号)

 

 

なぐられの記

                            東條耿一

 

 私は小學校の四年生、推されて級長であった。私は教室内で一本の鞭を持つ事を許されてゐた。それは鞭と云ふよりも捧と云った方が適確かも知れない六尺程の磨きをかけた黒竹であった。私はこの黒竹を何時も机邊に置いてゐた。若し、生徒の中で脇見をしたり、おしゃべりをしたり、或ひは居眠りをしたりする者があれば、この見事な鞭で、容赦なく彼等を擲つて差支ない事になってゐた。先生が私にそれを命じたのである。黒竹も勿論先生がくれたものである。然し、内心氣の小さい私は、以上の三ケ條に該嘗する生徒があつても、始めの中はなかなか擲れなかった。,他人の頭に手をかける事はどうにも氣がとがめてならなかった。それで始めは、こらつとかおしゃべりしてはいかんとか、呶鳴りつける程度であつたが間もなく私は容赦なく彼等の頭に黒竹を下す様になつた。私の存在は忽ち生徒一同の畏怖の的となった。私は監視と勉強と同時にやらねばならなかつたので、総ての學科に首席を占めて行く事はなかなか骨が折れた。手を伸ばして黒竹の届く範囲までは、私は坐つたままで彼等を制したが、鞭の届かない所は立つて行つて擲つた。私が黒竹を持つて坐席を立つと周園の生徒達は私の行方を追つて、こん度は誰だらうと、その頭を物色するのであった。中には逸早く自分だと氣づいて神妙に頭を抱えてゐる者もあれば、また中には私の機先を制して、側の者がこつそり袖を引つぱつたり、背中をつついたりして矯正させるといつた風で、授業中は何時もしいんと静まり返つてゐた。然し、彼等は絶えず兢々とし乍ら私を横目で盗み見た。私と視線がかち合ふと、彼等は慌てて眞面目くさつた姿勢に返るのであった。

 

私の黒竹を最も多く見舞はれたのは石塚と廣瀬と云ふ生徒であつた。石塚は馬車曳きの息子で、廣瀬と同じく學科も操行も零に近かつたが、力持ちで廣瀬と双璧をなす餓鬼大將であつた。彼も私と同じ字の者であつた。登校の道も一所だつたので、學校からの歸途、私は彼の仕返しを怖れ、何時も途中の本屋で一時間程讀書していくか、わざわざ小半里も廻り道をして歸つた。然し、私のこの懼れが杞憂に過ぎなかったのを知ってからは安心して同じ道を選ぶことが出來た。彼にしてみれば内心私を怨んでゐたかも知れなかったが、登校や歸校の途中で、私に仕返しをすれば、學校に於てより手酷い私の報復となって現はれる事を怖れてゐたのだ。彼には多勢の子分があつた。彼の子分となる者はたいてい成績表に丙や丁を五つ六つ持つてゐる連中ばかりで、石塚はさういふ者を手馴づける事が巧みだつたし、子供達も彼の命令には一切服従してゐた。彼は授業中によく飴をしやぶつてゐた。また隣前後の者に話しかけたり、机の上に教科書を立てて、その陰で獨楽を廻したり、色々な虫類を引つぱり出してはこつそり遊んでゐた。ある時、彼の机の中から青大将が這出して授業を滅茶々々にしてしまつた事があつた。何しろ六尺近い不氣味な恰好の物が、教室中をくねりくねり這廻るのであるから、生徒始め先生までが總立ちとなり、キヤツキヤツと云ふ騒ぎ様を呈した。その日彼は灯りのつく頃まで、教員室の片隅に、水を入れたバケツを兩手にぶらさげたまま立たされた。私は彼を最も怖れていたが、他を擲つて彼ばかりを大目に見ることは出來なかったので、私の黒竹の見舞を受けない日は殆ど無かったといつても良い。人より一倍堅い彼の頭は、こつんと實に氣の毒な位大きな音を立て、黒竹をつたはつて來るその手應へには私も流石に済まない思ひがした。

生徒の中には私におべつかを使ふ者もあつて、さういふ連中は、クレヨンとか、ノートの類などを私の所へ持つて來た。貧乏人の私は何時も穂先のすり切れた筆や、折れて小さくなつたクレヨン等しか持つてゐなかつたので、これらの贈物は私をたいへん満足させた。 廣瀬は百姓家の息子なので、お辧當の時、私によくさつま芋や馬鈴薯の蒸したのをくれた。それがまた私には、珍しくもあり、美味でもあつて楽しみの一つであつた。石塚の外に、私にはもう一人心を悩ますものがゐた。白石と云ふ生徒で、彼の父は、××製麻會社の重役をしてゐた。私の父も五十の坂を越した身で、その工場の職工勤めをしてゐた。俺の親父は彼の父親に使はれてゐる、生涯頭の上らぬ身分だ、と云ふ思ひが、何がな一種特別な感情となつて、常に私の裡にくすぶつてゐた。そのため白石に對する私の態度も自然他の者に對するそれとは異つてゐた。彼は私と並んでゐたので、私は事々に彼に反感を抱いてゐた。彼は貧乏人の私とは違つて、衣服や持物から既に異り、私など生まれて手を通した事のない金ボタンの服を彼は着てゐた。鞄も革製の立派な物で、その他筆入れ、紙挟み、硯箱等も羨しいほど立派な物ばかりであつた。お辧當のおかずも、何時も卵焼や煮魚などで、澤庵や梅干ばかりの私の辧當とはてんで比較にならなかつた。その上、上草履も穿いてゐたし、雨が降れば女中が傘を持つて迎へに來た。袴も着けず、親指の飛出たボロ足袋を穿き、縫目のむくれ返つた兄のお古の鞄を使つてゐる私とは、頭のてつぺんから足の爪先まで、餘りにも大きな相違があつた。書方の時間に彼が紙挟みの中から上等の半紙を取出して使ふ時、私は粗末な藁半紙であつた。それも昨夜から母にねだつて漸く貰ふ事が出來た一銭で整へたものである。こんな風に彼の衣服やお辧當のおかずや持物の總てがのし掛るやうな重量を持つて常に私の心を壓迫した。彼と對して、私が受ける何とはない引目を、これが貧乏人根性なんだと私は思つた。

「うちはどうして貧乏なの?」

私は折々父に訊ねてみたりした。

「何事も運だな。運が總てを支配する世の中だよ。この父親が若い頃には、家も造り酒屋でなかなか豪勢なものだつた、人に後指などさされた事はなかつた。それが貰ひ火で焼出されてからは、落目につぐ落目で、六十近いこの父まで職工づとめをしなければならないのだからな。運と云ふ奴は怖しいものだ。お前達にも人並のことをしてやりたいが、今のところどうにもならん。我慢してくれや。その替り、どんな事をしてもお前だけは高等小学校へ上げたいと思つてゐる。お前が學校を終るまでにはどうしても千圓掛かるんだ。その積りでしつかりやんなきやいかんぞ。」

父は何時もそんな意味の事を云ふのであつた。斯んな風に云はれると、ああもして貰ひたい、あれも買つて貰ひたいと心密かに思ひ描いてゐた事も、自然、諦めさせられるばかりでなく、頭に白いものが目立つて多くなつた父がひどく氣の毒に思はれ、その都度、父がぺこぺこ頭を下げてゐるであらう白石の父に對して、義憤とも憎惡ともつかぬへんな感情の燃立つて來るのを覺えたのである。

「よし、金では負けても學問では負けんぞ。」

白石の壓迫を感じる毎に、私は直ぐ心でさう力味返つた。俺の親父はこいつの父に頭が上らんが、お前は俺に頭が上らんのだ。私の中にはさういふ叫びが常にあつた。事實、私と彼との間には大きな隔りがあつた。彼にはお坊つちやんらしいへんに横柄な所があつた。言葉使ひや態度の中にもさうしたものが剥出されるので廣瀬などは彼をよく罵つたり擲つたりした。然し、私は白石だけは擲らなかつた。例え、擲つてもよい理由があつても、父同志の關係が考へられ、白石に對する正當な自分の態度も、何だかそれに拘泥してゐる様に思はれて厭だつたからだ。唯心の中ではその父に對すると同様彼に對して憎惡めいたものの湧くのはどうにもならなかつた。

 

ある雪の日の事であつた。私の級の體操の時間に東西に別れて雪合戦を始めた。霏々として降り頻る白雪を踏んで、兩軍は互に敵陣奪取を目ざして力戦した。西軍の大将は石塚、東軍の私の方の大将は廣瀬であつた。石塚は陣の先頭に立つて旺んに大きな飛礫を放つて來た。敵軍の飛礫はどうやら私をめあてに集中した。それとみるや、廣瀬や他の者達は私を庇ふ陣立をとつえ應戰した。私は頭や肩に三ツ四ツ大きな飛礫を受けた。その都度かつと熱い痛みを覺えたが、私以上飛礫の雨を受け、全身雪だらけになつて奮戦してゐる廣瀬達を見ると、日頃彼等に黒竹を見舞つてゐたことが何だか済まない氣がした。やがて休戦の鈴が鳴り兩軍は引分けと言ふ事になつた。かじかんで真赤になつた手をふうふう吹き乍ら教室へ駆込んだ私達は、暫くストーブの前に手を翳して暖を取つた。稍々あつて私は御不浄へ立つた。すると、直ぐ私のあとから四五人の足音がして、聞覺えのある聲がした。

「今日の級長は散々だつたね。俺は二つばかり狙ひをつけて叩きつけてやつたよ。」

「俺は一つだつた。黒竹の仕返しはこんな時でなくちや取れないや。だけど廣瀬の奴は馬鹿だね。毎日あんなに擲られてゐ乍ら、今日は一所懸命級長を庇つてゐたぜ・・・・。」

「おい、君、級長の袖を見たかい?」

さう言つて聲をひそめたのは松本らしかつた。

「うん、見たよ。俺あ始めジャケツだと思つたら、なあんだ靴下のお古ぢやねえか、チエツだ。」

さう云つてくすんと笑つたのは篠崎らしかつた。

「靴下の級長つて、こん度呼ばうよ。」

「だけど級長の家はよつぽど貧乏なんだね。

「貧乏級長」

「靴下級長」

口々にさう云つてどつと笑ひ乍ら出て行つた。御不浄の中で息を殺して聞いてゐた私は、思はずかつと顔が熱くなつた。怒りと恥とに全身がぶるぶるわなないた。私は自分のシヤツの袖を引張て見た。それは確かに毛糸で暖かさうな恰好はしてゐたが、彼等が云つた通り、女工をしてゐる姉のお古の靴下を、二の腕の所から繼いだ物である。私は別にジャケツに見せようと思つてさうして貰つたのではなかつたが、捨てるのも勿體ないと云つて、昨夜母が夜なべに作つてくれたのだ。

「靴下の級長、貧乏級長。」

私は口の中で呟き乍ら、益々顔が火照るのを覺えた。私は私の悪口を云つた連中を、どうしてくれようかとさへ思つた。私は靴下の袖を着物の袖の中に押隠して御不浄を出た。教室の扉を開け乍ら、私はひとりでに顔の熱くなるのを覺えた。みんなの眼が一斉に、それも私の袖ばかりを見てゐるやうに思はれ、一層熱くなつた。次の時間は作文で、題は雪合戦と云ふのであつた。みんなはまだ興奮してゐるらしく赤い顔をして、時々私の方に注意しながら小聲で囁き合つてゐる。松本や篠崎は何喰はぬ顔付で済ましてゐた。石塚はそろそろ見舞はれるかなと云つた眼差で、折々私を盗み見た。然し私は彼等の存在など全く念頭になかつた。

「級長の家は貧乏なんだね。」

「ジャケツかと思つたら、靴下のお古さ、チエツだ。」

「これから靴下の級長つて呼ばうよ。」

そんな聲が絶間なく頭の中を駆けめぐつて作文を綴るどころではなかつた。私は一人芝居でも演じてゐるやうに、心の中で蒼くなつたり、赤くなつたり、腹をたてたりしてゐた。

その後、私は縷々貧乏級長、靴下級長と云ふ彼等の聲を耳にした。然し、それらの蔭口も最早私の心を動かさなかつた。私は相變らず姉のお古を腕につけてゐたし、愛用の黒竹は例に依つて彼等の頭上を渡り歩いた。さうして四年生の時代が終わつた。卒業式の日、私は石塚や廣瀬やその他の襲撃を受けるものと覺悟してゐたが、どうしたわけか、誰も私に仕返しをする者はなかつた。五年生六年生と私は相變らず首席で通した。黒竹は廃止され、級長は自治會長と改称された。みんなは相變らず元気溌剌としてゐたが、私は五年生の終り頃から既にめつきり向学心を失つてゐた。私の顔には癩性斑紋が赤く色どつてゐたからだ。貧乏を嘆いて發奮し、老いた父を思つて猛然と湧立つてゐた希望も氣魄も、蕾のまま空しく心の中で毟り散らされてゐた。

私は暗い影を行手に凝つと見守り乍ら六年生を終つた。「仰げば尊し」の歌も、私には哀しい挽歌でしかなかつたのだ。

私は卒業證書と優等生としての賞品を抱えて校門を出た。何時もならそれらの賞品の數々は、父や母が近所の前に喜びと矜とを以てする喧傳の材料であつたが、今の私にとつてはもはや一枚の病葉に過ぎない物であつた。

私が校門まで來た時、其處には険惡な表情をした石塚や廣瀬やその他十五六名の顔が待受けてゐた。私は驚かなかつた。擲つて貰つた方がさつぱりする氣持であつた。

「やい!貧乏級長。」

まづ石塚の聲がし拳が私の頬を熱くした。

「靴下級長、黒竹の御禮だ。」

廣瀬の聲だ。何か固い物が私の頭をしたたかに撲つた。

「生意氣だ。」

「貧乏人・・・」

後はもう罵辭と鐵拳と下駄が私の全身を包んだ。

 その時からもう十數年經つ。私は時折當時を懐想し、それら幾多の級友の顔を描いてはひとり愉しむ事がある。Kはどうしてゐるだらう。Sは何の職業に就いたか。懐しいそれらの顔の中には、こん度の事變に應召して護國の英靈と化した者もゐるであらう。私が彼等を追想する如く、彼等もまた靴下級長の私を思ひ出して懐しんでくれる事があるであらうか。あるとしても、よもや私が癩者として施療院の一隅に呻吟してゐるとは思はないであらう。

(「山桜」昭和17年7月号)

 

病床閑日

 

私はけふ 晝のひと時を

庭の芝生に下りてみた

 陽はさんさんとそゝぎ 近くの樹立に松蝉が鳴いてゐた

私は緑のやは草を踏みながら 踏みながら

そのやはらかな感觸を愛しんだ

不思議なほど 妖しいほど 私の心にときめくもの

一体この驚きは何だらう

思へ寝台の上にはやも幾旬――

 もうふたたび踏むことはあるまいと思つてゐた

この草 この緑 この大地

私の心は生まれたばかりの仔羊のやうに新しい耳を立てる

新しい眼を瞠る そうして私は

私の心に流れ入る一つの聲をはつきり聞いた

それは私を超え 自然を超えた

暖いもの 美しいもの

ああそれは私のいのち いのちの歌

 (「山桜」昭和17年7月号)


遺稿

訪問者

 我門前に立ちて敲く、我声を聞きて我に門を開く人あらば、
我其内に入りて彼と晩餐を共にし、彼も亦我と共にすべし。 
(黙示録)

 第一篇 怯懦の子

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

誰人ぞ今宵わが門を叩く者あり

日は暮れて、凩寒く吹き悩む

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

われ深く黙して答へず

半ばを過ぎし書を読みつぎぬ

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

訪へる声やまず続けり

凩はいよよ募る

われ炉に薪を投げ入れ

尚も黙せり、耳を覆ふ……

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

旅人(りょじん)よ、何とてわが門を叩く

われに何をか告げむとするや

われ知らず、わが扉開かざるべし

  ……旅人よ、わが門を過ぎよ

    わが隣にも人の子は在り

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

噫旅人よ、執拗なり

われは沈黙の人、孤独を愛す

われは聞くを好まず、聞かざるを欲す

われをして在るべき所に在らしめよ

  ……旅人よ、とくわが門を過ぎよ

    しかして汝に受くるものに尋ねよ

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

旅人、汝呪われてあれ

何ぞわれに怨みを持つか

如何なれば斯くもわれを求め

如何なれば斯くもわが安居(やすらゐ)を亂すや

汝に向ひ、外に開かむより

われは寧ろわが裡に死ぬるを望む

  ……旅人、汝わが門を行け

    われは蝮の裔にして汝を噛まむ

 

こつ、こつ

こつ、こつ……

おお凩よ募れ、闇また来たれ

われ汝を呪はむ

汝、如何に叩くとも

わが扉は固く、朝に至るも閉さるべし

われは汝を知らず、われは汝に聞かず

さなり、われは己に生くるなり

  ……噫旅人、とくわが門を去れ

    然らずば人の子汝を渡すべし

 

 第二篇 訪問者

 

吾子よ、吾なり、扉を開けよ

汝を地に産みし者来たれるなり

吾、はるばると尋ね来るに

汝、如何なれば斯く門を閉じたる

吾子よとく開けよ

外は暗く、凩はいよよ募れり

 

噫父なりしか

父なりしか、宥せかし

おん身と知らば速やかに開きしものを

噫何とてわが心かくは盲ひ、かくは聾せり

わが父よ、しまし待たれよ

わが裡はあまりに乏しく

わが住居あまりに暗し

いとせめて、おん身を迎ふ灯とな点さむ

 

これ吾子よ、何とて騒ぐ

吾が来たれるは

汝をして悲しませむとにはあらで

喜ばさむ為なり

吾が来れば

乏しくは富み、そが糧は充たされるべし

吾久しく凩の門辺に佇ちて

汝を呼ぶことしきりなれば

吾が手足いたく冷えたり

 

噫わが父よ、畏れ多し

われおん身が、わが門を叩き

われを求むを知り得たり

されど、われ怯懦にして、おん身を疎み

斯くは固く門を閉したり

噫おん身を悲しませし事如何ばかりぞや

われ如何にしてお宥しを乞はむ

さはれ、われは伏して、裡に愧づなり

わが父よ、いざ来たりませ

 

吾子よ、畏るゝ勿れ

非を知りて悔ゆるに何とて愧づる

夫れ、人の子の父、いかでその子を憎まむ

吾今より汝が裡に住まむ

汝もまた吾が裡に住むべし

父よ、忝けなし

われ、何をもておん身に謝せむ

わが偽善なる書も、怯懦の椅子も

凡て炉に投げ入れむ

わが父よ、いざ寛ぎて、暖を取りませ

 

われ囚人(めしうど)にして、怯懦の子、蝮の裔

おん身を凩の寒きに追ひて

噫如何ばかり苦しませしや

 

最愛の子よ、吾が膝に来よ

而して、汝が幼き時の眠りを睡れ

そは吾が睡り甘美(あま)ければなり

 

われおん身を離し去らしめじ

わが貧しきを見そなはして

わが裡に住み給へば

われもまたおん身の裡に生きむ

 

永久(とこしへ)に、われ、おん身の裡に生きむ

父よ、われをしてこの歓喜の裡に死なしめよ

父よ、われをしてこの希望の裡に生かしめよ

 

 

 第三篇 癩者への接吻

 

わが園生のたそがれに

愛ぐしき者の訪ひぬ

 

幽かに匂ふ御衣の

さやかなるこそ貴けれ

 

遥るかにわれをみそなはし

近づき給ふ御気色の

いよよ気高くすゞろかに

 

われ御衣に触れみむと

心怪しく騒ぐかな

 

噫如何なれば斯くならむ

悲しきわが智消えうせよ

 

時は過ぎゆくわがなべに

なにとて御手を承ぐべしや

 

おん方われをみそなはし

訪ひ給ふこそ畏けれ

 

(心静かにわれをみよ

われのいずくに迷ひあり)

 

噫げに愚かなる僕かな

せめて御足を給ひかし

 

おん方笑ませ給ひつゝ

わが手を取りて貴しや

癩者の膿を吸ひ給ひぬ

 

 

( 「山桜」昭和1711月号)