戯曲  秋刀魚を焼く女

東條 環

 

舞台 貧しぃ画家龍介の住ゐ。八畳に三畳間程で、それに粗末な玄関、釘に掛けだオーバーコート其の他衣類が二三點、壁に油繪の大額が掛けてあり、描きかけの西洋画の画布四五脚乱雑に置かれてある八畳間の隅の方に、毀れだストーブ、その反對側の、右に粗末なモデル臺、兼寝臺が置いてあり、中央に、繪具に汚れた大火鉢一つ備へてある。その傍らに古ぼけた机が、画布に近く置いてあり、その上にこれも古風なオールゴールが乗せてある其の他部屋の内部極めて乱雑、黄昏近く窓を透して灰色の夕景が望まれる。

  幕があくと龍介が繪筆を休めたらしく、火鉢に凭つて紙巻(ばつと)に火を點けてゐる。モデル女、笙子此方を向いて着物を纒ふてゐる。

龍介(不愉快そうに)おい。そんな婀娜(こけていじゅ)なポーズをするな。

笙子(故意に)どう? このポーズ(軀を屈折させて)一寸藝術的ぢやない? ほほほ………

龍介(正視せずに)莫迦、またはじめたなア、止せ! そんな恰好僕は大嫌ひだ。

笙子 ほほ……相變らずかんかちね。龍ちやんたら、ちつとも色氣が無いのね。(着物を纏ふて龍介の傍に坐る)

龍介 君のガッチリしてんのには、じつさい閉口したな。僕も飛んだモデルを拾つたもんさ……

笙子(憶面なく)なら妾のキモチ解つて戴けたわね? 尠からずあんたに戀を感じてゐるつてことも?これでも妾、處女よ。(パッと両掌で顔をかくす)

龍介(呆れて)さうズケズケ云ふなよ。参つたなあ。僕が閉口したつてのは.君の、その大膽さにだよ。君の氣持なんか解りつこないさ。勿論、戀も。

笙子(半白眼で龍介を睨み大仰に)あーら、あんたロボツトね。妾、(と云ひ掛けて龍介の顔色を窺つて)だからあんたが益々好きになつちやうのよ。ほほほ…

龍介(眞面目に)第一、處女なら處女らしくしたらいゝぢやないか。君の何處を見たつて、處女らしいと思ふ個所はないよ。

笙子 失禮しちやうはね。妾、これでも男の體臭つて知らないんだよ。(ほうつと、顎を突き出して)女さへ見れば、野良犬の様に尾をふつて來る男なんか大嫌いさ。髪や顔ばかりしやきしやき光らせて當世の男なんか男性美がちつともないし、蝋人形の様な蒼白い顔して、女だか男だか解らない姿態をしてさ、まるでなつちやゐないぢやないの。そんな男達に處女の切札なんか眞つ平よ。

龍介(吸殻を灰の中に差し込み)僕も、その男達の一人かも知れないよ。

笙子 チエッ…だ、妾の可愛いリーベを、あんな、しやきしゃき連と一緒にされちや困るわ。それは妾がよく知つてるのよ。そういふことには、女の観察力はなかなか鋭敏よ。

龍介 鋭敏にして往々過失を生むか…(稍々嘲笑的に)女の観察力の鋭敏さなんか、當にならないからなあ。

笙子(反駁的に)何故、當にならないの?

龍介 何故? はははは:謂はゆる結婚解消、貞操蹂躙、これ等が明瞭、物語つてゐるさ。

笙子 そんなの側面観察よ。或一面を満すに過ぎないじやないの。そんな宿題を提供する女なんか、美しい人形の内部が空虚つてことを知らないのよ。(火箸で灰の中を掻廻す)

龍介 (バツトを一本抜き取つて火を點ける)兎に角、近頃の女性の、男性圏内への進出は凄いからなあ。貞操観念も麻痺する筈さ。

笙子(片眼を瞑つてコケテイツシユに龍介を見る)

 女の貞操観念が麻痺してるなら、男の道徳観念は腐敗してるじゃないの?

龍介(眞面目に笙子を見据えて)君、ヌーボーかと思つたら、案外やるんだね。

笙子 ヌーボー?(一寸悄氣る)ほほほ、妾をヌーボーに見るなんて、だから妾、(情慾的な姿態をする)ダンゼン龍ちゃんが好きだつて云ふのよ。

龍介(迷惑相に)おいおい。叉僕の處へ戻つてしまつたのかい? もう君、帰り給へよ。

笙子(甘へる様に)まだいゝじやないの。だけど妾、そんなにぼんやりな女に見える?

龍介 見えるね(冷やゝかに)女なんて。どいつだつて私こそ明朗な女性のサンプルですと云つたやうな面して、いつぱし理窟ぼいことは云ふが、案外なヌーボーが多いのさ。

笙子(バツトを抜取つて火を點け軽く吸込んで)その言葉は、そつくりその儘男群に返上するわ。龍ちやんあんたの女性観も頼りないのね。だけど、好奇心を多分に含めて龍ちやんの戀愛観には、絶對の信頼を掛けて伺ひたいわ。

龍介(つまらなそうに)僕の戀愛観? ふんそんなロマンテイツクは僕には無いね。まあ、あるとすれば女性の貞操観念と、男性の道徳観念が両立して生れた戀愛、それが本當の單純な戀愛、我々の理想の戀愛ぢやないかと、僕は思ふんだ。だが、(バツトの吸差しをぐつと灰の中にさして ) 戀なんて、僕には余りに縁遠くて興味は更にないね。

笙子(煙草の吸口に口紅を塗り乍ら)ほほほ……更には良かつたわね。そんなに縁遠くもないぢやないの。

龍介(一寸険しい表情をし、直ぐ柔らげて)君か?

笙子(大きく吸つた煙を、ほうつと龍介の顔に吐きかけて、含み笑ふ)

龍介 ははは:…君なんか先づ。僕の眼中に無いね。だいたい君の様なキザな女は僕は嫌いだ。

笙子(無関心に)どうして妾、こんなに龍ちやんが好きなんか知ら。自分にも解らない。(両足を投出して龍介を盗視し乍ら)龍ちやんたら、一寸古いけどナヴラウに似てゐて、ふふふ……(龍介に凭れ掛つて再び煙草の煙をふうつと吐きかける)ねえ(上眼にて見る)……龍ちやん好きになつてもいゝ?

龍介(鋭く睨んで)馬鹿!!つまらない眞似は止せ(どんとせう子を突き退ける)

笙子……(その途端に軀をくねらせて龍介の頬に両掌を掛け、つと唇を盗まうとする)

龍介 見損なふな!!(平掌がせう子の頬に喝つと鳴る)

笙子 あ痛つ!!(顔を歪め乍ら頬を抑へて)チエツぶたれても、惚れてる弱みで仕方がないわ。(ぽいと吸殻を火鉢の中に叩き込んで情慾的に龍介を睨む)

 ー間―

龍介(平静に)帰り給へ。(立上る)

笙子(流石にしよげて)帰るわよ(渋々立上る。)

 ー間ー(笙子玄関から急に朗かに)龍ちやん。あした何時に來りやいゝ?

龍介(部屋の中をぐるぐる廻り乍らだが優しく)午前十一時頃 明日は、ぶつた代りに午飯を御馳走しよう。

笙子(玄関に立つたまゝ)眞実(ほんと)? だけどまた秋刀魚ぢやない?

龍介(立止つて)嫌なら、無理にとは云はないよ。

笙子((かぶり)を振つて)うゝん、いゝわよ。オーケイ。では妾のリーベちゃん、アヂウ……(元氣に格子戸を開けて)あゝら、雪が降つてるわ。やんなつちまふなあ(奥に向つて龍ちやん龍ちやんたら……

龍介(玄関に出て来て)なんだ、まだ帰らなのかい?

笙子(ロ元で微笑んで)雪が降つてんのよ。傘借してくんない?

龍介(一寸口元を歪めて)傘? 困つたなあ。僕んとこには、そんな氣の利いた物は無いんだ。

笙子 あゝら實用品ぢやないの。傘の一本も無いなんて、藝術家なんて変り者ね……

龍介 (何か氣が付いたらしく)さうだ。僕のオーバーを着て行き給へ。一寸大きいけど……(奥へ行つてオーバーを抱へて來る)

龍介 これで我慢するさ。

笙子(着物の上からオーバーを着て見る)男臭いわね、これで電単に乗るんぢや。妾氣まりが悪いわ。

龍介 文句を云はずにお帰り。

笙子 ふふ…:…文句なんか云はないわよ。ぢやあ借りてくわ。妾の龍ちやん御機嫌さん……(歌ひ出す)タラッタ、タッタラッタ……(歌聲次第に遠くなり雪の中に消える)ー間ー

龍介 ははは……可愛いゝ奴だ。(奥に這入り窓外を見て)大分降つて来たなあ。吹雪にでもならなけりやいゝが、併し秋刀魚の季節に雪が降るなんて珍らしい年だなあ。そうだ(急に思出した様に)秋刀魚でも焼かうか。(電燈にスイツチを入れ、壁に掛つてゐる兄健作のオーバアコートが眼に付くと)兄貴もどこをうろついてゐるのか、相変わらず遅いなあ。……(火鉢に炭をくべて勝手に去る)

 

此の時、子を背負つた二十歳位の断髪の女が尋ねて來る。ショウールを子供の頭からすつぽり掛けて雪を除け、手に小さな風呂敷包を下げてゐる。玄関の小島龍介と云ふ標札を見て暫らく何か思案してゐたが、(やが)て静かに格子戸を開けて案内を乞ふ。

 

女 (躊躇(ためらひ)がちに)御免下さい。(間)(返事が無いので再度)御免下さい。

龍介 はあ。(勝手から大声に答へて秋刀魚を載せた皿を持つて出て來る)何誰ですか?

女 (もぢもじし乍ら)あの……小島龍介さんのお宅はこちらでせうか?

龍介(無頓着に)はあ、僕が小島龍介ですが……

女 (固くなつて)あの‥…:お宅に小島健作がゐると聞いてお尋ねしたのですが……

龍介(秋刀魚の皿に氣が付いて下に置く)はあ。居りますが、唯今は留守です。何か御用でもあるんですか?

女 (明らかに困卸の色を見せて)はあ。あのお逢ひすれば解ることなんですが……

龍介(相変らず無頓着に)さうですか、で君は?

女 (羞恥んで俯向く)……リンコと申します。あの‥…健作の……。(間)

龍介 あゝ、さうですか(周章てゝ呑込んで改めて女の顔を凝つと見る)まあ兎に角上り給へ。兄責もそのうち帰つて來るだらうから。(女の周囲を見廻して)君。傘もさゝずに来たのかい?

リンコ(氣まり悪さうに)えゝ。

龍介 さうかい。寒かつたらう。さあ。這入つて待つて居給へ。(秋刀魚の皿を持つて奥へ這入る。リンコは子供の眼醒めない様にショウールをそつと取り雪を払つて奥へ行く)(間)

龍介、鉄器を火鉢に載せ、汚れた坐布團を裏返へしてリンコに勸める。

  リンコは這入つて来て、室内の殺風景な有様を見て軽い不安の色を現はすが、壁に掛けられた見覚えのある健作のオーバーコートを見て直ぐにほつとした表情に変わる。(間)

龍介(火鉢の炭火を丹念に立て乍ら)こんな常識外の(邊りを顎で示して)生活だからね。生憎、コーヒーのお茶も切らしてしまつたんで、お客様にお茶も上げられないよ。

リンコ(背中の子供を氣にし乍ら)いゝえどうぞお構ひなく。(龍介の殆ど櫛目の見えない頭髪と絵の具だらけの上衣に注目する)

龍介 まあ、緩くり手でも炙つて貰ふんだな。そのうち秋刀魚でも焼いて御飯でも食べて戴くさ。(火箸を灰の中に突刺してリンコを見る。)

リンコ(視線を避けて)どうぞあのどうぞ、構はないで下さい。

龍介(無頓着に)御飯と云つたつて、昨日のだがね。

リンコ(龍介の眞面目な顔を見て、思はずぷつと噴出し、慌てゝ眞つ赤になる)         

龍介(リンコを見て)ははは……若い娘さんが聞いたら可笑しいかも知れないなあ。併し(眞顔になつて)僕はいつも一度にうんと焚いて置いて、三日も四日も冷飯を食つてるよ。今なら悪くなる憂ひはないし第一世話がなくていゝ。こゝ等が独身者の世界とても云ふさ。

リンコ(面白さうに微笑む)あら、まだお独身でゐらつしやるんですか?(と云つて改めて室内を見廻す)

龍介 僕の様な男の處へ、お嫁に來る女がないんでね(鉄器が焼けて来て魚臭く煙る)

リンコ まさか、そんなこともないでせうけど………

 (絶へず背中の小供に氣を配る)

龍介 時に(話題を外らす様に)兄貴は、君の來るのを知つてんのかなあ。

リンコ(はたと当惑想に)いゝえ。突然だから知ないと思ひますわ。

龍介(不審氣に)ぢやあ.逢ひたいつて……君、今まで兄貴と逢つてたんぢやないんかい?

リンコ(次第に暗い面貌(かほ)になり)いゝえ。もう一年も、ずつと逢ひませんの。

龍介(意外な面貌で)ほう、そうかい。僕はまた今迄何處かで逢つてゐたのかと思つたよ。まさか別れたわけでもないんだらう?

リンコ いゝえ。(突然脅えた様に子供が泣さ出したので軽く軀を振りながらあやす)

龍介(子供の顔を覗き込んで)君の子供かい?

リンコ(えゝ。氣まり悪さうに頷いて小声で)よいよいよい。おねん寝するのよ。(子供を振返り覗き乍ら)健作さんとの間に出来た子ですわ。

龍介 ほう。兄貴にもこんな可愛い子供があるんかなあ。(間を置いて)失禮だが、君いくつ?

リンコ(羞恥んで)十…九………。

龍介(更に意外な面貌で)十九?まだ少女なんだね。僕は叉二十二三になるかなと思つたよ。十九で人の子の親か(感慨無量で)僕は三十二で、まだこの通り屋根の上のペンペン草だよ。

リンコ……(眞赤に顔を火照らせて小供をあやしてゐる。小供頻りに泣き続ける。)

龍介 腹が空いたんぢやないかな。降ろして乳でも飲まして見給へ。

リンコ……(頷いて小供を降ろし小供に乳房を含ませる。)ーー間ーー。

龍介(鉄器の上に秋刀魚を乗せる。忽ちジュウジュウと油汁の滴る音がする)君、兄貴と一年も逢はないなんてどうしたんだ。

リンコ(小供の嫌がる口ヘ尚も乳房を含ませ乍ら)あのひと、私が嫌ひになつたんですわ。そして(急に聾を顫はせて)この子も、僕の子ぢやないつて……(云ひ掛けて堪らなくなつて啜泣く)ーー間―ー。(子供頻りに泣く)

龍介(秋刀魚の油煙に顔を歪め乍ら)併し君は、確かに兄貴の子だと信じてゐるんだね。(凝つとリンコを見詰める)

リンコ (啜泣き乍ら)えゝ、私……男つてあのひとより知らないんです。でもあのひと、飽くまでも僕の子ぢやないつて……私の話なんか取上げて呉れないんですわ。(口惜しさうに涙を噛んで)私、この子が私生児になるのかと思ふと、堪らなく悲しくなつて… …(わつと子供の胸に顔を埋めて泣く。子供尚も泣き続ける)ー―間ーー

龍介(当惑さうに顔を歪める。秋刀魚を焼返へして)どれ、僕が抱いて見よう。(火鉢越しにリンコから子供を受取る。)おお、よしよし。オロゝゝゝゝ(色々な表情をする)小父ちやんに抱かつたら(子供の顔を覗いて)泣くんぢやなぃよ。(立上つて静かに歌ひ出す)坊や良い子だ……:ねんねしな。坊やの父ちやんど處行つた……:(部屋の中をぐるぐる廻り乍ら赤い夕陽の満州へ(歌ひ続ける。リンコは堪らなくなつて俯伏して忍び泣く。秋刀魚が物凄く燻つて煙が部屋中に渦巻さ流れてゐる)……お国の為に行きまし……た。(燻つてゐる秋刀魚を眼を丸くして見て)あらゝゝ大変だ(火鉢の側に凭つて秋刀魚を皿に移し、生の秋刀魚を再び載せる。)

リンコ(暫くして顔を上げ)済みませんわ。泣いたりして……(火箸を受取つて秋刀魚を焼き出す)

龍介(再び歌ひ乍ら廻る)坊のお土産に……何をやろ……。馬賊の首に、金の犬……(立止つて子供の寝顔を凝つと見て)罪の間に生まれた子には罪無しか(独言の様に言つて淋しく微笑む)ぎこちない子守歌を歌つてゐるうち(稍感傷的になつて)僕自身、故郷の母親が戀しくなつてしまつた。柄にもない懐郷病か ははは………

リンコ(秋刀魚の煙と涙に汚れた眼元に軽い微笑を見せて龍介を見る。)とても氣むづかしい子なんですわ

龍介(子供の寝顔を見て)僕に抱かつたら黙つてゐるよ。可愛いゝ顔をしてるなあ。(再び廻り出す)((君、と云つてリンコを見て)いつから兄貴と知り合つたんだい?

リンコ(油煙の行方を追ひ乍ら)たしか。去年の二月でしたわ。

龍介 君の職業は?

リンコ(リンコ羞恥そうに)……女給もしましたし、レビユー……の踊り子もしましたわ。

龍介 ふむ。そうか…:(秋刀魚の油煙に氣付いて)凄い臭氣だなあ。君、廻転窓を開けて呉れないか。

リンコ(立つて行つて、廻転窓を開ける。)パラパラと雪が吹き込んで來る。窓外の電飾に照し出された雪景色を見て、物思ひに沈む。雪の夜の無氣味な物静かさに、二人は暫く無言。ーー間ーー

龍介(不圖秋刀魚に氣が付いて)おい、君、さんまが燃えつちまふよ。

リンコ あら(龍介と顔を見合せて)済みません。茫然(うつかり)してゐて(火鉢の側へ行つて秋刀魚を皿へ移す)私、なんだか故郷のことを思出してしまつて………(生秋刀魚を鉄器へ載せて炭火を立てる)

龍介(同じ思ひに立止つて)君、郷土は何處?

リンコ(俯向いた儘)北海道ですわ。

龍介 北海道? 隨分遠方だね。いつ東京へ来たんだい。

リンコ 一昨年……。生活苦から逃れて来たんですわ。

龍介 眉をひそめて 生活苦から? ぢやあ、君、家出して来たの?

リンコ いゝえ(急に悲しそうに)売られて来たんですわ。

龍介(愕然として)売られて来た?(余程魂を打たれたらしく涙つぽい声で)君 そりや本当か?(リンコの傍へ坐る)

リンコ(顔を伏せて)えゝ、御存じのあの凶作で、小作農の私の家では、(声を呑んで)子供ばかり多勢でその日の生活にも困つたものですから。私、見てゐられなくなつて。……父に頼んで売つて戴いたんです。

龍介(暗然として)君から頼んで売られて来たんだね。

リンコ(秋刀魚の油を凝つと見詰め乍ら)えゝ。でも、(と言葉を呑んで)桂庵の手数料や、私の衣裳代やでじつさいに父の手に這入つたのは七拾円ばかりでしたわ。(当時を懐想する様に眼を瞑ぢて)そして私、新宿のルナパークヘ勤めることになつたんですの。 (秋刀魚が物凄く燻つてゐるが氣が附かないらしく火箸で灰の中を掻廻してゐる。)

龍介(益々暗欝になり)七拾円?(何者かを嘲笑する様に)人間一人が七拾円か。牛馬よりも安いんだね。ブルジョア玩具の小犬でさへ、五〇や百はするのになあ。ははは……(淋しく微笑んで)皮肉な世相になつたね。……(指の先でそつと涙を消す)?

リンコ(涙の溢れてくるのを微笑み返して)でも仕方がないと思ひますわ。私は唯、生きて行くだけでたくさんです。それだけでも今の私には重荷ですもの。

龍介 そうだ、生きることは結局、苦痛以外の何者でもないからなあ。僕は、自分に虚栄心が無かつたらもつと楽に生きれると思つてゐるんだ。(子供の寝顔を見て)おい眠つたらしい(そつと立上つて寝台の側へ行き毛布に子供を包んで寝せ、暫く子供の様子を見て火鉢に戻る。秋刀魚に火が鮎いてゐるのを見て)あつ 到頭燃えちやつた。

リンコ(はつと氣附いて)あら! 済みません。(急いで火鉢の隅へ鉄器を下ろし)私、ぼんやりばかしてゐて…:……

龍介(バツトに火を點け)まあ、いゝさ。黒焦のも風味があつていゝよ。ははは………(この時傍らのオルゴールが歌ひ出す)おや、もう七時か。(二人同時にオルゴールを見る)ーー間ーー

龍介(不圖思出した様に)君、ルナパークで兄貴と知つたのかい?

リンコ(龍介の顔を見て直ぐ眸を落し)えゝ。(と頷いて)女給になつて三日目に、あのひとから拾円のチツプを戴いたのが切掛でしたわ。その拾円のお金(思出を拾ふ様)に私はどんなに嬉しかつたでせう。なんだかあのひとが神様の様に感じられましたわ。私、そのお金で早速弟の小学校の教科書と、妹達の着物を買つて送つてやりましたの。

龍介(感動して)小さな弟妹達は躍上つて欣んだらうね。(と云つて言葉を切り泌々と)君は偉いなあ……

リンコ あら、偉いなんて。(一寸微笑んで見せて)それからあのひとは來る度に五円、拾円とチツプを下すつたのよ。さうして誰よりも可愛がつて下さつたの。私、あのひとをすつかり信頼してまつたんですわ。三月ばかりたつて、私が身上話をしますと、とても同情して下すつて、それならもつと金になる、いゝ所へ世話をしてやらうと仰言つて、場末のレビユウ小屋の踊り子にして下すつたんですわ。でも(と云つて急に悲しそうに声を落し)その時は、既に妊娠してゐたんです。それに後で氣が附いたのですけど私、踊り子に売られてゐたんですわ。(静かに、啜泣く。)

龍介………(感に打たれて暫く無言)君、(と云つてリンコを見詰め)君は余りに純情な女だつたんだ。そして余りに弱かつた…………

リンコ(涙の顔を上げ)えゝ、私……とても弱かつたんですわ。いゝえ、世間知らずだつんですわ。(啜泣く) 

龍介(火の點いた秋刀魚に煙草の灰をなすり落して)それからどうしたの?

リンコ(たどたどしく)あのひと、それからは一週に一度位小屋に来て下すつたけれど、來る度に、小使銭だ、煙草銭だつて強請(せびる)んです。私、どんなに苦しかつたかしれませんわ。そのうち軀の方も思ふ様にならなくなつて、ステージにも立てなくなると、座長さんの氣嫌は悪いし、朋輩達には変な眼を以て見られるし、私(唇を噛んで)一晩中、眠らずに泣明したことがどの位あつたか知れませんわ、そのうち子が生れるとあのひとは僕の子ぢゃないつて、まるで切れた風船玉の様に見向いてもくれないんです。(到頭がばと泣伏してしまふ)        ・

龍介………(無言の儘、膝に落ちた煙草の灰を払ふ。)ーー間ーー。吹雪になつたらしく窓うつ風の音ひと頻り、鉄器の秋刀魚、緩やかに燻つてゐる。                

 

  此時、健作帰る。幾分酔つてゐるらしく顔を眞赤に火照らし、トレンチの襟を立てゝゐる。(続く)

                       

「山桜」昭和10月号

 

 戯曲  秋刀魚を焼く女(二)

東條 環

 

 リンコは泣腫らした眼元を手巾で拭ひ乍ら折々玄関の方を見る。間もなく鼻下髭を撫で乍ら健作這入てくる。

健作(瞬間にリンコを見て極度の驚きをみせ)呀!! 貴様はリンコ!!(と叫んでしまつてから努めて平静を装はふ)

リンコ(懐かしさと不安の氣持にて健作を見上げ)お帰りなさい(と云つて俯向く)

健作(ジロリと龍介を見て再びリンコを睨み)貴様は(罵声を含んで)誰に断つて此處へ来た

  (龍介は子供の寝顔を覗き乍ら二人の昔話に耳を澄ます。折々吹雪がどんと当たつてて窓を揺さぶる)

リンコ(健作の顔色を窺ひ再び俯向き)昨夜、小屋が閉館(カブ)つてから逃げて來ました。

健作 何!!逃げて來た。(颯と険しい顔になるが直ぐ)ふん。さうか(と侮蔑の色を現はし)だが、貴様の軀には金が懸かつてゐるから、座長の奴が逃すもんか。

リンコ(強く)私、もうどんなことがあつても帰らないわ。ね。(哀願的に)もう一度、元のあなたになつて下さらない? あの子が(と云つて寝台の子供を見て)可愛そうですもの……私、心から願ひするわ。

健作(火鉢の側に坐り乍ら寝台の子供と龍介を見る)ふん、また百満遍の繰返しか、聞きたくもないね。過ぎた昨日が來ない様に、元の心になんかなれる筈がないさ。(ポケットから金口を摘まみ出し、秋刀魚の燃殻を取つて火を點ける)

リンコ(健作の膝に縋り)そんなことを仰有らないで。元の優しい健作さんに皈つて下さいね。ね、(健作の顔を見上げ)もう一度よ。もう一度、お願するわ。

健作(リンコの手をはね退けて)五月蝿いね。何度云つたつて同じだよ。元の優しい?ふふふ……(侮蔑の眼射しでリンコを見て)君も相変らず子供だね。僕は元來やさしい出來でないんでね。お氣の毒さ。(ふうつと美味そうに煙草の輪を造る)

リンコ(再び健作の膝に縋り)あなた(眼に一杯涙を溜めて)それではあんまりですわ。あんまりですわ………子供まで生ませて置いて。……あなたは子供が可愛くはないんですか?

健作(ジロツとリンコの横顔を見て)ふゝん。子供? 僕の子でない者が可愛いゝ筈はないさ。

リンコ(唇を噛んで怨めし相に健作を見上げ)あんまりです。あなたの子ぢやないなんてあんまりです。(再び唇をきゆうと噛んで)覚えがある筈です。あなたの子に違ひはないんです。健作さん あなたは。あの子が私生児になつても構はないと仰有るんですか?

健作(電燈を見上げて)私生児?そりや僕の子ぢやないんだから。僕には関係がないよ。

リンコ(極度の哀願を()めて)そんな意地の悪いことを仰有らないで……あの子が可愛そうです。ね。あなた:…(啜泣く)

健作(ぽいと火鉢へ吸殻を棄てゝ)子供、子供つて(語氣を稍々強く)僕に何の関係があるんだ。誰の子だか解らない子供の親に誰がなれるか、バカな。

リンコ(必死に健作に取縋つて)それでは。あんまり……です。あの子が……あの子が……(啜泣く)

健作(烈しく)五月蠅い!! 馬鹿!!(どんとリンコを突返す)

リンコ……(倒れてわつと声を上げて泣く)

 

 健作は冷然とリンコの泣伏してゐる姿を黙視し、トレンチのポケットから、小型のウイスキーの瓶を取出してロ飲みをやり出し、傍に焼けてゐる秋刀魚を手掴みにして美味そうに喰ふ。

 鉄器の秋刀魚は眞赤な火になつて明滅してゐる。此の時、龍介、緊張した面貌にて

寝台より離れ火鉢の前に坐る。燃える様な憤怒の瞳に健作を凝視する。

 健作は龍介の顔を見て、不快な色を現はすが、それも直ぐ消えて無頓着にウイスキ

ーを飲み続ける。リンコは俯伏した儘、肩に波を打たして泣いてゐる。外は吹雪が

益々激しくなつたらしく、ごほうつと云ふ不氣味な音が断続的に聴え、折々、自動

車の警笛が鋭く流れて來る。(間)

龍介(じつと鋭く健作を睨んで)兄さん!!!

健作(ジロリと龍介を見返し、再び秋刀魚をつまむ)

龍介(静かに併し鋭く)兄さん!! リンコさんに、もう少し暖かな言葉を掛けてやつたらどうです。(リンコの俯伏した姿に眸を落す)

健作 ふゝん(薄笑ひを浮べて)どうしてだね。(ジロリと龍介を見る)

龍介(ピリツと眉を寄せて)余りに、可愛そうぢやありませんか  僕はリンコさんから(リンコを見て)すべてを訊いたのです。リンコさんは、兄さんの為に女の一生を棒にふつたのです。

健作(ウイスキーをぐつと飲んで)知らんね。女の一生棒に振らうが振るまいが僕の故ぢやない。それが一體僕と、何の関係があるんだね。つまらんことは云ひつこなし。そんなことはどうでもいゝぢやないか それよりも(と云つてウイスキーの瓶を差出し)まあ一杯飲めよ。英国産、ジョニオーカーだぜ。素敵だよ。

龍介(噴りの瞳にて健作を睨み)そんな物は嫌ひだツ (ウイスキーの瓶を跳飛はして)兄さん!! あなたは卑怯です!! 自分で誘拐して置いて、子供が出來てしまつたら知らぬ顔をきめるなんて、男らしくもないぢやありませんか

健作(噴りに眞赤になつて)誘かいとは何だ 失敬なことを云ふな!! 貴様なんかにとやかく云はれる覚えはないんだ

 (二人の争ひが不安になつたらしく、リンコはそつと泣き腫らした顔を上げて二人を見る)

龍介(噴然と火鉢に、にじり寄つて)誘拐だから誘拐と云ふんです。純情な野育ちの少女に、態とらしい親切を押し付け、レビューの踊り子に叩き売つても誘拐ぢやないと云ふんですか! 剰へ、貞操を散々弄んで置き乍ら、子が生れたら知らんなんて。それでも誘拐ぢやないと仰有るんですか?

健作(噴りに息をはづませて)何と云ほうと僕は知らん。

龍介 兄さん(稍々語調を柔げて)兄さんは寧ろ この女の前に、凡ての仮面を脱いで謝罪すべきです。

健作(火鉢の縁をぐつと掴んで)仮面とは何だツ!! 何が仮面だ。貴様の云ふことは一一癪に障る。

龍介(平然と)仮面です。女をゆうかいして置ても、しないの、或ひは事実、自分の子であり乍らそれを否定するなんて、仮面でなくてなんでせう。立派な仮面です。併も道徳の破壊者である憎むべき仮面です。

 

リンコは戦き乍らニ人に注目し、健作は怒りに全身を小刻み顫はせて龍介を睨んでゐる。室内にはまだ秋刀魚の悪臭が漂つてをり、窓打つ吹雪の音が断続的に聴える。間。

 

龍介(静かに)兄さん。兄さんはリンコさんに子を生ませて置いて、知らぬ顔し、或ひは平然として居られるかも知れません。併し(リンコを見て)それではリンコさんが可愛いそうです。伸び行く人生の発芽を摘まれ、剰へ私生児を背負はされて、この複雑な社会に放り出されたらどうなると思ひます。考へて御覧なさい。またこの子が成長して、自分が私生児と知つた時、どんなに我身を嘆き、父母を呪ふかも知れません。(健作ポケットから金口を摘み出して火を點け、ジロリと龍介を一瞥する)リンコさんだつて、この儘では郷里へも帰れないだろうし、まして凶作に苦しむ父母の元に、私生児を抱いて帰り得る筈がないんです(こくりと唾を飲み)と云つてこの儘で居れば、この悪の横顔である東京の世相は、必ずリンコさんを餓死線内に追詰める事は明白です。或ひはこの女は(リンコを見て)自殺を企てるかも知れません。兄さん!! (きつとなつて健作を見る)兄さんの眞心一つで、幾つの生まれようとする悲劇は、幸福に変わるんですよ。

 

此時、リンコは火鉢に火の無くなつたのを見て、炭取りを運んで來て炭を入れ、傍らの風呂敷包みを広げて、おむつを出して畳む。(以下次号)

                     

                  「山桜」昭和10月号 

 

 

戯曲  秋刀魚を焼く女(三)

東條 環

 

 健作はつまらなそうな顔をして煙草の輪を造つては、ほうほうと電球に向つて吐掛けてゐる。

龍介(話を続けて)兄さん 自分で撒いた種は自分で育て、自分で刈取らなければならないんです。兄さん(眼に一杯涙を潤ませて)僕からもお願します。リンコさんを幸福にして上げて下さい。それが至當だと思ひます。

健作(ぽいと吸殻を棄てゝ)ふゝん。(嘲笑的に)どう考へても、何故僕がそうしなけれはならないのか解らんね。

 

 健作の一言にリンコは、悲しい眼射しに健作の横顔を見て涙ぐみつゝおむつを畳む。ごほうと凄い吹雪の昔がして、ばつと電燈が消える。あら、停電か知ら?と云ふリンコの声聴える。火鉢の炭火に赫々と前半身を照し出された、龍介、健作の二人沈黙の儘対座。間も無くぱつと電燈が點る。(間)

龍介(唇を顫はせ)兄さん!!では、あなたは、リンコさんと何の関係も無いと仰有るんですか?。

健作(益々平然として)関係は無いとは云はん。併し子供は僕のじや無いと云ふんだ。(リンコ悲しそうに健作を見る)

龍介 関係が有れば、兄さんの子供に間違ひはないぢやありませんか?

健作 ふゝん(鼻で嘲笑つて)だから女給や、レピューガールと少しの関係があつたとしても、子が出來たからつて、その度に尻を持ち込まれたんぢやあ、男の體なんか、幾つあつても堪らんからね。

龍介(きつぱりと)僕は、リンコさんの言葉を信じます。この女は兄さんより他に男との関係は絶對に 無いと思ひます。リンコさんは余りにも純心な方です。寧ろ、兄さんこそ、過去を辱ねても駄らしなさ過ぎるぢやありませんか?

健作(苦々し氣に)リンコが、他の男と関係が無い? ふん。そんなことが解るもんか。僕ばかりが男ぢやないからなあ。誰の子だか解つたもんか。(涙ぐみつゝ黙つて聴てゐたリンコは、怨めしそうに健作を見詰めて)ゐたが、極度の悲嘆みに激しい眼暈を感じたものゝ様に泣伏す。

龍介(静かに)兄さん、それでは生れた子が可愛そうです。リンコさんの浮ぶ瀬がないぢやありませんか。可愛いゝ娘が、父無し子を生んだと聞ぃたら、リンコさんの父母はどんなに、嘆くか想像してやつて下さい。ね、兄さん(しんみりと)僕達にも年老いた母がありますね。兄さんが大学在校中に、赤になつて検挙されたと知つた時、お父さんは、国家に對して申訳がないと割腹自殺をなされたのを、まさかか忘れもしなでせう(指先で涙を消して)それから僕が始めて帝展に入選した時と……兄さんが転向したと聴た時の、お母さんの欣び、それが嘘とも知らずに、瞳の見えない程眼を細めて喜んだあの時の母の姿が、まだ明瞭と脳裡に刻み付けられてあります。兄さん(語調を強く)あななには、人間の一番美しい愛情と云ふものが、お解りにはならないんですか?(再び指先で涙を消す。リンコは堪らなくなり袂を噛んで咽び泣いてゐる)

健作(白けきつた、室内が堪らないと云ふ風に)ははは:……馬鹿に殊勝な佛心になつたもんだね。(金口に火を點けて)僕も頭に白髪でも生えたら、そんな氣持になれるかも知れないなあ。   

龍作(奮然と)それではどうしても知らないと云ふですね。兄さんの子ぢや無いと仰有るんですね。兄さん(稍々言葉を柔げて)兄さんが判然認識してやらなければあの子は(と云つて寝台を指し)私生児になつて了ふんです。一人の父無し子を出すことは、社会道徳上にも見逃せない大きな罪悪です。

健作(極めて不機嫌そうに)くどいね。知らんと云つたら、知らん!!

龍介(冷やゝかに)現在の罪だけでたくさんぢやないですか?これ以上罪を重ねる氣なんですか?。

健作(急に険しい顔になつて)現在の罪とは何だッ!!

龍介 或る種のテロ運動です。

健作(煙草をぽいと棄てゝ中腰になり)莫迦!! 何を云ふのだ、た、た誰がそんな…………(明らかに狼狽の色を見せる)

龍介(追究的に)兄さん隠くさなくてもいゝです。僕は凡てを知つてゐます。赤の学生を煽動して…

健作(龍介の言葉をもぎ取つて蒼白になり)バカ、バカ、バカ、き、貴様なんかに、僕の行動が解るか!!

  (リンコ驚いて二人を見てはらはらする。此の時、再び停電し直ぐ點もる)

龍介 もつと言ひませうか?上海系の支那人密輸者から、爆発物の入手を待つて政界の巨頭を…………。

健作(極度に狼狽して)馬鹿ッ!! 何を云ふッ!!(発止と龍介の頬を擲る。)

 

龍介は擲られて奮然と立上り、健作を鋭く叩き付け散々に擲る。  リンコは余りの出來事に愕然として咄磋に龍介の腕に縋り付く。瞬間停電してしまつて、子供突然に泣出す。暗黒の中怒号聴える。

リンコ(泣乍ら龍介に縋つて)赦して赦してやつて下さい…………(瞬間電燈が點る邊りの乱雑な光景を照出す)

龍介(唇を顫はせ乍ら)こんな奴は(健作を睨み).擲らなけりや解らないんです。リンコさん(泌々とリンコを見て)君はどこまで素直なんだ、愛人の擲られるのを見るのは忍びないんだね………(健作は乱れた髪を掻上げ、ネクタイの結び目をなほし乍ら龍介を睨んでゐる)兄さん、(健作を見て静かに)よくそれで戀愛が出來ましたね?。

健作(烈しく)何ッ!!

龍作(冷やゝかに)戀人の仕末も、子供の仕末も出來無い者は、戀愛をする資格が.無いんですよ。動物だつて子供を養ふ事位知つてゐますからね。

健作 生意氣云ふな!!

龍介 兄さんの、面の皮は一體何張りですか?あまり色彩の無い面なんか、いゝ加減に張替へたらどうです。大體、あなたと僕の父は全然別個の人ですね。若し同じだとすると、眞理も二つ、てなことになり ますからね、ははは………。

健作(努めて平静を装ほひ、金口に火を點けて、無言の儘龍介を睨む。(リンコ俯伏した儘啜泣いてゐる。子供頻りに泣続ける)。

龍介 兄さんの辞書には、愛と云ふ文字も、道徳と云ふ文字も無いんですか? まあ、テロ運動をする隙ががあつたら、文字の分析でもしたらどうです。兎に角、たつた今出て行つて下さい。

健作(冷然と)ふん、誰がこんな家に居てやるもんか………(帽子を無雑作に掴み玄関へ出て行く)

龍介(後姿を眼で追つて)あなたの様な人に居て貰つては甚だ迷惑です。貧乏画家には、貧乏画家の仕事がありますからね、それから、(と云つてリンコと子供を見て)子供を私生児にするのは可愛想ですから.子供の父には僕がなります。後で異存は無いでせうね?

健作(靴を穿いて)ふん。勝子にするさ、異存なんか勿論あるもんか、(冷やゝかに僕はまだ、人の子の親にはなりたくないからなあ。はつはつはつ……。

  投棄る様に云つて、健作は吹雪の中に消えて行く。子供頻りに泣き続ける。龍介は感慨無量のまゝ立ち尽くしてゐる。短い(間)

  此時、今まで泣伏してゐたリンコは突然物の怪に憑かれた様に蒼白い顔して起上る。

リンコ(一切の表情を棄てゝ)待つて………あなた待つて下さい……………あなた・:……(脱兎の様に吹雪の中に走り去る。子供火の付いた様に泣出す。ごはうと吹雪の音ひと頻り)(短い間)

龍介(子供に氣が付いて寝台に近づき、そつと子供を抱く)おおよしよし………(泣顔を微笑んで見て)良い子だから泣くんぢやないよ。さあ、泣くのはお止め。(凝つと感慨深そうに見詰めて)坊やのパパは小父さんなんだよ。…………(静かに廻り乍ら、歌ひ出す)坊のお土産に………何をやろ……馬賊の首に金の……犬………………。

 火鉢の前に來て佇み、淋しそうに徴笑み乍ら、眞つ黒に燻つた鉄器の秋刀魚を見詰めてゐたが、軈て子供の顔を沁々と眺め、そつと指先で涙を消す。ごうつと云ふ吹雪の音が断続的に聴える。(幕)

       

                        「山桜」昭和10月号